タイヤの中で。
僕は少女の幻でも見ていたのだろうか。そんなはずはないんだ。だって、大人になった今でも記憶の中に、そのとき出会った彼女のことがずっと忘れられずに残っているのだから。
あれは僕が、小学校に入学する前のことだった。それまで住んでいた地域から離れ、新居と共に誰も知らない、来たこともない地区に引っ越して来たばかりのこと。
家族が家の中のことで手いっぱいだったこともあり、僕は何も手伝えることがなく、外に出るしかなかった。家から少しだけ出ただけの、ほんの僅かな距離に過ぎない。
「お母さん、僕、近くを探検してくるね」
家の前は国道があり、夕方ともなれば多くの車列が見られる。さすがに、そんな時間までには家の外に出ることは無かったけれど、僕の記憶の中では、時間にして午後4時位だったと思う。
黄昏時にはまだ早い。そんな時間だ。
少しずつ、家の外から距離を延ばし、たどり着いたのは大きなタイヤを前輪後輪に着けていた、ダンプカーが集まる場所だった。僕はいつもあの場所に行っていた気がするのだ。
不思議と怖さを感じなかったあの家と、ダンプカーの集まり。僕はそこで少女と出会った。幼き子供が、ダンプカーのある家に通えたのはあの子がいたからだったし、会うためだった。
僕はいつも見上げていた。それは、大きなタイヤのタワー。今思えば、あれは廃棄予定のタイヤだったかもしれないけど、あそこの中に入るのが僕のお気に入りだった。
少し触れただけでは、びくともしないタイヤのタワー。そのてっぺんまで登り、丸いタイヤの真ん中を覗くと、暗いけど地面が顔を見せていた。僕はそこに降りて、自分だけの秘密基地にしようと思いつく。その時だった。あの子に声をかけられたのは。
「ねえねえ、どこに行くの?」
「僕の秘密基地」
「ふーん、わたしも行っていーい?」
「上がれる?」
「うんっ」
少女は僕に声をかけてきた。僕は、彼女の名前を聞くよりも前に、一緒にタイヤの中の秘密基地に行くことを優先させていたのだ。
「うんしょ、よいしょ」
「もう少しだよ」
幼き子供ふたりは、ダンプカー用のタイヤの中にたどり着く。上を見上げると、まだ青い空を眺めることが出来た。その時の季節は恐らく春。大きなタイヤの中は、少しだけひんやりとしていた。それでも見知らぬ少女とふたりでいると、その感覚は暖かさも感じていたかもしれない。
「えへへ、秘密基地ー!」
「うん! 明日も秘密基地ー!」
「うんうん! 明日も来てね」
「僕、近いから毎日来るよ」
「わたし、リカだよ」
「リカちゃん、明日も来るね!」
同じくらいの年の子とお話が出来る。それだけのことが凄く嬉しかった。話の内容までは覚えていないけれど、僕は間近で話せるリカちゃんと一緒に話が出来る嬉しさが何よりだった。
それでも、いつも同じくらいの時間に会えて、会えたね。なんて先に進みようのない話ばかりしていた気がする。そんな日がずっと続くと思いながら、僕はその日もダンプカーのある家に足を運ぶ。
「あれ? ダンプカーはどこにいるの?」
いつも目に映っていたダンプカーの車列。それが一台も見えなかった。もちろん、タイヤのタワーも姿を消していて、僕は不安になり、その場所の近くの家に勇気を出して尋ねてみた。
「ダンプカーはどこに行ったの?」
「ダンプカー? あぁ、別の所に行ったんじゃないかな? ごめんね、はっきりわからないの」
「リカちゃんはどこ?」
「女の子? ダンプカーの家にいたの? うーん、見たことないけど、会っていたのかな?」
近所なのに、ダンプカーの家のことはともかく、女の子がいたことをその家の人は知らなかった。もちろん、僕の家族も知らない。それというのも、タイヤのタワーの秘密基地は内緒にしていたから。
どこに行ったのかなんて、誰も 分からなくて知らなかった。もちろん、リカちゃんも。それでも僕は間違いなく話をした。毎日会いに行ったし、タイヤの中でたくさん話をしたんだ。
それが僕の記憶の秘密基地。本当にいたし、可愛かったんだ。リカちゃん、君は今、どこにいて、誰といるの? 僕は今でも思い出すんだ。タイヤの中でたくさん話をしたあの場所のことを。
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