第179話 残る役目を果たさせて
アルセーナが立ち去り、大きな傷跡を残しつつもひとまずは静寂を取り戻したヴェルジネア邸の廊下。
かつての栄光が夢の跡、とでも詩人が詠うような廃墟に近い雰囲気の中に、ぺちぺちとなんとも言えない気の抜けた音が響く。
「おーい、起きられるよね? 傷は塞がってるみたいだし、呼吸もあるから死んじゃいないだろう? 後少しだけで良いから、気張ってくれないかな?」
頬を叩かれる感触と、耳元に投げかけられ続ける声に、セルウスは深い眠りから意識を現実へと引き戻させられる。
「……う、ううっ。お、俺、は……」
「あ、目を覚ましたね。おはよう……とは言ってもそんな時間じゃないけれど、まあ些細な事だからどうでも良いよね。やあ、さっきぶりだねセルウス・ヴェルジネア。言ってた通りに挨拶しに来たよ」
「貴……様っ、ラス……ト……」
未だ全身に力の戻らないセルウスは倒れた状態のまま、顔の側に立っている影の正体を察して呻いた。
敬意を表すべきオーレリーに近しいようでほど遠い、欲望に濁った緑の瞳に見上げられながら、名前を呼ばれたラストはローブの内側から一つの巻物を取り出す。
「一応、君にはこれについて断わっておこうと思ってね。別に無断で借用したところで僕の良心は咎めないんだけど、それでも簡単な説明くらいはしておいた方が良いかなって。君も契約の当事者になるんだから、まるっきり知らないってなるとそれはそれで面倒になるかもしれないから」
ラストは麻紐でくくられた紙を広げて、そこに記載された文章をセルウスにも読みやすくなるように横に傾けた。
更に親切なことに、床に落ちていた燭台の一つに火を灯して、紙と一緒に彼の顔の近くに持ってくる。
照らし出された文書の内容を、始めはぼんやりとした瞳で見据えていたセルウス。
だが、最後まで読み終わったときには、彼はその衝撃的な内容に怒りを露わにする。
「……なんの、つもりだ……この、クソ野郎が……っ!」
「君が一人で自分の罪を背負う分にはなんの問題もないさ。だけど、それを彼女たちにまで負わせるのは酷だと思わないかな? ――だから、その縁を絶ったという動かぬ証拠が欲しかったんだ」
ラストが見せつけた書類には、次のような文言が記されていた。
――セルウス・ヴェルジネアは、自身の所有する奴隷の権利を全てラスト・ドロップスへと委譲する。
本来の文体はより勿体ぶった、貴族らしい言い回しを含めたものとなっているが、大意はおおよそそのようなものとなっていた。
しかも、その終わりにはご丁寧にセルウス自身の崩し字による署名までもが添えられていた。
無論、とうの本人にはそのような契約を承認した記憶は一切存在しない。
「誰が、そんなもの……っ、俺は知らん、知らないぞ……」
「君が知らなくても、ここにあと君の拇印が揃えば誰だって信じると思うよ。口ではなんとも言えるけれど、形に残る契約書は誤魔化せないからね。作られた経緯がどうであろうと、これを見る人間は君の言葉よりも正当らしい書面の方を信用するんじゃないかな?」
全てはラストの準備した精巧な偽物だった。
精緻な魔法陣を模倣する練習を積み重ねた彼の手にかかれば、他人の署名を取り繕うことなど造作もなかった。筆圧からとめ、はね、はらいの癖に至るまで、彼の持つ紙の上にはセルウスの筆跡が完璧に再現されている。
「知ってるかな。古代のどこかの国では、主の命令に従って数多くの少女を直接拷問にかけた従者たちの方が主よりも重い罰を与えられたんだ。主は貴族だからって単なる幽閉で済んだけれど、従者たちはそうもいかない。首を落とされ、身体を焼かれ……彼女たちに同じような罰が下されるべきだとは、僕は思わない。だから、君には今夜で彼女たちから手を引いてもらう。君の罪は、全て君が背負ってくれ」
古代の従者たちは、主に従うか、逆らって職務を放棄するかを選ぶことが出来た。
その上で彼らは最終的に自分の意思で主の支持する拷問に加担することを選んだのだから、まるっきり罪がないとは言えない。
しかし、セルウスの従えた女性は徹底的な精神的及び肉体的な弾圧によって正常な心を砕かれてしまっている。彼女たちには、主の愚行に加担するか否かを選ぶことは出来なかった。ただ命令されたままに動くことしかできない道具として在った彼女らに罪を問うことが、相応しいのだろうか。
ラストには、そうは思えなかった。
剣に人を斬った罪を問うようなことは、どう考えても馬鹿馬鹿しい。
他ならぬセルウス自身が彼女らを道具として見做していたのだから、その通りにしてやればいい――罪は道具の使用者にこそ問われるべきだ。
「それじゃあ、失礼するよ。君の右手、借りさせてもらうね」
「止め、ろ……ふざけ……」
引き留めようとするセルウスに構うことなく、ラストは剣にぶら下がったままの彼の右手を慎重に取り外した。
その五つの指の腹を乾ききっていないセルウスの血溜まりに浸して、彼の署名の下部にぎゅっと押し付けた。
少し待ってから外せば、そこにはまごうことなきセルウス・ヴェルジネアの意思表示が完成していた。
「これで所有権の委譲は終わりだよ。彼女たちはもう僕のものだ……法的には、の話だけどね。別に僕には彼女たちを縛るつもりなんて一切ないし、これからはどこかでゆっくり人としての心を取り戻していってもらうつもりさ。相手を人として大切に扱ってくれる暖かい想いの中に包まれれば、人としての心も戻っていくはずだから……」
セルウスが配下とした女性は、およそ半数が元々ヴェルジネアの住民だ。
彼女らには実家に戻るという道があるものの、ある日突然帰宅しますというわけにもいかない。いくらセルウスに命じられたとはいえ、心が戻ったことで悪しき振る舞いに手を汚してしまった自責の念に駆られて家族の団欒に包まれることを逆に辛く感じるかもしれないとラストは推測していた。
彼女たちには一度心を整理する期間を与える必要があった。
また、残る半数は何処からか買われてきた娘たちだ。行く先のない彼女らも、いずれ自分が望む生き方を見つけるまでの猶予が必要だった。
そのような彼女らを、ラストはオーレリーの世話する孤児院へと預けようと考えていた。
互いに支え合って生きることを知る彼らならば、セルウスに痛めつけられた彼女たちの心を支えて修復することも出来るだろうと信じて。
なお、ラストにはその計画の全てを事細やかにセルウスに明かすつもりはなかった。
いずれ迎える裁判の時に変なことを喋られて、国の官吏に余計な所へ目を向けられると困る――彼らには少女たちの行く末などよりも、もっと別のことに注目して欲しいのだから。
「よし、こっちはこんなところかな。後は……ああ、そうだった。勝手に指紋を使われたなんて言われたらたまらないから、この手は返しておくよ。ちょっと痛いかもしれないけれど我慢してね、一瞬で済ませるから。暴れたりして変に繋がったら、また斬ってやり直さなきゃならないし。それは嫌だろう?」
ラストは残る左手も剣の柄から引き剥がして、倒れ伏すセルウスの側に屈みこんだ。
アルセーナの治癒魔法によって、既に肉体の切断面は肉が盛り上がる形で塞がっている。
まずは、その邪魔な部分を削ぎ落して接続すべき断面を再露出させなければならない。
「……しっ!」
魔力を纏った銀樹剣が二度、閃く。
不格好な形に膨れていた肉が削れ、骨や筋肉の見える綺麗な断面が姿を現わした。
そこに蝋人形のような色になった手の断面を素早く添えて、魔力の糸を用いて接合する。筋肉の筋を一つ一つ縫い合わせ、神経を繋ぎ、血管を血が通うように接着させていく。
「ぐぎっ!? ぐあぁぁぁっ!? ぐぎぎっ……うっ」
麻酔もなしにそのようなことをしていれば、断面が痛むのも無理はなかった。
戦闘時に麻酔など都合よくあるものか――そのような思考の下で練習していたラストは、つい自分の場合をセルウスにも当てはめてしまい、痛みを和らげる過程を当てはめるのを忘れてしまっていた。
セルウスが苦痛を訴えることでようやく気付いたが、次の瞬間には彼は再度気絶してしまっていた。
これなら痛みを感じることもないだろうと、ラストはそちらを放っておいて断面同士の接合に意識を集中させた。
「――お疲れさま。これで最後の晩餐は自分の手で食べられるよ」
セルウスにとっては幸いなことに、彼の手と腕は大きな間違いもなくくっついた。
段々と血が通って肌の色が戻っていくのを確かめながら、ラストは女性たちを孤児院へ送り届けた際に持ってきていた縄を取り出してセルウスを縛り上げていく。
「さて、後は君に最後の役目を果たしてもらわないとね。妹さんが先に待ってるから、寂しくなったりはしないんじゃないかな」
身体の大部分の血を失ったセルウスの身体は、見た目よりもずっと軽くなっていた。
縄を切れるような金属製品を取り上げた上でその身体を肩に担いで、ラストは屋上へと向かう。
セルウスに残っている仕事と言うのは、先にアルセーナに敗北したグレイセスと同じものだ。
完膚なきまでに打ち倒された民衆の敵として、それを成した怪盗淑女の株を最高潮にまで押し上げてもらう。
人々の度を越した熱狂はラストの目に余るものだったが、それでもこの先のことを考えれば文句は言っていられない。
アルセーナがヴェルジネア家を打倒し終えた先に待つもう一つの戦いのために、ラストはそれが己の信念に反することだとしても、一つでも多くの布石を打っておかなければならないのだから。
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どうか今後とも、ラストたちの活躍を見届けていただければ幸いです。




