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死に問う  作者: 端場 隅
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死に問う その一

 こびりついた赤色が黒ずみ始め、その輝きを失いつつあった。その様を、手にこびりついた液体を、私は見つめ続けていた。食い入るように、手に穴を開けるように。まるでこの光景を脳に、そして人生に刻み込むように。

 いつ頃からそうしていたのだろうか。私はふと我に返り、今の状況のまずさを思い出す。

 厚い雲に隠された月に代わり、通りに点々と立ち並ぶ街頭の明かりが、暗闇の街並みを駆け抜けて差し込むように、その場に立ち尽くす私の姿を映し出していた。顔から足先までを飛び散った赤色に染め上げて、その手に包丁を握りしめた、殺人者たる私を。

 足元には、何かが転がっていた。それは身を守るようにしてうずくまっている。その様はダンゴムシに似ていた。ただ、その何かには、外側に向けられた背中に身を守れるような頑丈さはなかったのだろう。赤黒い液体を垂れ流しながし、その無防備な姿を晒したまま二度と動かなくなっていた。

 見るも無残、という表現が似つかわしいだろう。自分が刺されたわけでもないのに、その背中に残る無数の刺し傷を見ただけで、その痛みに耐えかねて歯を食いしばってしまいそうになる。

 可哀そうだとは思った。この人物───十六の少女だったが、もはやその面影はない───は、私に殺されて然るべき罪など何もない。きっと人生の大半を真面目に生きてきたのだろう。同じ高校の制服を着ていたが、丈の長いスカートはそのままに、髪は生まれたままの色合いで、簡単に後ろで結ばれている。垢ぬけない、と世間の人間は言うだろう。でも私には、そういうあり方はすごく好ましかった。混じり気のないその純粋さは、何よりも美しい。

 この子に許してほしいとは思わなかった。命を奪って尚許されようとするのは、ただの逃げだ。それはすごく卑怯なことだと私は思う。だからこの子には、私を心の底から恨んで死んでいってほしい。そんなことを考えながら、私は、命を奪った。

 包丁を力強く握りこんだ両の手が酷く痛んで思わず力が抜けて、包丁がするりと抜け落ちる。静かな夜の住宅街に、甲高い金属音が鳴り響く。その音は暗闇をどこまでも駆け抜けて行った。途端に、誰かにこの惨劇を伝えに行ってしまうのではないかと恐ろしくなった。

 怖いのは当然だ。私は確かに自分の望みでこの子を殺し、その尊厳と命を、これまでの人生とこれからの人生の全てを踏みにじった。それは現代の人間社会において、どんな理由があろうと許される行為ではない。あまりにも重い罪である。そして罪は裁かれる。そのための法的機関が、私に然るべき罰を与えるために動き出す。私は、捕まるのが怖い。

 逮捕、という言葉が血液よりも早く脳を駆け巡る。そのおかげか、殺人行為で興奮状態だった脳がゆっくりと冷却され始め、冷静な思考が戻りつつあった。

「……何、その顔。もしかして楽しくなかった?」

 私の隣で佇む少女、重音が私の顔を覗き込んで言った。どうやらよほど暗い表情を浮かべていたのだろう。不安げな顔で、頭の上に疑問符を浮かべている。

「なんか、思ってたのと違った、というか。上手く言えないけど、これは違うなって感じてる」

 思ったことを素直に口に出した。足元には、熱を失った細身の女子校生が横たわっている。柔らかい腹の肉に冷たい刃物を刺し入れる感触が、未だに手に残っていた。尖った刃先が筋肉を突き破って、血管を切り裂く瞬間のおぞましさが、何度も繰り返し掌を伝って、脳に染み込んでくる。

「ふうん。あんなに楽しみにしてたのに、何が違うの?」

「だから、上手く言えないんだって。自分でもよくわからない……どうにか表現してみるなら、そう。ずっと読んでた漫画のオチが、思ってたのとは違った、みたいな」

 オチが違った、というのは、実際言い得て妙だと思う。私は今日まで殺人行為を夢見て生きていて、ようやく夢が実現した。言うなれば、オチを迎えたわけだ。

 それなのに、どうにもしっくりこない。ただ人を刺して、刺された人が死んだだけ。私はそこに、何か特別なものを見出そうとしていた。そのことにすら、今になってようやく気が付いた。

 そう、意味が欲しかったのだ。生きてきて、意味があったと思えたことなど何ひとつとしてない。ただ身体を大きくして、それに追いつき損ねた思考が頭の中でねじ曲がり続けていっただけ。そんな無意味な生に意味を与えてくれるとしたら、それはかねてよりの願望であった殺人だけ。人を殺すことで初めて、私は私の生を肯定出来る。

 そう確信していたのに。

 十数年の夢の果てに得たものが、肉を刺す感触と、取り返しのつかない前科だけ、なんてのは悪い冗談だ。これでは覚悟を決めて殺した意味がない。

「ただ殺せればそれでいいと思ってた。人を殺してみたくて、今日実際に殺してみた。アンタに誘われるがまま、人を殺してみた」

「それで?」

「……楽しくなかったわけじゃない。私の目の前で、人が力尽きていくのを見るのは至福だった。恍惚とすらしていた。でもいざ死なれて、そこに何も残ってないとわかった時、バカバカしくなった。これが私のしたかったことなのかって」

 自分で言って、おかしいということは重々承知している。何の罪もない人間を一人殺しておいて、バカバカしくなったなどと。何も残っていないのがなんだというのか。奪われた側は、それこそもう何も残っていない。この先起こる全ての物事も、これまで重ねてきた人生も奪われたのだ。バカバカしいと言う権利を持つのは、殺された彼女だけだ。

 それでもあえてこの行為を表すのなら……意味がない、だろう。

 幼いころから殺人衝動を抱えて生き、十数年の鬱憤をここで発散した。発散したのだから、あとは霧散するのが道理だろう。願望も感情も、ただ一時とは言え消えてしかるべきだ。

 そこまで考えて、気付く。

 心の底からグツグツと湧き上がってくる衝動。身を焦がすその熱が内臓を焼き尽くし、焼けただれた肉が口から零れ出そうになる感覚。人生の全ての時間を共にした、何もかもを台無しにする一歩手前の狂気が、まだ消えていない。

 それは幼い私が、何も知らぬ頃に名付けた狂気。殺人衝動に他ならない。

「いい顔になった」

「へ?」

「この子を殺す前の、ギラギラとした獣の目つき。誰なら食べやすいか品定めする肉食動物の目つき。それが戻ってきた」

「私、そんな目つきしてる?」

 コクコクと頷かれて、頬が熱くなるのを感じた。どうも私は、考えていることが表情に出やすいタイプらしい。

 でもそうだとしたら、私は今までちゃんとこの殺人衝動を隠せていたんだろうか。

「とりあえずわかったことが一つ。あなたの物語は……愛奈の物語は、まだ終わってないってこと。まだ、オチには辿り着いていないってこと」

「オチ?」

「さっき言ってたじゃん、漫画の喩え。オチに納得出来ないなら、それはきっとまだオチじゃないってことでしょ。仮にオチだったとしても、引き延ばしちゃえばいいだけ」

 重音は私を見つめながら、夜空の月を包むように両手を広げる。子供が夢を語るような幼い動作だった。

 けれども、時に物事は単純で明解な方が強く心に残りやすいということがある。

 まだ、終わりじゃない。そう言う彼女の姿が、この上なく頼りに見えた。

「だからさ、また殺そうよ。ガンガン殺して、納得出来るまで殺して、飽きるまで殺そうよ」

 そうだ。私の物語はまだ終わっていない。人を殺し続けて、その先にあるものを見なくては。

「ま、次の殺人のことは一旦後回しにして、まずはここを片付けないとね。手順は忘れてない?」

 ただ頷いて応える。

 私は今日、人を殺した。そのことに関して悪いとは思っているが、だからといって捕まるわけにはいかない。何しろ私は自分の人生が惜しい。他人の人生を奪った奴が何を、と思うだろうが、惜しいものは惜しいのだ。

 この殺人の犯人が私たちだとバレるわけにはいかない。証拠隠滅は徹底的に行う手筈だ。

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