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エイプリールフール特別小説「二ループ目の世界」

お久しぶりです。

一年ぶりの更新です。

今回のお話は、本編を読んでから閲覧することをおすすめします。


また、このお話は今までどの話よりもダリアが酷い目にあっていますのでご注意ください。直接的な描写はないのですが、一部強姦のような表現がありますので、苦手な方は閲覧しないようにしてください。


読者の皆様に少しでもお楽しみいただけましたら、幸いです。









──この出会いは、運命じゃない。





目の前で孤児院が燃えている。

私が十年間過ごした家が、たったひとつの炎に焼き尽くされて行く。

私は逃げた。

助けを求める人たちを置いて、ひとりで生き残った。嗚呼、どうして逃げてしまったのだろう。あんなに、助けを求めていたのに‥‥‥焼けた頬に涙が伝う。

どうしようもない虚無感に襲われた。


火消し作業を終えた警備隊のうちのひとりが、私の前へ歩いてくる。


「お前、この院の子供だな?」

「‥‥‥っ、は、はい」


私は怒鳴り声に驚きながらも返事する。すると、目の前の男は威圧的な雰囲気を強めた。


「どうして、火事になったんだ!」

「‥‥‥えっ?」

「お前が自分で付けたんじゃないのか!」


そ、そんな、私、そんなことしてない。そう答えようと思った時、弾むような足音が聞こえた。次の瞬間、私の両頬は誰かの手によって掴まれていた。ぐりんと強引に顔の向きを変えられる。


「やっと、見つけた」


その先には、見たこともないほど綺麗な顔をした少女が満面の笑みで私を見つめていた。額は走ってきたのか少し汗ばんでいる。

その目は歓喜に満ち溢れているのに、ドロドロとして何処か歪で恐ろしかった。


「‥‥‥あ、あの?」

「あら、なるほどね‥‥‥わたくしの名前はシマキ・ペールン。貴方をずっと探していたの」

「‥‥‥シマキ・ペールン?」


その名前を聞いて、私は思い出す。そういえば、前世でプレイした乙女ゲームの悪役令嬢が同じ名前だった。

暴虐の限りを尽くす悪役令嬢。


「嗚呼、そう、この目よ。この目がずっと見たかった」

「えっ、あの‥‥‥」

「さぁ、早く帰りましょう。わたくし達の家へ。ラールック、馬車の手配を」

「畏まりました」


シマキ様の後ろに立って、何も言わなかったラールックと呼ばれた女性が恭しく礼をして去っていく。

シマキ様はそれを見送ると、私の手を強引に引っ張った。困惑しつつも立ち上がる。


「あ、あの、何方へ行くのですか?」

「ふふっ、決まってるじゃない、」

「おい! 此奴には放火の容疑がかかっている。勝手に連れていくことは許さない!」


シマキ様が話している途中で、呆けていた警備隊の男が正気に戻ったらしい。体に響き渡るほどの怒鳴り声に私の肩は震えた。

そんな私をシマキ様は後ろに庇うように前へ出る。


「ねぇ、わたくしの邪魔をするの?」


彼女は、私に向けたものとは違う貼り付けたような笑みを警備隊の男へ向けた。顔は笑っているのに目は全く笑っていない。真っ暗な瞳をしていた。

その時、唐突に警備隊の男が膝をつく。


「滅相もございません。私は、貴方様に対してなんたる無礼を! 貴方様が望むのなら、この場で切腹しても構いません!」


警備隊の男のあまりの代わりように、私は驚く。そこに先程までの横暴な態度はまるでなかった。

そんな男をシマキ様は冷めた目で見つめると、興味を無くしたのか私の方へまた目を向けてきた。


「邪魔が入ったわね。さぁ、帰りましょう」

「あ、あの、私帰る場所なんて‥‥‥」


私はすっかり灰になった孤児院を見つめる。それに釣られたのかシマキ様も孤児院の方をじっと見つめていた。盗み見た横顔は、とてつもなく機嫌が良さそうだった。

だけど、それは火事の現場を見るには余りにも楽しそうで‥‥‥。


「うふふっ、貴方っていつ見ても面白いわね」


シマキ様が何を考えているのか、私にはわからなかった。ただ、その楽しそうな天使のような笑みが恐ろしかった。


「おかえりなさい、ダリア」






◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉






訳もわからないまま、私はペールン公爵家に来ていた。シマキ様が私の手を引いて屋敷へ入ると、出迎えの使用人たちは皆一様に困惑した顔をしていた。

その奥から、眉目秀麗の男性が出てくる。


「おかえり、私のお姫様」

「ただいま戻りました。お父様」


お父様ということは、この人がペールン公爵みたいだ。嬉しそうなペールン公爵とは違って、シマキ様はそっけない態度で返した。

そうして、すぐにまた私の手を引いて歩き出した。だが、それはペールン公爵によって止められる。


「シマキ、その子は何処から連れてきたんだい?」

「孤児院です。今日からわたくしの部屋で暮らすことになりました」


あまりにも淡々とした口調に、ペールン公爵は目を見開いたものの己の娘にそれ以上追求をしなかった。


「そうか。君がそうしたいなら、好きにして構わないよ」

「‥‥‥ありがとうございます」


ペールン公爵は、何処か気に入らなさそうな目で私を見つめたのだった。






手を引かれて連れてこられたのは、シマキ様の自室だった。正に豪華絢爛という言葉が似合うそこは、お姫様の代名詞ともいえる天蓋付きのベッドが特に存在感を放っている。

シマキ様は手を強く引いて、私を部屋の中へ押し込めると扉を閉めてしまった。電気も付いていないそこは、夜明けであってもまだ暗い。

目を暗がりに慣らそうと思っている時、頬に強い衝撃が走る。

私の体は、その衝撃で床に倒れ込む。

何が起こったのか理解できなかった。困惑したまま見上げると、先程と変わらない様子のシマキ様が立っていた。


「‥‥‥えっ?」


何も理解できない。

シマキ様がしゃがみ込んで、私と目を合わせた時、やっと理解できた。

嗚呼、この人に頬を叩かれたんだ。

シマキ様は、愛おしそうに叩いた右頬を撫でていた。


「ダリア、約束してくれる?」

「‥‥‥」


何も答えない私を見て、彼女はどう思ったのか懐からそれを出した。それは、暗がりでも反射して、わたしに恐怖を与えてくる。


「あっ‥‥‥あっ、」

「嗚呼、刃物が嫌いだったわよね。でも、安心して。貴方が約束を守れば、これを使うことはないわ」

「‥‥‥や、約束?」

「えぇ、簡単なことよ。この部屋から出ないこと。それだけを守ってくれれば、わたくしは何もしないわ」


シマキ様はそう言うと、手に持っているナイフで私の頬をなぞった。その拍子に頬が切れて、血がポタポタと床を汚す。


「ねぇ、守れるかしら?」

「‥‥‥ま、守りますっ、守りますからっ、やめてっ」

「あら、そう。ならこれは必要ないわね」



興味を失ったように、シマキ様はナイフを後ろへ投げ捨てた。扉に当たって床に落ちる。カランカランという軽い音が更に恐怖を煽った。


「嗚呼、楽しい、楽しいわ。貴方のその目、見ていると本当に愉快な気分になってくる」


私は確信した。

この人はゲームと同じで狂ってる、と。









ここへ連れてこられてから一週間、私は未だにシマキ様の部屋から出れていなかった。いや、出ようと思えば出られたのかもしれない。鎖で繋がれているわけでもないし、扉だって閉まっているけど鍵は内側から開けられる。

だけど、出ようと足を動かすたびにあの光景を思い出す。

刃物で脅されたあの光景を。

結局、今日もベッドの上で蹲る。

その時、ガチャンと鍵の開く音がして、私は慌ててベッドから飛び降りて扉の方へと向かった。


「お、おかえりなさい、シマキ様」

「ただいま、ダリア」


そう言うと、シマキ様は私の右頬をそれはそれは嬉しそうに撫でた。いつもみたいな貼り付けたような笑顔ではない。とても美しい天使のような笑み。

ダメ、嬉しそうにしないと。怖がったり、嫌そうな顔をしてはいけない。

私はお腹にぐっと力を入れて無理矢理笑顔を作ると、恐ろしさを無視してシマキ様の手に頬を寄せた。そうすれば、シマキ様はすっと目を細めて愉快そうに私の右頬から手を離す。

私はそれを目で追って、残念そうな顔を意図的にした‥‥‥出来ているかはわからないけど、でも、シマキ様は特に何も言わずワゴンを引いて部屋にある大きな机へ向かった。

私もその後ろをついていく。


シマキ様には好意を抱いているように接しないといけない。


この人が乙女ゲームと同じ設定なら、悪魔の寵妃の影響で、抵抗されたり自分の思い通りにならないような人を好むはず。だから、この人には従順にしていた方がいい。そうすればきっと、いつか飽きる。逆に飽きられなければ、私は一生この部屋から出られない‥‥‥シマキ様ルートの時のヒロインのように。

だから、私は絶対に魅了の力が効いていないと知られてはならない。


「さぁ、食べましょう」


考えているうちにワゴンから移された晩御飯が、机の上へ綺麗に並んでいた。シマキ様は何が楽しいのか毎日三食部屋へご飯を運んできて、私と一緒に食べていた。


「美味しそうですね」

「えぇ、貴方の好きな肉料理を作らせたの。おかわりもあるから、どんどん食べてね」

「い、いただきます」


無理矢理笑顔を作ると、私は席に着いた。もっともっと幸せそうな顔をしなきゃ。

そう思ったものの、私の手は進まなかった。

お皿の上には美味しそうなローストビーフ。その上には、茶色いお洒落なソースがかかっている。

すごく美味しそうだ。こんな状況で食欲なんてないけど、食べないと可笑しいと思われちゃう。


「食べないの?」

「い、いえ、いただきます」


私は慌ててお皿の隣に綺麗に並んでいたフォークを手に取る。そして、反対側のナイフも手に取ったが‥‥‥


カタンッ!


嗚呼、やっぱりダメだ。持てない。

落としてしまったナイフを取ろうとしても、手が震える。止まって、お願い止まって!


「嗚呼、そうだった。貴方って刃物が怖いのよね。わたくしったら、いつも忘れてしまうわ」


向かえの席からシマキ様が立ち上がった。ゆっくりと近づいてくる。


「そんなに無理しなくてもいいのよ」


ナイフを拾おうと俯いていた私の視界に、足が映る。顔を上げればそこには、ナイフとフォークを持ったままのシマキ様がいた。


「いつも、言っているでしょう? 克服なんてしようとしなくていいわ。わたくしが食べさせてあげる」


泣きそうになるのを気力だけで抑えて、私は笑顔を作った。


「あ、ありがとうございます」

「気にしなくていいわ。わたくしがやりたいだけだから」


シマキ様は私の横へ椅子を持ってくると、そこへ座ってローストビーフを切り始めた。

「はい、あーん」と一口サイズに切られた肉を、私は従順に口を開いて招き入れた。

味なんてわからない。


「お、美味しいです」

「そう、よかった」


いつも、そうだ。

ここへ来てから、ナイフを使って食べる料理は何回も出てきた。その度に私は今みたいになって、一人でまともに食べることもできない。

そうすると、シマキ様は嬉しそうに餌を与えるみたいに手ずから食べさせてきた。

でも、初日にあんなことをされたせいか、私はナイフを持っているこの人が怖くてしかない。だから、この時間が大嫌いだった。


「どうかした?」

「い、いえ、なんでもありません」


こうされると、表情を作る余裕がなくなるから。










ここへ来てから一ヶ月が経とうとしていた。

その言葉は、いつものように昼食を一緒に食べている時に突然言われた。


「そうだ。明日から泊まり込みで二日ほど、王宮へ行かなくてはならないのよ」

「えっ?」

「本当は貴方も連れていきたいのだけど‥‥‥そこは部外者立ち入り禁止だから、連れて行けないのよ。ごめんなさいね」

「い、いえ」


泊まり込みということは、明日一日はいないということだ。これはチャンスかもしれない。

そう思いつつ、私は必死に心細いような顔をする。


「嗚呼、そんな顔しないでちょうだい。行きたくなくなってしまうわ」

「すみません」


寂しそうな声で謝れば、シマキ様は向かえの席から立ち上がり此方へ歩いてくる。そして、私の目線に合わせて屈んだ。


「ねぇ、ダリア、約束よ。わたくしが帰ってこないからって、この部屋を出たりなんてしてはダメよ」


ゾッとするほど美しい笑みで、右頬を撫でられた。一瞬、思考が読まれたのかと思ったけど違う。これはただ釘を刺しているだけだ。


「そんなことされたら、わたくし悲しくなってしまうもの」


だから、動揺なんてしなくていい。

そう、従順に愛おしそうに魅了されているように。

私はシマキ様の手に頬を寄せた。


「‥‥‥この部屋から出る? どうして、私がそんなことを?」

「うふふっ‥‥‥わからないのならいいのよ。わたくしの杞憂だったわね」


シマキ様は笑った。

それはそれは美しく、天使のように神々しかった。

でも、それは私にとってはどうしようもなく恐ろしいもののように感じたのだった。









嫌な予感とは裏腹に、シマキ様は予定通り早朝には屋敷を出て行った。窓から馬車に乗る姿を確認したから間違いないはずだ。

念のためそれから暗くなるまでは、窓の外を見て過ごした。

大丈夫、シマキ様は帰ってきていない。

いつもなら帰ってくる時間にも、今日は帰って来ない。きっと、今頃王宮にいる。

私は心の中でそう考えると、深呼吸をしてベッドから降りた。


「逃げるなら、今しかない」


あの人は危険だ。

初日に刃物を突然突きつけてきたように‥‥‥いつ何が刺激となって暴走するかわからない。ゲームの中のシマキ様を知っていても、私にはあの人のことがさっぱりわからなかった。

だって、ゲームの中の彼女は何に対しても興味がなくて常に無表情で、唯一執着したのは良くも悪くもヒロインに対してだけだったから。なのに、私と接する時のシマキ様は常に笑顔で、でも、全然笑っているように見えなくて‥‥‥暗い瞳で、そうかと思えば天使のような心からの笑顔を見せる。

まるで、ゲームの中でヒロインにむけていたような表情で、私を見るんだ。

どうして、そんな顔で見るんだろう。魅了の力が効かないこと、彼女は知らないはずなのに。

気持ち悪い。


覚えのない好意ほど気持ち悪いものはない。


その時、脳裏にひとりの男が浮かぶ。

私に馬乗りになって、愛していたと喚きながら滅多刺しにする男。


私は慌てて思考を振り切るように頭を振った。

そんなことを考えている場合じゃない。無理矢理思考を切り替えて、扉まで歩く。

この部屋で唯一、廊下へ続く扉だ。

恐る恐るドアノブを掴む。

こちらからは認知できないけど、外側から鍵がかけられている可能性もある。そう思いながら、ドアノブを握る力を強める。

だけど、扉はいとも簡単に開いた。

拍子抜けするほど簡単に。


「えっ?」


私は驚きつつも、廊下の様子を伺いながら音を立てないように部屋から出た。真っ暗なそこは、シマキ様が留守にしているせいか護衛のひとりもいなかった。

それは、私にとって好都合でしかない。

念のため、足音を立てないようにゆっくりと歩けば、予想以上に上手くできた。ペールン公爵邸に来て一ヶ月が経っていたが、部屋に軟禁されていたため屋敷の間取りはわからないはずだった。でも、何故だか、ひどく懐かしいような心地がして何処へ行けば外へ出られるのか不思議とわかった。

何の迷いもなく歩けば、軈て中庭に出た。

見上げれば夜空が見える。今にも消えてしまいそうな細い月が、雲に隠れて完全に姿を消す。


私は一歩、外へ踏み出す。


芝生の柔らかい感触が、足から伝わってきた。

一ヶ月ぶりの外だった。

見上げると、雲が移動して月が顔を出した。小さな弱い光が、私の足元を照らした。


その瞬間、


──背中が燃えるように熱くなった。


「がっ!!!!」


私の体は、その場に倒れる。


熱い、熱い、熱い、熱い、熱い、熱い! 熱い? 痛い、痛い、痛い!


体が動かない。

背中からどろどろと血液が溢れ出ている感覚がする。

気絶しそうなのに出来ない。

苦しい、苦しい、いっそのこと気絶させて!

そう思った時、私の視界に靴が映る‥‥‥これは護衛騎士の靴?


「見よう見まねでやったけど、案外上手くいくものね」

「うっ‥‥‥ゔっ」

「あらあら、かわいそうに。まだ、意識があったの」


視界に映っていた足が持ち上げられる。

そして、それは私の背中に容赦なく打ち付けられた。


「かはっ!!!!」


明らかに女の声である靴の持ち主の小さな笑い声が、私の耳まで届く。それは、聞き覚えのありすぎる声だった。

そして、ここで私の意識は漸く飛んだ。





◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉







「おはよう、ダリア。体調はどうかしら?」


目を開けるとそこは、いつものベッドの上だった。戻ってきてしまったのだ、シマキ様の部屋へ‥‥‥彼女の手によって。


「医者に診てもらったから大丈夫だと思うけど、何かあればすぐに言ってね」

「ど、どうして‥‥‥」

「あら、わたくしの帰りが早かったことを喜んではくれないの?」


だって、帰ってくるのは明日って言っていたし、それに私は今日一日中窓の外を見ていた。その間、シマキ様の乗った馬車は帰ってきていないはずだ。


「王宮での用事はすぐに終わらせてきたのよ。貴方が心配だったの。それから‥‥…帰りは馬車じゃなくて、馬に乗って帰ってきたの。護衛騎士の格好をしてね」

「えっ?」

「貴方を驚かせようと思ったの。ほら、この部屋にずっといるから退屈でしょう? サプライズをしたら楽しんでもらえると思ったのだけど‥‥‥うふふっ、その必要はなかったみたいね。貴方ひとりでとても楽しそうだった」


何処か含みのある言い方に、私はすぐに気がついた。


バレてた。


私が見ていたことも、逃げ出そうとしていたことも、全部。だから、こっそり帰ってきて、私が逃げ出さないか監視していた?

そんな! じゃあ、真逆‥‥‥

シマキ様が一歩、私に近寄る。


「ねぇ、ダリア。貴方、わたくしの魅了の力が効いていないわね」

「そ、そんなこと‥‥‥」


私は切られた背中の痛みも忘れて起き上がって、必死に頭を横に振った。指摘されたことに動揺して、いつもみたいに表情を取り繕えなかった。

そんな私を見て、シマキ様は嬉しそうに笑った。


「うふふっ‥‥‥貴方って嘘か下手ね。ずっと前から知ってたわ。貴方に力が効いていないってことは。だって、わたくしを見るその瞳は、いつだって鮮明で‥‥‥綺麗ですもの」


何か言おうと思っても、口が縫い付けられたみたいに動かない。シマキ様は、私の両頬を掬い上げるみたいにして目を合わせてきた。


「気づかないふりをしていたのは、健気な貴方がとっても可愛かったからよ。でも、不思議なものね。抵抗されて嬉しいって気持ちも確かにあるのに、腹立たしいって気持ちもまたあるわ。本当に‥‥‥貴方はわたくしを楽しませてくれる」


天使のように邪気のない微笑みを浮かべると、シマキ様は私の右頬をそっと撫でて離れていった。知らず止めていた息を吐き出す。


「ねぇ、ダリア。初めてここへ来た時にした約束を覚えている?」

「はぁっ‥‥‥はっ」


息がうまく吸えない。


「この部屋から出ないこと。それだけを守ってくれれば、わたくしは何もしない」


シマキ様が腰に付けていた剣を、鞘から引き抜いた。


「だけど、今、貴方は約束を破った。なら、罰を与えないといけないわね」

「い、いや‥‥…やめてっ、やめてください」


シマキ様は小首を傾げて笑うと、剣を軽く振って先ほど付いたであろう私の血を払った。


「ダメじゃない。演技するなら最期までしないと‥‥‥嗚呼、でも、貴方にはわからないのだったわね。魅了された人間の気持ちが。

なら、教えてあげるわ。こういう時、彼奴らはね、恐怖しながらも期待した目で見るのよ。生命の危機だっていうのに、わたくしに構われて嬉しいって目で見つめてくるの。気持ち悪いでしょう?」

「‥‥‥」

「でも、そうね。これはさっきので勘弁してあげるわ」


それだけ言うと、シマキ様は剣を鞘へと戻した。自分が夥しい量の汗をかいていると、この時漸く気がついた。


「その代わり、教えて欲しいことがあるの」

「な、何でしょうか?」

「そんなに身構えないで。簡単なことよ‥‥‥この世界のこと」

「この世界?」

「嗚呼、そうね。乙女ゲームの世界といえばわかるかしら?」


驚きすぎて声が出なかった。

どうして? どうして、知っている?


「理解が早くて助かるわ、流石ダリアね。貴方には、この乙女ゲームの世界がどんなエンディングを迎えるのか教えて欲しいのよ。勿論、攻略対象者別にね。わたくしを含めた四人の攻略対象者の全てのエンディングを事細かく思い出して欲しいの」


理由はわからないけど、この人はこの世界が乙女ゲームであるということを知っている。そして、自身が隠しキャラクターということも‥‥‥転生者?

いや、でも、そこまで知っているなら私に聞かなくても乙女ゲームの概要を理解しているはず。


「‥…‥それを聞いてどうするんですか?」

「決まっているでしょう。貴方を守るために、あらゆる可能性を潰すだけよ」


とてもじゃないが、信じられない。

私を守る? 背中を剣で躊躇なく斬りつけたこの人が、私を? 笑わせないで欲しい。

この人にゲームの知識を教えたら、何かよくないことに使われるに違いない。


「‥‥‥し、知りません。ゲームのことなんて、私、知らない」


怖かった。

この人の言葉に従わないのは、凄く怖い。でも、教えてしまえばそれ以上の恐怖が待っているような気がした。


「‥‥‥ふぅん」


私の返答に、シマキ様は自分で聞いたくせに興味なさそうな声を出した。そして、くるりと背中を向けて何処かへ向かって歩き出す。


「ダリア、わたくしね、常々貴方には火が似合うと思っていたの。貴方の真っ赤な髪に瞳‥‥‥孤児院を焼き尽くした炎にそっくりだもの」


ギシギシと床を軋ませて、軈て彼女は暖炉へと辿り着くとそこに掛けられていた軍手を嵌めた。


「孤児院が焼けるさまを見ている貴方は、美しかった。あの火事は、わたくしにとって貴方と出会わせてくれた運命的な出来事だわ。でもね、その右頬の傷、それだけが気に食わない」


シマキ様は火かき棒を手に取ると、それの先っぽを暖炉の中へ突っ込んだ。


「わたくし以外の付けた傷が一生残るなんて、我慢ならないわ」


軈て、シマキ様は火かき棒を暖炉から出すとそれを手に持って近づいてくる。そして、ベッドで上半身だけを起こしていた私へ目線を合わせてきた。


「もう一度聞くわね。乙女ゲームのこと教えてくれるかしら?」

「し、知らない!」


私がそう言うと、シマキ様は笑った。とても、とても楽しそうに、天使のように邪気のない笑みだ。


「残念。こんなことしたくないのよ。でも、貴方のせいでこうなったのだからね。これから起こることは全部、貴方の選択の結果なのよ」


体を押さえつけられて、火かき棒が右頬のすぐ近くまで迫ってきた。


「く、狂ってる‥…‥こんなの、こんなの、おかしい!」

「あはははっ‥‥‥わたくしが狂ってるんじゃないわ。貴方が正しすぎるだけよ」


その瞬間、肉の焼け焦げる臭いが鼻まで届いた。










あの後、私は乙女ゲームに関する全ての知識を教えた。だって、怖かった。拷問の訓練なんてしたことない。私はついこの間まで普通に暮らしていた平凡な人間だった。顔を焼かれてそれ以上のことなんて耐えられるはずがなかったんだ。





◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉







「うふふっ、今日もダメだったわね」


そう言うとシマキ様は嬉しそうに懐から小刀を出した。


「あっ‥‥‥ごめっ、ごめんなさいっ‥‥‥」

「もう、ダメよ。そんな可愛い顔したって」


自分でも涙で顔がぐちゃぐちゃになっていることがわかる。そんな私を見てシマキ様は、何を思ったのか小刀を床に放り投げると、「そうだ!」と明るい声を出した。


「ねぇ、貴方が何回逃げようとしたのか一緒に数えましょう」


まるで、何かの遊びをするかのように楽しそうな声を出すと私をベッドへ座らせた。そして、右腕を掴んで袖を捲った。

そこには、何本もの切り傷が刻み込まれていた。その傷を彼女はなぞりながらひとつひとつ数え始める。


「一、ニ、三、四、五、六‥‥‥あら、ここ傷口が開いてるわ。後で手当てしましょうね。七、八‥‥‥それから背中の大きな傷も入れて九回」


シマキ様は満足そうに手を離すと、何か思い出したような顔をして口元を手で覆った。幼子のような無邪気な仕草だった。


「嗚呼、忘れてた。今日の分をまだ付けていなかったから、それを合わせたら十回目だわ。

目出度いわね。貴方がわたくしから逃げ出そうとして十回目の記念。何かプレゼントをあげなくてはいけないわ」

「い、いえ‥‥‥いりません、いりません」

「遠慮しないで」


そう言うと、シマキ様はクローゼットへ行って何かを取り出して戻ってきた。真っ赤な包装紙に包まれたそれはクリスマスプレゼントのように見える。だけど、どんなに可愛らしい見た目でも、私には何か恐ろしい物が入っているように思えてならなかった。


「はい、プレゼント。開けてみて」

「‥…‥」

「開けなさい」

「‥‥‥は、はい」


ゆっくりとリボンを解く。包まれていた包装紙が取れて現れたのは真っ白い箱。

蓋を開けてみると、その中身は‥‥‥


「えっ?」

「貴方に似合うと思って作らせたのよ。気に入ってくれたかしら?」


中身は鎖だった。

混乱している私を置いて、シマキ様は箱から中身を取り出す。ジャラジャラと耳障りな音を立てた鎖の先は輪っかになっていた。その部分をシマキ様は愛おしそうに持ち上げた。


「躾のなっていない犬がいると言ったの。飼い主の言うことも聞かないで、逃げようとして困るってね。そうしたら、これを勧められたわ。引っ張ると首が絞まるようになっているんですって‥‥‥貴方にぴったりよね」


輪っかは首輪だった。

怖いくらい真っ赤な首輪。


「い、いらないっ」

「貴方のために作ったのよ。そんな悲しいこと言わないで」


ベッドの上で後退するも押し倒されて、碌な抵抗も出来ずに結局付けられてしまう。情けなくて、また涙がこぼれ落ちる。


「思った通りすっごく似合うわ」

「‥‥‥」


シマキ様は私の上から降りると機嫌良さそうに、鎖の端をベッドに固定した。


「過ごしやすいように長めにしておいたのよ。でも、この部屋から一歩出たところを鎖の限界に設定したから、逃げられなくなってしまったわね」

「‥‥‥」

「嗚呼、その目‥‥‥恐れているのに反抗的なその目、それが見たかったの」


シマキ様は、私の右頬の火傷痕をペロリと舐めると踵を返した。

よかった‥‥‥今日は見逃してくれた。

私がそう思ったのを見越したように、シマキ様は振り向いた。天使のように美しい笑みだった。だというのに、私は悪魔に睨まれたように動けなくなった。


「嗚呼、そうだったわ。忘れるところだった‥‥‥今日の分を付けていなかったわね」

「いやっ! 許して‥‥‥許してください」

「ダメよ。だって、約束でしょう。貴方が逃げる度に貴方の体に傷を付ける。そう言ったでしょう」


床に投げ捨てた刃物をシマキ様は、再び手に取った。今までやられてきたことを思い出して、体が勝手に震え始めた。


「さて、今日はどこにしましょうか。ダリアは何処がいい? 希望があれば聞くわ」

「はぁっ‥‥‥はぁ、はぁ」

「あら、決められないの? なら、わたくしが決めてあげる‥‥‥そうねぇ、今日は此処にしましょう」


右足をゆっくりと持ち上げられる。


「こ、こ‥‥‥?」


何か猛烈に嫌な予感がした。私はベッドから転げ落ちるように降りて扉へ向かう。でも、手はドアノブにも届かなかった。


「あがっ!!!!」


私の体はその場に崩れ落ちる。

首が苦しい。必死に首輪を外そうとするも、爪が首に食い込むばかりで外せない。その間もシマキ様は鎖を引っ張る力を緩めない。


「もう、ダリアったら。わたくしにこんなことさせないで。貴方が従順なら、首輪の効力を試すつもりだってなかったのよ」

「かはっ‥‥‥あっ、がっ」

「あら、ごめんなさい。苦しいわね」


漸く苦しみから解放され、一気に空気が入ってくる。


「ごほっ、ごほっ!」


再び右足を持ち上げられる。

足首辺りを深く斬られた。


「あ゛ぁぁぁぁぁ!!!!」


血が噴き出てシマキ様自身の手も汚れた。それに構わず、彼女はあろうことか傷口に指を突っ込んでぐりぐりと抉ってきた。

言い難い痛みと気持ち悪さが襲う。


「ごめんなさいっ!!!! ごめんなさい!!!! ごめんなさい、ごめんなさい」

「全部貴方が選んだことよ。いまこうされていることも、首輪を付けられたことも、全部全部貴方自身が選んだ結果だわ」

「い゛やぁぁぁっ!!!!」

「わたくしだって、こんなことしたくないの。全部貴方のせい」

「許してっ、許して!!」


漸く指が引き抜かれた。

唾液でぐちょぐちょになった私の口元を、傷を抉ったのと同じ指で拭われる。


「次同じことをしたら左足を切る」

「はぁ‥‥‥はぁっ」

「いいわね?」

「──ッ! わかった、もう、しない、しないから」


私の目を覗き込んで、シマキ様は幸せそうに笑った。





◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉







あれから、私の足は上手く動かなくなった。逃げ出そうとしても足が上手く動かなくてどうすることもできない。切られたのは片足だけなのに、どうして‥‥‥毎日考えてるけど何もわからない。





シマキ様に監禁されてから二年の月日が経っていた。時間が過ぎても、私の足は相変わらずうまく動かなくて、最近ではベッドから降りるだけで精一杯になってしまった。とても逃げられれ状態ではない。

それでも、私が逃げることを諦めないのは、矢張り彼女が恐ろしいからだった。シマキ様から与えられる体への痛みは、いつだって私に生命の危機を覚えさせる。


その日は、シマキ様が王妃教育のために王宮へ赴く日だった。私は部屋にひとつしかない窓から彼女が馬車に乗るのを見て、ベッドに蹲った。こういう時にこそ逃げればいいのに、この日は二年前に初めて背中を切りつけられたことを思い出して、どうしても体が動かないのだ。それから少し経った頃、コンコンと部屋の扉が叩かれて、私は顔を上げた。扉を開けて現れたのは、シマキ様がいない日いつも食事を持ってきてくれるメイドのラールックさんだった。

だけど、その日はいつもと違って、食事を私のベッドまで持って来てくれた。いつもなら、私に一歩でも近づきたくないとばかりに扉のすぐ近くに食事を置いて出て行ってしまうのに。


「朝食をお持ちしました」

「あ、ありがとうございます」


何年もここにいるけど、こうして会話したことは初めてだった。

どうしてか胸騒ぎがした。

怒鳴られたわけでも、叩かれたわけでもないのに、不気味で怖くて仕方なかった。


「ここに置いておきますね」

「‥‥‥は、はい」


ラールックさんは、ベッドサイドの机に食事を置くと踵を返した。

詰めていた息を吐く。よかった、気のせいだった。そう思った時だった。

顔に衝撃が走る。

回し蹴りされた。そう理解した時には、ベッドに頭を強く打ち付けて痛みに体を縮こませることしかできなかった。

私が苦しんでいる間にラールックさんは馬乗りになると、枕で私の顔を抑え込んできた。

息ができない。苦しい、苦しい、誰か、助けて。必死に足を動かして逃れようとしても、上手く動かない足では抵抗することもできない。手だって、彼女の足に押さえ込まれている。

意識が飛びそうになった頃、漸く枕が退かされた。


「ごほっ、ごほっ、おえっ」

「騒ぐな! 穢らわしい!」


叩かれた頬に、少しだけ意識がはっきりした。


「全く、お嬢様はどうしてこんな奴を‥‥‥きっと、貴様が唆したのだろう。純粋なお嬢様に取り入って何を企んでいる!」

「わ、私、そんなっ、」

「黙れっ! お前に釈明の余地など無い。私が私が助けなければ、優しいお嬢様はきっと此奴に脅されてるのだ。唆されているのだ。でなければ、こんなこんな溝鼠みたいな奴を部屋で飼うわけないんだ。お嬢様が此奴に好意を持っているわけでは無い。そんなことは決して無い。許されない。脅されてるんだ、脅されてるんだ。私が助けなければ、私が助ける。私しか助けられない」


ぶつぶつとひとりで話し出したラールックさんに、私は理解した。この人、おかしくなってしまったんだ。シマキ様に魅了されて、狂ってしまったんだ。

そして、その瞬間、私は絶望した。

こういう人間に話は通じないからだ。


「だから、私が助ける。私がお嬢様を解放して差し上げるんだ」


懐から取り出したナイフに、血の気が引く。


「はぁっ、はぁっ‥‥‥」


ラールックさんの姿が朧げになって、あの男が重なる。私を殺した、あの男。


『麻葵』


男が刃物を振り上げる。


『僕は君を愛していたんだよ』


あの男の言っていることは、最期まで何一つわからなかった。


「やめっ、やめて、やめてぇぇぇ!!!!」


渾身の力で、私は起き上がった。そのまま男に頭突きをする。その後のことはよく覚えていないけど、気がついた時、私は何かを刺していた。

何かから、赤い液体が噴き上がる。

汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。


何かが動かなくなるまで、私はずっと刺し続けた。


カシャンと首輪に繋がれた鎖の音で、私の意識は引き戻された。目の前には真っ赤に染まった物体が横たわっていた。


「お゛ぇぇぇぇっ」


理解する前に体が反応して、口から胃液がぼたりとこぼれ落ちた。それがラールックさんだと、そう気がついたのはその瞬間だった。

手に持っていたナイフを捨てて、体を出来るだけ小さく縮こませた。


どうしよう、どうしよう、どうしよう。


目の前のラールックさんは、何十ヶ所もの刺し傷がつけられていた。誰が見たってわかる。彼女は死んでいる。私が殺した。

誰かから聞いたことがある。ラールックさんは伯爵令嬢だって。もし、もしも、私が殺したことがバレたら、最悪死刑にされてしまうかもしれない。そう思うと怖くて、目の前の現実を見ることができなかった。

私は体を更に縮こませると、目を瞑った。

目の前の現実が、全部夢であるようにと願いながら。





◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉






あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

外はすっかり暗くなっていた。ガチャリとノックもなく開けられた扉と、近づいてくる静かな足音に、私は恐ろしく思いながらも顔を上げた。

そこには予想通りの人物が立っていて、他の人ではなかったことに何故だか安堵してしまった。


「‥‥‥シマキ様、」

「ただいま、ダリア」


目の前の死体が見えていないのだろうか。シマキ様は、いつもと変わらない表情で私を抱きしめた。その体がやけに熱っていることだけが、いつもと違うところだった。


「嗚呼、ごめんなさい、ごめんなさい。いつも通りにしようとしたけど、無理があったわね」


暗がりの中で、シマキ様の瞳は爛々と輝いていた。この惨状を見た人間とは思えないくらい、爛々とぎらぎらと獲物を前にした捕食者のように‥‥‥。


「あっ、えっ?」

「ごめんなさい、怖がらせてしまって。貴方が、あまりにも、その‥‥‥可愛らしくて」


まるで体から出る熱を私に分け与えるみたいに、シマキ様は私の右頬を撫でた。


「殺されそうになって、我慢できなかったの? あんなに後悔して、パニックになって、屋敷から逃げ出したくせに。貴方はまた同じ選択をしてくれるのね。本当に貴方って、自分勝手で‥‥‥最高だわ」


顔を両手で掴まれて、無理矢理口を塞がれた。キスされている、そう思った時には口の中を余すことなく相手の舌で舐められていた。


「いやっ!」

「これでも我慢してきたのよ。貴方が、私の言うことを従順に聞いてくれるまではと、そう思っていたの。でも、もうダメ。可愛いんだもの。我慢できない」


シマキ様は私を押し倒すと、首輪の上からベロリと首を舐め始めた。全身に走る嫌悪感に、そういうことに疎い己でも何をされるか理解してしまった。

足をバタつかせて、必死に抵抗する。それに気づいたシマキ様が鎖を引っ張って、私の首は容赦なく閉められた。それでも、私は必死に抵抗した。手足を動かすことをやめなかった。

その時、足に何かが当たってぼとりとベッドから落ちる。

血だらけのラールックさんが、私を咎めるように見ていた。


「ラールックったら、あんなになるまで刺されて、一体どんな気持ちだったのかしら?」

「い゛やぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


私は手で顔を覆った。なにも、もう何も見たくなかった。


「どうしたの? さっきまであんなに元気だったのに」

「いやだ! いやだ! ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!!!! 許して、許して、許せぇぇぇっ!」

「何を謝っているの? 謝ることなんてなにもしていないのに」


その夜、私は全てを奪われた。

抵抗しても、謝っても、シマキ様がやめてくれることはなかった。夥しい血の匂いがする部屋の中で、私は何もかもがどうでもよくなった。

もう何もかもが、何もかもが嫌だった。







◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉







「さぁ、ダリア。お風呂の時間よ」

「‥‥‥」


シマキ様に横抱きにされて、風呂場に連れていかれる。服を脱がされ体を洗われた。


「気持ちいい?」

「‥‥‥」

「もう何年も貴方自身の声を聞いていない気がするわ」

「‥‥‥」

「‥‥‥熱かったら言ってね」


お湯をかけられて、湯船に沈められる。シマキ様は、私を後ろから抱きしめながら、本当に小さな声で呟いた。


「貴方がわたくしのことを、好きになってくれたらいいのに」


瞬間、ずっと忘れていた感情が戻る。憎悪とか愉快とか、呆れとか、兎に角複雑な感情が溢れては消えていく。


「‥‥‥うっ、ふっふっ、あははっ」

「‥‥‥どうかしたの?」

「私が好きになったら、シマキ様はきっと私のことを捨てますよ」


珍しく本当に困惑したような相手の顔を見て、ざまぁみろと思った。







◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉







シマキ様が十四歳になり、学園入学まで半年となっていた。予想通りシマキ様は学園にまで私を連れて行く気らしい。予想外だったのは、私も学園に入学させるということだった。

しかも、シマキ様の側にいることさえ約束すれば授業にも外にも出て良いと言われた。

混乱したまま時はすぎ、あれよあれよと言う間に出発の朝を迎えた。


「流石に学園にこれはしていけないわね」


そう言ってあっさりと外された首の拘束に、私は解放された気分になった。



学園に入学して、一月が経った。

私は約束通りシマキ様の側にずっといた。選択授業は彼女と同じものを取り、移動中だって常に隣を歩いた。上手く歩けない私は、シマキ様の用意した松葉杖で必死に隣をくっついていた。そうすると、羨望とか嫉妬とか憎悪の眼差しで周りに見られたけど、そんなことはどうでもよかった。

今大切なのは、兎に角彼女の隣に居続けることだった。そうすれば、この学園内ではそれなりの自由を与えられたからだ。


いつものようにシマキ様の隣を歩いていると、前方から見知った顔が現れた。


「シマキ、少しいいかな?」

「なんです?」


この一ヶ月で、すっかり顔見知りになったシマキ様の婚約者である王太子殿下。

コートラリ様は、学園の中で唯一シマキ様に気軽に話しかけられる人物だった。そんな彼も、私のことを邪魔に思っているひとりらしく、いつだって私を侮蔑の目でちらりと見つめる。


「授業が終わって、すぐにでも寮に帰りたいのはわかっているよ」

「なら、話しかけないでください」


歩き出そうとしたシマキ様に、王太子殿下はそっと耳打ちする。先程まで一切、興味を持たなかったシマキ様の足が止まった。そして、ちらりと彼の方を見て、面倒臭そうに顔を歪ませた。


「ダリア、申し訳ないけど、今日はひとりで帰れるかしら? 私は、この男と話さなければならないことがあるの」


予想だにしない一言に、私はこくりと頷いた。学園に入学してから、私を絶対にひとりにしなかったシマキ様が、真逆そんなことを言うとは思わなかった。

シマキ様は私を愛おしそうに撫でると、「気をつけて帰ってね」とだけ言って、王太子殿下と何処かへ行ってしまった。

松葉杖を使って、足を引き摺りながら渡り廊下を歩く。

久しぶりに歩くひとりの時間は、私にとっては冒険だった。足取り軽く歩いていた時、ひとりの女子生徒が前から歩いてくるのが見えた。ぶつからないように端に避けたはずなのに、その女子生徒は何故か私の方は寄って来て、


──私の手首を掴んだ。


「麻葵」


目の前が真っ暗になった。

女子生徒が口にした言葉は、私の前世の名前。それを知っているのは、私の前世を知っている者だけ。そして、彼女の目を見た瞬間、私はわかった。

いや、わかってしまった。


「はぁっ、はぁっ、はぁ」

「嗚呼、よかった。真逆、こんなところで会えるなんて。矢張り、僕たちは運命なんだね」


女子生徒の手を振り払って、私は走った。でも、こんな時でも私の足は上手く動かなくて‥‥‥結局、絡まって盛大に転んでしまっただけだった。


「どうして、そんな顔するんだい? 漸く会えたのに。麻葵だって、僕に会いたかっただろう?」


叫びたかった。こっちに来るなとそう叫びたいのに、恐怖から唇が震えるだけで何も言葉にできない。そんな自分が情けなくて、涙がこぼれ落ちる。


「あの時、僕は君を助けたんだよ。君が生きるのが辛そうだったから。僕は愛する君を救うために殺したんだ。なのに、なのに、どうして、そんな顔するんだ」


男の言っていることは相変わらず、これっぽっちもわからなかった。ただ、男を見ているとあの時の記憶が蘇って来て、怖くて怖くて、早く逃げないといけないのに動けなかった。


「助けた、ね」


その時、私の後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。振り返った先には予想通りの人がいて、でも、予想に反してその顔は何処か焦っていた。


「‥‥‥お初にお目にかかります。ルイカ・ホワイルンと申します」

「わたくしのダリアを泣かせるのは誰かと思えば‥‥‥立ち去りなさい。二度とこの子に近づかないで」

「御言葉ですが、彼女の交友関係は彼女が決めるべきかと」


二人の視線が私へ向く。

恐ろしい二人に睨まれて、私の口は益々開かなくなった。それでも、この場は私が何かを言わなければ永遠にこのままだった。


「ダリア」

「麻葵」


この場を去りたい一心で、私は声を出した。自分が思っていたよりも大きい声だった。


「い、いやっ‥‥‥やめて、許して。お願いだから。もう、関わらないで」


私はルイカと名乗った少女に向けて呟いた。彼女が惚けているうちに、シマキ様は私の手を引いて歩き出したのだった。


いつも、シマキ様が私の歩調に合わせていたのだと知ったのはこの時だった。歩くのが遅い私をシマキ様は半ば引き摺るようにして寮の部屋へと連れて行った。

通りすがる人たちが、何か驚いたような目を向けて道を開けていく。顔を見なくてもわかった。

シマキ様は今、とんでもなく苛立っている。どうしてだか、私にはわからない。

軈て部屋の前へ着くと、私は押し込められるように入れられた。その反動で尻餅をついてしまったが、彼女にとってそれはどうでもいいことのようだった。

シマキ様は必死に怒りを抑えるみたいに、髪をかきあげた。


「ダリアを殺したからって、偉そうに。本当に苛々させてくれるわ。結局、貴方はいつだってこの子を手に入れられてないじゃない」


あからさまに苛々した態度に、この怒りがいつ此方に向くのか不安になって体を縮こませる。だけど、私の予感は的中してしまった。

ばちんと、右頬が叩かれた。

私の体は吹き飛ばされて、口の中に血の味が広がる。


「貴方も貴方よ。私以外の人間に心を乱されないで」

「‥‥‥」


そっと顔を上げれば、シマキ様はいつもの天使のような顔に戻っていた。そして、先程のことがなかったかのように私の頬を愛おしそうに触れる。


「嗚呼、ダリア、ダリア。可哀想に、あんな男に殺されて、さぞかし無念だったでしょうね。でも、大丈夫よ」


そう言って、彼女は懐からナイフを取り出した。何をされるのかわかって、体は恐怖で膠着した。


「貴方はあの男に滅法弱い。だけど、わたくしが恐怖を上書きすれば、それも改善されるでしょう。大丈夫、わたくしこういうことは得意なのよ」

「あっ、あっ」

「ほら、声が出た。知ってる? 貴方は恐怖を感じると声が出せるのよ。わたくしのおかげね」


何の躊躇もなく肩にナイフが突き刺された。










この日から、地獄のような時間が始まった。

外へ出ればルイカは周りの視線もシマキ様の視線も気にすることなく私に話しかけ、そんな私を見てシマキ様は私室で私に容赦なく暴行を加えた。

これ以上絶望することなんてないと思っていた私の心は、簡単に更に深くまで堕ちていった。


それは静かな夜だった。

ベッドに横たわって、窓から眺めていた月が雲に覆われた時、ふと思った。


私、どうして生きているんだっけ?


そう思った時、私は何かに突き動かされるようにしてベッドを降りた。松葉杖を掴んで迷いなく歩いた。軈てシマキ様の勉強机まで来ると、上から二番目の引き出しを開けた。そこには、私を待っていたかのようにペーパーナイフが横たわっていた。

私は、それを手に取ると袖をまくる。夥しい量の傷跡をなぞるようにペーパーナイフを当てた。横にすっと引けば、驚くほど簡単に肌は切れた。


嗚呼、やっと解放される。この忌々しい世界から、やっと、やっと解放される。


そこで、私の意識は途切れた。












「嗚呼、あまり心配かけさせないで」

「‥‥‥」

「王妃教育で王宮に行っていたはずなのにどうしているのかって思っているのかしら? 胸騒ぎがしたから急遽帰ってきたのよ。

正解だったわ」


シマキ様は、私の手首をぎゅっと強く握った。閉じ切れていなかったらしい傷口から、血が滲み出て包帯を赤く染める。


「例え貴方でも、貴方自身を傷つけることは許さない。もう二度とこんなことしないでね」

「‥‥‥して」

「えっ?」

「もう‥‥‥解放して」


その時、一瞬だけほんの一瞬だけ、シマキ様は憐れむような顔をした。彼女のそんな顔は珍しかった。








◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉








あの日を境に、私は箍が外れたように自殺行為を繰り返した。シマキ様がいてもいなくても、兎に角隙があれば死のうとした。授業中に舌を噛み切ろうとしたこともあった。

それでも、彼女は毎回私を助けた。

何処かへ出掛けていても、私が自傷行為をすればいつだって駆けつけて助けるのだ。見張られているようで気持ち悪かった。


こんな状態では、とても学園に通うことは出来ず、最近はベッドで過ごすことが多くなってきていた。自殺防止のため、シマキ様は私の体をロープでぐるぐる巻きに縛り付け、口には轡が付けられている。寝返りも満足に出来ないような状態にさせられて、私は死の選択すらできなくなった。

全てを奪われた心地になって、ここ最近はもう死にたいとすら思わなくなっていた。時間が過ぎるのをただ待つだけの人形になった気分だった。


──トントンッ


誰かの足音が聞こえた。

いつもと違う足音だと気がついていたけど、別にどうでもよかった。興味を無くして目をそっと閉じると、無遠慮に部屋の扉が開けられた。

それでも、目を開けることはしなかった。


「おいっ!」


男の声が聞こえて、肩を揺すられて、私は漸く目を開けた。その顔を見て、私の体は途端に膠着した。顔がシマキ様と瓜二つだったからだ。

だけど、明確に違うのは性別と身なりだった。明らかに女性とは違う骨格と長い髪をお団子にまとめた動きやすそうな格好。

シマキ様は性別すら変えられるのだろうか、一瞬そんな馬鹿げた考えが浮かんで、すぐに否定する。この人からは、シマキ様のような得体の知れない雰囲気が全くなかった。


「時間がない」


そう言って男は腰から剣を抜いた。目の前に剣が迫っても、どうしてだか怖いと思わなかった。男は、私の拘束を切るとそのまま横抱きにした。そして、入ってきた時と同じように扉から部屋を出た。どんな道を通っているのか、男に抱き上げられている間、全く人と会わなかった。そのうちに、男が乗ってきたであろう馬に乗せられて、私と男は呆気なく学園から抜け出したのだった。


男は私が落ちないように、抱き抱えるみたいにしながら夥しい速さで馬を走らせていた。


「‥‥‥何も聞かないのか?」

「‥‥‥」

「話せなくなったのか?」

「‥‥‥」

「‥‥‥俺はペールン公爵家の護衛騎士だ。お前のことは屋敷に来た時から、一方的に知っている。風の噂で、お前が酷いことになっていると聞いてな。それで、連れ出そうと思ったんだ」

「‥‥‥」

「自分でも、どうしてこんなことをしているのかは知らん」


男の葛藤するような決意したような顔を見て、とてつもなく憐れに思った。この男は絶対に勝てない賭けに自分自身を賭けようとしている。


「‥‥‥、りですよ」

「!? なんだっ?」


男が馬を止めて、私の口元に耳を近づけた。


「無理、ですよ。私を連れ出すことなんて出来ない。シマキ様は、私が何処にいようと絶対に現れる。だから、私はきっとまた連れ戻される」

「!? な、なら、どうすれば? どうすれば、お前をあの部屋から連れ出せる?」


空虚だった私の心に欲が生まれた。


──この男を勝たせたい。


自分自身を賭けて、シマキ様に挑むこの男を。


「死ねばいい」

「はっ?」

「シマキ様は何処に居ても現れる。でも、あの世までは追いかけては来れない」


私は指を差す。

人目につかないように選んであろう逃走経路は、獣道のようなところで、私にとっては幸いなことに少し行けば崖があった。


「あそこまで連れて行って。そうすれば、あとは自分でやるから」


男は何も言わずに馬を歩かせた。そして、崖の側のひらけた場所までくると馬から降りて、私を抱き上げる。何歩かあるいて、そっと地面に下ろしてくれた。私は男の手を握りながら、一歩また一歩と足を引き摺る。

いよいよ、あと一歩で崖から落ちるところまで来ると、男の手を離した‥‥‥離そうとした。


驚いて男を見上げる。


男は先程までと変わらず、険しい顔をして私の手を強く握った。


「待て! 一緒に逝く」


何言ってるんだこの人。


「、本気ですか? 今日出会ったばかりの人と‥‥‥おかしい」

「俺もおかしいことはわかっている。だが、」


男が私の手を更に強く握った。


「お前をひとりで逝かせるなんてこと、出来ないんだ」

「‥‥‥どうして?」

「わからない。わからないが、そう思うのだ」


背中を押されるような強い風が吹いた。

今日初めて会ったというのに、この男と一緒なら、今度こそ解放されるという奇妙な確信が何故だかあった。


「なんだ、怖いのか?」

「‥‥‥」


男は笑った。穏やかに、慈愛深く。


「大丈夫だ。俺も一緒に逝く」


男に手を引かれるようにして、私は最後の一歩を踏み出した。










────────────────────────







──男を勝たせたいと思った。


ダリアの心の声が聞こえて、わたくしが駆けつけた時には、もう遅かったわ。


全て終わっていたの。

全てよ。

二人は寄り添うように崖の下にいて、まるで二人で一輪の花を咲かせるように死んでいたわ。


間違えた、また間違えた。


シャール、貴方はどうしていつも選択を間違えないのかしら。今回は会わせることすらしなかったのに。

わたくしでは、全く歯が立たない。


この感情は何かしら? 

貴方が憎い、妬ましい。

わたくしでは決して得ることが出来なかったあの子の心を一瞬で奪い取る、貴方が羨ましくてしょうがない。


嗚呼、ダリア。

貴方の思い通りね。

今度こそ、わたくしは負けを認めるしか無さそうだわ。


だけどね、わたくしは諦めが悪い女なの。

勝てない賭けなら、勝負相手を消してしまえばいい。

そうすれば、わたくしは勝てる相手だけと勝負できるでしょう?





最後までご覧頂きありがとうございました。

ずっと書きたいと思っていたお話が書けて満足です。

完結してから一年以上経っているのですが、未だに見に来てくださる方がいて本当に嬉しいです。

これからも、なにか別の作品を書いた際はよろしくお願いいたします!

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