第219話 忙しない日々の中で
晴れて領主の座へと腰を落ち着けることになったオーレリーだが、その日々は彼女の家族が未練がましく回顧するような華やかさからはほど遠いものだった。
「オーレリー様、新しく東門の大通りに店を構えられた商会の方がいらっしゃいました。今は応接間の方でお待ちいただいております」
「分かりました、すぐに向かいましょう! エルマさん、お化粧と着替えをお願いしますわ!」
「ザヴィヤヴァ村の方から、農馬の融通を利かせて欲しいと。飢えて食べてしまったため、どうにかならないかと――」
「ここの厩舎に繋がれている馬を一頭差し上げてくださいな! 目利きは当人に任せて、代価についてくれぐれも説明を忘れないように! 無料でお渡しする前例を作れないのだと、懇切丁寧に……」
「オーレリー様、今度は――」
「あの、こちらはどのように処理すれば――」
そこには美食美酒や詩歌管弦といった娯楽が介入する余地など、欠片も存在しない。
時間を問わず、立て続けに持ち込まれる来客への対応や市民からの相談事などにオーレリーは朝早くから精力を投じ続け――ようやくお昼を迎えて、執務室へと戻ってくる。
大粒の汗をいくつも浮かべながら外から戻ってきた彼女は、ぐったりと身体をソファーに預けながら、いつの間にかエルマが持ってきていたサンドイッチを摘まむ。
「ふぅ、くたくたです……あら、美味しそうですね。いただきます」
「お帰り。お疲れさま、オーレリーさん。さあ、これも飲んで、ゆっくり気を休めよう。仕事の効率を上げるには適度な休憩も欠かせない。だから、無理は禁物だよ」
留守を任されていたラストが、ねぎらいの言葉と共に爽やかな香りのお茶を注いだカップを差し出す。ついでに、交換とばかりにオーレリーが片手に持っていた書類を取り上げた。
「ああっ……いえ、貴方の言う通りです。ありがとうございます、ラスト君」
「君は放っておくといつまでも頑張り続けるからね、それを止めるのも僕の仕事の一つさ。お礼を言われることじゃないよ。僕もお腹が減ったし、食事にしようか。いただきます……」
書類を口惜しそうに眺めるオーレリーからなるべく遠くの位置において、ラストは彼女の正面に腰を下ろした。
彼女に注いだものと同じ、透き通った緑色の液体が入ったカップを傾ける。
中身は彼がヴェルジネア邸の花壇から拝借した花から抽出した薬草茶で、身体の疲れを和らげる効果がある。仄かに渋みがありながらも、後味の残らないすっきりとした風味が、シュルマの作った甘じょっぱい味付けの鶏肉のサンドイッチと偶然にも噛み合っていた。
その組み合わせを楽しむラストの目の前で、オーレリーは多めに用意されていた昼食を手早く胃袋に収めていきながら、声を飛ばしてからからになった喉をお茶で潤わせる。
やがて五つほど一気に食べてから、ぐっと三杯目のお茶を飲み干した彼女の口から、小さな声が漏れた。
「けぷっ……あ、いえ。失礼しました、お見苦しい所を見せてしまって……」
「別に僕は気にしてないけれど。そんなに勢いよく食べたら、げっぷが出るのは当然だろう?」
「私が気にするのです! ……とはいえ、そうですね。ラスト君はそのようなことは気にしませんものね、ええ。なんでもありません。それよりも、まさかここまで領主の作業が辛いなんて予想外でしたわ。覚悟はしていたつもりでしたが、まだまだ甘かったと言わざるを得ません」
「妙に気になる良い方をするね。……でも、本来はここまで忙しくないと思うよ。今はただ、時期が悪いだけさ」
騎士とは名ばかりの、実質的な領主補佐として働いているラストは、基本的にオーレリーに付き従って仕事を行っている。
故に彼は、オーレリーの仕事ぶりを最も間近で目に焼き付けていた。
領主の肩書を背負ってからというもの、彼女はほぼ執務室に缶詰めの状態である。身体を清める時、もしくは就寝する時以外のオーレリーはずっと椅子に座って仕事をこなしている。
その隣で同じように書類を読み込んでいたラストがふと顔を上げてみれば、まるでアヴァルの使っていた椅子や机と数年来の親友であったかのような彼女の姿が目に入る。
部屋の主となってまだ短いというのに、オーレリーはとっくにこの空間に馴染んでしまっていた。
その原因は、怪盗稼業では取り切ることのできなかった先代の残滓だ。
「いかんせん、君のお父さんの残した課題が山積みなのがね。本当はやらなきゃならなかったことをいくつかすっぽかしたり、適当な数値をでっちあげてたりしてて……しかも、それを仕事に慣れない最初の内から片付けるとなれば忙しくなるのは当然さ」
「雑な管理のためにいくつか資料や手引書が失われているのも、酷いものです。お爺様が残してくれていたものを引っ張り出してきてなんとか形にはなっていますが、こちらも新しい内容に更新しなければ……」
「はははっ、そこらで今は止めておこう。じゃないと止まらなくなっちゃうからね。お代わりはいる?」
「あっ……またですか。すみません、いただきます」
新しく淹れ直したお茶を飲みながら、オーレリーがラストの机に目を向ける。
そちらには、明らかに彼女よりも多く見える未処理の書類が一山ふた山も積まれている。
同時に、処理済みの山もまた、主人よりも多めに積まれているように見える。
「……そういう貴方は、随分と慣れていますのね」
「誇れるようなことじゃないさ。君が眠っていた間の分だけ一日の長があるだけだよ」
「それだけでニ倍近く差があるものを私より早く終わらせられるのは納得しがたいのですが……?」
なにかしらの魔法でも使っているのかと目で疑ってくる彼女に、ラストは苦笑しながら理由を説明する。
「量が多いと言っても、中身は玉石混交なんだよ? ――例えばそうだね、キノコ嫌いの子供にどうやって食べさせるか? なんてのが紛れ込んでるくらいさ」
「それはいけません。好き嫌いは成長に悪いですからね。鉄板なのは、形や調理法を変えてみると言ったことですが……」
「その通り、お肉に刻んで入れてみれば良いって答えておいたよ。……他には門番の飼育している鶏がうるさいからどうにかならないかとかみたいな、ちょっとした相談事が実質ここの三割くらいなんだ」
民衆との距離がアヴァルと比べて近いと考えられているからか、オーレリーの下には自分たちでその内に解決してしまいそうな小さな問題も寄せられる。
決して悪い傾向ではないのだが、それでも今は素直に喜んでいられるほどの余裕はない。
そのような雑談紛いのものも含めて寄せ集められた民衆の相談事を仕分けして、ヴェルジネア領において特に重要だと判断した案件のみを抽出して彼女に渡す。そして、残った重要度の低い仕事を片付け、その成果だけを簡単に纏めてオーレリーに伝達する。
それが、ラストの主だった仕事内容だ。
その内訳は、前述したもの以外も頭をさほど使わないような内容がほとんどで、ラストは見た目の量とは裏腹にそれほど苦労した覚えがなかった。
「――それでも、腕が二倍に増えたように見える速さは説明がつかないと思うのですが」
「目が慣れてないだけなんじゃないかな。じきにオーレリーさんも、端から見たらそんな風になると思うよ」
「果たして、そのようなものなのでしょうか……?」
ここ最近のオーレリーはどうしてか、時折ラストの言葉を今ひとつ信用できないといった疑惑の目を向けてくる。
しかし、肝心の彼にはその理由が分からなかった。
確かにオーレリーを助けるためとはいえ、思い返せば色々とやらかしたような気はするが――それにしたって、ここまで疑われるようなことをしたのだろうかとラストは首を傾げた。
だが、少なくとも今は嘘をついたわけではない。
「そんなものさ。実際、君も徐々に事務処理が早くなってきてる。自分では気づいていないってだけだよ……この調子なら、そう遠くない内に僕もお役御免かな?」
「……それは」
ラストがなんとなくこぼした一言に、再びサンドイッチの盛られた籠に伸びかけていたオーレリーの手が止まる。
――そう、ラストは元々ヴェルジネアの外から訪れた旅人に過ぎない。
彼には彼なりの果たすべき目的があり、いつまでも一つの場所に留まってはいられない。
別れの時が、着実に近づいてきていた。
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どうか今後とも、ラストたちの活躍を見届けていただければ幸いです。




