アビーとイビー
今日も美術の話。
今日もシマキ様を書道室へ送った後に、美術室へ移動する。
入学して二ヶ月、学園にもそろそろ慣れる頃だった。だが、私は未だに美術の授業だけは慣れずにいた。
アビー様とイビー様は、あの最初の授業の日から、何かと私に絡んできた。いや、正確に言えば絡んでくるのはアビー様だけで、イビー様は初日からずっと我関せずといった態度を貫いている。
シマキ様が生徒会の活動で居ない放課後は、リム様も加えた三人による嫌がらせが相変わらず続いていたが、正直に言って此方はもう慣れた。リム様の嫌がらせは、罵倒や精々ノートを破る程度のことだったから。
そんなの、全然耐えられる。
寧ろ、ペールン公爵家にいた頃の方がもっと酷いこともされていた。
だが、美術の時間であるアビー様単体の時は嫌がらせの種類が違った。ここ二ヶ月でわかったことだが、アビー様は殊更、身体的な暴行を好まれる。
私には、こっちの方が余程堪えた。
初日に足を踏んできたのが、いい例だ。あの日から足ばかり矢鱈と狙ってくる。それも全て先生が見ていないうちにしてくるのだからタチが悪い。
そして、もっとタチが悪いのは顔や首を狙ってこないことだ。顔や首に傷を作ってしまったら誰からでも見えてしまう。
そうすれば、シマキ様に己の犯行がバレてしまうかもしれない。そのため、服を着ていたらバレない足ばかり狙っているのだろう。
シマキ様は、美術がある日は、終わった後必ず「大丈夫?」と聞いてくれるが、心配をかけるわけにもいかないので、大丈夫だとしか答えていない。
思わずため息が出る。
あんなに楽しみにしていた美術の授業も、今となっては憂鬱で仕方ない。一層、サボってしまおうかと考えて、ぶんぶんと首を振る。
そんなことしてしまったら、シマキ様にバレてしまう。
憂鬱な気持ちのまま目的地に着いてしまい、仕方なく扉を開けた。
中には、思った通りアビー様がいた‥‥‥が、ひとりだけだった。いつもと違って、イビー様がいない。
私の困惑に気がつくこともなく、アビー様は私を手招きして隣へ座るように促した。
反抗してはいけないから、いつも従っている。
「今日、遅かったじゃーん。てっきり、嫌になって逃げ出したのかと思ったよぉ」
ケラケラと笑いながら、私の足を踏んだ。その高い声に、前の席を陣取っている生徒たちがびくりと反応したが、皆んな見て見ぬ振りを貫いている。
初日以来、危機管理能力の高い貴族たちは、私たちのいざこざに巻き込まれぬように、積極的に前の席へ座っていた。一番後ろの席に座っている私たちから、少しでも離れるためだ。
広い教室のため、この距離なら、私たちが少し気を遣って話せば内容までは聞こえない。
いらぬ会話を聞かなくていいことになるのだ。
「もぅ、無視なんて釣れないなー。折角、遊んであげているのにぃ」
「すみません」
「ダリアちゃん、そればっかりぃ」
アビー様が、詰まらなそうに口を尖らせた時、鐘が鳴り先生が入ってきた。名簿を見て生徒が揃っているか確認した時、イビー様が居ないことに気が付いて眉を顰める。
「アビー、イビーが居ませんが、どうかされましたか?」
「イビーは、病気で休みでぇーす。多分、二週間くらい来れませーん」
「嗚呼、持病ですか。わかりました。では、授業を始めます」
先生は納得したように頷くと、今日の指示を始める。今日は、どうやら教卓に置かれた花を描くようだ。ここからだと、若干小さいが、描けないほどでもない。
私は、スケッチブックを取り出して、作業を始めた。勿論、足は踏まれたままだ。
痛いがどうすることもできないので、我慢するしかない。
「本当、あんたってつまんなーい」
「すみません」
ふんっと鼻を鳴らして、足をより一層グリグリと踏まれた時、余りの痛さに鉛筆を飛ばしてしまって、アビー様のスケッチブックを汚してしまう。
にんまりと楽しそうに頬を緩めたアビー様に、殴られると思って慌てて謝った。
「す、すみません、すみません、イビー様!」
そう言った瞬間、アビー様は目をこれでもかというくらいに見開いた。
あれ? 私、いまなんて言った。
── す、すみません、すみません、イビー様!
間違えた! 焦って、イビー様と呼んでしまった!
アビー様の顔は、みるみるうちに不快そうになる。こんなに機嫌の悪そうな顔は、初めてだった。
そのうちに、アビー様は、私の手をとって立ち上がった。
「せんせーい、ちょっとお手洗いに行ってきまーす」
そう言うと、先生の返答も聞かずに、私を引っ張って無理矢理お手洗いに押し込む。完全に二人きりの空間に、更に焦る。
機嫌を損ねて、ボコボコにされるのではないかと本気で思った。
アビー様は、お手洗いに着いてもずっと不機嫌な顔を崩さなかった。髪をいじり出して、そのうちに諦めたようにため息を吐いた。
「何で気が付いたの?」
「えっ?」
「だから、何であたしがイビーって気づいたのかって聞いてんの」
「えっ? イビー様なのですか?」
「はっ? だって、あんたが言ったんじゃない」
「えっ?」
私はただ間違えただけだ。
私が困惑していると、イビー様も異変に気が付きガシッと私の肩を掴んできた。
今度こそ、殴られると思ったが、掴まれただけで何もされない。
「えっ? 真逆、あんた、ただ間違えただけ?」
「‥‥‥は、はい。そうですけど」
「マジか」
そう言うと、イビー様は脱力したように床に座り込んだ。
「やっちゃったぁ。姉様に知られたら、何て言われるか」
「も、もしかして、本当にイビー様、なのですか?」
「だから、さっきからそう言ってんじゃない!」
イビー様のやけになったような様子を見ても、私は信じられずにいた。
だって、今日のイビーは話し方だって、足の踏み方だって、髪型だって、泣きぼくろだってアビー様そのものだった。
「じゃ、じゃあ、今日休んでいる方がアビー様」
「あんた、その事誰かに言ったりしたら、マジで殺すかんね!」
「い、言いません」
イビー様は、それだけ言うとまたため息を吐いて、お手洗いから出て行ってしまった。
残された私は、只々ポカンと惚けて暫く動けなかった。
イビーの秘密を知ってしまった、ダリア。
 




