第17話 ◆・・・ 事実の裏側 ・・・◆
暗い室内を淡く照らす月明かり。
今し方から眠りに就いた主の子供らしい寝顔を一人見つめながら。
ティアリスはあの場面を、今宵は鮮明に思い起こしていた。
暴走。
そう表現しても過言にはならない主の憤怒が招いたもの。
後からミーミルがこれで二度目だと。
一度目は、自分がレーヴァテインに殴られた時だった。
主の足元から頭上まで。
その身に纏うようにして吹き荒れた金色の粒子は、主が兵舎を睨んだ直後。
建物全体へ突如、幾つもの亀裂をそれも一挙に走らせた。
地面から伸び上がるように割れ走った大小無数の亀裂。
オットーとロッシュが居た兵舎は間もなく。
地響きを伴って崩れ落ちた。
兵舎は瓦礫同然となった。
直後は生き埋めになった者達もそれなりに居た。
結果的にだが。
この時の生き埋めになった者達の方が未だ軽傷と呼べた。
建物の崩壊からは逃れた騎士と兵士達の誰もが恐怖した。
オットーとロッシュの二人は、自分達を名指しで睨んでこう至らせた主へ。
崩壊から転げ落ちるようにして逃れた後は、揃ってなんとも情けないくらい青ざめていた。
兵舎に居た者達は皆、これで分かっただろう。
自らが敵にした幼子が、しかし、この程度は軽く出来る存在だという事へ。
『それが今のシャルフィの騎士だと言うのなら。私は誓いと誇りを汚したシャルフィの騎士を、私の剣で終わらせるまでです。貴方達にはもう・・・カミツレを掲げる資格すら与えられません』
主がオットーと他の騎士達を一纏めに叱りつけた。
だが、声色と気質。
主のそれと明らかに変わった。
吹荒れていた筈の金色の粒子は、徐々に弱まりながら消え去った。
私には聞き馴染んだ声色。
それは間違いなく姉の声だった。
この時の主は、後から『自分を後ろから見ていた』という不思議な体験を語っている。
討つべき者達を討った後は意識を失って、それから目覚めた後の主は、私が把握した限り。
キレた後の記憶が殆ど無いに等しかった。
そして、故にもう一人の自分のような存在が剣を振るっていた。
後ろからそうした景色を見つめていたと語っていた。
私は主へ真相を未だ話していない。
無論、レーヴァテインとミーミルも同じ。
暴走した主を姉が強引に押さえた。
それも、コールブランドの力まで借りて・・・どうにかだったらしい。
・・・・・ティア。アスランに宿った力は正直なところで。既に私一人では押さえられません・・・・・
王宮に居た姉は暴走した主を押さえるべく。
リザイア様の手を借りると、自らの精神を強引に主の肉体へ干渉させたそうだ。
そうやって、力づくで怒り一色となった主の精神を、強制的に肉体から引き剥がした。
しかし、精神干渉は危険を伴う。
まして、他者の肉体を乗っ取るような強い干渉は、それで乗っ取られた側の精神が戻らなくなる危険性が小さくない。
逆を言えば、乗っ取った側さえ元の身体へ戻れなくなる危険性を孕んでいる。
そういう危険極まりない禁術。
それでも。
危険だと理解っていて、姉は行使した。
結果。
主の暴走は、これで兵舎を崩壊させた程度に留められた。
コルナとコルキナは、これもあるから今も主に一定の距離を置き続けている。
二人が選択した役割からすれば、今は未だ致し方無いのかも知れない。
身体の成長以上に、心が育つのには時間が要る。
否、時間は結果の一つでしかない。
歩む中での蓄積。
そして、きっかけさえあれば。
心という部分は瞬く間の成長すら遂げられる。
・・・・・マイロードはその点。同年齢の他と比較しても。今の段階で十分に大人なのは間違いありません・・・・・
ただ、コールブランドの指摘。
主は確かに、私も善き範と言えるくらいの者達に囲まれて来た。
主が語る女王などは聖人君子に等しい。
・・・・・これも現実だと言える部分を知らなさ過ぎるマイロードは、その点は確かに未だ子供なのでしょう・・・・・
コールブランドの指摘と危惧は間違っていない。
だが、正しいと言う気にもなれない。
マイロードは優しいのだ。
自らが痛みを知っているが故。
故に正義感が強い。
私は、マイロードの剣で在ることを誇りに思っています。
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眠っている主の表情が少しだけ、見つめるティアリスには笑ったように映った。
「今宵は良い夢を見れているのでしょうね」
そう小さく呟きながら。
意識は再び、あの場面を映し出した。
姉は乗り移った主の口から腐った者達を、当然と叱り付けた。
女王が主に与えた幼年騎士の制服。
その上着は脱ぎ棄てると火を放った。
同時に姉は、自らが主に与えた正装を纏った。
アストライアは、姉自らが見定めた名を継ぐのに相応しい後継者へ託された。
女王が与えた騎士の制服も悪くはないが。
・・・・・マイロードにはアストライアの方が。私は遥かに似合っていると思います・・・・・
主に与えられた幼年騎士の制服。
それを何故、姉は焼いたのか。
ただきっと、主は奴等とは違うのだと。
そう明確に示したかった部分はあるだろう。
普段そう見えないのが玉に瑕ではあるが。
姉は、あれで騎士の在り様には矜持すら持っている。
シャルフィの騎士。
姉様が王だった頃。
当時のシャルフィにおいて、騎士は特別な存在だった。
周囲がそう抱くくらい。
私達はカミツレに相応しい騎士で在ろうと、厳しく己を律していたのだから。
騎士の在り様。
現在のシャルフィにおいて、この部分は救えないくらい腐り切っていた。
だが。
これも悪戯に利権を与え続けた時代の中で腐ったのだ。
全ての騎士がそうなった訳ではないが。
しかし、利権とは人を腐らせる毒でしかない。
詰まる所。
私達が居た当時と比較して。
この時代のシャルフィの騎士には利権が集まっていた。
故に腐敗した。
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姉に叱られたオットーを含めた騎士達。
奴等に反省は無かった。
一度は恐怖に青ざめもした連中は、しかし、数を頼みに・・・としか見えない。
俗に、雑魚は群れると強気になる。
とでも言おうか。
自他の力量差を見量る目を持ち合わせず。
それ以前の、騎士としての資質さえ備えていない。
我々は貴族で、貴族とは一握りしかいない優れた者達である。
そして、貴族はそうでない愚かな民を支配することで国を豊かに導く。
愚かな民は、優れた貴族に支配されなければ生きる価値すらないのだとか。
オットーだけでなく。
ロッシュも同じような世迷言を吠えた。
誰かは知らぬが、恐らくは貴族の生まれで騎士になったのだろう。
オットーとロッシュの身勝手極まりない戯言に賛同する声を上げるバカが大勢いた。
姉がキレたのも当然なのだ。
こういう奴等を、姉は絶対に認めない。
女王と近衛の騎士達が駆け付けたのは、丁度この辺りだった。
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主の暴走を押さえようと乗り移って。
なのに、姉はキレた。
そんな馬鹿姉には、事件の片付いた後から私が拳の雨を降らせたくらい。
寧ろ、これくらいで済ませたのだから寛大だろう。
女王は宰相と近衛の騎士達を引き連れて現れた。
しかし、このタイミングでミーミルが計った。
女王の側からは見えている。
一方でオットー達からは、正門の向こう側に居る民は見えても。
女王と近衛の騎士達は見えていない。
幻を用いた認識阻害の魔法。
魔導では不可能でも。
ミーミル程の魔法の使い手であれば。
それでこれくらいは出来る。
エイレーネシア姫とリザイア様。
二人から日々学んでいるマイロードは、それでも未だ『幻を使える』所には至っていない。
ただ、ミーミルはマイロードの素質について、『我が君と私とは比べるまでもない』くらいは話していた。
だからきっと。
マイロードも何れは幻を使い熟せるようになる。
そうしてまた成長したマイロードとの手合わせはきっと・・・・・
ふと、外の気配が騒がしくなった。
とは言え、主の眠りを妨げる程でもない。
耳を澄ませたティアリスの鼓膜は間もなく、今度は呆れの吐息を漏らしていた。
どうやら外の方ではバカ二人。
マイロードが信頼して任せている筈の仕事を他所に、恒例のじゃれ合いをしているようだった。
そして、夜勤の兵士達が盛り上げている。
「(・・・まったく。マイロードが目を覚ますような事になれば。当然ですが、二人とも覚悟するように・・・)」
隠す必要もない怒りの混ざった思念。
外は瞬く間に静けさを取り戻した。
二人に釘を刺したティアリスの意識はまた、姉が行った粛清の場面へ赴いた。
ミーミルは独断で、内側からは外側が正しく捉えられない結界を敷いた。
それが何を目論んでのことなのか。
ただ、奴らを公然と粛清するためには、それも良いのかも知れない。
結果でしかないが。
ミーミルの策は功を奏した。
オットーとロッシュは揃いも揃って愚かだった。
マイロードを孤児だと蔑む声は、そんな溝鼠を騎士にしてしまった女王さえ愚かだと罵った。
挙句、あの場に居合わせた他の騎士達までが当然と女王を罵る等。
そんな救えない騎士達に仕えた直属の兵士達は、最も哀れだった。
マイロードと女王を罵る。
その発言内容もまた勢いを得てより辛辣になった頃。
気が大きくなり過ぎたとも。
自分達で作り上げた場の空気に酔い痴れたとも言えよう。
オットーは鞘から剣を引き抜いた。
雑魚らしくなっていない構えで、抜いた剣先をマイロードへ向けながら吠えた。
『栄光あるシャルフィの騎士に溝鼠が紛れる等。そんなことは絶対に在ってはならないのだ』
剣を抜いたオットーに続けとばかり。
自らも剣を抜く他の騎士達は、そして、ロッシュの歪んだ饒舌。
『だから女が王位に在る等は困るのだ。ましてや王が女で、宰相までも女ではな。女はただ股を開いておれば良いのだ』
続く声は更に。
ああ、そうか。
女王も宰相もまだ男に悦ばされるを知らんのだったな。
三十にもなって女の悦びもしらん等。
だが、三十では股の潤いも枯れていよう。
それでも。
血を絶やさぬためには。
枯れて腐った股でも。
高貴な男の種は入れてやらねばな。
ロッシュは己に酔い痴れた。
その終わろうともしない下卑た声へ、周りの騎士達は可笑しいを隠さない歓声を上げていた。
騎士王と謳われた姉が激怒したのは、だから、当然なのだ。
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キレた姉の精神は、それで乗り移った主の肉体にも作用した。
再び主の身体を纏った金色の粒子。
ただ、姉の怒りはマイロードのそれよりも吹荒れた感がなかった。
暴走したマイロードと違って、姉は力の制御が出来ていた。
両手にコールブランドを握りながら。
姉は、そして自然体だった。
溝鼠と蔑んだ相手が剣を握った。
まるでこれを待っていたかのように。
オットーの下卑た唇は、当然と『殺ってしまえ』を吠えた。
そして、兵舎に詰めていた騎士と兵士達は、そんなオットーの命令に従順過ぎた。
・・・・・それ故、あの場では一人残さず討ち取られたのです・・・・・
まぁ、それでも。
姉はキレたところで、無差別な殺戮をする等も絶対にない。
感情だけに流されない強い精神力も備えているからこそ。
王足り得るのだ。
姉が握ったコールブランドは、それで腕の方は錆びが落ちていた。
マイロードから一本取られた。
これは相当効き目があったのだろう。
未だ幼い主の身体で、乗り移った姉の剣戟は、傍から見れば恐ろしいも軽く突き抜けた。
それくらいも当然だろう。
姉は主の身体で、あの場を目にした全ての者達へ。
絶対的な実力差だけを焼き付けた。
多数を相手にして、それをたった一人の子供が全滅させた。
それこそ、誰もが姉の踊るようなステップから繰り出される一太刀での斬殺。
実際、姉のそれは剣舞。
コールブランドとか騎士王と呼ばれるようになる以前。
姉は『剣の舞姫』を自称していた時期もある。
独特のリズム。
と言うよりは変則なのだが。
何にしても視線を集める舞の鮮やかさは、同時に一太刀で斬殺する虚を作る。
斬られた事すら直ぐには理解できない中で。
これが峰打ちでなければ。
オットー達は痛みを感じる間もなく絶命しただろう。
だが、此度は峰打ちに留めた。
鎧はバッサリ斬られたが。
鎧に守られた肉体は、斬られたところが青黒い痕を残すと、骨が砕けた程度で済まされた。
『斬殺しなかったのは、それをアスランの心が望まなかったからです』
後に私へ殺さなかった理由をそう述べた姉は、故に誰一人殺さずに片付けたのだと。
そして、粛清を終えたところで。
姉の精神は、ようやく主の肉体から離れた。
主が気を失ったのは、姉の精神が肉体から離れたことに因るもの。
無理やりに引き剥がされた主の精神は、だから本来の肉体に定着するまで時間が掛かる。
それで意識が無かったのだと。
この辺りは我等にのみ。
禁術を使ったリザイア様が、その性格ゆえに面白おかしく話してくれた。
それでも。
直後は事件を起こした側の者達が全員。
幼い騎士の剣によって斬殺された。
これは見届けた側が一様にそう思った。
それくらい、剣を交えた場面は最初から一方的に過ぎた。
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兵舎で起きた一部始終。
ティアリス達は、主の身体で剣を交えた姉に対して。
この時には両者を止めようと行動を起こした近衛騎士達を、脅迫も同然に制止した。
例え女王の命令でも。
それで横槍を入れるような行為を認めなかった。
ではなく。
近衛の騎士達を制止した理由は一つ。
姉の実力に見合わない者達では、それで姉が振るう剣の巻き添えを被る。
そうさせない為だけで。
後は言葉で説明する時間も無かった。
故に脅迫も同然の制止をかけたに過ぎない。
粛清までを終えた後。
事件中も兵舎に居た者達の内。
崩壊した建物が原因の生き埋めになった者達は無事だった。
打ち身や打撲程度で済んだのだから。
後は武器を手にした結果、それで討たれた者達と比べれば。
まぁ、無事と言っても差し支えないだろう。
一方で、オットーとその命令に従った者達。
此方は今となっても、病院での寝たきり状態から抜けられていない。
もっとも。
退院した後は直ぐ、そこからは牢獄が待っている。
・・・・・姉様の剣は、手加減しても容赦ありませんからね・・・・・
「・・・ですが。それ故に、剣の軌跡が際立った」
記憶を辿る最中、無意識が紡いだ小さな声。
コールブランドを使い熟して初めて描ける。
これこそ閃と呼べる光を放つ軌跡。
今の時点で、主も修行中にコールブランドを握ると、僅かでも光る軌跡を残せるくらいにはなった。
まぁ、姉のとは全く比べられないのだが。
「それでも、だからと言って5歳で辿り着ける域では無いのですが」
そう。
マイロードの実力は、無自覚も突き抜けた本人だけが理解っていないのだ。
それでも。
絶対の不敗を冠する『コールブランド』の名は、それを名乗ることを許された唯一人。
その唯一人から後継者に選ばれた主は、やがて・・・・・
主を想うティアリスの胸中は、何れ来るその時。
胸の内は、だから複雑で占められた。
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カーラは当然とこの日も政務を片付けた。
しかし、ここしばらくは女王への小言が右肩上がりで増えている。
それは結局のところで、小言を言わなければならない自身のストレスが増えている事でもあった。
だが、こうして寛ぐことの出来る私的な時間でさえ。
無礼な訪問はつい先ほど。
私と陛下にだけ。
あの姉妹の、まるで蔑んだような目つきと物言いは相変わらず。
気分を解すアロマを利かせた入浴中。
無礼者は浴室に突然と現れた。
そして、一方的に言った後。
これも忽然と姿を消した。
「・・・・まさか。ですが、確かにこれらは全て」
入浴中の私へ言いたいだけ一方的に言ったその内容。
着替えの上に置かれた一冊のノートは、嫌疑を明かそうにも証拠の一つさえ見つからないでいた。
「何故・・・この件をアスラン様が」
ノートに記された不正を明るみにした記述。
コルナは基になった証拠の文書が、今は鎮守府で管理されている。
『証拠となる原本は、今も主様の所でティルフィングが管理しています』
ただし、その原本を容易に渡す気も無い。
「・・・なるほど、アスラン様は単に不正を正す。その程度で収める様な器などではない。という事も・・・言いたかったのでしょうね」
ノート全部に目を通して初めて理解る部分。
これは不正を正すという作業を、一から勉強した記録だった。
そして、不正を正しながら。
正した先を考えている部分の記述。
これを形にするためには、ノートの内容ではまだまだ足りていない。
現実には制度そのものを、根底から変える必要もある。
なのに、カーラの胸は躍っていた。
自身がこうも興奮を抱いたのは、綴られた未来の展望。
記された内容は、そこに奇抜なアイデアと呼べるものは無く。
寧ろ、これは現実目線で、客観的に導入出来ると思えた。
ただ、今のシャルフィの制度では無理が付くほど困難なだけ。
必要な制度を作り関わる法整備等を順に施行して行けば導入へ至れる。
未だ初等科にさえ通っていない幼い身で。
これだけの構想を描いたアスラン様は、私をまたも驚かせてくれた。
時計の針は午後の9時を過ぎていた。
しかし、カーラは急ぎ身支度を整えると託されたノートを片手に、足早に私室を後にした。
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最近まで、ベッドには可愛い我が子がいてくれた。
我が子を胸に抱きながら眠る夜は、それで表現しようがないくらいの幸せでもあった。
『シルビア様。僕は騎士として、任命された統括責任者という立場からしても。ハンスさんが復帰出来るまでは鎮守府に寝泊まりします』
発足して間もない特務隊が、そこで起きてしまった事件。
シルビアにとっては我が子と引き離される。
そういう意味では大事件でも。
天敵となる宰相は当然と頷いた。
『確かに、現在の法と制度では騎士を不在には出来ません。アスラン君の主張は、これも確かに未だ幼い点は考慮する必要があります。しかし、夜通し起きて仕事をするというのでなければ。夜は代理を立ててアスラン君には寝泊まりだけして貰う。それであれば問題は無いかと』
問題大有りよ!!
猛然と胸の内で怒鳴ったシルビアだったが。
『第一、この件では何の対策も考慮する時間を設けておりません。特務隊という名称も、鎮守府という名称も。どれも陛下が専決処分した事ではありませんか?まぁ・・・いきなりハンス殿が倒れられた件は不足の事態でもありますが。しかし、制度上も法律上も騎士を不在には出来ない以上。統括責任者が此れを遂行するのは必然でしょう』
グサッと突き刺された。
眼鏡の縁を直す仕草と、そうしてレンズ越しの吊り上がった目尻。
自分が王権を行使して反論を封じた件は、この時を待っていたとばかりに・・・・・
結局。
シルビアは愛しい我が子と引き離された。
だけでなく。
この件を蒸し返す宰相からの報復。
ネチネチとストレスばかりが募る日々を送らされた。
時計の針は午後の9時を過ぎていた。
我が子がいた時には、この時間は仲良くベッドで会話も弾んでいた。
ソファーに身体を横にして。
今は独り寂しく我が子を想う。
そんな折、天敵は突然と現れた。
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シルビアは夜もこの時間に押しかけたカーラから受け取らされた一冊のノート。
親友の凄む声は、今直ぐ内容に目を通せ。
シルビアは此方が一体何事かと尋ねても。
怖いを通り越した親友は、更に怖さを抱く声で直ぐ目を通せ。
これ以上を口には出来ない。
そうも分かる親友を前にして、シルビアは手渡されたノートを先ずは開いた。
バカ母がノートを開いた後で、カーラは淡いオレンジ色が灯る薄暗い室内を明るくしながら。
程なく向かい合う側のソファーに腰を下ろした。
既に表情には緊張が滲んでいた。
そして、真剣だと分かるシルビアの視線の動きも。
ページを捲る指先は、徐々に早くなっていた。
「カーラ。あの子は、アスランは何故。何故、この件に携わっているのですか」
もっともな質問だった。
と言うか、私だって同じように抱いている。
「陛下。アスラン様が何故、携わっているのか。それは私にも分かりません。ですが、このノートはコルナが私に届けて来ました。それもつい先ほどにです。私は内容へ目を通した後。それから直ぐ此処へ来ました」
隠すような事でも無い。
それに、コルナが絡んでいるという事は、それだけで裏に何かある。
ただ、バカ母の声は震えていた。
「兵舎で不正な資金が作られているのでは・・・これはずっと以前から在った疑惑です。先月の事件は、それで調査も始めた次第なのに」
「ええ。ですが、陛下も知っての通り。瓦礫を取り除く作業の傍らで進められた捜査でも見つからなかった不正を示す証拠について。これもコルナが言うには、今は鎮守府で管理されている。そうも聞きました」
「なんですって」
震えていたシルビアが一変して驚くのも自然だろう。
私だって驚いたのだから。
カーラは不正の証拠となる書類。
鎮守府で今はティルフィングが管理している事までを伝えた。
「なるほど。兵舎で行われた不正の証拠は先にコルナ・・・達が入手していた。そして、私達ではなくアスランに調べさせた。カーラの推測は私も、その可能性は否定できません」
アスランにだけ仕えている神と呼ばれる者達であれば、そうも考えられる。
だが、カーラは、未だノートを半分程度、読み残して熟考するシルビアへ。
「陛下。不正の件は此方からも経理局へ関連する書類を取り寄せれば、そこから照合作業が出来ます。併せて存在自体が疑われる業者に関しても。此方も捜査の手を回して早急に調べさせる事が出来ます」
「そうね。この件は取り急ぎで調査を進める作業が必要でしょう。その上で、アスランがこうしてノートに纏めた部分と合致すれば。後は証拠の原本ですが」
「陛下。恐らくは此方の捜査と結果を待っているのかも知れません。この件は早急に進めます。ですが」
「未だ何かある感じね」
視線を真っ直ぐ返しながら尋ねるシルビアへ。
カーラも小さく頷いた。
「ノートの続きを。最後まで読んで頂ければ、それで私が伝えたかったことも理解る筈です」
不正を明るみにした証拠。
それだけで留まらない先の記述。
カーラは自分の口からでも述べられた。
けれど、それを敢て口にはせず。
何故なら。
自分の胸を躍らせてくれた未来への展望は、間違いなく新しい風を起こす。
可愛い息子がノートに描いた未来象。
シルビアにもきっと胸を躍らせる高揚を与えるに違いない確信が在った。
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コルナにノートを預けてから数日。
鎮守府には、静養していた首席補佐が復帰の挨拶に訪れた。
病み上がりのハンスは同じ職場の兵士達へ。
当然と何度も面目ないと頭を下げていた。
兵士達も以前まで此処に居た騎士達とは全く違う。
そういう印象をハンスには抱いた。
ハンスは未だ日中の勤務は控える身でも。
今日からは幼い隊長に代わって夜勤を務める事となった。
そんなハンスの復帰は、それこそバーダントが一番嬉しい表情で迎えていた。
「未だ子供の隊長を残して帰宅する。分かっていても気が引けるもんだ・・・いつもは帰りに一杯引っ掛けて行くんだが。どうにも足が向かなくてな。だが、今日からは気兼ねなく一杯飲んでから帰れる。そういう意味でも聖騎士様の復帰はありがたいってもんだ」
「バーダント殿。本当に迷惑を掛けた」
ハンスは立場上は上司のアスランへ復帰の挨拶を済ませた後で、そうして今度はバーダントへの謝罪。
医師の見立てで、それがあるから当面は夜勤のみでも。
朝の時間に訪れたハンスは、今夜からの夜勤に備えて一度帰った。
その帰りを見送りながら。
アスランは一緒に見送ったバーダントの隠し切れない表情に、思わず笑ってしまった。
「これでバーダントさんも。今日の帰りからはお酒が飲めますね」
「ああ、仕事の上りの一杯。これが有るのと無いのでは、次の日の仕事の意欲にも関わるってもんだ」
子供のアスランは未だ酒の味を知らない。
酒は大人の飲み物で、それくらいは聞いたこともある。
ただ、バーダントの表情を見れば、きっと美味しいのだろう。
そう抱いた。
「じゃあ、今日は美味しいお酒を飲むためにも。バーダントさんには張り切って貰わないといけませんね」
「おうよ。今日は俄然とやる気が出て来た!!」
気合十分が見て分かるくらいの叫び声。
近くにいた他の兵士達が何事かと此方へ視線を向けていた。
巡回の時間が近付いているバーダントは敬礼の後で傍を離れて行った。
けれど、今日からは気兼ねなく酒が飲める。
そうも口にしていたバーダントの嬉しそうな表情は、何となく足取りまで嬉しいのが分かってしまう。
見送ったアスランは再び部屋に戻って来た。
現場仕事は今もバーダントに任せている。
そして、自分にはこれが特務と言える仕事。
不正調査で開始が遅くはなったが。
だからと言って、時間を無駄にした感は僅かにも無かった。
「出来れば、本当は貰えたはずの給金も。だけど、俺にはそれをどうにか出来る権限までは与えられていない」
給金に不正があった。
この件はシルビア様に宛てたノートにも記すと、アスランはバーダントへ話している。
けれど、バーダントは自分以外の兵士達にはまだ伏せて置く様にと言って来た。
・・・・・隊長が俺には話してくれた。それで十分だとは言えないが。それでも、隊長は何とか貰えた筈の給金が返って来るようにって頼んでくれたんだろ。なら、それでいい・・・・・
バーダントの主張は、それで不正に減らされた分が返って来たなら万々歳。
だが、先に話して返って来なかった時には、兵士達の怒りが爆発してもおかしくない。
だから、はっきりするまでは一先ず伏せて置くのが良い。
・・・・・女王陛下は素晴らしい御方だ。だから、俺も返って来るって信じて待つさ・・・・・
「マイロード。マイロードが尊敬している女王ならきっと聞き届けてくれる筈です。そう信じましょう」
「そうだね。うん・・・じゃあ、俺も今日の分を今から見回らないと。王都にある全ての兵舎と詰所の状況。一日でも早く終えて、シルビア様に報告書を届けないとね」
部屋の中ではいつの間にか。
と言うよりも、自分が気付けていなかっただけ。
一番の存在が今は優しい眼差しを向けてくれる。
アスランが考えて考えて。
胸の内で重くなってしまったもの。
ティアリスがこうして微笑んでくれるだけで。
今だけは無くなったかのように軽くなっていた。
-----
王都には百を超える詰所が置かれている。
バーダントが以前は詰めていた詰所の酷い実態は、それを直視した女王からの特務へ繋がった。
『アスラン。私はこれまで王都にある詰所という所を正しくは見ていなかったようです。それを先日、思い知らされたこともありますが。だからこそ正しく知らねばなりません』
王都に在る全ての詰め所。
それと兵舎の実態調査。
調べるアスランは、これもバーダントからは詰所が何処も似たり寄ったりくらいを聞いている。
建物自体の老朽化は、修繕も改築もされたためしがない。
置かれている机や椅子は勿論、着替えのロッカーですら自分達で中古品を買うか日曜大工で何とかして来た部分。
一方で、騎士が詰める兵舎だけは修繕も改築もされると、設備も備品も予算で賄える。
話してくれたバーダントは最後。
少しはこっちにも予算を回して欲しかった・・・・・
アスランは聞いていて納得だった。




