第0話 ◆・・・ 白銀の美女と銅褐色の野獣 ・・・◆
ぎぃゃぁあああ”あ”あ”!!!
扉奥から廊下一帯へ突然響いた身の毛もよだつ叫び声は、今も槍を片手に背筋を伸ばして立哨する警備の任に就いていた近衛兵達の表情を一変させた。
廊下を行き交う幾人もの文官や女官の脚が止まった中で、叫び声は立て続けに何度も響いた。
中には、この叫び声が女性の悲鳴だと抱く者も居たが。
最初の叫び声が上がった直後。
それまで廊下で立哨していた近衛兵の一人は即座、壁に備え付けの警報装置を、普段は誤作動させない為に覆っている薄いガラスごと殴るも同然に奥のボタンスイッチへ、鉄籠手の拳を叩き込んだ。
途端に鳴り響いた甲高い音は、一帯の廊下だけでなく同様の装置が備え付けてある関係各所でほぼ同時に耳をつんざく音を鳴り響かせた。
いつもと変わらない平穏な午前中の仕事を終えた後の一時。
王宮で働く大半がお世辞にも美味いとは言えない無料の食堂で寛いでいた時間は、しかし、この警報が鳴った直後。
残りの休憩時間は当然と軽く昼寝でも等を予定していた者達さえ、一瞬で睡魔を吹き飛ばされた。
その頃、起きた事件に最も近い所では、数多の兵達から選りすぐられた上に、そこから更に篩に掛けられた後は過酷とも呼べる特殊な訓練を経てなお残った極一握り。
真実、精鋭と称される女王のみを守護する近衛兵達は、故に最初の悲鳴に動じることも無く。
ある者は警報装置を作動させ。
別のある者は第一報を報せるために、近衛騎士も詰める近衛隊本部へと駆けた。
近衛兵達は、常に自分が立哨する位置によって緊急時には何を行うのかを芯まで染み込ませている。
そして、現場に居合わせた他の近衛兵達も逸早く槍を片手に走り出すと、奥から叫び声が今なお響く両開きの扉を、先ずは構えた槍先を揃え半包囲も同然に囲んでいた。
彼らの眼前に在る今は閉じた状態の両開きの扉は、しかし、たとえ近衛兵であっても許可なく開けることを許されていない。
付け足すと他所の扉とは造りも使われる材質も異なる。
それこそ王宮へ他国の軍が攻め込んだ場合すら考慮の内に収めた特殊な扉は、この奥で生活する女王の私室へと繋がっていた。
い”ゃゃぁぁあああ”あ”あ”
その叫び声は、まるでこの世の終わりを叫んだように響いた。
閉じたままの扉を完全に囲んだ姿勢で、僅かの間に近衛兵達は互いに確認するような仕草と視線を交えた。
既に緊迫も最高潮に達した空気に覆われながら。
最後に無言で頷き合った近衛兵達は、扉に最も近い所で構えていた一人がドアノブを握り締めた。
叫び声の他は奥の状況が分からない。
強く握ったドアノブを、先ずはゆっくり静かに押すようにして。
出来た隙間越しから映す真紅の絨毯が敷かれた廊下には、ただ、そこは人の気配が全くなかった。
廊下に人の気配は無くとも。
僅かずつ押し開いた扉の向こう側。
直後、廊下の先に在るサロンの方から聞こえた椅子やテーブルの倒れる音が、今は扉を完全に押し開けると先に廊下へ踏み入った何人かの近衛兵達は、陶器が激しく叩き付けられた様な音の後で割れて廊下まで飛び散った白い破片を映した途端。
先に入った近衛兵達の脚は、思考より早く全力で駆け出していた。
一瞬で過った最悪の事態。
今日は陛下が宰相の他に、招いた騎士団の副団長と昼食の時間を過ごしていたくらいは把握している。
そのような場を何者かが襲撃した。
万が一にも陛下に何かあれば・・・・・
それ程長くも無い廊下が、この時だけは非常に長いを感じさせた。
またも響いた叫び声は、時の流れまでも滞ったような錯覚を駆ける近衛兵達へもたらした。
だが、現実に近衛兵達は、それこそ全力疾走で廊下を駆け抜けたのである。
更には駆け抜けた勢いそのまま。
悲鳴が響くサロンへ突入も同然に飛び込んだ。
はっきり言って、これが夢の類でも。
否、ならば尚のこと悍ましいを突き抜けている。
それ程までに信じ難い光景だった。
真っ先に飛び込んだ兵などは、ぞっとするほど現実から乖離した光景へ。
精鋭を謳われる彼らさえも腰を抜かすほど怖気付かせた存在は、今も不気味としか言えないシャカシャカと擦る様な音を立てていた。
兵達の眼前では、自分達と同じ位の背丈をした・・・・信じ難い大きさのゴキブリが一匹。
騎士団では最年少で就任した女性副団長を、今まさに襲おうとしていた。
既に仰向けに倒された副団長の着けるミニスカートは完全に捲れ上がると、瑞々しい両脚はゴキブリの幾つもある手に掴まれて大きくM字に開かれていた。
だけでなく。
あろうことか巨大なゴキブリは、その毒々しい口元を顕わになった水玉模様の薄布が覆う股間へ被さる様に埋めたのである。
兵達も見知っている普段から優しい美貌の副団長は、しかし、今は怖いを突き抜けた形相一色に染まると、腰から上をやや起こしたような姿勢で必死の抵抗を繰り返す。
幾度も上った嫌悪が混ざった悲鳴は、そして、副団長の鉄籠手の拳はゴキブリの頭部へこれでもかと叩きこまれた。
―新聖暦2086年10月某日―
後に王宮内でのみ密かに囁かれた『人型ゴキブリによる副団長襲撃並びに強姦未遂事件』は、勅を伴う緘口令によって王宮から外へは噂の一つも流れ出なかった。
本件は、ただし、未遂が付いた様に最後の一線だけは死守された。
また、本件でさえ根も葉もない憶測流言は数多に及んだが。
ここだけは真実である。
事件は、先に突入した近衛兵達に遅れること1分。
既に騎士団内で『右に出る者は無し』と、周りからも認められた双剣を使う騎士団長が駆け付けた所で瞬殺の終結へと至った。
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「ゴッキー・・・次は無いからな」
直後、告げた騎士団長の右手の指先がパチンッと澄んだ音色を鳴らした途端。
ぴぎゃぁぁああああ”あ”あ”
一瞬で頭のてっぺんから爪先までを駆け抜けた強めの電流は、受けた側の踊り狂ったような痙攣と断末魔を抱かせるような叫び声だけでなく。
執行された刑を見届けた者達の誰もが手にしたハンカチなどで鼻と口元を覆う仕草をする程、辺り一帯へ焦げの混ざった酷い異臭を漂わせた。
「マリューさん。本当にごめんなさい」
「いえ、その。エクセリオン様が悪い訳ではありませんので」
最もな被害者である副団長に対して、被告の"契約主″となってしまった騎士団長は、これ以上ない直立の姿勢で腰から上を深く傾けた。
『電撃の刑』等と呼ばれる騎士団長にしか執行できないそれは、騎士団長がゴッキーと呼ぶ見た目は人間の大人くらい大きな雄ゴキブリへ。
被害者本人は無論、この日も当然と女王や宰相は揃って刑の執行を見届けに姿を現すと、ティアリスを筆頭に主の臣下達が被告を囲む様にしての勢揃いの中、百回目の電撃がゴッキーに下されたのである。
アスランは、つい先日に行った召喚の際、そこで殆ど一方的に支配下へ置かされた・・・・自らを『大地在る限り不滅の王者』と称する精霊へ。
その余りに長い名前を今は『ゴッキー』の略称で呼んでいる。
そして、契約から間もない日数で若い女性に対して悪事を繰り返した雄ゴキブリは、主が被告だけにのみ新設した『一罰百雷』の刑へ。
此度も粛々と処されたに過ぎない。
―ゴッキンヴェルト・イラ・アウレウス・アドゥーストゥス・クカラッチャ・ティエーラ・レイ14世―
途中で舌を噛みそうなほど覚えるのも面倒な長い名を持つ見た目は人間の大人ほどもあるゴキブリ。
だが、その手足はゴキブリ同然のもの以外に、どう見ても人間の手足にしか見えない二つの腕と二つの足が付いている。
挙句、背後からは頭部の触覚も含めて瞳も口も。
此方側からだと間違いなくゴキブリにしか見えない。
それが、立った姿を正面から映すと、人間で言うなら顎の下辺りに見た目も人間の若い男性の顔が在る。
しかも、その顔だけに限定すると。
間違いなく。
そこだけは爽やかな笑みが良く似合う青い瞳の金髪美男子だった。
付け足すと更に、美声の持ち主であることの他、普段から脛に毛の生えた人間の足で二足歩行する精霊でもあった。
アスランが先日の召喚で契約した。
内、一人とも一匹とも呼べるゴッキーは、ただ既に『女の敵』という認識の最たる存在へ至っていた。
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「(・・・アスラン様。もっとこう意識して背筋を伸ばして、そのまま顎も引いてください・・・)」
声の感じだけで言えば、優しい女性を想像する事が出来る。
ただ、事実、声の持ち主の性別は女である。
冬を表す様な白さの大きな体躯と力強さを抱かせる長い脚は、背中に在る大きな翼が雄々しいを抱かせた。
縦に長い顔は、凛々しい面持ちの中に目立つ小さくとも金色の細長いダイヤ型の斑と、頭からはツンと突き出た様な整った耳が特徴で、後は長い尾と鬣が光沢のある銀色をしている。
彼女は、アスランの召喚に応じて契約を交わした。
そして、自らも好んでアスランを唯一の主と頂く聖獣の天馬だった。
「ユイリン。こんな感じかな」
最初、ユイリンと名乗った天馬は契約を交わした後。
自らの権能で馬具を身に付けると、その背に主を跨らせた。
まぁ、その際には主の脚が鐙へ全く届かなかった問題も在ったが。
ユイリンはこれも権能で調整すると、今は主の足裏が鐙へしっかりと乗せられている。
反対に鞍に跨った姿勢で蒼い手綱を握る主は、今日に至っても未だぎこちなさが強く残っていた。
最初は全く届かなかった鐙は、そこから直ぐに調節された事で今はしっかり着いているのだが。
今日までの数日間で聞いた限り。
主はこれまでずっと一人で馬に乗った経験が無いらしい。
付け足すと、こうして雲の遥か上を、地面と同様に駆け抜ける等の経験も無かった。
「(・・・上半身の姿勢は今の感じを忘れないでください。後はもうずっと手綱を握る手に力が入り過ぎています。下半身は、何度も言いましたが。脹脛で私を軽く挟む様にして後は膝の力を抜いて下さい・・・)」
「こ、こうかな」
「(・・・アスラン様。太腿から力が入ってガチガチに緊張していますよ・・・)」
即答で返って来る楽しそうな呆れた声も。
アスランから言わせれば、それだって訓練場で乗っていた時までは、まぁ・・・今ほどには緊張もしなかった。
内にそうも抱くアスランは、しかし、今日も少し前まで雲の上を上昇したり下降したりを幾度も繰り返した。
それもいっぱいに広がった左右の翼が後ろへ白く綺麗な筋を引くと、体感的には凄い速さの中で右へ左への連続した宙返りもしている。
だから当然、落とされたくない怖さが全身を固くするくらい緊張でガチガチにしていたのである。
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―ハンスさんもマリューさんも自分だけの騎馬を持っている―
発端は此処だった。
ただ、それ以前からもうずっと。
アスランは仕事で王宮に在る騎士団本部と王都に在る鎮守府とを行き交う等の移動を、ティアリスが跨る馬に乗せて貰っていた。
背中からティアリスに包み込まれる様な感触は、凄く安心出来るものがあった。
だから、その事自体を恥ずかしい等とは思いもしなかった。
初夏の訪れも去った頃のある日、イザークがハンスから『役務もあるし、そろそろお前にも自分だけの騎馬が在っても良いだろう』と、そういう話を耳にした。
ふと、その話を耳にしたアスランは、自分も自分だけの馬が欲しいを初めて抱いた。
それからしばらくして、アスランはシルビア様から尋ねられた6歳の誕生日に何が欲しいか・・・・・
素直に馬が欲しいを口にしたアスランはシルビア様から、聞くと実に納得出来る答えで今回は諦めた。
シルビア様は、アスランが納得して今は諦めた件を、けれど、そこから。
それこそ何とかして叶えようと手を尽くしてくれたらしい。
だけど、未だ背も低い子供のアスランには、それも含めて見合った騎馬が見つからなかったのだとか。
この辺りは後にカーラから絶対の秘密だと言われて聞き知った。
それとは別に、アスランも騎士団の厩舎で働く者達から聞いた話で、単に跨る程度なら骨格と肉付きの良い子馬もいる。
しかし、日頃から乗るための騎馬となると、調教が欠かせない点の他に長い距離を走れる体力も求められる。
つまり、単に跨る程度の子馬では希望に沿う事が出来ないどころか。
成長期も最中の子馬が、もし怪我をすれば。
もう二度と騎馬には出来ない。
長年にわたり馬に携わって来た厩舎の職員からの説明は、故にアスランはこの事も当然と納得する事が出来た。
それでも。
シルビア様は、今直ぐは騎馬を与えられない代わりに、指導者を付けてアスランが乗馬の練習をする事は構わない。
寧ろ、自分だけの騎馬が欲しいのであれば、手入れや世話の仕方も含めて勉強する必要がある。
自分だけの騎馬であれば、それくらいは当然。
これも、アスランは納得する事が出来た。
そういった事までが在った後。
アスランは馬の世話についても学びながら。
いつかの日のために、一人で乗れるように乗馬の練習を始めた。
練習に使わせて貰った馬は、騎士団の厩舎で特に誰かのものという訳ではない馬を借りると、ただ最初から自分の背丈と全く釣り合わない大きな馬は、指導役のティアリスが乗馬の練習中ずっと引き綱を握ってくれた。
先ずは鞍に跨る時の正しい姿勢から始まって、自分が乗っている馬をゆっくり歩かせるところから。
そうして、月日はあっという間に秋を迎えた。
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馬を召喚すればいい。
アスランへ最初にそう言ったのは、呪いで結ばれたエレンだった。
エレンは毎日の様に馬に乗る練習を続けるアスランから最近になって自分だけの騎馬が欲しいを聞くと、殆ど即答でそう告げた。
「馬を召喚する・・・の?」
この時は相変わらずなエレンの言葉へ呆然と返したアスランも、そんな事もお構いなしなエレンの方は当然と胸を張って「そんなの。出来るに決まっているじゃん♪」と、出来て当然だと弾んだ声と笑みを見せていた。
まぁ、それで思い出した。
とでも言うべきなのだろう。
もう一年以上も前に、その時に教えて貰った『召喚魔法』は、確かその中に守護精霊がいる。
「なぁ、エレン。エレンはつまり、召喚魔法で馬の姿をした守護精霊を呼び出せば。そういう意味で合っているか」
「そうだよ♪」
此処も即答だった。
だが、アスランは頷いた。
エレンとは、これでも付き合いが長い。
今更、あれこれ聞くなど。
時間の無駄だと分かり切っている。
諸々あって一区切りつけた後。
アスランは久しく『すっかり忘れていた』召喚魔法を行使した。
召喚魔法は、そこでは今一番欲しいものを強く思うことが肝要。
アスランは『僕だけの騎馬』が欲しいを強く、殊更強く思った。
行使前の諸々というのは、もう一年以上も前の事について。
初めて使った召喚魔法は、今になって思えばアスランの方が神界へ招かれた。
ミーミルとレーヴァテインの時もそう。
それから・・・・・もう一人・・・・・いた筈。
ふと思い出したアスランは、精神だけを招いたもう一人を、それがどのような存在だったのか。
神と呼べる存在だったのは間違いない。
それと盟約も交わした。
しかし、それ以上は思い出せずに、ただ、強く引っ掛かった感だけが残った。
だから何とか思い出そうと難しい表情になると、無意識の内に鼻を唸らせていたそうだ。
それこそ、傍で見ていたエレンから「ねぇ、何をうんうん唸っているの」等と、訝しがられたくらい唸っていたアスランは、そこから精神だけが神界へ赴いた事を話しているティアリス達を頼った。
ティアリス達は、そしてアスランの精神が神界へ赴いた所までは憶えていた。
けれど、そこからを一様に憶えていない。
アスランは自分も含めて知っている全員が、揃って同じところからを憶えていない部分へ疑念を抱いた。
疑念は、しかし、リザイア様の見解によれば、交わした盟約の中でも微妙に異なる何かが働いているのではないか・・・・・・
リザイア様の相変わらずな言い回しには、それはそれで今更な感もある。
ただ、アスランは自分と神と呼ばれる存在とでは、理から違うくらいを全てではないが理解っているつもりだった。
そして、思い出せない事が仮に意図的な何かだとしても。
交わした盟約の中身は憶えている。
アスランは自分が盟約を違えない限り。
いつかまた会うことも出来るだろう。
そうも抱くと一先ず疑念へ区切りをつけた。
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一年以上ぶりに行使した召喚魔法は、ただし、神界へ招かれるということは無かった。
召喚式を最後まで唱えても。
記憶に残る何らかの魔法陣のような紋章の前に立つ。
そういう事も無かった。
代わりに、唱えたアスランの目の前で、訓練場の地面にはマナ粒子を立ち昇らせながら走る太い線が緩やかな弧を描くと、それはやがて一つの大きな円を現した。
更に出来上がった円の内側では、立ち昇るマナ粒子が青くも白くも見える線が幾つも走り出している。
僅かの後、それはアスランが今まで見て来たものとは異なる紋様を描いた途端、立ち昇っていたマナ粒子は密度と勢いを急激に増しながら。
瞬く間に円の内側を見えなくする程に満たした。
強い勢いのまま濃い密度によって内側を揺れるカーテンで隠したようなマナ粒子は、その内側で起きた最初の異変に逸早く気付いたのがティアリスだった。
「マイロード。何か来ます」
短い声の中に、ヴァルバースと戦っていた時を思い出させる様な強い緊張が籠っていた。
直後。
マナ粒子が作った壁の向こう側から聞こえた若い男性を思わせる叫ぶ声の後から。
今度は子馬ほどはある大きな濃い茶褐色の影が、ビュッんと勢いそのままエレンの方へ飛び掛かった。
「エイレーネシアぁぁあああ!!」
大きな茶褐色の塊は叫びながら。
突然の事に反射的な悲鳴を上げたエレンを、空から押し倒すような勢いは刹那。
ティアリスが横から斬り上げた神速の一閃によって、真っ二つに割れた途端。
二つの塊は切り口からそれぞれの端へ向かってまるでマナ粒子を風で煽ったような勢いで拡散すると、跡形も無く消え去った。
悲鳴を上げたエレンも、それから召喚を行ったアスランも。
飛び掛かって来たそれが何なのかも分からずじまい。
反対に剣を抜いたティアリスだけは、その瞳が空に映った大きな異形を捉えていた。
「まさか・・・・ですが、あれは間違いなく天馬」
やや震えた感もあるティアリスの声でハッとしたアスランが空を見上げた時には、既に地上へ降りて来る純白の翼を広げた姿の白馬が映っていた。
「(・・・貴方が、私に声を届かせた"主様″ですね・・・)」
この頭の中へ直接話しかける感の声は、それだけでアスランは相手が神や精霊の類を抱いた。
地面に降り立った所で大きな翼を折り畳んだ白馬は、声の感じがアスランには女性くらいも思わせた。
「貴女は・・・僕が行った召喚で現れたのでしょうか」
「(・・・自分だけの馬が欲しい。そう聞えた私は、そこに邪気を感じませんでした。それどころか、とても惹かれる感を強く抱いたのです・・・)」
「だから、ここに来たの」
「(・・・はい。ただ、まさか未だ幼い。それも人間の子供が聖獣たる私に声を届かせたなど。私も少なからず驚かされています・・・)」
相手は驚いたとも言ったけど。
声の感じではそうも思えない。
話している間はずっと落ち着いた感で聞こえていたし、優しい声色だとも思っていた。
ただ、アスランはそこで再びハッとした面持ちを見せると、直ぐに意を正して向き直った。
「自己紹介が遅くなりました。僕の名はアスラン。アスラン・エクストラ・テリオンと申します。今はシャルフィ王国の騎士をしています」
「(・・・私は、ユティータリエーヌ。ですが、主であるアスラン様にはユイリンと呼んで頂きたく思います・・・)」
「僕がユイリンの主になっても・・・良いの」
「(・・・私は、私以外の同族が数多いる世界で、そこで私だけに聞こえた声に惹かれるまま来たのです。アスラン様・・・・・私の背に乗って頂けますか・・・)」
ずっと翼のある白馬から真っ直ぐ見つめられている。
アスランは、会話の最初から自分だけを見つめてくれるユイリンへ頷いた。
「一つだけ。僕とユイリンとは、その、何かの契約を交わすのかな」
「(・・・私は主であるアスラン様へ。そちらの人の姿をした"神″と同じ契約を求めます。そして、不変の忠誠を誓います・・・)」
未だ話していないティアリスの正体が剣神であることも察している。
そんな印象も。
けれど、アスランはこれも間を置かず頷いた。
「分かった。ユイリン・・・これからよろしくお願いします」
純白の天馬は、アスランの声に小さく頷いた様に見えた。
けれど、ユイリンと契約を交わした所までを待っていたかのように。
既に消え去った魔法陣の在った場所には、ティアリス自身が一度は斬り裂いた・・・・・
「ヒャッハー!! 我こそは大地在る限り不滅の王者。神々しい余の名は、ゴッキンヴェルト・イラ・アウレウス・アドゥーストゥス・クカラッチャ・ティエーラ・レイ・・・今は2世であるぞ。下々の者達よ。さぁ平伏すが良い」
奇声を上げた後は威厳たっぷりなのがバカでも分かる様な声だった。
だが、アスランの唖然を隠さない第一声は「ゴキブリが喋った」に留まった。
どう見ても、人間の大人ほどはある大きなゴキブリが一匹。
それが今は自分と同じ言葉を発している。
「ふ~む。よくよく考えてみれば。今現在で平伏しているのは、余の方であるな」
そう言った直後。
地面に這い蹲っていたゴキブリは、頭を上にムクっと身体を起こした。
それは腕立て伏せから起き上がる時の動作によく似ていただけでなく。
アスラン達の瞳は、顕わになった腹側に映った予期しない光景に見開いた。
金髪に青い瞳の若い男性を思わせる顔・・・受けた衝撃の追い打ちは更に、眼前で途中から生え伸びた様にも映った二本の腕と脚は、しかし、どう見ても人間と同じものだった。
人間の脚でしっかりと立ち上がったゴキブリは、そのまま腕を組むと金髪をさっと揺らすように一度だけ身体を横に振った。
「フンッ。どうやら余の真の姿に声も出ぬほど驚嘆したらしいな。だが、余が用のあるのはエイレーネシアただ一人。貴様は余の種を孕む栄誉を拒んだだけでなく・・・・あろうことか、人間の種を孕みたい等と」
今日こそは羽交い締めにしてでも孕ませてやる!!
怒鳴るとも脅すとも言える声でエレンがアスランの背中に隠れるように距離を取るのと殆ど同時に飛び掛かったゴキブリは、だが、ここまで黙って聞いていたアスランの右手の指先が、パチンッと澄んだ音を鳴らした。
あぎゃぁぁああああ”あ”あ”
エレンに飛び掛かったゴキブリは、その手がエレンに届く遥か手前で真下の地面を突き破った自らと同じ色合いの槍群によって、全身を蜂の巣も同然に突き破られた。
原型を留めないほど無残な姿になったゴキブリは、再び瞬く間の中で拡散したマナ粒子と化しながら消え去った直後。
「ヒャッハー!! 我こそは大地在る限り不滅の王者。神々しい余の名は、ゴッキンヴェルト・イラ・アウレウス・アドゥーストゥス・クカラッチャ・ティエーラ・レイ・・・今は3世であるぞ。下々の者達よ。さぁ平伏すが良い」
この後。
殆ど同じような流れを数回。
そして、主からゴッキーと略称で呼ばれるに至ったゴキブリは、ただ、その日の内に8世へ至った。
そこから更に数日しか経っていない中で、ゴッキーは先ず、騎士団の共用施設に在る露天風呂で2つ世を増した。
規則によって女性だけが使える時間帯の露天風呂では、脱衣所に侵入すると先程まで身に着けていたであろう衣服を漁っただけでなく。
今日も一日かは別に、女性たちが履いていた下着を食い散らかすも同然に貪った後は、露店の大浴場へ強襲。
正に地獄絵図・・・そういう表現での証言も上った惨劇は、これも契約主が一閃して片付けた。
他にも女王が宰相の監視付きで我が子との入浴中。
この時にはリザイアとエレンも同じ浴場で寛いでいた所へ。
不滅の精霊は当然と裸の女性達へ襲い掛かった。
そして、この件だけで世を3つは増やしたのである。
ゴッキーはアスランに対して、一方的に契約を結んだ。
アスランが後になって知り得た事は、精霊が人間も住む世界へ顕現するためには素質を持った人間との間にパスと呼ばれる繋がりを作らなければならないらしい。
アスランは、エレンだけでなくティアリスのような神とも繋がりを持った。
しかも、此度は聖獣とも繋がりを持つと、つまりは素質に溢れている・・・らしい。
まぁ、入浴中の女王や宰相がゴッキーを前にして如何に取り乱したか等は今更である。
余談ではあるが。
この女の敵以外の何者でもない扱いのゴキブリについて。
「余はな。若く美しく瑞々しい雌。それ以外は眼中にない」
こう高らかに宣言しては、死など全く恐れない猛者へ。
一部からは既に先代の騎士団長以上。
そういう声すら囁かれていた。




