わたくしの特別
昨日の続きです。
いつまで経っても訪れない頬の痛みに、私はゆっくりと目を開ける。すると、私のすぐ隣に着替えを済ませたシマキ様が立っていた。ラールックさんは、驚愕に目を見開き、直ぐに一礼する。私は、驚きのあまり「シマキ様」と呟いてしまった。
この発言に、周りの空気が変わった。しんと静まり返った空間に、何かをしてしまったのでは無いかと怖くなる。特にラールックさんは私に対して嫌悪の表情すら浮かんでいた。
「お嬢様とお呼びしろ!」
「あっ、その、すみません」
「いいのよ。わたくしが許したの。そもそも、わたくしは貴方たちに名前で呼ぶなと一度も言ってないわよ。そんなことよりラールック、貴方ダリアのこと凄く嫌がっていたのに、随分と生き生きしているようね」
「お、お嬢様、これには訳が」
「人を殴ろうとしていたのだから、それ相応の訳があるのでしょう。聞いてあげるわ」
シマキ様の声は、私に向けられたことのない冷たい声だった。ラールックさんは、先程の声とは打って変わって小さな声でポツリと話す。
「‥‥‥ダリアが、布巾を間違えたのです。窓拭き用と台拭き用を」
「呆れた、真逆それだけでこの子を殴ろうとしたの」
「メイドとしては大切なことです」
「なら聞くけど、貴方は布巾の違いをしっかりダリアに教えたの?」
「‥‥‥教えずとも察することが仕事では必要です」
ラールックさんの発言を聞き、シマキ様がはぁっとため息を吐いた。その後で、私に向き直り「ダリア、顔を上げて」と優しい声で言う。私は、俯かせていた顔をそっと上げる。
「うちの布巾は、拭く場所によって色が違うのよ。いま貴方が持っているピンク色は台拭き用。ラールックが持っている白色は窓用。そして、水色は床用。最初は、難しいかもしれないけど徐々に覚えていけば良いから。わかったかしら?」
「‥‥‥わかりました」
蚊の鳴くような声で返事をしたにも関わらず、シマキ様は嬉しそうに笑うと頭を撫でてくれた。
「ラールック、ダリアは馬鹿じゃないわ。話せばきちんと理解する。確かに、察することは必要かもしれないけど、基本のことを教えてあげないと誰だって何も出来ないわ」
「‥‥‥申し訳ございません」
「ダリアに色々教えて欲しいと思って、貴方をつけたのよ。適当なことをしているのだったら、貴方は必要ないわ」
その言葉に、ラールックさんはカッと目を見開いたが特に何も言うことはなかった。
「以後気をつけるように」
それだけ言うとシマキ様は、来た道を戻って行った。先程まで笑っていたメイドたちも、今は何事もなかったように掃除に励んでいる。寧ろ此方に関わりたくないという態度にすら見えた。
私は、目の前でふるふると震えているラールックさんを上目遣いで見て、あまりの怖さに目を逸らした。暫く止まったままだったラールックさんは、一息つくと持っていた布巾を私の足元へ投げつけ何処かへ行ってしまった。
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「今日は大丈夫だった?」
部屋に戻るとシマキ様は心配そうな顔で迎えてくれた。大丈夫だったかどうかと言われれば、どちらかと言えば大丈夫ではなかった。
朝の掃除を終えた後、給仕も教えてもらったがシマキ様の前で紅茶をこぼしてしまったりと失敗ばかりだ。その度にシマキ様は笑って許してくれたが、ラールックさんの睨みつける顔とシマキ様への申し訳なさで押しつぶされそうだった。
私はこの先、やっていけるのだろうかと更に不安は募るばかりだ。何も答えない私に何かを察したのか、シマキ様は自身の座っているベッドの隣をポンポンと叩いた。
おずおずと其処へ座れば、両手をシマキ様のそれが包み込む。
「誰だって最初は失敗するものよ。でも、そこから皆んな学んでいくの。貴方だってそうよ。最初から優秀な人はいないのだから。気を落とさないで」
「ですが、私は普通の人より出来が悪いのかもしれません。仕事を覚える自信がなくて」
「なら、覚えるまでやればいいだけよ。大丈夫、貴方は絶対に出来る。わたくしが言うのだから、間違いないわ」
「‥‥‥どうして、そんなに、私に優しくしてくれるんですか」
気がつくと、その言葉が口から漏れ出ていた。シマキ様とは出会って、まだ少ししか経っていないのに優しくしてくれる理由がどうしたって思い浮かばなかった。その言葉にシマキ様は若干、驚いた顔をしたが直ぐにまた慈しむような笑顔を浮かべた。
「貴方がわたくしの特別だからよ」
「えっ?」
「貴方はわたくしに魅了されないから」
笑顔ながらに寂しそうな顔をしたシマキ様に、私は何を返すべきかわからなかった。
ダリアは、大声を出されるとびっくりしちゃう子です。




