第42話 ◆・・・ 夜明け前の襲撃 ・・・◆
マリュー勅書を届けた日の夕食の時間、その少し前に届けられた王宮からの手紙は、内容をスレイン神父がこの時に伝えていた。
既に朝の礼拝の時間には、スレイン神父からここで生活する全員へ『アスランが幼年騎士に任命された』報せが伝えられると、当然のように驚きで包まれた。
シャルフィ王国には孤児という出自で、そこから騎士になった例が過去には無い。
シルビアが即位した後の制度改革によって、現在では出自による差別は撤廃されたが、その後に騎士になった例として近しいものと言えば、庶民の当時12歳の女の子が初等科の最高学年へ飛び級で上がった後、その成績の優秀さを以って幼年騎士に任命された事例があるだけだった。
つまり、制度は変わったが、今以って騎士の道は狭き門のままとも言える状況なのである。
そこへ来ての今回の任命の報せは、そうした実情を知らない子供達へ大きな夢を抱かせた。
特に男の子達はアスランが幼年騎士に任命された報せを聞いて飛び上がるほど興奮すると、口々に『俺も騎士になる』等といった言葉が幾つも紡がれた。
ただ、アスランくらい努力したから任命されたと聞いた後でも、子供達は興奮冷めやらない感じで一日を過ごしている。
そう。
アスランの存在は、今だからこそ周りから『孤児王』とも呼ばれるようになった。
そこに至るまでには仲間外れの時期があった。
けれど、誰よりも早く文字を学んで、そこから今度は独学も積んだアスランは逸早く本を読めるようになった。
本を読めるようになって、更に知識を増やしたアスランの成長は、日々の努力が積み重なっている事実がある。
剣の稽古も同じ、毎日欠かさず早朝から素振りを続けて来た。
午後の自由時間に外に出るようになってからは、そこで素振り以外に体力作りで走り込みもしている。
型の稽古も欠かさずして来たアスランは、日々の勉学と合わせて自身を磨いて来たからこそ此度は任命を受けた。
スレインは、アスランの任命理由となった『浄水器から得られた成果を実績とする』という一文も知っていたが、それは敢て口にしなかった。
そもそも幼年騎士の制度とは、女王がその目で認めた人柄と素質を以って任命する制度であり、何かしらの結果を以って充てるものではない。
それこそ、女王が素質ありと認めれば出自も性別も関係なく『幼年騎士』になれる制度は、長く一握りだけの世界だった騎士という存在を、もっと裾野を広げて募ろうとしたものを形にした制度でもある。
故に、実績を任命理由の内に記した点は、しかし、恐らくは5歳になっていない幼さを考慮してのものだろう。
自身がかつて草案にも携わった『幼年騎士制度』は、初等科に通う子供達からそうした素質を見出して育てようとしたものであり、故に幼年騎士になった子供の年齢は概ね10歳前後。
およそ貴族や騎士の家系にある同年代の子供が、騎士団に見習いとして入団するくらいの時期に、幼年騎士だけは正式に騎士の位を与えられる。
言わば選ばれた存在だった。
しかし、この幼年騎士について、実は庶民の中からの任命が運用当初から躓いて来たことも事実だった。
シルビアは国民の殆どを占める庶民から、『幼年騎士』を輩出しようと目論んでこの制度を立ち上げた。
ところが、この庶民の子供達の能力、学力も身体能力もだが、貴族や騎士家系に連なる子供とでは大きく差があり過ぎた。
特に騎士の家系に生まれた子供は幼少期から剣の手解き、礼儀作法、そして学問も特に親が指導することで、庶民の子供と基礎に大きく差を開けていた。
貴族の子供も礼儀作法と学問は親達が専門の教師を雇って身に付けさせると、中には騎士の知り合いを指導役に剣術なども学ばせる者もいる。
結果、シルビアが幼年騎士に庶民の子供を選びたくとも、同年代では差があり過ぎて選ぶのが困難な環境が生まれていた。
それによって、運用からの数年間。
庶民の女の子を一人、幼年騎士に任命した以外は、騎士家系と貴族の子供の中から選んで来た実情もあったのである。
それだけに、今度の孤児からの任命は大きな転換期にすらなる。
遠からず王宮からの公式発表が行われれば、それで国中が一度は驚くだろう。
同時に恐らく現在の王宮は、旧態依然の貴族などが露骨に反発している筈。
・・・・カーラ。貴女は本当に大変な役回りで、今も忙しくしているのでしょうね・・・・
後事を託したカーラの、間違いなく苦労している姿を思うスレインは、なんとなくアスランが王宮に入ることが結果的に救いになるのかも知れない。
そう抱いた所で、スレインは何とも言えない複雑な胸中になってしまった。
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この日はアスランにとって、終日ずっと一人自由な時間を作れなかった。
朝の礼拝の後、まるで羽が生えた『一人自由』はアスランの元から旅立った。
ポツンと残されたアスランは、先ずカールやシャナ達から祝福の言葉を貰った。
そして、今は友達となったエルトシャンやゴードンとバスキー達からも尊敬や褒め言葉を掛けられた。
午前中。
普段通り事務室での仕事を終えて、それからエストと市場へ出掛けたアスランは、此処で自分が幼年騎士に任命された情報が逸早く伝わっていた事を知った。
市場の皆からくしゃくしゃに撫でられたアスランは、最後は大人達に囲まれて胴上げされると、何度も宙を舞った。
胴上げという初めての体験は、ただ、アスランは背中から地面に落とされるかも知れない不安を抱いた。
しかし、自分を囲んで本当に嬉しいのが分かる大人達に空へ高々と上げられる感覚に、耳に届くお祝いの声で嬉しくなれた。
アスランが周りから祝福された光景は、胴上げの輪に加わっていたエストの心も温めた。
お祝いだと差し出された食べ物が多過ぎて、結局は大人達が荷車で孤児院まで届けてくれたくらい、今のアスランはこの近所で愛される存在へ変わっていた。
それがエストには何よりも嬉しかった。
お昼の時間になると、アスランも馴染みのメニラ婆ちゃんがトーマおじさんに連れられて教会へやって来た。
最近は足の調子が良くないらしく車椅子に乗って教会へ来たメニラ婆ちゃんは、アスランが幼年騎士に任命された話を、押して来たトーマおじさんから聞いたらしい。
その二人からもアスランは祝福の言葉を貰っている。
メニラ婆ちゃんから『王宮で暮らすようになっても、時々は顔を見せるんだよ』と、その言葉にアスランは休暇が取れたら必ず顔を出すと返事をしている。
一緒に来ていたトーマおじさんは『修行は大変らしいからな。休暇がいつになるのかは分からないが、取れたら帰って来い。その時は皆で歓迎してやる』と笑っていた。
午後の時間。
アスランは実に多忙だった。
勉強会への参加は勿論、そこでエルトシャンから『俺にも剣を教えてくれ』と頼まれた事がきっかけで、後半の時間は孤児院の庭で素振りの指導を初めてする事になった。
市場で自分の体格に合うように仕立て直して貰った二振りの木剣の一本を貸して、姿勢や踏み込みの入り方と、そして正しい踏み込みから自然と繰り出される一振りまでの一連の流れ。
エルトシャンは熱心で、それはアスランにもよく伝わっていた。
そこにゴードンやバスキーが参加して、カールまで『俺にも教えてくれ』と加わると、二振りの木剣を交代で使いながらの素振り稽古は、教えるアスランの内心に『みんなでやれたら、稽古はもっと楽しかったのかもな』と初めて抱かせた。
結局、この素振り稽古は夕方の礼拝の時間の前まで、それこそ男子達が特に夢中になってやっていた。
みんな聖剣伝説物語が大好きなだけあって、やっぱり剣を使う格好良い騎士には憧れがある。
それが良く分かった。
アスランは自分もやってみたいと口にしたシャナにも丁寧に教えた。
ただ、まぁ・・・その時に木剣の重みで身体が振られたシャナを馬鹿にしたゴードンには、見守っていたエスト姉の十八番が頭部を抉っている。
※エスト姉の鉄拳ドリルは本当に痛いんです。
確かにシャナには木剣が少し重い感じだったが、一振り一振りを一生懸命にする姿はカールとエルトシャンが応援していた。
※カールもエルトシャンも本当に良い奴です。
アスランの瞳には、この時の3人の仲の良い雰囲気が何処か羨ましく映っていた。
そして、夕食の時間。
少し前に王宮から届けられた手紙には、明日の午後にシルビア様が此処に来ることが記されていた。
『明日の午後、アスランを迎えに行きます』と綴られた一文は、それを皆の前で読み上げたスレイン神父から最後に、『アスランは明日、此処を巣立ちます』と、一瞬静まった中で言葉が続いた。
「此処で暮らす子供達は皆、7歳を迎える年に初等科へ通うために巣立ちます。アスランは幼年騎士として専門の勉強をするために明日、孤児院を巣立ちますが、決して別れではありません。将来はシャルフィの騎士になるために、少し早くから勉強しに行くだけです。明日はいっぱいの笑顔で見送りましょう」
スレイン神父の言葉は、エストを始め大人のシスター達が最初に拍手をすると、続くようにエルトシャン達も拍手をしていた。
アスランは今ではもうすっかり隣に座るシャナが泣きそうになっている事には困惑したが、これもカールから『仲の良い友達が一人居なくなるんだ。俺も寂しくて泣きたいのを我慢しているんだよ』と、それが理由でシャナが泣きそうになっている事を、アスランはようやく理解できた。
「シャナ。修行が大変でも必ず手紙を書くよ。あと、休みが貰えたら会いに帰って来るからさ」
「本当?・・・・アスランが手紙を書いてくれるなら・・・・私も手紙を書くね」
「うん。約束するよ」
「じゃあ・・・私も、もっと文字を書けるように頑張るから」
最後は指切りまでした約束の後で、意味深に笑うカールから『じゃあ、俺とも約束な』と、気付けば同じような笑みを向けるエルトシャンや他の子供達とまで、アスランは一人ずつ全員と指切りをした。
結局、シャナとの約束は、アスランが幼年騎士になった後で定期的に孤児院へ手紙を出す約束へ変わったのだった。
スレイン神父もエストもそんなアスランを見つめながら、孤児院を巣立つ前に友達が多く出来たアスランには安堵を抱いた半面、ただそれ以上に寂しいと募る想いがある。
笑みの奥でこみ上げた感情は、揃って涙腺を少しだけ緩くしていた。
実は、アスランが幼年騎士に任命された件によって、それが原因という事でもないのだが、アンジェリークの実家が代々の騎士の家だという事が判明した。
まぁ・・・・これは判明というよりも本人から『アスラン。貴方が幼年騎士になるのでしたら、私から父に頼んで良い指南役を付けられるようにしましょう。騎士の作法などを一から手解きしてくれる筈です』等と、その時の会話が発端となってアンジェリークの実家が騎士の家だとアスラン達は知ることになった。
アスランはこの時になって、自分にも指南役が付く。
その事をはっきりと自覚したのだが、恐らくシルビア様の事だから既に何か考えているだろうとも抱いた。
それでも、この時のアンジェリークからの話は『ありがとうございます。騎士の事では何かと教えて頂くこともあると思います。その時にはよろしくお願いします』と、形式的?な返事を返している。
5歳になると言っても、相変わらず子供らしくない返答の仕方だった。
王宮からの手紙で、今夜が孤児院で過ごす最後の晩だと知った後、そのせいかエストから『今夜は皆と一緒に過ごすように』と言われたアスランだったが、何をしようかと等と考える時間すら周りは与えてくれなかった。
直ぐにカールとシャナの二人に捕まると、そこからはエルトシャンやゴードンにバスキーも加わった。
ゴードンとバスキーの二人は、あの事件の後で直ぐに見方が変わった訳ではなかったが、今も毎日のように頑張る姿と勉強会でも熱心に学ぶ姿もあって少しは良い声も聞こえてきている。
ただ、これもエスト姉の言い付けが浸透しているからだろう。
まぁ、それでも二日に一度は何方かが鉄拳ドリルの餌食になっている。
原因は主に口が災いしていた。
それもあって?
二人を模範に、他の子供達は良く学習しているようだった。
結局、アスランは夕食後の時間を今は友達と呼べる皆と過ごした。
夕食の後の時間、それは特にこの一年はずっとエストの指導で勉強してきた事で、今夜は何か変な感じだった。
最後の晩にアスランがした事は、皆が大好きな『聖剣伝説物語』の朗読。
これは皆のリクエストを纏めた結果でそうなった。
その中で、ユミナフラウが女神から『騎士王』の証を授けられる件を朗読したアスランの声は、大部屋に集まった子供達が耳を澄ませて聞いていた。
その件を最後までしっかり朗読したアスランは、最後に『僕はエスト姉から文字を学んで一年と少しだけど、このくらいは出来るようになったんだ』と、なおも向けられる視線を前にして自身の想いを紡いだ。
「文字を習って、初めて絵本が読めるようになった時だけど、本は色んな事を知ることが出来るって知ったんだ。それに、僕も聖剣伝説物語が大好きで、だから難しい文字も読めるように勉強したんだ。エスト姉は僕にたくさん教えてくれて凄く楽しかった。皆も何か知りたい事が出来たら、それを知るために勉強すればきっと”楽しい”を毎日続けられるよ」
カールやシャナ、それにエルトシャンもこの中では6歳の年長グループに入る。
アスランはその一つ下になるのだが、この瞬間だけは立場が完全に逆転していた。
それでも、寧ろカールやシャナとエルトシャンには、アスランの方が存在はずっと大きいと感じさせている部分もある。
こうして孤児院での最後の晩はエスト達も見守る中、アスランの朗読会でお開きとなった。
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「マイロード。孤児院での最後の晩は良くお休みになられましたか」
「うん。結局だけどさ・・・今朝もエスト姉の鉄拳で起こされた」
「そうですか。ですが、その割には楽しそうですね」
「う~ん・・・なんかさ。エスト姉の寝相の悪さもだけど、ああやって裸同然で寝ているエスト姉だろ。寝間着とか毛布とかを直すのも日課みたいになったからね。起きている時は優秀な先生だけど、寝ている時は世話が必要な姉さんだって思うと可笑しくなっただけだよ」
ついさっきまで異世界で日課の修行をしていたアスランは、これも最後は完全回復するまでティアリスの膝枕を独占していた。
アスランにとってこの膝枕は自分だけのものであり、一方で主からそうして貰うことに幸せを感じるティアリスは、主が何時間寝ていても寝顔を見つめながら幸せに浸っている。
ティアリスはアスランの剣であり、そして仕える騎士でもある。
今はそこに強くなりたい主の修行の指導をしている。
もっとも、今の段階で主に負けることはなく、しかし、日々油断の出来ない工夫を凝らす主の戦術は、これが自身の血を沸かせてくれる。
結果、つい本気になると神速の一太刀で決着をつけてしまう事が増えていた。
今朝も日課の修行を終えて、そして斬られる度に治癒アーツを使い続けたエレンが「流石に疲れたから寝てくるねぇ・・・・」と、これもいつも通り寝ている間は静かになっている。
まぁ、どうせ昼過ぎには起きてくるのだし。
それまでは煩く耳元で騒がれないだけ平穏でもある。
そう。
此処まではいつもと何ら変わらない一日だった。
そして、予定では午後にシルビア様が迎えに来る。
だが・・・・・
最初に異変に気付いたのはティアリスだった。
会話をしていたアスランにもはっきり見て取れるほど表情が露骨に険しくなったティアリスの口から、これも何か警戒している普段とは明らかに異なる感じの声で『マイロード・・・・敵が近付いて来ます』その声の後で、直ぐにアスランも地鳴りのように響く振動を確かに感じ取った。
ずっと向こう側の森の奥。
そこから響いた地鳴りは、森の木々から一斉に飛び立った鳥たちの群れを映したアスランの瞳に、恐ろしく大きな異形の存在を映した。
グァガォォォオオオ!!
異形にしか映らない巨大なそれが吠えた声だけで、駆け抜けた大気の震えはアスランを背筋まで凍り付かせた。
怖さだけしか感じさせない赤く濁った光を宿す二つの瞳。
その顔は図書室の本にも載っていた獅子のそれだとアスランに抱かせた。
図鑑に載っていた獅子とよく似た顔なのに、尻尾はどう見ても別の生き物にしか見えない。
蛇にしか見えない尻尾が、その牙に捉えられた鳥が丸飲みにされたところを映した瞳は次の瞬間。
背中からコウモリのような黒い大きな翼を4枚羽ばたかせて飛翔した化け物は、森の奥から教会の少し先に土煙を巻き上げながら着地すると、いきなり前足で傍にあった倉庫を薙ぎ払った。
近所の農家の倉庫は、まるで積み木を手で払ったように簡単に、しかし明らかに煉瓦が崩れるガラガラ音を伴って破壊された。
「マイロード。奴はヴァルバースです」
「ヴァルバース?」
「はい。魔神ヴァルバロスの眷属で、神獣ヴァルバースです。しかもあの様子は怒り狂っています」
アスランがティアリスからこの事を耳にするまでに、既に近所はどの家からも慌てて飛び起きた人達が外に出て、そして映った巨大な化け物を前に驚きと恐怖とでパニックに陥っていた。
アスランの視線には孤児院からもエストや他のシスター達が出て来て、そして孤児院の中に向かって何か言っている。
それくらいを映していたアスランは、ただ、直ぐに走り出した。
ティアリスから鬼気迫る声で『マイロード。皆を逃がさなければ、この辺り一帯は既に戦場となっています』と、続く声で先ずは近所の者達を避難させるように告げたティアリスの声に、アスランは思考よりも先に身体が動いていた。
倉庫をいとも簡単に足払いだけで粉々にしたヴァルバースに向かって駆けるアスランは、その途中で恐怖に凍り付いたまま動けずにいる人達にも聞こえる声で『今直ぐ、王都へ向かって逃げてください!!』と叫んでいた。
その声に、一瞬ハッとなった後で震えながら走り出す大人達は、しかし、生存本能だけが先走った事で、逃げ遅れた家族すら置き去りに走って行く者が後を絶たない。
その中でアスランの声に気付いたエストが、これも既に外に出ていたスレイン神父も同じように、アスランの指し示した所で動けずにいる逃げ遅れた女性や年寄りと子供を保護するべく走っていた。
一見すると、この事態に子供が現場を仕切った感もあるが、エストもスレイン神父も指示は的確だと自ら結論付ける前に動いている。
と言うよりも、この突然の事態に対して少なからず混乱した思考は、強い口調で的確な指示を出されたことで先に身体が反応すると、後から追いついた思考もアスランの指示を肯定した。
孤児院からもアンジェリークや他のシスターに連れられた子供達が外に出ていた。
ただ、そこで瞳に映した巨大な化け物に恐怖を抱くと、空気を震わせるほどの咆哮には動けなくなる子供達が殆どで、特に小さな子供が錯乱状態へ陥った。
錯乱する程の恐怖に駆られた子供達の悲鳴と泣き声は、既に正気を保つ事すら難しくさせていた大人達の思考を、ここから一層不安定にした。
巨大な化け物が近くにいる。
それこそ、目と鼻の先程度の距離でしかなく、それくらい至近で咆哮を上げたり足払いで建物を粉々に破壊すれば、大人とて平静を失って当然だった。
その中で、一度は指示を出したアスランも足が震えていた。
ヴァルバースが着地した所は麦畑で、近くには風車小屋と倉庫が並んでいた。
それが僅かな時間で、今は瓦礫しか映らない変わり果てた光景と化していた。
不幸中の幸いは、普段は人が居ない建物だったこと。
それでも、いつも目にしていた風車小屋は、子供達が時々かくれんぼでも使っていた場所が壊された。
アスランは自身が焼き付けた光景に、それで受けたショックが足を竦ませた。
質がまるで違う怖さを感じた心身は、アスランの意思に関係なく脈拍と呼吸を乱れさせると、単純に死にたくない感情だけを抱かせた。
死にたくない・・・・
今直ぐ僕も逃げないと殺される・・・・
「(・・・マイロード。気持ちで負けてしまえば全てが終わります!!・・・)」
頭の中に響くティアリスの叱る声に、しかし、アスランは直ぐに立ち直れず、故にまたティアリスに叱られた。
「(・・・何を弱気になっているのです!御身は、我が剣を捧げた唯一の王なのですよ。ましてユミナを目標にするのであれば。如何な強敵とあっても臆することを許されません!!・・・)」
・・・・ごめん。
まだ怖いけど・・・・
ティアリスに叱られて少し落ち着いたよ。
「(・・・いえ、これがマイロードの初陣なれば、それだけで緊張もしましょう。しかも此度は相手が悪い。初陣のマイロードでなくとも、相手が神獣であれば怖さを抱くくらいは致し方ありません・・・)」
ねぇ、ヴァルバースだっけ・・・・
僕はあんな巨大な化け物、初めて見た。
「(・・・見た目は獅子ですが、尻尾が毒蛇である点と、それから背中に大きな翼を持っている。強靭な脚と硬い爪は既に見た通りです・・・)」
うん、あの爪は迂闊に近付けない気がした。
それに尻尾が毒蛇なら、接近戦の前に何とかしないと危ないよね。
「(・・・その通りです。そしてヴァルバースの翼を奪わねば、万が一にも王都へ行かせてはなりません・・・)」
ティアリスから指摘された部分は、既に森の奥から此処まで空を飛んでやって来た事を見ていた筈のアスランへ、自らの思考が事実を一つは失念していたことを気付かせた。
アスランはティアリスとの万を超す稽古の中で、情報の失念が死に繋がる。
それもまた身を以って学んで来た筈の事だった。
息を静かに深く吸い込んだ後、今度はゆっくり吐き出して。
何度か繰り返しながら、そうしてアスランは自分を取り巻く現状にハッとした。
同時に今度は呆れ笑いになると、自身に対する情けなさが溜息を吐き出させて、ようやくいつもの自分を取り戻した。
見えているようで見えていなかった事実。
稽古でも似たような事は体験している筈なのに、相手が本物の化け物で、その気迫に完全に飲まれていた。
それが無意識であっても気持ちで負けたら全てが終わる。
この負け方もまた、稽古で数え切れないくらい体験済みだった。
「ティアリス。ヴァルバースだけどさ・・・・ティアリスと、どっちが強い?」
「(・・・論ずるまでもなく、剣神である私の方が”断然”強いです・・・)」
何か強調した口調で、少し怒らせた?とも抱いた返事は、ただ、それだけでアスランは安心も得ていた。
「そっか。やっぱりティアリスの方が強いんだ。うん・・・それだけ聞けたら後は良いよ。僕は騎士なんだし、騎士である以上、それにティアリスの王様としても此処は絶対に退けない。これで良いんだよね」
「(・・・マイロード。ようやく戦う覚悟が出来たようですね・・・)」
「ティアリスより弱いなら、今まで負けた分を此処であいつにぶつけてやる。そういう気持ちで、だけど先ずは分かっている特徴以外に弱点とかは知っているの?」
「(・・・先ず、奴の爪は鋼ですら簡単に切り裂きます。そして、あの蛇の姿をした尾の部分。あれには猛毒が仕込まれています。ただ、背中の巨大な翼はマイロードのアーツで傷付けられるでしょう。そこで、先にヴァルバースから空を飛ぶ術を奪う事で行動に制限を掛けることが肝要です・・・)」
「うん。王都まで飛んで行かれたら流石に不味いくらいは理解った。猛毒なら、尻尾も先に潰した方が良いよね。爪は・・・十分な間合いを取るのが無難かな」
「(・・・理解っていると思いますが念のため、迂闊に接近戦を仕掛けないでください。マイロードのアーツを十分な間合いから繰り出す。それによって先ずは民達の避難の時を稼ぐ事が大事です・・・)」
・・・・騎士は守るために在る・・・・
だからこそ、今は先ず逃げ遅れた人達や仲間達を守るための戦いをする。
そのためには、ヴァルバースの行動の自由を奪う必要がある。
狙いは翼と脚。
ただし、猛毒を持つ蛇にしか見えない尻尾と、鋼を切り裂く爪を持つ化け物だから迂闊な接近戦は厳禁。
アスランの思考は既に、ヴァルバースの翼と脚を奪う方法を幾つも描いていた。
確かにティアリスとの実戦稽古は、事実、連敗の積み重ねだった。
しかし、その連敗の中でアスランは学習して来た。
戦い方もその一つ。
3万回を超える連敗は、裏を返せば幾つもの戦い方を試行錯誤した道程でもある。
そこからアスランは、ティアリスに対して包囲網を敷く物量戦を工夫するに至った。
「(・・・どうやら、マイロードは私と稽古をする時と同じ心理状態になったようですね・・・)」
まぁね。
あれだけ斬られたしな。
何と言うか、慣れ?なのかな。
戦いながらでも相手の情報は常に集める。
ティアリスとはそうやって修行して来たからさ。
それこそ、何万回もただ負けて来たんじゃないよ。
「(・・・マイロード。では、一つだけ気持ちで負けない簡単な方法があります。今この瞬間から、自分の事を『僕』ではなく『俺』と口にして下さい。俺という言葉の方が自己を示す強さがあります。つまり、気持ちの面でもそれは作用するのです・・・)」
俺・・・ね。
なんか、ゴードンとバスキーを連想するんだよなぁ。
あぁ・・・でも、エルトシャンも俺って言ってたから。
うん・・・じゃあ、エルトシャンを見習うって意味で俺って言うようにするよ。
あと、さっきからずっと景色はこのままで”異世界”にしていたティアリスには礼を言っておくね。
おかげで、気持ちがだいぶ落ち着いている。
戦い方も幾つか考え付いたし。
近付けなくても、それならアーツで何とかする。
僕が、いや・・・俺がアーツを使えるって事を明るみにするのは、まだ先だと思っていたんだけどな。
でも、まぁ・・・もう大丈夫だから、始めようか。
叱られた後で深呼吸を繰り返して、その時になってようやく気付いた。
ティアリスが自分を異世界の側に置いてくれたからこそ、アスランは普段の自分を取り戻せた。
3万回を超える連敗から培った自分の思考は、ティアリスが教えてくれた情報で戦い方を構築し始めている。
しかも、巨体の割には素早そうでも、その速さがティアリスを上回らなければ、分の良い戦いも出来る。
アスランが此処を異世界だと認識した理由。
それは視界に映った景色が、少なからず分からせてくれた。
何せ、シスターの一人が走る姿のままずっと空中に浮いていたのだから。
つまり、時間が止まった。
時間は止まらないから概念が変わっている。
要するに、見えている視界は此方側でも、自分とティアリスだけは異世界に存在していた。
そう考えられるくらいの余裕を持っている今の心理状態なら大丈夫。
こういう解釈が出来るようになった事も、それも含めてきっと慣れだろう。
見た目は確かに巨大な化け物で、最初は臆した。
だが、今は何と言うか・・・・
こう、まだ何とか出来そうな気がしない訳でもない。
これも日々ティアリスを相手に修行したからだと思えば、3万回以上、それくらい死にかけた事もきっと無駄じゃない。
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「エスト姉!神父様!逃げ遅れた人達を連れて、そして先に王都へ避難して下さい!!」
再び元の世界側へ戻った瞬間、アスランは叫ぶように二人へ指示を出していた。
「アンジェリークさん達も、手伝えそうなら逃げ遅れて動けない人達を、皆と一緒に連れて避難して下さい!!」
アスランは叫ぶように伝えながら、それは逆に告げられた大人達に、当然子供であるアスランの方が先に避難すべきだと抱かせた。
ただ、アスランは一番前、背後に守るべき人達を全て置いた一番前に出るなり、それを捉えたヴァルバースの動きよりも速く仕掛けた。
アスランの左手側から襲い掛かったヴァルバースの強靭な前足と爪。
しかし、それがアスランを捉えるより先に、後ろから見届ける形になった者達は一様に驚く光景を視線に焼き付けた。
「アースランス・テンペスト!!」
修行では指パチの無詠唱で使うアーツを、ただ、この時のアスランは自らに気合を入れる意味でも声にして叫ぶように唱えた。
唱えた瞬間、事象干渉は即座に一帯の地面から起こった。
それは傍目にも分かるほど、ヴァルバースが着地していた地面から足の踏み場も残さないくらい起きた。
地中から次々と飛び出した茶褐色の槍の大群は、空を突き刺す怒涛の勢いで伸びると、その全てが巨大な化け物に襲い掛かった。
ンギャァァォォオオオ!!
まるで悲鳴にも聞こえた化け物の咆哮。
しかし、アスランを狙った右の前足は、獲物を捕らえる手前で針の筵と化したままピクリとも動かなかった。
更には巨大な化け物を囲むほどの広域に渡って、大地が完全に針の筵と化した。
変わり果てた大地の中心で、その化け物は残る脚も胴体部分も、無数の茶褐色の槍の餌食となった痛々しい姿を晒していた。
この瞬間の光景を見届けたスレインの口は無意識に呆然とただ『・・・・アスランが、魔導を使った・・・・』とだけ呟いた。
その近くで負傷して逃げ遅れていた女性を肩に担いでいたエストも、この瞬間の光景が与えたショックが大き過ぎて瞳を見開いたまま固まっていた。
何もこの瞬間の光景を映して、受けた驚きで固まったのは二人だけではない。
居合わせた大人も子供も関係なく、声を失って固まるくらい驚いている。
ただ、そこに叱るような口調で響いたアスランの声が、『王都へ!今直ぐ!!俺が此処でヴァルバースを押さえている内に!!みんな避難して下さい!!』明らかに普段から聞いているアスランの声ではなかった。
『慌てなくても大丈夫です!そのくらいの時間は稼ぎます!!だから、逃げ遅れた人もちゃんと連れて王都まで避難して下さい!!そして、誰でも良いからこの事を王宮へ!シルビア様に報せてください!!』
アスランの必死としか言えないこの声で、それでハッとした者達は直ぐ動き出した。
大人の中で無事な者達は、負傷などで動けない人達を肩に担ぐなどして避難し始めた。
エルトシャンやゴードン達は、同じ孤児院の小さな子供達を背中に背負って歩き出した。
二人に続くようにして、年長の他の男の子たちも同じように小さな子供を背負った。
避難し始めた子供達を横目に映したアスランから『エルトシャン!子供達の事を頼む。王都の門をくぐれば一先ず大丈夫な筈だ!』と耳に届いた声に、エルトシャンは自ら声を出して周りの子供達を纏めながら。
その瞳がアスランを映した所で、再び魔導を使う様を焼き付けた。
・・・・穿て、ライトニング!!・・・・
叫ぶアスランの声は、その前から大気中に白い発光現象を縦に幾重にも走らせた。
間もなくバチバチと弾ける音に、小さくとも青白い稲光が幾つも走った後。
その稲光はアーツを唱えた声が引き金となって一点に収束した直後、一瞬にして周囲を真っ白に染め上げるだけの眩し過ぎる光を解き放った。
真っ白な光が辺り一帯を染めた後から、今度は鼓膜が悲鳴を上げるほどの大音響で轟いた雷鳴が一帯の空気を激しく震撼させた。
ガァァォォオオ!!!
無数の槍が突き刺さった後、それまで倉庫などを破壊して来たヴァルバースの動きは完全に止まっていた。
しかし、そこで更に追い打ちをかけたアスランは、傷を負った腹部を狙ってライトニングを撃った。
アスランが唱えて、その正面で収束した複数の雷が渦を巻く奔流となった。
そこから周囲へ幾重にも稲光を走らせながら、束ねられて奔流となった雷は一直線にヴァルバースの傷付いた腹部を直撃した。
幾つもの雷を一つに束ねて撃つ風属性の高等魔導。
ライトニングは制御が極めて難しい事で知られている。
そこには、一本の雷を撃つ『サンダー』の魔導ですら扱いは難しい事と合わせて、他にも雷撃の魔導を使い熟す使い手が先ず居ない事にある。
主な理由は制御を誤った術者本人が『感電死』する事にあった。
先程のアースランス・テンペストも地属性の高等魔導だが、此方は中でも扱いが際立って難しいと言われている雷撃の魔導。
それも分かっているスレイン神父の受けたショックは単に大きいだけでは済まなかった。
アスランが雷撃の魔導を行使した直後、事象干渉が作用した周辺は小さな放電現象が続いていた。
ライトニングを行使したアスランを囲む周辺の空気は、今も放電の影響で小さいながら綺麗な閃光を幾つも散らすと、これもその閃光が弾けるバチバチとした音を鳴らしていた。
一方、アスランが撃ったライトニングによって、ヴァルバースの巨体は全身を高電圧で襲われた後、駆け巡った電流が体毛ごと皮膚を焼いた。
実際、巨体に対して撃たれたライトニングは精々太い丸太程度。
それこそ、子供の掌に鉛筆程度を刺した規模だった。
だが、アスランが意図して腹部を狙った理由。
ライトニングが直撃した個所はヴァルバースの傷を負った腹部。
ただし、そこには先に使ったアースランス・テンペストに因って色こそ茶褐色でも、材質は鋼を更に鍛えた強度の金属が無数に突き刺さっている。
電流が流れる金属の槍を先に体内に突き刺して、後から電撃を通したこの戦術は、いくら巨体でもヴァルバースの内と外へ相乗したダメージを与えた。
そして、この一撃の余波だけでヴァルバースの翼は痛々しいくらいに焼かれると、風を孕む膜の部分が完全に失われた。
アスランの戦術は、確かにヴァルバースから行動の自由を奪った。
ただ、全身を焼いたことで発生した異臭が今度は一帯に漂うと、まだ避難せずに居残っていた者達の鼻の奥にグッとくる臭いは、とにかく吐き気がするほど酷かった。
この極度な異臭が漂う中にあって、スレイン神父は逃げ遅れた者達を無事避難させるために、声を枯らして指示を出した。
その指示に、此処まで残っていた動ける大人達が手分けして行動を起こした。
骨折などが原因で自力では歩けない負傷者と、年老いて満足には動けない者達を乗せて運ぶために、トーマを含む大人達が近くの荷車を数台引いて来ると、手早く乗せた後で直ぐに移動し始めた。
その中にはアスランも可愛がられたメニラ婆ちゃんの姿もあった。
ただ、メニラは巨大な化け物を相手に、一人残ったアスランから最後まで視線を外さなかった。
荷車を引くトーマは、荷台に座るメニラの声に胸が締め付けられた。
それはトーマだけでなく、一緒に避難している者達にとって同じくらい胸が痛かった事でもある。
小さな子供を一人残して自分達だけが避難する。
当然、その事を情けないと抱く者が殆どだった。
避難する大人達は皆、やりきれない悔しさを露わにしながら、それでも生き延びるために王都を目指した。
王都への一本道を進みながら、動ける大人達はスレイン神父の指示で、途中の家々をくまなく確認した。
逃げ遅れた者達を全員連れて行く。
誰一人置いて行かない。
それくらいの強い決意が大人達にはあった。
何故なら、後ろを振り返るたびに映す光景には、そこで遠目に小さく映ったアスランが今も一人で戦っている。
魔導を使える子供は、今この時も自分達が避難出来る時を作っていた。
だが、幼い子供が使うにしては、魔導の力は凄まじく脅威だった。
あんな巨大な化け物を炎で包んだ後で、今度は吹雪で襲ったのか。
今は真っ白な塊にしか見えなかった。
アスランが魔導を幾度も使う光景は、スレインも振り返る度に映していた。
本来であれば居残って何か・・・・
そう抱いて、しかし、あの場では何も出来ない。
魔導器を持っていない自分が、あの場で何か力になることは無かった。
・・・・神父様。俺は騎士になったんです。だから、皆が無事に避難出来るまでは、それまでは此処でヴァルバースを押さえます・・・・
あと数日でも未だ5歳を迎えていない子供を、それを理解っていて残して来た。
スレインの胸中は罪悪感でいっぱいだったが、それは周りも同じ。
そして、今出来る事は此処にいる全員が王都まで無事に避難すること以外にない。
移動の途中、先に逃げた者の中で転んだのか負傷して動けずにいる者達もかなり居た。
それを映して怒りを顕わにした者もまた幾人も居たが、肩を貸すなどして今も全員が生き延びている。
喧嘩に発展せずに済んだのは、そこにもアスランが孤軍奮闘する姿が在った。
また、アスランが言ったように、この事は一刻も早く王宮へ報せる必要がある。
既に王都を囲む城壁の方から警鐘が鳴り響く音が聞こえてくるだけに、詳細は別に事件が起きているくらいは届いている筈。
避難の途中、スレインはシスターの中で一番若いエストともう一人、アンジェリークへそれぞれ指示を出して先に走らせた。
エストには王宮へ、もしくは王宮から駆け付けるであろう騎士の何れかにこの報せを。
アンジェリークには聖堂へ、負傷者の治療に必要な手配を急ぐよう頼んだ。
二人を走らせたスレインは、詳しい報せが届けば、それで必ずシルビアが動くと確信していた。
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「マイロード。民達は無事に避難しています。最後尾も王都を囲む城壁へ至る坂道の中程は過ぎたようです」
「そっか・・・・全然振り返る余裕がなかったんだ。教えてくれて助かったよ」
「いえ。ですが、こちらも戦況は押し込まれています」
「そうだね・・・再生した翼も、一応はアイスダガーを嵐みたいに叩き込んで、それでズタボロにしたんだけどさ」
「はい。その結果、ヴァルバースはまだ当分飛べない筈です」
「たださ・・・・このバハムートレオだっけ?サイズは大人より大きいくらいだけど、数が多過ぎる」
あれから既に軽く30分以上は戦闘状態が続いていた。
最初に焼いた翼は、その後からしばらくして一度再生した所を、今度は死角からアイスダガーをこれでもかと背中全体を氷漬けにするくらい撃ち込んだ。
その結果、氷の吹雪に襲われた?とも見える集中砲火の甲斐あって、ヴァルバースの背中は今も分厚い氷が張り付いている。
ついでに、尻尾も巻き込まれたのか死んだようにぶら下がっていた。
図書室で読んだ生物の図鑑では、蛇という生き物が寒さを苦手としている記述があった。
だから、アスランの思考の中では、あれがもし蛇なら氷漬けで何とかなるのでは?
そう抱いた部分もあったが、実際に戦闘不能であれば今の所はこれで良し。
それよりも、目下の状況。
見た目はヴァルバースとよく似ている。
大きな違いは大きさが大人よりも大きいくらいで、後は二足歩行が出来るのと、背中の翼が極端に小さ過ぎること。
ティアリスの話では、バハムートレオという下僕獣らしい。
ヴァルバースの肉体の一部から作られるらしく、翼はあるが空は飛べない。
ただし、個体自体はそれなりに強く、後はヴァルバースの血の一滴からでも生み出せるとあって、今はその大群を相手に苦戦を強いられていた。
今も針の筵となった場所で串刺しになって動けないヴァルバースの周囲では、生み出された下僕獣の大群が増殖している。
アーツを用いた包囲殲滅戦で一度に100体以上葬っても、少しの時間で同じだけの数が作られるとあって、そしてバハムートレオは凶暴だった。
アスランは増殖するバハムートレオの大群が、その凶暴さによって孤児院も教会も瓦礫にしてしまった一部始終を瞳に焼き付けている。
今朝も稽古を終えた所まではいつもと変わらない景色だった。
ただ、それも今は、ヴァルバースの出現によって見る影もなく壊された。
孤児院と教会だけでなく、この辺り一帯の家々は尽く瓦礫の山になった。
畑は滅茶苦茶に荒らされた。
家畜も襲われた。
バハムートレオは、その大群の数に任せて押し寄せる。
見た感じでは千にも上る数が居るのではと抱かされた。
そんな数を相手に味方はティアリスだけ。
エレンは疲れ切って寝ているのか、何度呼んでも返事が無かった。
劣勢な状況で奥歯を噛みしめるアスランは、今も姿を消した状態で傍にいるティアリスから『マイロード。これが戦場です。そして、これ以上押し込まれてはなりません。我らの後ろには、未だ守らねばならない者達が大勢居るのです』と、叱る声でも励まされている感じが心強かった。
ティアリスの存在は、それをアスランが隠している。
自分が本格的な剣術を学んでいる事も隠していた事で、それに合わせている事が理由だった。
あとは、ティアリスを普通に見せていたら絶対目立つと分かっていた。
だから、カミツレの事で神父様から尋ねられた時は、エレンと同じで声しか聞こえない存在にしていた。
ただ、そのティアリスが此処にいなかったら、とっくに気持ちで負けて終わっていた。
そこにも実戦がこんなに過酷で、稽古とは違う重圧が疲れを感じさせている事がアスランにそう抱かせた。
しかし、察したティアリスの叱咤激励があったからこそ、アスランは何とか踏み止まる事も出来た。
そして、侵攻するバハムートレオの大群がこれ以上王都へ近付けないように、アスランはアーツで長城とも呼べる防壁を造り上げた。
ティアリスに詠唱中の守備を任せたアスランは、渾身とも呼べるくらい練り上げたアーツで、王都へ続く進路を完全に遮断するように、20メートルを超す高さと鋼ですら傷を付けられない強度で長城とも呼べる壁を造った。
今はこの長城の上から攻撃アーツを駆使して、それも一度に数十体は葬る勢いでバハムートレオの大群を迎え撃っている。
壁に押し寄せたバハムートレオの一群は死骸を積み上げて、そこを足場に壁を越えようとして来る。
だが、此処はティアリスが神速の剣技で前衛を務めてくれるため、アスランはティアリスを援護する形で、積み上がった死骸を跡形もなく灰にしていた。
夜明け前、遠くの山脈から太陽が覗き込む前に起きた襲撃事件は、太陽が山脈から僅かに離れた今は二人対千以上の戦闘となって、そして王都を囲む城壁から目と鼻の先で激しく衝突していた。
この間、王都でずっと鳴り響く警鐘は鳴り止まず、同時にアスランの知らない所で、王宮もまた慌ただしく動いていた。




