第244話 少女の声は闇に溶けゆくまま
――夕闇に溶け落ちる、英雄学院の影。
その闇の一段と膿んだ場所に、少女は一人跪いていた。
雄大な古城の外なる威容と相反する、内部に点在する廃棄区画。今や誰も足を運ばなくなって久しい虚栄と埃に塗れた空き教室の一角にて、彼女は頭を垂れる。
そこに、何処からともなく高圧的な男の声が響いた。
「――報告せよ」
「……はい」
顔が見えないのに、声のみが在る。それ自体はさほど不思議な現象ではない。この学院にいる者は須らく魔法使いなのだから、遠くに声を届ける術の一つや二つは当然のように持ち合わせていてもおかしくはない。
この場で注目すべきはむしろ、彼らの関係性であろう。
「今回の成果を、ご報告させていただきます。あの方……ハルカ・ブレイブス様の動向について」
「……」
「前々回に報告させていただいた通り、ハルカ様は食べ応えのある焼き菓子などを好まれます。特に最近であれば、どっしりと重厚感のあるケーキに気が向いておられるかと。先日は【子猫の集い】新作の、よく冷えたクリームタルトに熱々の杏子ジャムをかけたものを美味しそうに召し上がっておられました」
「……続けろ」
抑揚のない事務的な声色で話す少女に、男の声が命令する。
彼女は頷くと同時に、その顔に浮かべていた影をひっそりと深めた。だが、相手は気に留めない。見えていないということもあるだろうが、そもそも留める必要を認めているかどうかすら怪しいものだ。
見ての通り、彼らは決して対等な立場にあるわけではないのだから。
碌に手入れもされず半世紀にもわたって放置され続けてきた教室は、小虫の死骸と煤に塗れている。そのような息苦しい場所に制服姿の少女が片膝をつく一方、声の主はどこか別の所にいる。
少女の耳がぴくりと動き、相手の声に混じる異音を捉えた。
――少女よ願うが良い。その憂いをこそ、彼の勇なる者は聞き届けよう……。
蒼穹を想わせる透き通った女性歌手の声と、優雅に響く弦楽器の音。恐らくは歌劇だろうか――そんなものが耳に届く場所は、さぞや過ごしやすいことだろう。
男と少女は文字通り、居るべき場所が違うのだ。
その揺るぎない事実を、この光景は残酷かつ如実に示していた。
「……また、あの方が年頃にそぐわず愛らしい服装に惹かれないことは御存じかと思いますが、最近は教国由来の質素かつ丈夫である衣装に興味を持たれているようです。先日の外出の際におかれましても、【誠実たれ】製の聖銀外套を手に取って熟慮されておられました」
「魔力伝導性の高い聖銀で作られた衣服は、外装の薄さに比例しない頑強さを併せ持つ。奴の野蛮な戦闘形式にも、ある程度ついていけるか。ふん――もっとも、そう時を立たずして使い物にならなくなるに違いないがな」
「……仰る通りです。御慧眼、敬服いたします。彼女も同じ考えに至り、結局は購入に至りませんでした」
「世辞は良い。貴様の口から聞いたところで、何の価値にもならん。むしろ耳が汚れる、悍ましささえ感じるほどだ」
少女の誉め言葉を、声は吐き捨てるように一刀両断する。確かに彼女の声には何一つ感情は篭っていなかったが、それだけではない。徹頭徹尾、男は少女にただ事実のみを告げろと求めている。それ以上関わろうとすることを、声の主は許そうとしていなかった。
その様子から窺えるのは――隠す気配が微塵もない、嫌悪と侮蔑。
そも、この空き教室を集合場所として少女に待機を命じたのは男だった。誰から見ても足を踏み入れたくないような場所、盗み聞きされる心配がないからとそこに平然と人を呼びつけた彼の判断に一片たりとも悪意が無いなどと言われても誰が信じられるだろうか。
「余計なことは口にするな。貴様は貴様の役割にのみ徹しろ――それで、他には?」
「……最近のハルカ様は、飽いておられるご様子です」
「飽きている? 何にだ」
「剣を振るう先がないのだと、嘆く姿がよく伺えます。特に、学院に入学してからはとも。……戦場が恋しいと、溢されます。――誰かを斬ることも、本気を出すことも許されない。なんて、つまらないのだと。ご自分が英雄学院に籍を置く意味というものを、未だ見出せておられないご様子です。まるで籠に入れられた小鳥のように、窮屈そうな顔で……」
「ふん、あれが小鳥なものか。さながら檻に入れられた獅子か竜か、評すならそちらに例えるべきだろうよ。あれは猛獣だ――理性の欠けた、醜いけだもの。かの家の産み出した、当代きっての怪物」
失笑を溢した男は、そこで一度言葉を切る。
「……だが、愚かな奴らはそれでも有難がる。英雄と言う過去の栄光によって編まれた見せかけの皮が、奴らの忌々しい本性を覆い隠している。それに邪魔をされ、恥辱を背負うのはいつだって我々だ――そのような狼藉が、いつまでも許されると思うな……!」
突如、男の声に熱量が籠る。
顔の見えない少女にも伝わるほどの、感情の発露。
そこに渦巻くのは執念だ――鉄を溶かして余りある濃厚な敵愾心と、その端に住み着く、隠し切れないどろりとした執着心。
ふと、今度は何かが擦れ合う音が魔法を介して少女の耳に届く。
――先ほど聞こえた歌劇といい、相手は風のよく抜ける場所にいるのだろうか?
降って湧いて出た小さな疑問をどうでもいいと頭を振って捨て、少女は更にもう一つの情報を報告する。
「付け加えて、今回は興味深い報告がございます。なんでもハルカ様には昔、たいそう仲の良い異性の幼馴染がおられたとか。数年前に流行病で亡くなったようで、その名は――ラスト・ブレイブスとか」
「ああ、奴のことか――その程度、貴様に言われずとも知っているッ!」
ごんっ、と会話の向こう側から鈍い音が鳴り響く。
同時に歯軋りの音を伝えてくる相手に、少女は慌てて畏まる。
「既にご存じであらせられましたか」
「その名を知らないと思うか!? 奴と相対した人間なら皆が知っている――弱い、斬り甲斐がない、面白くない! ラストだったら、ラストの方が……奴はそればかりだ! こちらが唇を噛みしめる最中、延々とそう呟いてくる! 土の味を呑み込む我らの恥辱には一切目をくれることなく――いつまでもとうに死した幼馴染の幻想に固執するのだ、あの女は!」
「……」
「はっ! 嘘か真か、疑わしいものだ。確かに過去には奴より優れた男もいたかもしれん。だが思い出とは得てして美化されるもの。もしそいつが今も生きていた所で、どうせ奴の足元には及ぶまい。だというのに、そいつの幻影を追いかけ続けて――一生届かない相手を目指し続け、その過程で奴は厄災を振りまき続ける! そして迷惑を被るのは、常にこちらだ! まったく忌々しい!」
心の鬱憤を思うがままに、舌を止めることなく吐き出し続ける相手の声を前にして少女は己の失敗を悟った。どうやら自分は、相手があまり触れられたくない所に触れてしまったのだと。
――そして、急ぎ身構える。
これから襲い掛かってくるであろう、恐ろしき懲罰に耐えるために。
「そうだ、ラスト・ブレイブス――よくもあの忌まわしい名を思い出させてくれたものだ! お前に与えられた命令はなんだ、あの女を打ち負かすための情報を蒐集することだったはずだ! だと言うのに毎度食べ物の好みや衣服などとどうでも良いことをつらつらと述べおって……どうやら、自分の役割を忘れているようだな、ええ?」
「っ、申し訳ありませんご主人様。深く反省いたします。ですから、どうかあれだけは。どうかお慈悲を……」
「黙れ、それを決める権利は貴様にはない! ――【 ■ ■ ■ ■ 】ッ!」
「くっ――」
少女の口から、鈍い悲鳴が漏れ出る。
彼女は咄嗟に身を屈め、口を抑えようとするが――その程度では堪えきれない激痛の嵐が、雷鳴の如く瞬く間に彼女の身体を駆け巡った。
「いやっ――いやぁぁぁあああぁぁぁっっっ!」
たまらず、彼女は身体を床に投げ出した。瞬く間に制服が埃塗れになっていくが、少女にそれを気にする余裕はなかった。
何故ならば――それを上回る速度で、その可憐な姿が朱に染まり始めたからだ。
なんの前触れもなく、少女の皮膚が内側から裂けて鮮血が噴き出す。
筋肉が弾け、骨が至る方向に砕け散る。
神経がごりごりと鑢で削られる音が、絶え間なく彼女の鼓膜を軋ませる。
内臓は焼きごてでぐちゃぐちゃに搔き乱されたかのように熱くなり、血管が沸騰して身体の内側で騒ぎ立てる。
想像を絶する地獄が、そこにはあった。
汗と涙、唾液を溢しながら狂乱染みた悲鳴を上げる少女。制服の隙間から漏れ出る赤色の液体が足元に小さくない水溜まりを作る中、その上から男の無情な声が木霊する。
「自分の本分を忘れて、楽しいおままごとに耽って忘れていたか――思い出させてやろう! しょせんお前は、首輪のつけられた存在に過ぎんのだとな!」
「うぐっ、かはっ――ァァァアアアァァァッッッ!」
「――こんなところか? まったく、聞くに堪えないな。だが命令も忘れて調子に乗る人以下の畜生にはお似合いだろう。どうだ、これで少しは己の使命を思い出したか?」
「ッ――はぁっ、はぁっ、はぁっ……は、はい……。申し訳ございませんでした、ご主人様……」
苦痛によって滴り落ちる荒い吐息を整えながら、少女は無理やり身体を動かして当初の体勢に戻らなければならなかった。彼女の経験上、万が一痛みのままに身体を投げ出していたことが知られたならば、またもや躾だのと称して痛めつけられるのが目に見えていたからだ。
至る所に汚れを張り付けてべたべたになった少女の謝罪に、相手はようやく最初の余裕を取り戻したようだ。
満足そうな声で、男は少女に釘を刺す。
「今回はこれで許してやろう。しかし、努々忘れないことだ。自分の失敗で苦しむの貴様の勝手だが――他に貴様のせいで苦しむかもしれん誰かがいるということをな」
「――それは!」
思わず顔を上げた彼女に、声は嗤う。
「まあ、今回の情報はまったく使えないというわけでもない。英雄が教国由来の文化に傾倒しつつあるとは、王国への忠誠心が少なからず疑われる醜聞だ。それに免じて、貴様の大切な相手のことはこの寛大な心で許してやろう。感謝するが良い」
「はっ……。ありがたき幸せに、ございます……っ」
「これに懲りたら、次からより重要な情報を掴んで来ることだ。奴らの強固な足場を崩すことの出来る、有力な弱点をな」
「……はい。必ずや……ご期待に沿えるよう、努力いたします」
「口先ではなんとでも言える。結果を示せ、貴様に求めるのはそれだけだ。精々、次に良い報告を持ってくることだ。――ああ、それと」
それで話は終わりだ、と声を届ける魔法を打ち切ろうとした相手が思い出したように少女に問う。
「一応、聞いておくとしよう。……あの新入生は何だ?」
「新入生、というと……ラスト・ドロップスのことですか」
「そうだ」
失血でぼんやりとしかけた視界の中、彼女は一人の男子の顔を思い浮かべる。
偶然にも知り合いとなった相手だったのだが、それをどうして声の主が気にするのだろうかと少女は気になって眉を顰めた。
「来たばかりと言うこともあって、まだ詳しいことは掴めていませんが……彼がなにか?」
「よもや、あの女の初太刀を受けられる技量の持ち主が突如湧いて出るとはな。それも何の因果か、憎たらしいことに同じ名の持ち主ときている。……しょせんは破組だが、警戒するに越したことはない。祭りには奴らも出場するようだからな」
「ですが、彼らは未だ参加に必要な人数を揃えられていません。参戦出来ない以上、主様の障害になるようなことにはならないかと思われますが」
「貴様に提言は求めていない。それに、物は使いようだ。――奴らはあと一人、仲間を欲しているのだったな。ならば命令だ。貴様が奴らの最後の一人となり、共に英霊奉納祭に出場せよ。そしてその過程で得られた情報を包み隠さず、こちらに持ってこい。良いな?」
「……ご命令、承りました。必ずやご期待に応えます」
もとより、少女に拒否権はない。
静々と受諾した彼女は、最後に顔を上げて縋るように呟いた。
「ですから、どうか……お願いします。どうか、あの人のことだけは……」
「先ほども言っただろう、全ては貴様の仕事次第だ。今度こそその小さな脳味噌で覚えておくことだ。結末を決めるのは貴様の動きなのだとな」
「……はい」
今度こそ、男の気配が消える。
緊張を緩めた少女は、汚れることも構わず仰向けに倒れ込んだ。埃が更に纏わりつくが、どうせこれ以上汚くなったところで変わらない。
鼻につく自分の鉄臭さと、全身に残る痛みの残響に耐えながら、彼女はふと胸元を握り締める。
「――なにが英雄よ。そんなもののおかげで、こんなことをされなくちゃならないなんて。……だいっきらい」
自分へ向けられる痛みになら、いくらだって耐えられる。
だが、大切な誰かが苦しむのは耐えられない。
――そしてこれからは、新たに仲間となる彼らを裏切り続けなければならないのだ。
そう思うと、少女は胸が痛んで仕方がなかった。
このまま自分はずっと、声の主に囚われ続けるのだろうか。飼い殺される小動物のように、檻の中で運命の鎖を誰かに手繰り寄せられ続ける――そんな中でも、本音を吐露するくらいは許されるだろうと少女は思う。
「英雄なんて、ほんと、だいっきらいよ……!」
頬を伝う一筋のきらめきを見る者は、誰もいない。
少女のすすり泣く声は、日の落ちた夜闇の奥に虚しく消えていった。
ここまでお読み下さった読者の皆様、まことにありがとうございます。
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どうか今後とも、ラストとその仲間たちの活躍をよろしくお願いいたします。




