信じない
昨日の続きです。
静かで平和な日だった。
減ったとはいえ、いつもなら嫌がらせのひとつくらいあるはずだが、それもなかった。
──本当に平和で、平和すぎて、おかしいくらいだった。まるで、嵐の前の静けさの様な‥‥‥。
そんな不安な考えを消し去るように、首を振る。平和なことはいいことだ。いまは兎に角、目の前の掃除という仕事を真っ当しよう。
今日の昼過ぎに、シマキ様が隣国から帰ってくる。それまでに仕事を終わらせて、出迎えなければならないのだ。
掃除を再開しようとした時、丁度窓から一頭の馬が見えた。その馬は、ペールン公爵家の正門にぶつかる勢いで入ってきた。凄まじい速さで、普通なら人が乗っているかもわからないだろう。
しかし、私にはわかった‥‥‥あれはシマキ様だ。その瞬間、体が勝手に玄関に向かって走り出した。
予定の時間よりも帰ってくるのが早すぎる。
そして何より、行きは馬車だったのに、帰りは馬だけというのはおかしい。何か問題があったんだ! 体全部が心臓になってしまったかのように、どくどくと煩い。途轍もなく嫌な予感がした。
程なくして、玄関に到着する。私の他にも異変を察した他の使用人たちも、集まっており、その中心に蹲るようにしてシマキ様は居た。
はぁはぁと、息を切らす姿は珍しく、それ程の一大事なのだと察することができた。漸く息が整ってきたシマキ様が、顔を上げると目がパチリと合う。泣きそうな目をしていた。
「‥‥‥ダリア、落ち着いて聞いてちょうだい」
そこで私はもうひとつの変化に気がつく。
「シマキ様、他の方々はどちらでしょうか?」
いよいよ、目から涙がこぼれる。強烈に嫌な予感がした。
「‥‥‥死んだの、二人とも。シャールも殺されたわ」
「‥‥‥はっ?」
言われた言葉の意味が全くわからなかった。
いや、今もわからない。シャールさんが死んだ? 私の耳はおかしくなったのだろうか。
「‥‥‥シマキ様、ご冗談はおやめください。幾らなんでも笑えません」
「私が、冗談でこんなこと言うと思う? 彼は殺された」
「嘘! 嘘! 嘘、嘘、嘘っ! 嘘、言わないでください! シャールさんが殺された? あんなに強い人が殺されるなんて有り得ません!!!!」
シマキ様が何か言っていたが、もう何も聞こえなかった。周りには沢山人がいるはずなのに、なんの音も聞こえない。まるで自分しか居ないような感覚に陥る。
執事服を着て、気恥ずかしそうにしていたシャールさんの姿が脳裏に浮かんだ。あれが最後だなんて、とても信じられない。
だって、彼はいつだって私の元に居てくれた。失敗しても、仕方ないなって許してくれた。
手合わせでだって、まだ一度も勝てていない。
シャールさんは強い、そうだ、そんな彼が死ぬはずがない。
「‥‥‥ない」
「ダリア、大丈夫?」
「信じない! 信じません! シャールさんが死んだなんて、私は絶対に信じませんから!」
「貴様! お嬢様のいうことが信じられないのか!」
ラールックさんを皮切りに他の人たちも話し出した。
「そうよ、お嬢様を疑うなんて、何処まで卑しい女なの」
「お嬢様を否定するような言い方、流石に呆れられるんじゃないか」
「シャールさんは確かに強かったけど、お嬢様が死んだと言うなら、きっと死んだのよ」
「黙れ!」
周りの人たちの言葉に酷く苛ついて、反射的に言葉を返してしまう。いつもは反抗せずに耐えているが、いまはそんな余裕もなかった。そんな私たちを止めたのは、他でもないシマキ様だった。
「静かに」
「し、しかし、この者の無礼な態度は見過ごせません」
「ダリアがショックを受けるのは、仕方のないことよ。現実を受け入れられない時だってある」
その言葉で渋々黙ったラールックさんを見て、私は俯いた。シマキ様は険しい表情から一変して、穏やかな顔をして私の両手を包み込む。
「私の話を最後までよく聞くのよ‥‥‥隣国からの帰り道、山賊に襲われたわ。奴らはまず、御者を殺してわたくしたちを森に引き摺り込み孤立させた。そのせいでコートラリ様が付けて下さった護衛とも逸れてしまったの。そして、応戦したシャールは、わたくしを馬に乗せて逃がしてくれたわ」
「で、では、シマキ様はシャールさんが殺されたところを見ていないのですね! なら大丈夫です。シャールさんは山賊如きにやられるような人じゃない。絶対に生きています」
シマキ様はまた悲しそうな顔をすると、ふるふると首を横に振った。「あのね」という声は、まるで母親が聞き分けのない子供に言い聞かせるような口ぶりだった。
「逃げる瞬間、シャールが気になって、わたくし、後ろを振り返ってしまったわ。そしたら‥‥‥」
シマキ様は、また涙声になる。よく見ると、彼女の服には血が滲んでいた。何処か怪我をしているのかもしれない。後で手当てしないと。
現実逃避のように思考が色んな方向に飛ぶ。
「シャールが首を切られるところを見た‥‥‥あれじゃもう‥‥‥」
嗚呼、やっぱり逃避したままならよかった。
だって、現実はこんなに辛く厳しい。
ふっと体の力が抜けて、その場に座り込む。
信じたくなんかない。でも、不幸なことにシマキ様は嘘をついているようには見えなかった。
それでも、私は、まだ諦めきれない。
「‥‥‥信じませんよ、私。シャールさんの死体を見るまで、信じませんから」
「‥‥‥そう」
シマキ様はそれだけ言うと、私の頭を優しく撫でた。
「護衛騎士団長!」
「はい、なんでしょうか」
「貴方にシャールの回収を命じます。彼がどのような状態でも、必ず連れてきなさい」
「畏まりました」
護衛騎士団長は、是の返事をすると、早々に他の団員を連れて慌ただしく出ていった。
「ダリア、シャールのことは、彼らの報告を待ってから改めて話しましょう」
「報告なんて待たなくても、死んでないに決まってます」
シマキ様は悲しそうな顔をすると、私の前にしゃがんで両頬を優しく掴む。
「わたくしの腕の傷が見えない?」
「‥‥‥見えています」
「なら、貴方が今やることは、わたくしの手当てではなくって? 仕事を疎かにしたら、シャールに怒られるわよ」
ハッとした。
そうだ、この家にいるためにはシマキ様の役に立たなければいけない。それは、シャールさんに此処へ来たばかりの頃に良く言われたことだ。
それを思い出したら、不思議と体に力が戻ってきて立ち上がれた。
「申し訳ございません、シマキ様。直ぐに手当いたします」
「それでいいわ」
シャールさんは、絶対に帰ってくる。そう信じながら、私はシマキ様の後を追ったのだった。