死に問う その十一
月が、私たちを見下ろしていた。月と一番星だけが輝く、黒く濁った静寂の夜。人を殺すにはこれ以上ないくらいの時間帯だ。心臓の高鳴りが、この夜空に響いてしまうのではと思って、そんなことはあるはずがないと軽く笑みをこぼす。そんな私を、これまた不思議そうに眺める重音。なんだか、最近はこんな光景ばかりだな、なんて思った。
「さ、時間になったことだし、適当に歩こうか」
私が先導する形で歩き出す。何日か前に買った銀色のナイフが、手の中で踊りだそうとしているのを感じる。それを必死で抑えて、獲物を見定める。
場所は、前回の殺害現場から一キロ程度離れた商店街。昼間のうちでさえあまり人気がない寂れた場所だったが、深夜にもなるとそれに拍車がかかる。前も後ろも、向こう数百メートルの間に人が歩いてる様子は一切なかった。人目を避ける意味合いも込めてこの場所を選んだのだが、肝心の獲物もいないのでは本末転倒だ。
十分ほど商店街を歩いて、今度は路地裏に入ろうと思い立ち、脇道に逸れる。小さな飲食店の隙間に存在するその路地裏は、ほとんどゴミ捨て場としてしか使われていないように感じられた。ここもやはり人を殺すには絶好のポイントだが、獲物がいない。
思い切って、少し大通りに出ることにした。途端に解放感に包まれ、鳴りを潜めてかけていた殺人欲求が再び膨れ上がる。ただ、一分おきに車が一台走り去っていく程度で、人が歩いている様子はなく、舌打ちをしてしまう。いっそ少し高いところから人を探してみようかと思い、それに見合ったポイントを探してみる。
するといくつかの住宅の向こうに、ちょっとした高台を見つけた。ここから見える情報量では大したことはわからなかったが、どうやら公園らしきシルエットをしている。
「重音、あっちって何があるんだっけ」
「あっちって? ああ、あれか。確か展望公園だったかな。この辺も昔は星が見えたとかで、カップル向けのスポットだったらしいよ。今はどうだか知らないけど」
カップル向けのスポットということは、この時間帯でも誰かしらいる可能性があるのではないか。そんな薄い期待に身を任せて、その公園まで歩くことにした。
三十分ほど歩いて、展望公園の足元にたどり着く。目の前にはそれなりに苦労しそうな上り坂が立ちはだかっていた。これを昇らなければ、目的の場所にはたどり着けないらしい。なんとも面倒な話だったが、せっかくここまで来たのだからと気合を入れて歩く。
十分ほどで上り坂を踏破すると、目の前には大きな公園があった。野球くらいならできそうなスペースで、かつてのデートスポットということもあるのか、意外にも小綺麗に整備されていた。可愛らしいドーム上の公衆トイレと、街を見下ろせる箇所に点々と設置された妙に丸みを帯びたベンチ。ひとまずここから下を見下ろしてみようと公園に立ち入ろうとして、風に交じり何かが聴こえることに気付く。
それは、多分フルートだった。白波を連想させる、澄み切った透明な音。それが鼓膜をくすぐり、脳へと直接響いてくる。綺麗な音だと思った。旋律そのものは比較的シンプルで、人の心を落ち着かせる曲だ。タイトルこそわからないが、その音色に捧げられた奏者の人生が色濃く現れた、繊細なのに力強い旋律。恐らくこの奏者は、音楽に全てをかけているのだと、そう感じさせる衝撃的な音色。
それを奪いたいと思ってしまった。どくん、どくんと心臓が早鐘を打つ。
奪いたい。その人生の全てを踏みにじり、蹂躙し、この手で台無しにしてやりたい。その人生で得られるはずだった喜びの全てを、今ここでぐちゃぐちゃに噛み砕いてやりたい。できることなら、悲鳴が聞きたい。今まで感じたことのない痛みと出血に震えながら、自分の心臓が止まろうとしているのを実感して、何もかも奪われるその理不尽に憤りの声を上げてほしい。それかきっと、どんな音楽よりも人の心を震わせるだろう。
ざり、ざり、ざり。銀色のナイフをポケットに隠し、コンクリートの地面を踏みつけて、旋律の流れる元へとゆっくり歩み寄る。
音は、公園の奥の方から聴こえてきていた。だんだんとハッキリしてくる音色に、いつの間にか本心から聴き入っていた。本当にいい曲だ、そう感じていた。
そして、そう感じれば感じるほど、どうしようもなくそれを奪いたくなる。美しいものほど、この手で壊してしまいたくなる。手を触れることすら恐れられるような美しい存在を、この手で汚して、叩きつけて、壊すことが何よりも喜びをもたらす。
ふと、その旋律が聞き覚えのあるものだと気が付く。そう、これは確か先月学校の音楽祭で聴いた曲だ。退屈だったのでほとんど聞き流していたのだが、このフルートの旋律だけは記憶に残っていた。楽器という群衆の中にいてもなお埋もれることのない孤高の銀色が、音楽祭のあの日ステージに立っていたのだ。奏者が誰だったか必死に思い出そうとして、結局諦めた。というより、必要なくなった。
なぜなら、その人物はもう目の前にいた。
気が付けば旋律は止んでいて、澄んだ瞳の少女が、少し距離を置いてこちらを見ていた。
「えっと、どちら様でしょうか」
フルートをベンチに置いて、少女が困ったようなほほ笑みを浮かべる。可愛らしくもあったが、その姿は既に十分に大人の気配を感じさせるものだった。服装こそ見覚えのある制服ではなかったが、すぐに上級生なのだということはわかった。
「えっと、私一年の千川といいます。そのフルート、先月の音楽祭でも聴きました」
一年、先月の音楽祭というワードで得心がいったのか、少女の纏っていた警戒心が解かれる。
「なんだ、同じ学校かぁ。私、三年の千葉です。言わなくてもわかるかもだけど、吹奏楽部ね」
ふわりとした笑顔だった。花のようなたおやかさながら、芯に強さを感じさせる人だった。先ほどのフルートの音色がこの細い喉から生み出されていたと思うと、なんだか不思議な気分になる。慈しむ心と、へし折ってしまいたいという嗜虐心が同時にあった。
「どうしてこんな時間に演奏してたんですか?」
「あー……ウチ、マンションなんだよね。夜中に練習してたら迷惑だから、練習する時はだいたいここに来てるんだ。って、そういえば今何時?」
言われてスマホを見ながら「えっと、もうすぐ二時ですね」と私が言うと、千葉はがくっと脱力するような動作をしてから破顔した。つぼみが花開く瞬間のような鮮やかさだ。
「またこのパターンかぁ。ああいやごめんね、私、一回吹き始めると周りが見えなくなっちゃってさ。毎回帰りが遅いって怒られるんだよね」
ええへ、なんて言って頭を掻いている千葉からは、ある種の愛らしさを感じた。きっと、部活内でもこのキャラで人気があるのだろうと推測できる。
殺す相手としては申し分なかった。きっとこの人を殺せば、もっと悲しむ人間の顔が見られる。そのことを考えるだけで、笑みが自然と浮かびそうになる。
ただ、このまま殺すのも惜しいなと思った。先ほどのフルートは、あまり音楽に感心がない私でも、心を打たれるものがあった。それが二度と聴けなくなるのは勿体ない。最期に一度、通しで聴いてみたい。
「あの、千葉先輩。さっきの曲、もう一回聴かせてもらってもいいですか?」
千葉がきょとんとした顔になる。なんというか、すごく表情のころころ動く先輩だな、と思う。穏やかで騒ぐタイプではないのだろうが、表情の変化はうるさいと感じる一歩手前くらいにはにぎやかだ。
「へ? 別にいいけど、そんな大したもんじゃないよ、私の演奏なんて。あ、それとも吹奏楽に興味あるの?」
「いえ全然。正直、さっきの曲がなんだったのかすら知りません。でも、先輩のフルートがすごく良かったので。一目惚れってやつです」
本心だった。いい音楽は国や民族を選ばず伝わるというが、この人の演奏はまさにそれを体現したものだった。混じり気のない、純粋な音楽。邪な気持ちがあっては、あれほど澄んだ音は出ないだろう。素人の私でもそれはわかる。
「一目惚れかぁ。なんか照れちゃうな、そう言われると。じゃあ一曲だけね」
「構いません。ごめんなさい、急にこんなこと言ってしまって」
「いいよ。演奏を聴いてもらうのが好きでやってるところあるしね、フルート」
すると千葉はフルートを取って立ち上がり、すう、と一息だけ吸い込んでから演奏を始めた。その立ち姿は、あまりにも美しかった。決して折れることのない、大樹のよう。
フルートの音色は、先ほど遠くから聴いた印象とはまた違っていた。上手く表現できなかったが、まるで海の中にいるような錯覚を覚えた。海の中、といっても深海のような寒々しい光景ではなく、どこまでも青く澄み渡る海。息苦しさではなく、心地よさを感じる温かな海。それに包まれるように、私は音楽の波に呑み込まれていた。フルートの音の震えに合わせて、心の中の海が揺れる。時にざわざわとしぶきを上げ、時にただ穏やかな青と白のコントラスト。海と雲と太陽が、私を祝福している。そんな光景が思い浮かぶ。
やがて踊るような音色が、海の向こうからスキップでやってくる。それは小鳥のような姿でもあり、妖精のような姿でもあった。いや、多分姿なんてないのだろう、本当は。ただフルートの音色が、そんな幻想を見せている。まるで魔法だった。
この美しい青を、これからどす黒く染め上げられるのだと思うと、余計に胸が高まった。
消え入るような最後の音色が、私の身体に溶けていった。演奏が終わったのだ。たった数分の演奏だったが、それは人の心を震わせるには十分すぎるほどだった。
「すごいです、先輩」
ほとんど無意識のまま、拍手をしていた。
「ありがと。アヴェ・マリアって曲なんだよ、今の。名前くらいは聞いたことあるかもね。私、この曲が好きなんだ。何かに迷ったり、気合を入れたくなった時は、いつも吹いてる」
演奏を終えた千葉は、じんわりと頬に汗をかいていた。それがいやに艶めかしく、月の光を浴びて余計に輝いて見える。
「先輩は、何かに迷っているんですか?」
「まあ、ね。三年生の秋って言えば、なんとなくわかるかな」
「進路、ですか?」
「まあそんなところ。って言っても、どうしようかって悩んでるわけじゃないよ。もう何がしたいかは決まってるから。私ね、音楽で世界を変えたいの。人が本当の意味でわかり合えるような世界に」
星を見上げて、千葉は言葉を続ける。見ているものが単に星なのか、それともその向こうのここではない場所を夢想しているのか。なんとなく、後者だろうと思った。
「人は、すごく些細なことでぶつかり合う。性格が合わないだとか、酷いことを言われたとか、ただなんとなく気に入らないだけとか。ぶつかり合うだけならいいけど、それが傷つけあったり、殺し合ったり、取り返しのつかないことにあることもある。そういうわだかまりが全部どうでもよくなるような、人と人が心から溶け合うような音楽を奏でたい」
この人もまた、愛奈のように世界の変化を望んでいる。端的に言ってしまえば、彼女の言いたいことは世界平和だ。すごく立派だし、もし叶うのなら叶ってほしいとさえ思う。私がここで、この手でその夢を潰えさせるのだとはいえ、その願いはすごく純粋で、正しいものなのだと思うのだ。
私は、一体何を望んでいるのだろう。私は、世界をどういう風にしたいのだろう。
「先輩はいいですね、やりたいことがあって。でも、それじゃあ何を悩んでいたんですか」
「んー……言ってしまえば、夢の叶え方かな。音楽で世界を変えるって、言うだけならすごく簡単だよ。でも、何をすればいいのかはすごく難しい。プロになれば世界を変えられるわけじゃない。この国で有名な演奏家になったところで、結局は電波のある場所、CDの手に入る場所じゃないと音楽は届かない。ここでいくら演奏したって、地球の裏側にまでは届かないんだよ」
「だったら、世界を旅する音楽家にでもなればいいじゃないですか。素敵ですよ」
「簡単に言うねぇ一年生は。やろうとしたってお金はかかるよ。その元手はどうするのか、そもそもどうやって旅をするのか。音楽っていうのは、一人だけで演奏してできあがるものでもないから、本当に良い音楽を届けたいなら、とんでもない数の人手がいる。色んな人に協力してもらわないといけない。前途は多難だよ」
きっとこの人は、色んなことを考え続けたのだろう。世界と向き合い、その問題を受け入れて、変えていく覚悟。そこに至るまでの紆余曲折を思うと、この人の笑顔の意味合いさえ変わって見えそうだ。
「そういえば、千川ちゃんはなんでここに来たの? 私が言うのもなんだけど、夜中の散歩には遅い時間だよ」
何の気なしのその質問に、私は当初の目的を思い出す。もちろん忘れていたわけではなかったが、この人の話を聞いていると、殺すことに抵抗を感じてしまっていた。これほどの考えを持つ人を、こんなところで無意味に終わらせてしまっていいのだろうか。この人は、殺すに値する人間なのだろうか。
しかし私は思い直す。そもそも、殺すに値する人間とはなんなのだろうかと。犯罪者であれば値するのか。生きていることでマイナスしか生み出さないような奴であれば、値するのか。多分、殺すに値する人間などというのは、如何なる条件下でも存在しない。人の命を奪うという決断は、最終的にはエゴなのだ。大勢の人間を殺した者に死という罰を与えるのも、結局は法律という、人間が人間らしく暮らすための大義名分というエゴによるものだ。仮にその者に悲惨な過去があれば人は同情し、死罪に対してやりすぎだという考えを持つものすら現れる。
ただ、人を殺すという行為そのものは、やはりエゴだ。その者を野に放てば更に人が死ぬので、代わりに国が殺すというだけ。それがエゴでなくてなんだというのか。
私は、この人を殺したい。フルートが上手くて、立派な考えを持っていて、私より生きる価値のある少女。そんな人を、私はどうしても殺したいのだ。その演奏の才能も、これまでの努力も、夢も理想も、この先の未来の喜びもこれまでの人生も、その全てを今ここで、残酷に踏み潰してやりたい。全部台無しにして、ゴミクズにしてやりたい。そしてその事実を、この人と、この人を大事に思う人に突きつけてやりたい。
この衝動こそ、私の生きる理由。