エイプリールフール特別小説「一ループ目の世界」
エイプリールフールということで、書いてみました。
孤児院が火事になるまでの過程は、本編と同じです。こちらの話、本編を読まないとわからないと思うのでご了承ください。
また、大したことありませんが、流血、嘔吐表現があります。
──この出会いは、不幸の上に成り立っている。
目の前で、孤児院が燃えている。
私が生まれてから十年間過ごしてきた大切な家だ。それが、炎によって一瞬で奪われていく。警備隊が必死に火消し作業をしている。そんな光景を見ても、私は何も出来ず、ただ呆然と燃え落ちる孤児院を見ていることしか出来なかった。
涙が止まらない。焼けた頬が痛い。
どうして、どうして、こんなことになったの?
私の頭はそんな疑問でいっぱいだった。
夜明けになって漸く火が消えた。私は何時間も地べたに座り込んで泣いていた。状況が未だに理解できない。
すると、警備隊のひとりが声をかけてきた。
「お前、この院の子供だな?」
「‥‥‥ひっく」
「おいっ! どうなんだ!」
私はあまりの威圧感にこくりと頷いた。怖かった。こんなふうに怒鳴られたこと現世では一度もなかったから。
「どうして、こんな火事になったんだ!」
「‥‥‥うっ、ううっ」
涙が止まらない。
わからないって言いたいのに、喉になんか詰まったみたいに言葉が出てこない。
「お前が自分で付けたんじゃないのか!」
えっ、私が。違う、火なんて付けてない。
でも、私が皆んなを見殺しにしたのは事実だった。それは、私が悪いってことになるのだろうか。
何も答えられなかった、何も。
違うと言いたい。でも、罪悪感がそれを押しとどめた。
そんな私を警備隊は軽蔑するような顔をして、腕を掴んで無理矢理立ち上がらせた。
「矢張りお前か。ひとりで生き残ったと言う時点で怪しいと思ったんだ」
このまま捕まったら、死刑になるのだろうか。そう思った途端、反射的に足が抵抗した。自分でも驚くくらいの力が湧き出て、警備隊の引っ張る力に対抗してその場に止まることができた。
「いやっ‥‥‥いやだっ!」
「抵抗をするな! 罪人め!」
私たちの尋常ではない様子に、周りの野次馬たちがこそこそと話している。
「犯人、あの子らしいわよ」
「やっぱりな、怪しいと思ったんだ」
「とっとと捕まればいいのにな」
やめて、そんな軽蔑した目で私を見ないで!
違う、私じゃない! 私じゃないの。
嫌だ、
──死にたくない!
「騒がしいからどうしたのかと思ったら、なんだ、火事だったのね」
心底どうでもいいというような、無感情な声が響く。私は、俯いていた顔を上げて、声がした方へ振り向く。
そこには、真っ黒い髪を靡かせた私と同じ歳位の女の子が大人の女性を伴わせて堂々と立っていた。人形のように美しい女の子の顔は、無表情なせいで威圧感的だった。
怖い。
そう思って、目を逸らそうとした時女の子と目が合って微笑まれた。ほんの少し口角を上げるだけのそれは、貼り付けたような笑みで余計に怖かった。
瞬間、私の頭の中で警報が鳴り響く。この人のこと、私は知ってる。
頭がかち割れるように痛い。それは、前世の記憶を思い出した時と同じ痛みだった。
そして、思い出す。そうだ、この女の子、前世でプレイしていた乙女ゲーム『花嫁候補は突然に』の悪役令嬢、シマキ・ペールンだ。
暴虐の限りを尽くす、あの恐ろしい御令嬢。
「まぁ‥‥‥ふふっ」
シマキ様は一瞬だけ目を見開くと、何故だか機嫌よさそうに笑って私の元へ寄ってきた。
「ねぇ、貴方名前は?」
「ダ、ダリアです」
「そう、ダリア。わたくしを見て何か思うことはない?」
シマキ様は、私の目をじっと見つめてそう言った。私には、その質問の意図がよくわからなかったが、ゲームのキャラクターなんですか? とは口が裂けても言えなかった。
「‥‥‥特に何も」
「貴様! お嬢様に向かって特に何もないだと? 美しいとも思えないのか? 貧相な餓鬼が」
「、ひっ!」
私が体をこわばらせるのと反対に、シマキ様はくすくすと愉快そうに笑った。
「合格だわ。貴方、今日からわたくしの専属メイドになりなさい」
「えっ!?」
突然飛躍した話に驚いたが、シマキ様に伴っていた女性の方が何倍も驚いていた。しかし、女性はすぐに無表情に戻ると恭しく礼をして馬車を準備してくるとその場を離れた。
そして、シマキ様は私の手を引っ張った。そこで漸く、呆けて何も言わなかった警備隊の男が正気に戻った。
「部外者め! 此奴は罪人だ。連れて行くことは許さない!」
「‥‥‥ねぇ、耳障りだから黙ってちょうだい」
シマキ様がまた口角を上げて微笑した時、警備隊の男は突然膝をついた。先程までの横暴な態度はなく、頭を地面に擦り付ける勢いで下げていた。
「申し訳ございません。貴方様に口答えなど、私は愚かでした」
「なら、手を離しなさい。この子はわたくしが連れて行く」
「はい、どうぞ、貴方様の思うがままに」
あっさりと離された手には、くっきりと掴まれた跡が残っていた。去って行った警備隊の男をシマキ様は興味がなさそうに見送ると、また私と目を合わせた。
「名乗ってなかったわね。わたくしは、シマキ・ペールン。今日から貴方の主よ」
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
こうして働くことになったペールン公爵邸で、私は予想通り歓迎されなかった。
当たり前だ。
突然連れてきた孤児を貴族が歓迎するわけがない。皆んな、シマキ様の手前反対こそしなかったものの、納得している人は誰もいなかった。それに貴族を生家に持つメイドが多いことも相まって、私の扱いは初日から酷かった。
特に教育係のラールックさんは厳しく、怒鳴るのは当たり前。時には叩かれたりもした。
いつの日かお嬢様のことをシマキ様と名前で呼んだ時なんかは、すごく怖かった。突然、頬を叩かれて「お嬢様と呼べ。無礼者」と怒鳴られたのだ。その日から、私はラールックさんに余計嫌われたらしく頻繁に叩かれるようになってしまった。
前世でも現世でも、人に暴力を振るわれたことのない私には耐え難いことだった。でも、逃げ出すことはできなかった。だって、ここから出たところで私には行く当てがないのだから。
辛くて、怖くて、どうしようもなくなった時は、訓練場になっている庭の隅で時々泣いていた。
「ひっく‥‥‥ひく」
ラールックさんが剣術の稽古を初めてしてくれた時、刃物を持てないと知ると軽蔑した目で私を見てきた。それが本当に辛くて、怖くて‥‥‥でも、そんな状況になってもやっぱり私は刃物を持つことができなかったのだ。
それに絶望した。
心の何処かで、どうしても持たなくてはいけない時にはきっと持てるようになると漠然と思っていたから。
涙が止まらない。
早く泣き止んで、お嬢様の部屋に帰って仕事をしないといけないのに。涙がずっと止まらない。泣き止まないと、と思えば思うほどどんどん溢れて止まらなかった。
「全然帰ってこないと思ったら、こんなところにいたのね‥‥‥泣いてるの?」
突然、第三者の声が聞こえて顔を上げると、そこには無表情で小首を傾げるお嬢様が立っていた。私はそれを見て、慌てて立ち上がる。
「も、申し訳ございません」
「別に怒ってないわ。ただ、どこへ行ったのかと思って探していただけよ」
そう言ったお嬢様は本当に興味がなさそうだった。お嬢様は、いつもそうだ。自分で連れてきたというのに、私が何をしても何をされていても本当に無関心だった。
その光のない目がどうしようもなく怖かった。
そんなふうに思った時、突然お嬢様が私の顔を掴んで覗き込んできた。
「貴方のその目、綺麗だわ」
「‥‥‥そう、でしょうか?」
「えぇ、とても綺麗よ。貴方の素直な感情がよく表れているわ」
お嬢様は笑った。とてもとても、楽しそうに。出会った時と同じように‥‥‥それは美しいのに、何処か歪で怖かった。
じっと見つめられていることに耐えきれなくて、目を逸らせば、お嬢様はあっさりと私の顔から手を離す。そして、また元の無表情に戻った。
「ねぇ、たまに遅い日があったわよね。そういうときは、いつもここで泣いているのかしら?」
怒られるのかもしれないと思って、何か誤魔化そうと口を開くが何も思い浮かばず、私は結局「はい」と頷いてしまった。しかし、お嬢様は予想に反して怒ることもせず、顎に手を当てて少し考えていた。
「この後、時間あるわよね」
「は、はい。この後は、お嬢様の寝具の用意をして今日の業務は終了ですから」
「そう。なら、少し付き合いなさい」
そう言って、お嬢様は私の返事を待つことなく手を引いた。まるで、初めて出会った時みたいだと何となく思った。
お嬢様は自室へ私を連れて行くと、紅茶を出してくれた。椅子に座って堂々と紅茶を飲み始めたお嬢様に、私は戸惑った。出された紅茶を呆然と見て、突っ立っていることしかできなかった。
「座っていいわよ」
「い、いえ、私のようなものがお嬢様と一緒の席に着くことは許されていませんから」
そう言うと、お嬢様はまた微笑んだ。思わずといったように笑う彼女は、無表情の時と比べ物にならないくらい綺麗だった。
「ふふっ‥‥‥貴方って面白いわね」
「えっ?」
「兎に角、座ったら? これじゃあ、落ち着いて話も出来ないわ」
「で、でも‥‥‥」
「その紅茶、貴方が飲まないなら捨てるだけよ」
それは、勿体ない。
私の精神は何処までも貧乏で、捨てると言われれば反射的に勿体ないと思ってしまう。
「では、失礼します」
観念して席に着き、紅茶を一口飲む。口の中に広がる上品な茶葉の香りは、紅茶に詳しくない私でも高価なものだとわかる。
「‥‥‥おいしい」
「貴方って、何でも美味しそうに食べるわよね」
「そう、でしょうか?」
「えぇ、わたくしは特別美味しいとか不味いとか思ったことがないから、どうしてそんなに美味しそうに食べられるのか不思議に思っていたのよ」
お嬢様の無感情な言葉を聞いて、私は目を見開く。
「美味しいとか、思ったことないんですか?」
「ないわ」
「‥‥‥そうですか」
「わたくしにとって食事は、生命維持のための行為だわ。ただそれだけ。だから、美味しいとか不味いとか別にどうでも良いのよ。体に入って、わたくしの血肉となればそれでいい。貴方は違うの?」
「わ、私は食べられること自体を幸せに思っていますから、食べられるものは全部美味しいです」
「そう」
自分から聞いてきた話題なのに、お嬢様はあまり興味がなさそうだった。この椅子に座る前までの方が余程楽しそうだったと思う。
「ラールックとは、上手くやってる?」
「は、はい」
嘘だ。
全く上手くいっていない。寧ろこれ以上ないほど酷い。だけど、ここで本当のことは言えなかった。だって、言ってしまったことがバレたら、もっと酷いことをされるから。
そんな私をお嬢様は、何もかもを見透かしたような光のない目で見る。
「嘘ね」
「本当です!」
「上手くいくわけないもの。あの子‥‥‥ラールックは、わたくしを崇拝しているわ。そんな彼女が、貴方のこと疎ましく思わないわけがないもの。
まぁ、あの子以外に任せても、結果は今とたいして変わらないでしょうけどね」
「それ、を‥‥‥わかってて私を連れてきたんですか?」
「? そうよ。わたくしが欲しかったんだもの」
お嬢様は、全く何を言っているのかわからないという顔をした。それでも、私はお嬢様を憎むことはできなかった。だって、あの時でここへ連れてきてもらえなかったら、私は確実に路頭に迷っていた。
今の生活は苦しい。でも、生きていられる。
それで十分だ。
「‥‥‥お嬢様には、感謝しています」
「うっふふふっ、あははは」
突然笑い出したお嬢様に、私は驚いて顔を上げた。すると、彼女は耐えられないといった様子で顔を俯かせて笑っていた。
「あ、あの‥‥‥」
「ねぇ、貴方、全然感謝してるって顔してないわよ」
「えっ、」
どんな顔、しているのだろうか。
そう思った時、お嬢様は身を乗り出して私の火傷跡がある右頬を触ってきた。その際、机から落ちたティーカップが床に紅茶の染みを広げていた。
「あっ、紅茶が‥‥‥痛っ」
「不思議ね。どうして、わたくしに傾かないのかしら」
右頬の火傷跡をお嬢様に引っかかれる。プツリと切れて血が流れ出たのがわかった。
お嬢様は笑う。これ以上ないほど愉快そうに。
「ダリア、これからは泣きたくなったら、あんな暗い所にいないで、わたくしの元へ来なさい」
「あっ‥‥‥えっ?」
「わたくしが拾ってきたんだもの。それくらいの面倒は見なくてはね」
こうして、私たちの奇妙なお茶会が始まった。
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
お嬢様とお茶を飲むようになって、一月ほど経過していた。予想に反してお嬢様は、親身になって話を聞いてくれた。そして、彼女は私が話す内容を心の中だけで止めてくれた。だから、私も素直になって話すことができるようになったのだ。
助言をくれるわけでもない。助けてくれるわけでもない。ただ話を聞いてくれるだけだ。
それでも、私はひとりで泣いている時よりも精神的に余程楽になっていた。この頃になると、お嬢様のことをただ怖いだけの存在には思えなくなっていたのだった。
「今日は、貴方に話があるのよ」
「はい、なんでしょうか?」
普段、殆ど自分から話さないお嬢様からの発言に、珍しいなと思った。
「貴方の剣術、全く上達していないのでしょう。刃物だって未だに持てないって聞いているわ」
「‥‥‥はい」
あれから何度練習しても、やっぱり刃物は持てなかった。持った瞬間、体が震えて落としてしまう。そうすると、ラールックさんは「武器を粗末に扱うな」と怒って私を叩いてきた。
訓練から一ヶ月以上経つが、私に増えたのは体の傷だけだった。
「剣術に関しての教育係を変えようと思うわ」
「えっ!?」
それは、私の全く予想していなかった言葉だった。
「ラールックには、わたくしから話を付けておくから、明日からはシャールという男に訓練してもらいなさい」
「どうして急に、変わるんですか?」
あまりにも急な話に、動揺が抑えきれない。
「あの男が自分から言ってきたのよ。いつまでも、あんな風ではとてもわたくしの護衛は任せられない。自分なら優秀な護衛に育てることが出来るってね」
「シャールさんが、ですか」
私はシャールさんという人を全く知らなかった。それなのに、その人はどうして態々私の訓練を引き受けたいなんて言うのだろう。
私の不安はどんどん大きくなる。
「あの男が、わたくしに頼み事なんて珍しいこともあるものだわ。面白いから了承してあげることにしたのよ」
「そう、だったんですか」
お嬢様の判断基準は、相変わらず面白いということのみだった。それに、私は余計に不安になる。
「何か不安っていう顔をしているわね」
「い、いえ‥‥‥」
「貴方の不安を聞く時間なのだから、正直に話せば良いんじゃない?」
お嬢様の何もかもを見透かすような目に、私は観念してポツリと呟く。
「シャールさんは、男性なんですよね?」
「えぇ、そうよ。この家でも一、二を争うくらいの優秀な護衛騎士よ」
「そんな方から、その‥‥‥叩かれたりしたら痛いだろうな、と」
ラールックさんに叩かれるのだって痛い。それが、男性のしかも、優秀で強い騎士になんて叩かれたら‥‥‥想像しただけで恐ろしかった。
でも、お嬢様は無表情で小首を傾げると「あら」と不思議そうな声を出す。
「シャールは、そんなことしないわよ。あの男は何よりも平等を愛しているから」
「平等を愛する?」
「身分や立場で差別するような男じゃないわ。面白い男よ。ダリアもきっと気に入る」
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
翌日、指定された場所に行ってみて、私は驚いた。だって、その顔がお嬢様に瓜二つだったからだ。呆然としている私に気がついたシャールさんが、眉間に皺を寄せて近寄って来る。
「お前がダリアだな」
「‥‥‥は、はい」
「何を呆けている! 時間は有限だ。とっとと始めるぞ」
「はい、よろしくお願いします」
私が挨拶すれば、シャールさんは満足そうに頷いた。すると、腰から木刀を取り出して私に手渡す。
「お前の事情は聞いている。これなら持てるか?」
「はい‥‥‥これなら、大丈夫そうです」
「そうか。では、俺の真似をして振ってみろ」
見よう見まねで振ってみると、シャールさんは途端に顔を険しくさせた。なにか、失礼なことをしてしまっただろうかと体を萎縮させる。すると、シャールさんが剣を収め手を上げた。
あっ、叩かれる。
私は咄嗟に腕で顔を守るように庇った。しかし、予想していた痛みはいつまでも訪れない。それどころか、予想に反してシャールさんは私の右腕を優しく掴んだ。
「‥‥‥お前、腕を怪我しているな」
「えっ、」
「振り方を見ればわかる。少し見せてみろ」
「あっ、いや、その‥‥‥」
私は少しばかり抵抗する。この服の下には、ラールックさんに叩かれて出来た痣がある。醜いものを今日会ったばかりの人に見せるのは、嫌だった。
「‥‥‥大丈夫だ。大体の事情は察している。手当てするだけだ」
此方を案ずるような優しい声に、私の抵抗は弱まる。その隙にシャールさんは、私の服の袖部分をたくし上げた。その下は、広範囲にわたって紫色に変色していた。
「‥‥‥酷いな」
「あっ、すみません。醜いものを見せてしまって‥‥‥」
「自分に非がないのに簡単に謝るな。少し待っていろ」
ベンチに座らされて待っていると、シャールさんが小走りで戻ってきた。その手には氷嚢が握られていた。
「俺は素人だからな。こんな事しか出来んが、これで冷やしていろ」
「えっ、でも、訓練は?」
「冷やした後でいい。今度から、叩かれたその日に冷やせ。剣術に支障が出る」
「‥‥‥はい」
この家に来て、初めて傷を心配してもらえた瞬間だった。腕は冷たいのに、目頭は異常に暑かった。涙が出そうになり俯く。
「‥‥‥よく、耐えたな」
頭に重みを感じる。その瞬間、私は撫でられたことがわかった。撫で慣れていないのか、シャールさんは押し付けるように不器用な撫で方をした。
力が強すぎて痛いのに、叩かれた時とは違って心が温かくなる。
涙が溢れ出る。
こんな風に優しくされたことは、ここに来てから一度もなかった。
照れるような咳払いが頭上から聞こえた後、頭の重みは無くなった。
「お前には酷だが、これからこういう事はもっと増えるだろう。だがな、それでも耐えるんだ。貴族に抵抗しようとなんて思うな」
「は、はい」
「そうだ、それでいい」
何処か悲しげな声だった。でも、顔を上げてもシャールさんの表情には悲しそうな色はなかった。ただ、私ではない何処か遠くを見ているような気がした。
「だが、安心しろ。お前がお嬢様を守れるほど強くなって完璧に仕事をこなせるようになれば、周りは何も言わなくなる」
彼は元気づけるように、心なしか明るい声で言った。
「ダリア、強くなれ。そうすれば、生きやすくなる」
シャールさんの射抜くような目と目が合う。まだ出会って数時間しか経っていないのに、私はどうしてだか思った。
この言葉を信じてみようと。
彼の言葉を信じて、誰よりも強くなってみせよう。絶望してばっかりいた私の心に、小さな希望が生まれた瞬間だった。
「シャールはどう?」
その夜、お嬢様に呼ばれた私はその言葉に昼間のことを思い出した。
「お嬢様の言った通りの方でした。温かい人です、とても‥‥‥」
「あの男は平等に人と接するわ」
そう言って、お嬢様は紅茶を口に含む。
「だけどね、そんな男ですらわたくしに魅了されている。きっと、わたくしが死ねと言ったら抵抗せずに死ぬのだわ‥‥‥どうしてかしら、どうして、皆んなわたくしを見ると魅了されるのかしら」
お嬢様は、自問自答するように呟いた。紅茶を飲みながら何処か遠くを見つめて、とても十歳の少女がする表情ではなかった。
出会った頃、私は乙女ゲームのシマキ・ペールンのイメージが強すぎて何を言われても恐怖しか感じなかった。でも、こうしてお茶を飲んで話を聞いてくれるようになり、お嬢様がただ怖いだけの存在じゃないことを知った。
お嬢様は『悪魔の寵妃』の魅了の力を気持ち悪がって、不安に思っている。そして、その不安の気持ちこそが、内にいる悪魔を育てる食糧となっている。
不安を取り除いてあげたい。
だって、王太子殿下ルートにヒロインが入ってしまったらお嬢様は死んでしまう。死んでほしくない。私の中で、そう思う程度の情は既に育っていた。
だけど、お嬢様の死について伝えるということは、私の前世の記憶について話さなければいけないことを意味していた。
「‥‥‥覚えのない好意ほど気持ち悪いものはないわ」
ポツリとそう呟いた言葉を聞いた時、私に馬乗りになっていた男が脳裏をよぎる。
ごちゃごちゃと考えていた頭は真っ白になり、気がついた時には口が動いていた。
「お嬢様、私には前世の記憶があるんです」
「‥‥‥貴方って、本当にわたくしを楽しませるのが得意よね」
お嬢様の顔は、馬鹿にしたようでも気味悪がるようでもなかった。ただ、本当に楽しそうに微笑んだ。だから、私も全てを話せた。
『悪魔の寵妃』のことも、ストーカー男に殺されたことも、乙女ゲームのことも、全て。私がまだ会ったこともないコートラリ王太子殿下のことや、学園のことを具体的に話したせいか、お嬢様は私の話を大体信じてくれた。
そして、聞き終わると目を細めて笑った。
「ずっと、ただの痣だと思うことにしていたけど、矢張り悪魔の寵妃だったのね。認めてしまえば、案外気が楽になるものね」
「お嬢様‥‥‥」
「ダリア、教えてくれてありがとう」
お嬢様の顔は悲しげに歪んでいた。
いつも無表情なお嬢様の初めて見せた悲しみだった。私は勝手に、誰からも愛されて何不自由なく生活されているお嬢様に悩み事なんてないと思ってた。
でも、違った。
彼女には彼女なりの悩みがある。
力になれればいい。
不安を抱えているお嬢様の力に、少しでもなれればいい。お嬢様が、泣いている私に手を差し伸べてくれた時のように‥‥‥。
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
ペールン公爵家で働き始めて、一年という月日が経っていた。
今日はお嬢様の十一回目の誕生日。公爵邸では、盛大なパーティーが開かれている。そして、私は現在お嬢様の護衛を任され、彼女の隣に張り付いている。
腰につけている剣は、鞘こそ本物だが中身は木刀だった。シャールさんが用意してくれたものだ。
一年経っても私は刃物を持つことができなかった。それを私を護衛にと指名してきたお嬢様にも伝えたけど、彼女は表情ひとつ変えずに「いいんじゃない、面白そうだし」という言葉を放っただけだった。そして、この任務は当初の予定通り私に決まった。
私はコートラリ王太子殿下と話しているお嬢様の隣で、緊張を隠せなかった。このパーティーで、襲撃があるなんてこと滅多にないと聞いていたけど、不安は拭えない。
と、その時、明らかにおかしい動きをした男がすぐ近くまで来ていた。
緊張でこの距離に来るまで気が付かなかった!
コートラリ王太子殿下は、すぐにお嬢様を守るように前へ出る。私も前へ出なければいけないのに、足がすくんで出られない。
だって、相手は刃物を持っている。
──いいか、どんな方法でもいい。兎に角、お嬢様を守れ。でなければお前は、この家で存在価値をなくす。
その時、シャールさんの言葉が思い浮かぶ。そうだ、ここで守れなければ私の存在価値も、私に剣術を教えてくれたシャールさんの価値も無くなってしまう。
足が動いた。
シャールさんたち護衛騎士は、遠くにいて間に合わない。私がどうにかしなくちゃ。
お嬢様を庇うように前へ出て、木刀を抜こうとした時、引っ掛かりを覚える。
抜けない!
私の焦りに関係なく男は直進してきた。男は私を待ってくれない。私は、お嬢様を庇うように前へ出た。そして、そのまま腹を刺された。
「あがっ‥‥‥!」
男は自分で刺した癖に、怖気付いて一瞬動きを止めた。その瞬間、男の背後から凛とした足音が聞こえて、男は血を噴き出して倒れた。どうやら、背中を切り付けられたようだ。
そして、倒れた男の背後から出てきたのはシャールさんだった。
「この男は牢屋に連れて行け!」
シャールさんの怒鳴るような声が、遠くで聞こえた。そして、彼は私の傷口を押さえて、抱き起こした。
「おいっ! しっかりしろ、ダリア! ダリア!」
シャールさん、私、お嬢様のこと守れましたか?
「誰か、医者を呼べ!」
私の記憶はここで途切れた。
目を覚ますと、目の前にはお嬢様がいた。
「あら、目を覚ましたみたいね。シャール、起きたみたいよ」
「お嬢様、付き添い感謝いたします。本日は、この様な不甲斐ない結果。私の指導不足です。申し訳ございません」
「この子を指名したのはわたくしよ。それに、どんな形であろうと守ってもらえたわ」
「‥‥‥ご厚意感謝いたします」
「それでは、わたくしはもう行くわ」
お嬢様が出て行くまで、シャールさんはずっと頭を下げたままだった。
「‥‥‥シャールさん、ごめんなさい。私、上手くできなくて」
私は起き上がって、シャールさんに謝罪する。
剣も出せないで刺されるなんて、護衛として恥ずかしい。
己の不甲斐なさに涙が出そうになっていると、シャールさんに抱きしめられた。
「‥‥‥どんな方法でもいいから守れと、そう言ったのは俺だが、お前が目の前で刺されて血を流している時、生きた心地がしなかった」
「‥‥‥シャール、さん」
「よかった、本当によかった。生きててくれて」
今まで、これほどまでに私を心配してくれた人がいただろうか。私は抱きしめ返す。
「シャールさん、わたっ‥‥‥私、シャールさんが、貴方を思い出したからっ、守れたんですっ」
シャールさんの腕の力がもっと強くなる。
「お前には‥‥‥生きてて欲しい」
もし、この先、この家で存在価値を失っても、この人がいれば生きていける気がした。
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
ペールン公爵家で働き始めて、二年という月日が経った。
あの誕生パーティーの日から、徐々に護衛としての任務が増えていき、あの頃よりは慣れてきたけど、それでもシャールさんに比べればまだまだだった。
そんなある日、お嬢様は予想もしないことを言ったのだ。
「隣国への護衛、今年は貴方を連れて行くことにしたわ」
「えっ?」
隣国への護衛は、毎年ペールン公爵家からは一人しか出されなかった。それに、今年は私を連れて行くと言い出したのだ。
因みに去年まではラールックさんの役目だった。
「あの、どうして私なんですか?」
「だって、移動が長いでしょう。貴方と話していたら、暇潰しになりそうだもの」
そんな下らない理由で選んでいいはずがない。
「私‥‥‥自信がありません」
「‥‥‥別に無理してやらせる気はないわ。でも、そうね、この任務成功させたらシャールは喜ぶと思うわよ」
シャールさん。こんな私の面倒をずっと見てきてくれた人。
確かに、大きな任務を成功させればシャールさんはきっとすごく喜んでくれる。しかも、隣国への護衛だ。
「‥‥‥わかりました。お受けします」
「シャールには、わたくしから話しておくわ」
さっきまでの不安な気持ちは無くなっていた。シャールさんの喜ぶ顔が見れるなら、断る理由なんてない。
そして、お嬢様から隣国への護衛の件を聞いたシャールさんは、案の定自分のことのように喜んでくれた。
隣国への護衛が決まってから、シャールさんの訓練は厳しくなっていた。それでも、それは私のためだと思えば辛いとも思わなかった。
今日も訓練を終え、すっかり暗くなってしまった空を見ながら早歩きでお嬢様の部屋まで向かう。
今日はこの後、お嬢様の寝具を整えるという仕事があるのだ。このまま急いで行けば、お嬢様の就寝前には間に合う。
その時、廊下の影から人が突然現れて、慌てて止まる。危うくぶつかってしまいそうになった。
「ダリア、付いてきなさい」
この声は顔を見なくてもわかる。ラールックさんだ。でも、今日の彼女は異常なほどに冷静で、逆に怖くなって、私の体は竦む。
もう行かないとお嬢様の就寝時間に間に合わないのに、断ることができなくて私は反射的に頷いていた。
連れてこられたのは、使用人専用の食堂だった。電気も付けず、矢鱈と暗いそこはいつも以上に不気味だ。キョロキョロとしていると、ラールックさんは手を上げて私の頬を引っ叩いた。いつも、叩くときは何かしらの前触れがある。例えば、仕事で何かうまく行かなかったときとか、彼女の機嫌が悪い時とか‥‥‥でも、今はそれがなかった。
何の前触れもないそれに驚いていると、次いで脇腹を思い切り蹴られた。私の体は崩れ落ちその場に倒れ込んだ。
そんな私の髪の毛をラールックさんは掴んで、無理矢理体を起こさせる。
体中が痛い。ごほっごほっと咳止まらない。
何でこんなことをされるのか理解もできないけど、ラールックさんが激怒していることだけは今更わかった。
「貴方、明日、隣国へ護衛に行くそうですね」
咳が止まらない。
頭も千切れそうなほど痛い。
「どうして貴方なんです?」
「えっ?」
「今までは、毎年私でした! どうして、どうして今年から貴方なのですか! 一体どんな手を使ったんです」
「わ、私、何にも、何にも、知りません!」
「嘘をつけ! この卑怯者が!」
あまりの怒鳴り声に体が震える。
「辞退しろ! お前のような弱者にこの任務は任せられない!」
「ひっ‥‥‥」
意図しない声が、口から漏れ出た。
激昂していたラールックさんが、また突然冷静に戻った。その態度の差が余計に恐ろしい。
「言葉も碌に話せない奴を隣国へ連れて行くわけにはいきません。私が教育しましょう」
そう言ってラールックさんは、置いてあった包丁を手に取った。きらりと光る刃先が、私の恐怖煽る。
「あっ‥‥‥やめっ、やめて」
「貴様、まだ刃物が駄目なのか。なら丁度いいな。ほら、正しい言葉を話せ。辞退すると言え!」
ラールックさんは、震える私の体を押さえつけて右肩を刺した。
「痛いっ! 痛いっ! いやだっ! ごめっ、ごめんなさい! やめて、やめて、何でもいうこと聞くっ‥‥‥だから、だからっ、許してっ!!!!」
「辞退すると言え!」
馬乗りになってきたラールックさんが徐々に歪んで、あの日のストーカー男が重なる。ラールックさんが‥‥‥いや、ストーカー男が、包丁を振り上げる。
──いやだ、殺されたくない!
その瞬間、私は渾身の力を振り絞って起き上がった。
その後のことはよく覚えていない。でも、気がついたら、ラールックさんが持っていたはずの包丁を私が持っていて‥‥‥ラールックさんは血だらけで床に倒れていた。
そして、私はラールックさんに馬乗りになっていたのだ。
「はぁっ‥‥‥はあっ‥‥‥ひっ、あっ、ごめん、なさいっ、ごめん、なさい」
崩れ落ちるようにラールックさんの上から退いて、刃物を投げ捨てて蹲る。
どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしよう、どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう‥‥‥
刺しちゃった、殺しちゃった。
火事の時、みんなを見殺しにしたことあんなに後悔したのに‥‥‥今度は殺した。
やっぱり、私はあの時死ぬべきだったんだ!
胃の中のものが、迫り上がって口の中に酸っぱさが広がる。
「お゛ぇぇぇぇぇ」
中のものが全て出ても、苦しさは止まらなかった。息が苦しい。
「はぁっ‥‥‥はぁっ、はぁっ、はぁっ」
すると、出入り口から足音が聞こえてきた。気配を感じさせない静かな足音だった。
「おい、ダリア、そこにいるのか。お嬢様が探して‥‥‥ッ! おい、何があった?」
「シャ、シャールさんっ‥‥‥わたっ、わたしっ、怖くてっ、怖くてっ‥‥‥はあっ、はぁっ、はあっ、包丁がっ、刺されそうでっ、それでっ、それで‥‥‥はぁっ、はぁっ」
「わかった、もうわかったから、話さなくていい」
「シャ、シャールさん、わたしっ、わたしっ、どうすれば‥‥‥はぁっ、どうしよう」
「‥‥‥兎に角、今は落ち着け。呼吸をどうにかしろ。俺に合わせてゆっくり深呼吸するんだ」
シャールさんが背中を摩ってくれて、徐々に落ち着きを取り戻す。でも、やってしまったことは変わらなかった。ラールックさんから流れ出た血は、どす黒く変色し始めていた。
「わたしっ‥‥‥わたしっ、なんて事を」
頭を抱えた私の手を、シャールさんが強い力で掴んで無理矢理立ち上がらせた。その強引な行動にいつも違う雰囲気を感じて混乱してしまう。シャールさんは冷静で何かを決意した目で私をじっと見つめていた。その瞳に情けない顔をした私が映る。
「‥‥‥ついて来い」
「ど、何処へ?」
「この家から出るんだ。今すぐに」
「えっ、でも、そんな‥‥‥」
出たところで、行く当てなんて何処にもない。
「大丈夫だ。俺も一緒に行く」
「そ、そんな、駄目っ‥‥‥ダメ、です」
シャールさんの事情は、随分前に聞いた。ペールン公爵との関係も、全部。この家でここまでの地位を築き上げるのに、血の滲むような努力をしてきたはずだ。それなのに、私のために無関係なシャールさんを巻き込みたくない。
私は必死になって首を振った。
「一緒に逃げるんだ! いいか、ラールックさんは伯爵令嬢だ。このことが露見したら、お前は最悪死刑だ!」
死刑という言葉に、私の心はまた揺らいだ。さっきまで、火事の日に死ねばよかったと思っていたのに、今度は死にたくないという自分勝手な感情が胸に広がって行く。
「長居は不味い。今すぐ、ここを出るぞ」
シャールさんに手を引かれて、私はその日のうちにペールン公爵家を出た。あれほどここから出ることは出来ないと思っていたのに、拍子抜けするほどあっさりと外に出られたことに、何故だかやるせない気持ちになった。
◎◉◎◉◎◉◎◉◎◉
あれから一月が経ち、私たちはペールン公爵家から遠く遠く離れた小さな町に身を寄せていた。
「ただいま」
立て付けが悪いために、ギシギシと鳴る扉が開いてシャールさんが帰ってきた。その手には小さな麻袋が握られている。
「おかえりなさい、シャールさん」
「嗚呼、変わりはなかったか」
「はい‥‥‥あっ、えっと、新鮮なお野菜が手に入ったので、スープを作りました」
「そうか、それは楽しみだな。ダリアは最近、料理の腕が上がっているからな」
シャールさんは柔らかく微笑むと、机の上に麻袋を置いた。その中には彼が今日一日で稼いできたお金が入っている。
彼は今、用心棒として働いていた。ペールン公爵家から着の身着のまま出てきた私たちにはお金がなかった。数日は飲まず食わずでどうにかなったが、それもあまり長くは続かなかった。そんな時にシャールさんが何処からか見つけてきたのが用心棒の仕事だった。彼は、その腕っ節の強さからそれなりに仕事が入り、小さな家を借りれるくらいには稼いできてくれるようになったのだ。
「‥‥‥シャールさん、いつもありがとうございます」
彼は何も言うことなく、私の頭を優しく撫でた。
「そうだ、今日の依頼人は気難しくてな。随分骨が折れた。腹が減ったからスープを用意してくれないか」
「あっ、すみません、私ったら、すぐに用意しますね」
「嗚呼、頼む」
私はすぐに温め直して、シャールさんにスープとパンを出した。少ない具で薄い味だったけど、二人で食べると美味しかった。
「‥‥‥美味い」
二人で食べるのは、とても幸せだ。
此処に来てからあのことは一度も話したことがない。でも、私は心の中では何度も思い出していた。こういう幸せを感じるときは、特に思い出す。
ここがペールン公爵家から離れているせいか、ラールックさんの話は全く届いてこない。だから、私はラールックさんがどうなったのかわからなかった。生きているのか、死んでいるのか‥‥‥そして、犯人を探しているのか。
なにもわからなかった。
もしかしたら、シャールさんなら何か知っているかもしれないけど、何も聞けなかった。だって、彼が気を遣ってしない話を私から聞くなんてことは出来ないから‥‥‥いいや、そんなのは言い訳だ。
本当は、自分勝手にも、今の幸せな生活を壊したくないだけなのかもしれない。
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その日、屋敷中が大騒ぎだったわ。なんせ、ラールックが使用人専用の食堂で遺体で見つかって、ダリアとシャールが姿を消したんですもの。
お父様は、屋敷の中で起こったことを内内で処理することを決めたわ。如何にもお父様らしい決断だと思う。
ダリアはラールックを殺し困ってシャールに泣きついて一緒に逃げたのだと、家中がそんな噂で大騒ぎだったわ。ラールックが不憫だと其処彼処で聞こえてきた。
わたくしはラールックについては何も思わなかったわ。嗚呼、死んだんだ。とそれだけしか思えなかった。
だけど、ダリアがいなくなったことを聞いたときは、どうしてだか心に大きな穴ができたように空虚な気分になった。
どうしてかしら?
確かに、あの子は他の人とは違う感情を向けてきて面白かったわ。でも、いなくなったからといってそれほど困る存在でもなかった。
では、この気持ちは何かしら?
わたくしには、わからなかった。
そして、それに気がついたのは、それからずっとずっと後のこと。学園に入学した後のことだったわ。
あの子が、ダリアが、わたくしの生きる糧だったと気がつくのは。
ずっと書きたかった話を書いてみました。
楽しんでいただけたら、幸いです。




