第225話 それは希望か、悪夢か
――【英雄】。
彼の偉業を知らない者は、この世にただの一人として存在しない。
八百年前、冷酷にして残虐の極みと謳われた魔族の王は、この世に遍く全ての存在を支配せんと【人魔大戦】を引き起こした。星そのものを朱く染めたとさえ言われる世界規模の大戦を、彼は少数の同志を率いて元凶を討つことにより終結へと導いた。
幾星霜の時を経てなお、彼とその戦友らの物語は希望の英雄譚として――また、魔族にとっての忌まわしき悪夢として、広く語り継がれている。
故に、かの英雄と故郷を同じくする人々は強く信じている。
彼らが日常を送っている王都レア・シルフィーアの生活区画から、徒歩でおよそ二時間弱。
王都を守護するように悠然と聳え立つ、大戦期の古城を基に設立されたエクシード英雄学院。
初代英雄エクス・ブレイブスの真名を冠するその学び舎に通う生徒たちは皆、彼の威光を引き継がんと日々切磋琢磨する立派な若者であるのだと。
――それが真実なら、どれほど良かっただろう。
「もしそうだとしたら……私はこんなところにいなくて済んだのに。なんて、今更口にしたって仕方ないわね」
開けた窓から差し込む朝焼けの光に、少女は目を開いた。
憂いをたっぷりと含んだ一言は、起床の挨拶代わりにしてはやけに明瞭だった。
だが、それは彼女にとっていつものことだった。
ここに来てからと言うもの、ろくに眠れたためしがない。
「……着替えなきゃ」
ゆっくりと上体を起こせば、身体を覆っていた白い毛布が剥がれるようにはらりと落ちる。
一糸纏わぬその姿は、すらりと細く流麗な線を描いていた。
肌寒い朝風にぶるりと身体を震わせて、少女が背伸びを一つ。
それから生まれたままの装いでベッドから降り立ち、箪笥から引き出した下着を適当に身につける。
続いて、壁際にかけられていた衣服へと目をやって――伸ばした手を、ふと止める。
それは、彼女にとっては分不相応な赤き鎧だった。
ふと、先ほどまで見ていた、妄想か明晰夢か判別のつかない内容が脳裏に蘇る。
――果たして英雄とは、自分にとって希望の福音となるのか。
それとも、破滅をもたらす悪夢の象徴なのか。
「下らない。そんなの、決まってるわ。……駄目ね、眠たくて変な事ばかり考えちゃう」
とうに悟らされた答えは、改めて口にするまでもない。
代わりに搾り出した諦念の吐息は、動き始める世界の冷たい微風に虚しく溶けて行くばかりだった。
少女は着替えを再開し、最初に皺ひとつない真っ白なシャツの袖に腕を通す。
続けてチェック柄のスカートを足元から引き上げ、腰の所で留め金をパチンと嵌める。
更に上からかっちりとした生地の上着を羽織り、金色のボタンを固く閉じる。
最後に黒のリボンタイを窮屈になるほどきつく締めて、彼女は部屋に備え付けられていた全身を映す大鏡の前に立った。
その立ち姿はまごうことなく、先の微睡みの中で羨望を浴びていた者たちと同じだった――すなわち、エクシード英雄学院に通う子女の一般的な装いである。
「酷い顔。でも、それ以外は特に問題なさそうね」
爪先で地面を何度か小突いて茶色の革靴を合わせ、机に置かれていたつば付きの制帽を被る。
そうして、彼女は自身の戦装束を整え終えたことを改めて確認する。
姿見の向こうに見えるのは、ここでの生活で染みついてしまった仏頂面。
そこから現実の彼女自身を見返してくるのは、雪よりも冷たく凍てついた瞳。
「友達が待ってるから。今日も行ってくるわ――お母さん」
どこか寂し気な響きを残して、少女は自身のいるべき場所へと向かうべく、学院寮の外へと歩き出す。
――求めている答えは、今日も返ってこない。




