第178話 与えられた力と、その先の力
セルウスの口が閃き、続く詠唱の始動部分が素早く告げられる。
「――我が尊き命を拝し殉ぜよ!」
彼の魂から欲望の色に濁った魔力が抽出され、肩に担ぐように掲げられた剣へと纏わりつく。それが少しずつ、一つの魔法陣を描いていく。
その完成を止めるべく、アルセーナは疾走しながら強く握りしめた傘の石突きをセルウスの肉体へと向け――体重を乗せて、彼の左肩を抉るように貫いた。鎖骨のひしゃげた感覚が、生々しく彼女の手に伝う。
「ぐおっ……ふんっ! なんだそのちゃちい一撃は、ええっ!? そんなもので俺が倒れると思ったのか! 貴様の攻撃なんぞ裁縫針みたいなもんだ、いくら喰らったところでへでもない! ――がふっ!」
減らず口を黙らせるかの如く、アルセーナは次にふくらはぎを鋭く貫く。
続けて彼女の刺突が豪雨のようにセルウスの身体を何度も穿っていくが、いくら身体に穴が開いたところでセルウスは尊大かつ不敵な態度を改める素振りを見せなかった。
それどころか、彼は確信めいたように鼻で笑う。
「これまで幾度も貴様の攻撃を受けて、ようやく気付いたぞアルセーナっ! お前には俺を殺すつもりなどないっ! そうなんだろう!?」
「っ……」
ぴくり、と彼女が眉を潜める。
それが答えと見たセルウスは、不動の構えを取ったまま語り出す。
「二十回か、三十回か――いずれにせよこれだけ身体を貫かれても、俺は死んでいない! 殺そうと思えば、簡単にこの心臓に風穴を開けられる隙もあったというのになぁ! 死にもしない攻撃をいくら喰らったところで、俺はそんなもの気にせん――お前が何を考えているかは知らんが、その程度で我が魔法を止められると思うな未熟者め! ――黒鉄の導きに隷属し、何人とも防ぐこと能わぬ至高の刃たれ!」
その指摘の通り、彼女は自らの手でセルウスを殺害するつもりはなかった。
彼及びその他のヴェルジネア一族に死を与えるのは、厳正なる法による裁きか、もしくはこれまでに虐げられてきた民衆の手でなければならない。同族たるオーレリーには、彼らを殺害する権利などあっていいはずがない――その思考が、アルセーナの攻め手を大きく縛っていた。
致死性の攻撃を与えることは出来ない。
かと言って、既に全身から流血するほどに負傷したセルウスに今から意識だけを奪うような繊細な一撃を命中させるのも困難だった。失敗すればそのままあの世へ送ってしまいかねないとの迷いが、彼女に決定打を繰り出すことを躊躇させていた。
「――斬禍一閃! 我が覇道を、怨敵の血にて彩らん! ……その薄汚れた目を限界まで見開いて、己に引導を渡す絶技を刻み込め! これは、王都でもかの【燎刃の英姫】の代名詞たる魔剣技――魔法と剣技を極めた者にしか使えぬ、究極の一撃だ!」
彼の記憶から読み出されつつある魔法の効果は、剣技と風の加速を一体化させることによって斬撃の威力を何倍にも向上させるというものだ。
――馬の上で馬を走らせるといった、少々馬鹿らしい比喩がその具体例に該当する。
馬単体では、当然の如く馬一匹分の速度しか発揮し得ない。だが、それが元々馬一匹分の速度を持っていた時、その条件の下で走る馬の速さは外界から見て単純に二倍となる。
圧縮された風の爆発に後押しされながら、それを乗りこなしつつ自身の剣撃の速度を上乗せする――それによって、両者の威力を合わせた強力な一撃が生まれる。
セルウスの発動させようとしている魔法には、成功すれば城壁すらものの一発で破壊しうるという伝承があった。その攻撃範囲は衝撃波も含めればヴェルジネア家の広い通路を丸ごと覆って余りあるものであり、回避する余地は塵一つ分ほども存在しない。
これで散々苦渋を嘗めさせられた怪盗を一刀で斬り屠ってみせる――セルウスはそれが叶った未来の光景を幻視しながら、額から垂れてきた鉄の味を舐めとって獰猛に笑う。
「喰らえ! その身体、血の一滴とて残ると思うなよ! ――【疾風迅斬】ァァァッ!」
セルウスの足の裏で、極限まで圧縮された暴風が指向性を以て爆ぜる。
急激な加速――瞬く間に輪郭を失いブレていく視界の中で、セルウスは正面に立つアルセーナの姿を朧気に捉えていた。
セルウスの魔法に恐れをなしたのか、はたまた彼の速度に意識がついていけなかったのか。いずれにせよ、棒のように立っているアルセーナはこれで終わりだと確信して、彼は彼女の位置に至るよりかなり早めに剣を振り下ろし始めた。
そうしなければ、間に合わないのだ。剣を振る機会をうまく捉えられなければ、この魔剣技は単なる体当たりになってしまう。
剣の周囲に渦巻く風の総量は、彼の得意とする【枯風乱嵐】に匹敵する。それだけの風が一つの斬撃に押し込まれ、竜を思わせる深い唸り声をセルウスの耳元で上げている。
命中したその時、アルセーナの瑞々しい肉体は散りゆく薔薇の花吹雪として己が勝利の道を彩るに違いない――。
「ははっ、はははははっ、はははははははははは――っ!」
それが決定づけられた運命だと、セルウスは嘲笑を響かせる。
屋敷の外にまで聞こえるほどの下品な笑い声を放ちながら、彼は剣を一際強く握りしめ――次の瞬間。
彼の視界は、純白に染め上げられた。
「んぐおっ!?」
目を焼くほどの閃光に、彼は高笑いを止めさせられてしまう。
しかし、膨大な風を纏った剣を止めることは出来なかった――また、いくらアルセーナが小細工を施そうとこればかりは避けようがない。そう信じて、セルウスは視界を潰されたまま、アルセーナがいるはずの場所へと莫大な力を乗せた剣を完全に振り下ろした。
――爆音が耳を揺るがす。
足場が、地震が発生したのかと錯覚するほどに大きく揺れ動く。
「ぬおおっ!?」
セルウスは咄嗟に力を解放し尽くした剣を床に突き立てた。
貴族の血を引く者として、彼には勝利の宣言を倒れ伏しながら上げるつもりはなかった。
一過性の揺れはすぐに収まり、彼の視界も徐々に回復する。
光が晴れ、星明りのみが差す暗い屋敷の姿が映り込む。
――アルセーナの姿は、どこにも認められなかった。
「ふ……ふーっははははははぁっ! 思った通り、奴は一欠けらも残らず消滅したか! あの美しい肉体が俺のものにならなかったのは少々惜しかったが、まあ良いだろう! どうだ、思い知ったか怪盗を名乗る不届きな女め! 生意気にもこの俺に説教臭い話などするから――あ?」
全てを言い切る前に、セルウスは自らが突然顔面をなにか固いものに打ち付けたことを悟った。
よく見れば、それは灰色と赤色が混じったまだらな模様をしている。
続けて、彼は己の袖口の辺りが生暖かいものに包まれている感触を覚えた。
ずり、ずりと首を固いなにか――床に擦りつけながら動かした彼は、うすら寒い予感と共に、その感触の正体を見て確かめる。
絶叫。
「なっ……なんだと!? 俺の、俺の手が――どこへ行った!?」
彼の手首から先の部分が、見事に消え失せていた。
ぼちゃり、ぽちゃりと水の滴る音が不意に彼の耳元に響く。
そちらへ目をやると、彼は自分が石床に突き立てた剣が目の間に立っていることに気づいた。その上で、柄を握る彼の両手が、主を失った状態でぶら下がっていた。
そこで彼は、自らが支えを失って床に倒れ伏したことに気が付いた。
――そして、それを成すことが出来るのが、この場においてただ一人であることにも。
「――ええ、私に貴方の命を奪うつもりは何一つ存在しませんでした。ですが、よく考えてみれば、人間とはそこまで柔な存在ではないですものね。たかが両手を失ったくらいで、貴方は死なないでしょう?」
「貴様っ、アルセーナ!? 馬鹿な、どのようにして――なぜ生きていられる!? たかだか目くらまし如きで、我が魔剣技から逃げられるわけが――ごほっ!」
倒れた時の衝撃で折れた前歯を吐き出しながら、セルウスはアルセーナへ信じられないような目を向ける。
だが、彼女からしてみれば至極単純な手法しか使った覚えがなかった。
「知らなかったのですか? その魔剣技は、避けようと思えば簡単に避けられるのですよ」
「なんだと!? そのようなことがあってたまるものかっ! 世迷言もいい加減にしろ!」
「考えてもごらんなさいな。……自らを傷つける剣の技は存在いたしません。それは貴方が自信満々に振るった魔剣技とやらも同じことでしょう? 剣の前方を須らく薙ぎ払う強力無比な一撃といえど、剣の反対側――貴方のいらっしゃる側にはなんの影響もないのですわ。あれほど素早い、それこそ本人の視覚さえ追いつかないような攻撃であれば、私は三歩ほど斜め前に歩くだけで簡単に貴方と擦れ違い、その背後に回ることが出来るのです。お分かりになりませんか?」
「な――そんな、馬鹿げた逃げ道があるなど……クソ爺はなにも言わなかったじゃないか……くそがっ」
セルウスの言う糞爺――彼と共通の祖父から、オーレリーもまた今の一撃について教わっていた。
だからこそ、彼女は目にも止まらぬ剣の軌道を見切ることが出来たのだった。
その対処法についてもまた、彼女にとっては既知の範囲だった。
「生憎と私はそのお方のことは存じ上げません。――ですが、良い教師とは生徒に一から十の全てを教えないものですわ。叩き込むのは精々五から六まで、後は生徒の自主的な成長を見守るもの。ただ与えられた力を使えるようになった程度で満足していたから、貴方はその程度のことにも気づけなかったのでしょうね」
オーレリーは教えられた通りの一撃を振るうことが出来たその次に、実戦においていかにして命中させるかを学ぶべく祖父に自主的な対戦式の訓練を申し出ていた。
その中で彼女は祖父の見せた、たった今自身が使ったのと同じ回避法を見て盗んでいたのだった。
一方のセルウスはと言えば、形通りの魔剣技を振るえるようになっただけで練習をほっぽりだすようになったとオーレリーは祖父から聞き及んでいた。彼はまた、己の孫がいずれ大きな失敗をすることで自らの過ちに気づくだろうと信じながら亡くなったが、まさかこのような場面に至るまでついぞ気づくことがなかったとまでは思わなかったに違いない。
「この……クソ女っ……」
「なんとでも仰いませ」
彼女は軽く傘を振って血糊を払った後、セルウスへ右手を翳す。
「――女神よ、安らぎの御手で我が敵を癒したまえ。【母愛揺籃】」
セルウスの全身の傷が、癒えて塞がっていく。
しかし彼は既に血を流し過ぎており、立つこともままならなかった。
「予想なされた通り、貴方にはまだ死んでいただくわけには参りませんから。しばらくそこで後悔でもしていれば良いと存じますわ。今夜の月が沈むまで、反省するための時間はたっぷりとありますわよ。――ごきげんよう、セルウス様」
「……っ、……」
血に塗れた唇を小さく動かしながらなにかを呟くセルウスを尻目に、アルセーナはアヴァルの待ち受ける屋敷の奥へ向かおうと背を向けた。
その口から放たれるのは、どうせしょうもない恨み言に違いない。あえて耳を傾ける必要もないと、彼女は残りの魔力の残量を計りながらセルウスから離れていく。
――その背中へと、セルウスが悪意を吐き捨てる。
「ははっ、今度こそ死ね! ――【枯風乱嵐】!」
彼女は勘違いしていた。
セルウスが口にしていたのは悪口ではなく、最後の悪あがきのための詠唱だったのだ。
その、残る力を全て振り絞った竜巻が彼女の後姿へと迫り――。
「――其は誠の風! 【枯風乱嵐】!」
振り返りざまの短縮詠唱から放たれたアルセーナの暴風が、迫る敵風の全てを呑み込んでいく。
――魔法とは、魔法陣をどれほど正確に構築したかによって威力が上下する。
死に体かつ、怒りや嫉妬といった負の感情に澱み歪んだセルウスの魔法陣は拙いもので、短文とは言えアルセーナの洗練された魔法陣から生まれた風に勝つことなど出来るはずもなく。
細やかに制御された荒風はセルウスの身体をも呑み込んで、吹き飛ばす。
「ぐぉぉぉっ――がふっ! ……っ……」
もんどりうった挙句床に投げ捨てられたセルウスは、それ以上何かをしようとする様子を見せなかった。
どうやら完全に気を失ったようだ。
「さようなら、お兄様。それほどまでに私を支配したいのなら、夢の中でどうぞご勝手になさいませ。そちらの世界でなら、現実の誰かを傷つけることもありませんから……」
それっきり彼女は血の繋がった兄に構う必要を認めず、今度こそ先へと歩を進めるのだった。
ここまで読んで下さり、まことにありがとうございます。
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