ネコと指輪⑥
基樹くんに呼び出された。大事な話がある、と神妙な声で電話を掛けてきたのが昨日のことだ。仕事が終わったら駅前の公園で落ち合おうということだった。そんな訳で、今日も私は佐藤さんのお小言を置き去りに、そそくさと会社を後にする。
電話では話せない大事な用事ってなんだろう。別の部署に異動することになった、とかかな。それともまさか、結婚の報告とか? 普通にありそうで怖いなあ。適当に言い訳して逃げちゃおうかな。でも、今から断りの連絡をするのも悪いし。
などと葛藤していたら、待ち合わせ場所の公園が見えてきた。
その公園は帰宅途中のサラリーマンや学生で賑わう駅前において、少しだけ異質な雰囲気を帯びていた。日中は子供たちの遊びの場であるそこは、日没以降は異なった様相を呈する。都会の喧騒から切り離された寂寥感、とでもいうのだろうか。大通りからやや外れた位置にあるため、わざわざ立ち寄る人はほとんどいないのだ。彼がこの公園を指定したのは、他人に邪魔されずに話をしたいからだろう。
公園に足を踏み入れると街灯の傍に人影が見えた。基樹くんは既に待ち合わせ場所に来ているようだった。私は普段通りに声を掛けようとしてはたと気付く。彼の隣にもう一つ人影が伸びていた。目を凝らすと、もう一つの人影はスーツをかっちりと着たバリバリのキャリアウーマン然とした女の人だと判った。二人は向かい合って立っており、何か話をしているようだった。私は咄嗟に物陰に隠れてしまう。
盗み聞きなんていけないことだと解ってはいるけれど。彼の「大事な話」にあの女の人が関係しているというのなら、少しは心の準備がしたいのだ。
少しでも話の内容が聞こえないものかと二人の方へ忍び寄る。薄暗くてよく見えないが、女性は彼と並んでも見劣りしないほどの美人であることは判った。
不意に胸にざらりとした感触を覚えた。その事実に私自身驚く。至極当然のように嫉妬している自分。そんな感情とは無縁の筈だったのに。いや、無縁でなければならなかったのに。
「綾、来てたんだ。声掛けてくれればいいのに」
「あ、ごめん」
己の感情に気を取られて彼が目の前に来ているのに気付かなかった。彼の様子は普段と変わらない。女性はいつの間にかいなくなっていた。
心の中で反芻していた問いが、修飾も婉曲もなく口から零れる。
「さっきの女の人は?」
「ああ、あの人は、さっき寄ったお店の店員さん。俺の忘れ物を届けてくれたんだ」
そう言ってスーツの内ポケットから取り出した万年筆をひらひらさせた。
「それで、今日来てもらった理由なんだけどさ」
「待って」
今は、聞きたくない。こんな醜い気持ちを抱えたままで、彼の話を受け止めきれる自身がなかった。
「急に、用事ができちゃったんだ。話はまた今度でもいい?」
「……そうか。わかった」
「ごめん、じゃあね」
それだけ言って、思わずその場を逃げ出してしまった。自らの精神面の脆さが情けなくなる。
それでも、少し時間を置くことで頭が冷やすことができた。
さっきの人は基樹くんの恋人じゃなかったんだ。
先刻覚えた冷たい感情はすっかりなくなっていた。代わりに少しの安堵と大きな虚無感。
基樹くんと再会してから、私の毎日は鮮やかに色づいて輝いていた。彼と共に過ごす休日に安らぎをもらい、彼もまたそうであれば良いと願っていた。
でも今は、それが却って私を苦しめていた。
なぜなら、私は彼の特別な存在ではないから。この想いが彼に届くことは決してないから。
解っているつもりだった。彼が手の届く存在ではないことを。
納得しているつもりだった。仕方のないことなのだと。
しかしそれは結局のところ、『つもり』に過ぎないのだった。
あの綺麗な女の人が彼と一緒にいるところを見て、改めて思い知らされた。現実を突き付けられて初めて実感した。
こんなことなら、最初から再会なんてしなければよかった。いつの日か、別れは必ず訪れる。彼は私ではない誰かと結ばれて私のもとを離れていくのだ。それならば、思い出は思い出のまま、美化された記憶の中に閉じ込めておくべきだったのだ。
そんな感傷に浸っていたら、不意に携帯電話の着信音が鳴った。
基樹くんからかな。なんて話せばいいんだろう。
一瞬で、会話の切り出しから先程の態度についての弁解まで悩んだが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
携帯電話のディスプレイに表示されているのは部長の名前だった。
時間外に一体何の用だろうか。緊急の問題でも発生したのか。
「あ、早乙女くん? 時間外にごめんね。ちょっとパソコンが動かなくなっちゃってさ」
「いえ。それで、どういう状況なんですか?」
「明日の会議の資料を作ってたら急に矢印が動かなくなっちゃったんだよ。文字は打てるんだけど。どうしよう」
なんだ。そんなことか。というか、このやり取りは何度目だろうか。
「部長、マウスの電池が切れたんじゃないですか?」
パソコンが動かないというから何かと思えば大したことはない。ワイヤレスマウスの電池切れだった。機械が苦手な部長は退社時にワイヤレスマウスの電源を切り忘れて電池を浪費することがままあるのだ。
私はこっそり安堵の息を吐く。
それと同時に部長が電話口で笑ったように聞こえた。
「どうかしましたか?」
「いや、早乙女くんは変わったなと思ってさ。以前の君ならこんなことで電話してもいいか躊躇われたものだがね。今の君はなんというか、随分柔らかくなったように感じたのでね」
私が変わった?
「そう、なんでしょうか」
「そういうところだよ。以前の君は私の戯言など歯牙にもかけなかっただろう? まあ、私は以前のクールな君も嫌いではないんだがね」
表面上は無難な社会人を取り繕っていたつもりだが、部長には見抜かれていたのか。こんなところも『つもり』だったとは。部長に対する認識を改める必要がありそうだ。
「恋人でもできたのかな?」
前言撤回。やはりただの色ボケオヤジのようだ。
だけど、部長のくだらない冗談がなんだかおかしくて、電話口ではにかみながらお決まりの台詞を言った。
「部長。そういうの、セクハラになりますからね」
部長は私が変わったと言った。柔らかくなったと。
そうだとすればそれは彼のお陰だ。干からびて閉ざしていた私の心を、彼が潤いという鍵で開いてくれたのだ。
会いたい。今すぐ彼に会いたい。会ってお礼を言いたい。
いつか彼に恋人ができて二人の時間がなくなってしまうとしても。それでも、彼が私にくれた時間と思い出は、私にとっての宝物は、決して消えることはないのだから。
私を変えるきっかけを与えてくれたのだから。
だから、もう逃げない。
強い決意とともに携帯電話のボタンを押す。何度も押した数字の並び。数秒のコールの後、彼に繋がった。
「基樹くん? 今何処? 今すぐに会いたいんだけど!」
私は手短に要件だけを告げて電話を切った。この気持ちは直接伝えたい。