閑話 黎明に覇を唱ゆる星
一ヶ月ぶりの更新になって申し訳ありません……。
生存報告代わりの更新になります。
本編の更新については、もうちょっとだけお待ちください。
――五年前。
深淵樹海の奥深くに構えられた秘密の屋敷にて、シルフィアット・リンドベルグを見事打倒した幼きラストがエスの旅立ちを見送ってからすぐのこと。
魔族世界の何処か、平凡な魔族には命を幾つ落としてもなお辿り着けないような極地に聳え立つ魔王城にて。
九つの異形の影が、円卓を囲んでいた。
床に刻まれた九つの頂点を持つ星の紋様、【魔王旗章】。その頂点に陣取るように座した彼らは、各々が暗闇を煮詰めて凝縮したような禍々しい魔力を身に纏い、互いに牽制するかのように睨みあっていた。
彼らこそが、【九魔大公】。
現代を生きる魔の者を髪の毛一本に至るまで須らく支配し尽くし、同時に彼らから多大なる畏怖と尊敬を向けられる最高位の魔族だ。
その内の一人が、保たれていた沈黙を破って勢いよく立ち上がる。
「――あの鳥女が招集をかけてもうやがて一日だぞ! それで、いつになったら奴の言った真なる魔王とやらは現れやがるってんだ!?」
円卓を殴りつけながら叫ぶ彼に、残り七人の視線が集中する。
興味、嘲笑、はたまた無感情――様々な意図の込められた鋭い眼光を受けながら、巨体の男性魔族は構わず唸り声を上げる。
煌めく黄金の鬣を持つ彼こそは、人型の大獅子。
【魔獣大公】、獣魔族レグルス・テオゲネスである。
「……さて、の。兎も角落ち着けい小僧、慌てようとあ奴がやってくるわけでもなし。ただお前のキンキン声がこの老骨に響くだけじゃ。まったく近頃の若いもんは我慢がきかん、儂のような爺には辛いわい」
そこに待ったをかけた別の魔族に対して牙を剥き出しにしながら、レグルスは唾を飛ばさんばかりに吠える。
「はんっ、だったらさっさと引退して墓の下に引っ込んでたらどうだ爺。こちとらアンタみたいな時間を忘れた老害と違って一秒一分が大事な生き物なんだよ! 無駄に待ちぼうけを食わされて、もうたまったもんじゃねぇ!」
「たわけ、儂とて時間の大切さは忘れたつもりはないわい。生命の深淵に近づくのに、時間なんてどれだけあったって足りやせんわ。たかが一日、されど一日――欲を言えばさっさと引退して研究に専念したいんじゃがの。お主ら若手が弱すぎるから、いつまで経ってもこの椅子に腰をおろしつづければならんのと違うか? ん?」
嗄れた響きとは別に、底知れぬ絶対零度の凍気を伴う声。
それと共に、コツコツと透き通った音が響く。
挑発的な声の主が、己の手で円卓を叩いていた――肉が全て削げ落ち、白骨の剥き出しとなった指先で。
手先のみならず、全身を覆う如何にもと言った魔術師の黒ローブから顔を覗かせる部位の全てが、肉と血の失せた亡者と化している魔族。
【冥骸老】、死魔族オルセン・ストーカーが若者の短気を嘲笑う。
「言ったな!? ならお望み通り今この場でぶっ殺してくれる! その骨は配下の犬どもにでもくれてやろうか? 年くって味気ないだろうが、おやつくらいにはなるだろうからなぁ!」
「ほっほ、よかろうて。なら儂は貴様の死体を実験に使わせてもらおうか。貴重な検体、わが真なる不老不死の一歩として紙の一本まで残さず使い潰させてもらおうや?」
ただ緊迫に包まれていただけの円卓上の空気が、途端に殺伐とし始める。
金色の威を放つレグルスの瞳と、オルセンの頭蓋骨に空いた黒洞に潜む鬼火の眼が衝突する。
殺気と敵意を孕んだ魔力がじんわりと侵蝕を始める――だが、それを端から眺める残りの者に焦りは見られない。
なにせ、この程度のじゃれ合いは彼らが集まれば何時だろうと起こり得ることだからだ。自分も相手も実力を重んじる魔族同士、目と目を合わせたら格付けを済ませずにはいられない血気盛んな種族だという自覚があり、彼らは何よりその在り方を誇りに思っている。
――そもそも、この場で争うこと自体、暗黙の裡に禁止されている事項である。
「まあまあ、落ち着きたまえお二人とも」
「あ? なんだてめぇも死にたいのか枯れ枝野郎!?」
「死ぬつもりは毛頭ないとも。それよりも、思い出してくれないか。本来我々がこうして肩を並べること自体がお門違いであるのだから、気が昂るのは仕方ないとして。この場を破壊し尽くして、その後になにが待ち受けているのか分からぬほど愚かじゃだろう?」
レグルスからの蔑称を優雅に無視して制止を呼び掛けた新たな声に、二人はむ、と勢いを途端に萎める。
それを見て、割り込んだ魔族的には空気の読めない男こと【枯界樹】、妖魔族のリコリス・ウッドマンはニコニコと笑みを深めた。
煤けたように暗い肌色と、先に宝石のついた耳飾りを何個もつけた長い耳が特徴的な細身の男性魔族だ。
「……けっ、うるせぇな」
「ほほっ、冗談に決まっとるじゃろ。本気になっとったのはそこの坊や一人だけじゃとも。忘れとらんよ、ここを荒らせばあの娘が黙っとらんことくらいな」
「ありがとうレグルス殿、オルセン殿」
どっかりと乱暴に腰を下ろし直したレグルスと、飄々と笑いながら目の穴をかりかりとほじくるオルセンにほっと胸を撫でおろしながら、リコリスは空いていた円卓の座席の一つへ目をやった。
そこの主は、今ここにいる八人を招集した張本人だ。
八人の誰もが各種族を代表する、強大にして比類なき力を保有する魔族だ。
だが、それを一方的に呼びつけておいてもなお、許されるほどの別格の力の持ち主。
先代魔王に仕えたとされる、魔界の空を八百年もの間支配する傑物。
【銀凰翼】、鳥魔族シルフィアット・リンドベルグ。
「大戦期に八割方壊れたというこの城を再建したあの方にどやされてはたまったものじゃないからね。せっかくこれから連れてくる魔王様とやらのためにと改めて綺麗にしておいたものをぼろぼろにされていたとなっては、面子が潰れたと殺されかねない」
「くそ、あの焼き鳥女め。本当に面倒な……。自分で待たせておきやがって、それで殺しに来るなんざくそくらえだ」
オルセンに対しては真っ向から戦いを挑もうとしていたレグルスだが、今はそのような気配は見られない。
それどころか、居並ぶ魔族の中でも頭一つ抜けて大きな身体を丸めて、どこか委縮しているようにも見える。
シルフィアットは確かに、名目上は彼らと同格の【九魔大公】だ。
しかしそれはあくまでも見せかけに過ぎない。現在のこの枠組みそのものを作ったのが彼女であり、また、そこに首を揃えた魔族たちの手綱を纏めて握っているのが彼女である――というのが実情であると彼らは認識していた。
いわば実質的な【九魔大公】の長であり、今の魔界の運命を左右することのできる、魔王と呼ぶに等しい存在だった。
そのような彼女が真なる魔王を連れてくるというのだから、渋々と招集される普段とは違い、大きな興味を持って意気揚々と集結した彼らだが――シルフィアットが連れてくると言って、もう二十四時間が経過している。
いくら実力差を理解していても、こうコケにされれば黙っていられない。
「ああ、君の心中もよーく分かるとも。鬱憤晴らしなら後でいくらでも付き合おう。だから今は、その振り上げた拳を収めてくれて本当にありがとうと言わせてもらうよ」
そう温厚に同僚の興奮を嗜める彼もまた、内心では苛立っていた。
シルフィアットの実力が飛び抜けているのは認めるところだ。しかし、それで易々と服従するような者であれば、この場にいられるはずもない。表面上は穏やかにしていながらも、他と同じように虎視眈々と彼女の寝首を狙っている彼もまた、我慢の限界が近づいていた。
二人を落ち着かせた理由は何故留めなかったのかとシルフィアットからのお仕置きの巻き添えになることを避けるのともう一つ、彼女と言う虎の威を借りた自分の言葉を聞いて渋々ながら従う彼らへの優越感で自らの憤りを誤魔化すためだった。
しかし、長らく待たされた挙句のその愉悦が、忍耐に僅かばかりの風穴を開けてしまったのか。
「それにしても、だいぶ待たされて草臥れたのも事実だ。あの方もお年を召しているはずだし、ボケていらっしゃるのかもしれないな。オルセン殿に言うのではないが、そろそろ我々若手に筆頭の席を譲っていただいても良いかなと――」
などと、彼女がどうせまだ戻らないであろうと油断して、場を和ませるように彼女を下げる発言をしてしまう。
だが残念なことに、それを聞き咎める者がちょうど戻ってきていたことに、彼は気づいていなかった。
「あら、面白いお話をされていらっしゃること。ねぇ、リコリス君?」
ピキリ、と刹那の内に円卓の空気が凍り付いた。
蕩けるような、優しい女の声が場にいた者の耳朶を打つ。
しかし、その艶やかな響きはまた、溶けた鉛のようにじくじくとした重苦しい雰囲気を伴ってもいた。
魂を震わせるほどの恐ろしい声の、震源地へ――唯一空席となっていた円卓の一角へ、なるべく動揺を悟られないように気を払いながら、リコリスが厳かに目を向ける。
「……やあ、シルフィアット殿。いつの間に戻っていたんだい? それならそうと部屋に入った段階で教えてくれていれば良かったのに、お人が悪いな」
「たまにはこのような趣向もよろしいかと思いまして。思わぬ収穫もあったことですし、私としては万々歳ですわ。それで、どうしてそんなに声が震えているのでしょう。教えてくださいませんか?」
「ははっ……これは申し訳ない。女性に対して失礼な……貴女様のお耳を汚すような言動を取ってしまった、愚かな自分に深く恥じ入っているところでございまして……」
「いえいえ、気にしてなどおりませんよ。――ええ。決して、まったく、これぽっちもね」
それはどう聞いても、許した者の声ではなかった。
華やかな笑顔の裏に見える死刑宣告に、リコリスは顔を引き攣らせざるを得なかった。
「そのようなことより、皆様。いつまでそのように呆けているつもりですの? ――我が魔王は既に、いらっしゃっていますのに」
シルフィアットはリコリスの申し訳なさそうな態度にそれ以上構うことなく、うっとりと陶酔の表情を浮かべながら、円卓を見下ろすように設置されていた魔王城の玉座を見上げる。
リコリスの暴言などまるで眼中にない、シルフィアットの態度。
初めて目にすることになった彼女の様子に、残る面子は理解する。彼女は本当に、リコリスの言葉など気にしていなかったのだ――それよりも遥かに重要なものが、彼女の意識を余すところなく占めていたから。
「なんだと?」
「ほう?」
彼女の視線に、他の七人も倣う。
この円卓が歴史を刻み始めてから常に空席とされてきた、お飾りに過ぎないものだと噂されていた至高の玉座。
シルフィアットと同じくいつの間にか部屋に入ってきていた一人の女性が、その椅子に腰かけながら彼らをにこやかに睥睨していた。
「――はじめまして、諸君」
彼女の姿を生まれて始めて目にして、声を聞いた彼らは、多種多様の反応を見せた。
――ある者は、その金星の如き美しさに見惚れた。
――またある者は、彼女の尊大な態度に自然と呑まれかけた。
――そして、ある者は彼女が気配もなく存在していたという謎に大きな興味を抱いた。
――それ以上に、押しなべて、自分よりも上に座していると言う事実についての大きな怒りを。
魔族の自尊心を率直に刺激するような態度を取ったことを挑発と受け取った面々は、身体からうっすらと憤りの魔力を全身から立ち昇らせる。そこから放たれる圧をそよ風のように流して、彼女は膝を組みながら口を開いた。
「私の名はエスメラルダ・シルフィアット。これより【魔王】として皆の上に立つ者だ。よろしくしよう、【九魔大公】」
当然のように言い放ったエスメラルダを、シルフィアットは咎めようとしない。
その状況から、彼らは彼女こそがシルフィアットの用意した真なる魔王なのだと推測した。
だが、同時にそれをどうにも信じ切ることが出来ないでいた。
「はっ、なにを言い出すかと思えば」
シルフィアットによる沈黙の了承もなんのそのと、のそりと立ち上がったのはレグルスだった。
鬣の隙間から覗く獅子耳を不満そうに揺らしながら、真っ向からエスメラルダを睨みつける。
「それは千年前に人族の英雄どもに負けた、恥晒しの名ではないか! 騙るにしても他に名はあったろうに、下らん冗談を抜かすな女!」
「そう言われてもな。これが余の生まれ持った名なのだから、特段偽る必要もないだろう?」
レグルスの怒りをどこ吹く風と受け流すエスメラルダに、彼はますます怒りを募らせる。
「ふざけるな! 今は人間どもとの新たな戦争、第二次【人魔大戦】に備え士気を高めている最中だ! そのような名を持ち出されて兵の意欲を下げられるなどたまったもんじゃないぞ!」
「おお、そうなのか。そいつは素晴らしいな」
「なに……?」
おかしなことを言う、とレグルスは首を傾げる。
まるで戦いを好まないかのような、魔族らしくない台詞を平然と宣うエスメラルダに、彼のみならずその場にいた誰もが一瞬己の耳を疑った。
その迷いに裏付けを与えるように、彼女は浮かべていた笑みを深めた。
「戦争の頓挫? 大いに結構だとも。むしろそれが余の魔王就任における最初の仕事となるのなら、これ以上に嬉しいことはないさ」
「あ?」
「せっかくシルフが全員揃えてくれたのだからな、ここで宣言しておこう。――余は人間とことを構えるつもりは金輪際ない。余計な争いを為すことは今後の魔族内において……ああ、もちろん外においても固く禁ずる。身内で殴り合うならともかく、それを望まない奴らにまで喧嘩を吹っかける者は厳罰に処するつもりだ。誰かをぶっ飛ばすくらいなら、座って茶でもしばいてろ」
これまでの魔族の在り方を根底から覆すような言い分に、レグルスは自分の座っていた椅子を蹴り飛ばした。
高い音を響かせて、壁に衝突して砕けた椅子の残骸があたりに散らばる。
「ふざけているのは名前だけでなく、その中身までとはな! 冗談も過ぎれば笑えんぞ!」
「そうか? では代わりに私が笑ってやろうか。弱い者ほどよく吠える、ってな」
「言ったな女ぁ! 魔力もないくせに! その言葉、そっくり貴様に返してやる!」
つまり、レグルスがこうも好戦的になれる理由は、なぜかエスメラルダの魔力がまったく感じられない所にあった。
角が生えている見た目以外は、ほとんどそこらの人間の女と変わらない。
そして、そのような弱者は己が膂力でいかようにでも蹂躙できることを彼はこれまでの人生で学んでいた。
――シルフィアットの担ぎ上げようとする見た目だけの神輿は、一時だけでも自分たちを見下してどうやら調子に乗っているらしい。
そのように現状を解釈したレグルスは、迷うことなくエスメラルダへと向けて、その息の根を止めるべく玉座へと続く階段を疾風のように駆け上がった。
「――死ね!」
生来の才能と鍛錬によって培かわれた巨体が、俊敏にエスメラルダへと近づく。
恐るべき魔獣の膂力で以て、素で鉄すら切り裂く獅子王の爪を振るう。それだけで彼女の傲岸不遜な顔を無残に切り裂けるという自信が、彼にはあった。
しかし、それが目の前に迫っても、当のエスメラルダは小さく嘆息するだけだった。
「やれやれ、ちょっとした言葉遊びにも付き合えんとはな。こうもうまく行くとは、思っていたよりも愚かだったな」
一見油断しているかに見える彼女の首を容赦なく刈り取ろうと、レグルスの筋骨隆々の腕が風を斬って唸る。
それに対して、エスメラルダは何一つ防御するような素振りを見せなかった。
なんら体勢を変えないままの彼女の柔肌を、そのままレグルスの爪が抉ろうとして――勝利を確信した彼がニタリと笑ったところで、次の瞬間。
「ぐがっ!?」
飛び掛かる体勢だったレグルスの身体が、平伏すかの如く地に堕ちた。
「……なに? なんだ、今のは……?」
べしゃりと潰れた蛙のような姿となったまま、レグルスは自問する。
彼自身、何もされていないはずだった。エスメラルダは指一つ動かした素振りを見せなかった。
だが、確実に何かをされたのは間違いない――それ以上のことが分からなくて、驚愕に頭を満たしたまま、彼は反射的に立ち上がって後ろへ跳んだ。
逃げ腰に見える彼の様子に、背後からは野次が飛ぶ。
「――あら、情けないわね」
「――あんな魔力のない女にしてやられるなんて、可愛い子犬ちゃんだったのか? ははっ、飼い犬にしてやろうかレグルス君?」
「やかましいぞ貴様ら!」
【九魔大公】には、仲間意識などと言うものはない。
失態を晒した者に容赦なく追い打ちをかける同僚に、レグルスは雑魚の小娘に恥をかかされたと考えた。
こうなれば、出来るだけ凄絶な死体を晒して己の恐怖を改めて知らしめなければなるまいと、彼は己の扱う唯一の魔法の名を高らかに唱えた。
「千獣の母よ、我が声を聞け! ――【千獣恐化・狂嵐怒闘】!」
「ほう?」
興味深そうな声を上げたエスメラルダに、脅威への怯えといったものは一欠片も感じられない。
その余裕を磨り潰し、挽肉の塊に変えてやると憤怒を全身に行き渡らせながら、レグルスは己の記憶から六つの魔法陣を引き出し、背後に形成する。
再生力、攻撃力、防御力、素早さ等々――各能力の強化に特化した複数の魔法を重ね掛けすることによって累乗的に莫大な力を得る、獣魔族先祖代々の魔法だ。
彼の誇りとも呼べるそれらの魔法陣が線を結び、雪結晶のような六角形を形作る。
と同時に、レグルスの身体そのものにも変化が訪れる。
獅子の頭部を除いてほぼ人型に収まっていた身体が、膨れ上がる。
両目は不気味な紫色の眼光を帯び、脂で撫で付けられていた鬣が旭日のように放射線状に逆立ってゆく。肥大化した筋肉によって纏っていた燕尾服が内側から引き裂かれ、鍛え上げられた鋼の肉体が露出。怒りに震える口元からは、火炎の吐息がまろび出る。
最後に背中から生えた蝙蝠の翼を大きく振りかざし、腰から生える九つの蛇の頭でエスをねめつける。
「懐かしい魔法だ。それに魔眼持ちか。石化の邪眼、蛇種の魔族に見られる先天技能……加えて獅子の肉体のみならず、蝙蝠の翼に鬼の角。尻尾は蛇で顔の所々に麒麟の髭が混じっているな? 複合種族とは面白いな、随分と愛らしい姿になったじゃないか。どれ、喉元を撫でてやろうか?」
「その減らず口、今すぐに閉じてくれる! 冥府に堕ちる覚悟を決めておけ! ――ウォォォォォォォォッ!」
再びエスメラルダめがけて飛び掛かるレグルス。
その体表からは、小さく破裂するような音が断続的に鳴り響く。
空気の壁を強引に突破している証拠だ。
焼けるような大気の圧縮熱で全身を朱く染め上げながら、雄叫びを上げて迫り来る大獅子。
そこに加えて石化の邪眼が妖しく輝く。
先天的に魔法陣が刻まれた瞳から放たれる波動が、エスの動きを止めようと襲い掛かる。
――先ほど何をしたかは知らないが、それでも何かをされたのには違いない。
しかしこれで小細工を弄することも出来なくなったはずだ。
「今度こそ死ねい偽りの魔王! 世迷言の続きはあの世でほざくが良い――!」
これで終わりだ――そう確信したレグルスだったが、その口で語ったことが幻であったことを知るのは彼の方だった。
「そら」
――とんっ。
エスメラルダが伸ばした可憐な指先が、レグルスの額を小突く――それだけで決着はついた。
レグルスがぐるんと白目を剥き、再び地面に崩れ落ちる。
起き上がる気配はない。
背負っていた魔法陣も消失したことから、彼が意識を失い、敗北したことは明白だった。
「ふっ、か弱い乙女だからと油断するからこうなる。魔力がないからと油断したか? 馬鹿め、魔力のない魔族などいるものか。実は隠しているのではないかとか、少しは疑ったらどうなんだ?」
感想を漏らしつつ、エスは内側に秘めていた魔力の枷をようやっと解き放った。
――どくん、と魔王城の全体が震えだす。
それは歓喜の声だった。およそ千年近くも戻らなかった主の威光が行き届いたことにより、魔王城が――魔族領の全土そのものが、歓びに打ち震える。
先ほどまでは片鱗すら見えなかった威光を浴びて、シルフィアット以外の彼らはようやっと、エスメラルダの隠していた実力の一端を感じ取った。
「まったく、戦争ごっこでもするつもりか? それに、それは余が作ってお前の先祖に与えた魔法だぞ。それを僅か数百年の間に随分と劣化させて……再現率七割弱のそんなので製作者に勝てると思ったか? それとも魔法を作った者の名前までは伝えられなかったか、ん?」
無論、彼女はただ小突いたのではない。
指先から放った極小の魔力波でレグルスの脳を瞬間的に揺さぶり、脳震盪に陥れさせたのだった。
本来の【千獣恐化・狂嵐怒闘】であれば、内臓面を補強する機構も組み込まれている。しかしレグルスの行使した魔法にはその機能が欠けており、普段は彼生来の強靭さで誤魔化せていただけに過ぎないことを、彼女は見抜いていたのだった。
「――おおっ、まさかレグルス殿が為すすべなくやられてしまうとは。こいつは驚いたな」
立ち上がる様子のないレグルスを見て、天を仰ぐリコリス。
しかし、その顔に当てた手の下に隠れるのは、表しきれない侮蔑の表情だった。
こうも無様な醜態を晒してしまったのだから、レグルスにはもはや幹部たる資格はない。
つまりこの瞬間、エスメラルダの手によって、彼はリコリスより下だと疑似的に格付けされてしまったと言える。
他者を蹴落としてでものし上がる――魔族としての共通認識通りに喜ぶリコリスだが、他人として傍観していられるのはそこまでだった。
「ほぅ、レグルス坊を落とすとはの。かかっ、こいつは愉快なことになってきたわい。――さて、それでは儂も挑ませてもらおうか。リコリス、お前さんも付き合えや」
「……はい? どうして私まで」
「どうして? 馬鹿じゃないのかお前さん。あの嬢ちゃんは人族との戦争を許さんって言っとるんじゃぞ。それともなんだ、お前もそっちの腰抜け派か? ええ?」
「ぐっ……」
続いて立ち上がったオルセンに半ば無理やり舞台に引き摺り出され、リコリスは顔を大きく歪めた。
自分が不戦派だと思われるのは、彼にとって不名誉な事だった。
しかし、あまりにエスメラルダの情報が少なすぎる。ほぼ彼女の情報を引き出せずに終わってしまったレグルスに舌打ちしながら、彼は考える。
相手のことを調べもせず挑むのは愚者の行為だ。
――かと言って、ここで断れば彼の言う通りレグルスの醜態に怯えたのだと捉えられかねない。
そうなれば自分の座を狙っている連中に噛みつかれる良い口実となる。
まさか先ほどの意趣返しか、などと思いながら戦いを避ける口実を探していると、シルフィアットがここで口を挟む。
「あら、そうだったのですか。これは意外ですね。そのようなゴミ屑を選定した覚えはないのですが――それが事実なら、貴方の進退を本格的に考えなければならなくなってしまいますね」
「シルフィアット、殿……」
「どこに迷う必要があるのです? せっかく魔王様が胸を貸してくださるというのですから、挑みなさい。でなければここで私が即刻その首を斬り落として差し上げましょう」
にっこりと笑うその顔は、本気も本気だ――これで、リコリスは引くわけにはいかなくなった。
「……ええ、分かりましたよ。こちらもやりますとも。それで役割はどうします?」
「儂がとどめ、お主が足止めが最善じゃろうて。どうやら単なる物理攻撃は通用せんようだからの、即死魔法の使える儂の方が適格じゃろう」
「仕方ありませんね。では、ひとまずはそのように。ですが、先に倒されても文句は言わないでくださいね?」
「敵を前に相談とは悠長だなあ、今の魔族は――まあ良いだろう。決まったか? それで、他にはいないのか? ここで余に異を唱えようとする者は」
他の面子は、特に声を上げようとしない。
レグルスの敗北した姿を見ただけで屈したのか、それとも二人を踏み台にして、彼女の力をより深く見極めようとしているのか。
問いかけるエスメラルダに、リコリスが優男の仮面をかなぐり捨てて吐き捨てる。
「はっ、引け腰に用はない! 恨むなよ、我が魔導の真髄を持って捻り潰してくれる!」
「前衛は任せたぞ、リコリスよ。――死を紡ぐ糸車の女神よ……」
背後で詠唱を呟き始めたオルセンを一瞥して、リコリスもまたポケットに手を突っ込んでから魔法を唱え始める。
「さかしまの世界樹よ、我が誘いにさざめけ! ――【三和附子】【少女彼岸】【終極朝顔】【再帰鈴蘭】【王冠焔茸】【宝珠芥子】【鏡映魂蔓】【嘲月麻冠】【永環燻煙】……【鮮血天狗】!」
彼の背後に連続して展開された、複雑な呪詛からなる十もの魔法陣が蠢きながら発動する。
練られたのは自然界に存在する猛毒を象った、人と魔族を問わず侵す紫色の魔力。
完成された陣の効能が自らの身体に作用しようとする気配を感じ取りながら、エスはなるほどと小さく頷く。
「呪いの魔法か。対象に直接作用する、自然の毒を模した妖魔族固有の秘術――だが、それだけか?」
「いいや、まだ終わりじゃないとも! ――凍れ、【凍々荊棘】! ――覆い尽くせ【侵荒萬葛】!―― 貫け【熔鎢獄樹】、そして駄目押しにこいつはどうかな魔王様!」
更に発動された魔法が、今度はエスの周囲に効果を及ぼす。
棘持つ氷の薔薇が瞬く間に彼女の身体に絡みついて、更にその上から生い茂る魔力によって形成された葛の蔦が厳重に彼女を縛り上げる。それらに加え、内側から爆ぜるように成長する灼熱の木が彼女を串刺しにしようと産声を上げる。
更にリコリスは、ポケットから取り出したいくつかの小さな粒をエスメラルダ目掛けて投擲する。
「咲くが良い、【龍喰華】!」
寸分違わずエスの下へ飛来したそれらを、彼女は撃ち落とすことなく甘んじて受け入れる。
すると着弾した赤い小粒――【龍喰華】という植物の種子が瞬く間に産声を上げ、彼女の身体に根を張り始めた。
「どうだ、苦しいだろう? ただでさえ自然毒でめまいや吐き気に襲われ、治癒魔法や解呪魔法を使いたい所だろうが、出来ないはずだ。そいつは一族が長年かけて改良した、対象の魔力を喰らってどこまでも成長する化け物みたいな木でね。魔力がなければ、次は生命力を喰らって成長するのさ。レグルスを討ったくらいで油断してたみたいだけど、もう遅いよ? これで君は終わりだ」
しかし、勝敗は決したと言わんばかりのリコリスの余裕ぶった説明を受けても、エスメラルダは意に介した様子を見せない。
それでも、様々な苦痛に見舞われていることは間違いなかった。嘔吐に頭痛、呼吸困難に心不全……幻覚、妄想、手足の麻痺に脳の収縮と、それらを重ね合わされて無事でいられるわけがない。
彼はエスメラルダの態度をやせ我慢だと断じて、肩を竦める。
「耐えていればいずれ効果が切れるとでも思ってるのかい、だけど無駄なことさ。毒が切れてもズタズタになった身体は戻らないんだよ? 諦めてその玉座から降りたらどうかな?」
「――よし、ようやったリコリス。では儂の魔も馳走しよう――破滅の御光よ、我が怨敵を輪廻へと帰せい! 【耀濤一閃】ッッッ!」
その後ろで巨大な魔法陣を着々と練っていたオルセンが、骨の掌を前方に突き出す。
傍目には、それ以上の現象は何一つとして起きていないようにも見える。
されど、生まれながらに魔力の素養を持つ彼らには、オルセンから放たれた眩い緑白色の光線がエスに照射されたのが見えていた。
それは、極々微細な電磁波の光線。
肉体を構成する遺伝子構造を悉く破壊し、生き物を死に至らしめる劇毒。
既に破壊と再生を繰り返す生身を喪ったオルセンには効果が及ばないが、それが生ける者であれば絶対的な終わりをもたらす死の光。
――それでも、なお。
「……それで終わりか? だとしたら余はまたしてもこう言わなきゃならん――拍子抜けした、ってな」
猛毒に侵され、全身を余すところなく縛り上げられて。
肉体の崩壊を実感しつつあるはずのエスメラルダは、一向に苦悶の声を上げる様子を見せず、最初の姿勢から変わらぬままに悠然と玉座に腰掛けている。
「なっ!? 何故だ、どうして【龍喰華】に寄生されてそうも余裕を保っていられる!?」
「……我が死の光が効いておらんというのか?」
「ふん、奥の手が効かないことなんてよくあることだろうが。だから普通は何個も用意しておくものだが、その様子だとこれ以上の引き出しはないみたいだな」
目を見開き、顎を愕然と落としたオルセンとリコリスをよそに、彼女は軽く身動ぎした。
ただそれだけの動作で、身体を拘束していた魔法の植物は夢のように砕け散る。
続けて真っ赤な大輪を咲かせていた【龍喰華】はでろりと煙を上げて腐り落ち、その残骸をぱんぱんと払ってエスメラルダは二人を見据える。
色の異なる両の眼が、オルセンとリコリスの深淵を――魂を見据える。
「これで満足か、お前たち。余としてもあまり時間を無駄にしたくなくてな、面倒ごとはさっさと済ませるに限る」
「何故だ、何故効かんのだ……? あれは生ある者を等しく破滅に導く光なんじゃぞ……? それを受けて平気でいられるなど、お主も死魔族なのか?」
「わざわざ答えを教える必要があるか、骨の老人よ。それに、乙女の秘密を暴こうとするなんてつまらないとは思わないか?」
茫然と見上げてくる【九魔大公】の面々に艶やかに微笑みかけながら、エスメラルダは自身の身体について思考を巡らせる。
端的に言えば、彼女が無事だった理由はエスメラルダの秘奥――【真魂改竄】にある。
自身の魂すら手を加えた彼女は、己と言うものを誰よりも深く知り尽くしている。
その知識は遺伝子の構造にすら及び、それを以て原子より微細な粒子の世界に及ぶまで深く全身に魔力を行き渡らせていることにより、彼女は常に健全たる自己を定義し続けている。
言わば、揺るぎなき恒常性――それを打ち砕くにはエスメラルダの魔力制御を越えた破壊力をぶつけるか、それ以上の繊細な魔力制御で以て彼女の意識を揺らがせる他ない。
残念なことに、彼らではエスメラルダの魔力制御を貫くことが出来なかった。
二人の魔法が効かなかったのは、それだけの話だった。
なお、【龍喰華】はエスによって過剰に魔力を流し込まれた挙句、過剰発達により成長がついていけなくなって自壊したのだった。
「では、お仕置きの時間だ。余を殺そうとしてくれたんだ、それなりのおつりが返ってくることくらい当然覚悟してるよな? ――そら」
服の上に落ちていた【龍喰華】の種をいくつか摘まんで――今度は不思議なことに発芽する様子を見せず、それを完全に理解を放棄した顔で見上げていたリコリスとオルセン、ついでにレグルスに向けて弾き飛ばす。
「うぐっ!?」
「ごはっ!?」
「……」
あまりの勢いに、身体を貫かれたかのような衝撃が走る。
それによって手放しかけていた意識を取り戻した彼らだったが、エスメラルダに文句を言うことは出来なかった。
その身体を、芽を出した【龍喰華】が恐ろしい勢いで侵食していく。
それはエスメラルダの身体に根付いたものよりも素早く、彼らの身体を指一つすら動かせないように垂直に縛り上げる。
「名付けるならば【真龍喰華】と言ったところか? なに、死にはしないから安心しろ。ただ、ちょっとキツいだけだ」
瞬く間に魔王城を支える柱のような飾りと化した三人を見下ろしながら、エスは種子を拾い上げたほんの一瞬のうちに【真魂改竄】で【龍喰華】に手を加えた内容について説明する。
「そいつは宿主の命を一息に吸い尽くす、なんてことはしない。活かさず殺さずといった感じで、ちょうどいい塩梅に魔力を吸い取るんだ。水も食事も必要ない、きちんと主を殺さないようそいつらが必要最低限の栄養をくれるという保証付きだ。そのままそこで、余の叶える平和を見守っていると良い」
もちろん、脱出しようと思えばできなくもない。
エスが行ったように過剰に魔力を流し込んで自壊させるか、己の魔力操作を極めて一滴たりと吸われないようにするか。
――もしかすればその時には既にエスメラルダによる改革が終わっているかもしれないが。
だが、そこまで相手を慮る義理もなく、彼女は残りのシルフィアットを含んだ面子にもう一度宣言した。
「さて、残った賢明な諸君。余は平和主義だが、異を唱えることまで禁じるつもりはない。挑みたければいつだって挑んできて構わないぞ? 殺しはしない、ただし相応の褒美が返ってくることを前提に、死ぬ覚悟で挑むんだな。――ただし、それも限度ってものがある。例えば人質を取ったりだとか、そんな真似をした奴は死すら生温いような厳罰をくれてやる。余計な争いまで起こそうとする輩には容赦しないことを、努々肝に銘じておけ」
その言い様に、これまでの方針を叩き潰されたような感触を抱いた他の【九魔大公】はそれぞれこれまで彼らを牽引してきたシルフィアットを見やる。
しかし彼女はと言えば――。
「流石ですわ――ああ、それでこそ私の憧れた魔王様にございます!」
うっとりと頬を朱色に染め上げるばかりで、これからの道を相談するのに何の役にも立ちそうにない。
困惑しながら、彼らは今のたった五分程度の間に行われた一方的なやり取りを思い返して戦慄する。
これからの自分たちが行く末に頭を悩ませる魔族たちを眼下に置きながら、エスメラルダはひとまず目論見がうまく行ったことに欠伸を一つ。
幾人かを生贄に自身の実力を見せつけて、主導権を握る――それはうまく行ったようだ。
とはいえたったこれだけで魔族の全てを掌握できるはずもなく、暫くはあちこちを奔走しなければならないだろう。
「面倒だが、これも君との約束だからな。こちら側は安心して任せておけ、ラスト君」
魔族の迎える新たな夜明けを切り拓かんと、黎明の空に紅と藍の双星が瞬く――。




