第1話 ◆・・・ 波紋 ・・・◆
暦が5月へ移ったその日は、初夏、というよりも。
夏を感じさせる暑さが、シャルフィ王国を包み込んでいた。
エアコンを効かせた王宮内の執務室では、女王がペンを走らせ、それから宰相が確認を終えた一枚の書類が、再び女王の手へ返された。
「陛下。この件について、私に異存はありません。ですが、この件は間違いなく。それで小さくない騒ぎも起きるとは、思っています」
「そうね。けれど、アスランの実績は評価に値します。だいたい、今までの働きが、その職に就く者として相応しくないのであれば。その時には、私も考えなければならない問題にもします。ですが、見事な働きをしているくらいは。それが民の声からも、良く伝わって来ています」
「そうですね。再来月には7歳になられるアスラン様ですが。民から良く慕われているくらいは、私も存じております。誰か様の息子だ等と、到底思えない出来た御方です」
「むぅ~」
親友がこういう為人くらい、理解り切っているシルビアも、しかし、当然の不満が、頬をぷっくり膨らませた。
それでも、この件とて、いつかはそうしなければと、ずっと以前から考えていたのだ。
此処は、それをシルビアとカーラの二人ともが、認識を同じくしていた件でもある。
王国騎士団には、事実、慣習が在る。
慣習はそこで、騎士団長と副団長については、聖騎士の位を頂いた者から選出する。
この習いは、それこそ遡れば、シャルフィの建国にまで至る歴史がある。
だが、前の騎士団長グラディエスの退任後、そこから新たに騎士団長となったのは、当時は未だ幼年の呼称が付く騎士だった。
だけでなく、当時は4人居た副団長もまた、グラディエスの退任に合わせて引退する等。
そうして空席となった副団長の席へは、此処でも従騎士が抜擢されるという。
言わば、異例尽くしの人事について。
あの当時、中央兵舎で起きた忌むべき事件が、前代未聞の人事に関しても、露骨な反発は起きなかった。
ただし、やはり慣習を無視した人事、という声くらいは挙がったのだ。
そうした声は、そこから、此度は女王が大鉈を振るったくらいも囁かれたが。
この点は、事実、女王だけでなく、グラディエスの意向が最も関わった、故の人事である。
穏便な表現としても、異例尽くしくらいは付く人事から、約一年と半年。
この間のアスランと、もう一人のマリューについて。
女王は、先月には新たな幼年騎士を、任命したこともある。
そうして、騎士団長と副団長の二人についても。
就任後からの、現在へ至る実績を以って、此度は聖騎士への任命を決めたのであった。
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アスランは先日、王宮の広間で、そこに大勢の人達が集まる中、玉座の前に立つシルビア様から、直々に聖騎士へと叙された。
僕とマリューさんはね、二人揃ってなんだけどさ。
正騎士を飛び越して、聖騎士へ任命されたんだよ。
でもね。
ハンスさんが『二人とも、それくらいの評価がされても当然だと俺は思っている』って、だから、胸を張ればいいも言ってたよ。
あとね。
未だ中等科に通っているイザークさんも、僕とマリューさんと同じ日に、シルビア様から従騎士に任命されたんだ。
僕とマリューさんと同じようにね。
イザークさんも、シルビア様から、ちゃんと評価して貰ったんだよね。
一つだけ補足。
イザークさんは、大勢集まった広間でだけど。
叙任の時にね。
凄く上がり過ぎてさ。
返事の声が、完全に裏返っていました。
※大勢いる前だから、僕とマリューさんは、可笑しいのを必死になって堪えました。
それから、騎士団長代行のハンスさんだけど。
肩書が増えました。
現在は、騎士団長代行兼近衛隊隊長です。
近衛隊は、近衛騎士と近衛兵だけの隊です。
で、今まではカーラさんが纏めていました。
あれだね。
近衛隊隊長の職は、ハンスさんが事務仕事を兎に角嫌がって逃げていた件でもあるんだよ。
でも、シルビア様から『いい加減、もう逃がしません』って。
で、勅書が突き付けられたんだよね。
これでやっと、僕もハンスさんへ、事務仕事を命令できるようになりました。
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神聖歴2087年6月
リーベイア大陸の、ほぼ中心に位置するシレジア自治州では、まだ朝も早い大議事堂の前を、その瞬間に立ち会いたい者達が、既に一帯を埋め尽くす程、集まった景色を作っていた。
そんな大挙して集まる民衆の盛り上がりからは、距離を置いた一つの区画。
まぁ、いつもと変わらない朝を迎えたそこは、州都シレジアに幾つかある住宅地区の一つ。
中でも、俗に中間層とも呼ばれる者達が、取り分け多く暮らしている家々の一つでは、それこそ、この日もいつもと変わらない朝を迎えていた。
癖交じりの髪は、そこに金が混ざった様な茶色をしている。
今年で九歳になる少年にとって、こんな混ざった様な色合いの髪だけが、今も複雑な悩みだった。
一応、自分の髪が、その色については、父親と母親の髪色を、中途半端に受け継いだ。
父は癖毛で茶髪。
母はさらさらの金髪。
で、六歳年上の兄は、癖のない綺麗な茶色の髪をしている。
少年は今朝も、顔を洗う際には鏡を前にして、大きな溜息が漏れた。
「ハイネ~。もう直ぐ、朝ご飯よぉ♪」
「はぁ~い」
キッチンで朝食を作っている、母の呼ぶ声へ。
髪の色には、今朝も溜息を漏らしたハイネの返事も、ただ、足は間もなく、大好きなベーコンを炙った香ばしい匂いが漂う居間の方へ、速足で歩き出した。
髪色の悩みは、通う初等科の学校で、そこで揶揄われるのが嫌だった。
けれど、そんな自分の髪の色を、母は『私とあの人の子供だって。それがとっても分かる髪だから。母さんは大好きよ』と、いつも嬉しそうに笑う。
だから、ハイネにとって、母が大好きだと言ってくれる髪だから。
本当は、自分も嫌いなんかじゃない。
でも、この髪のせいで、昨日も学校では散々揶揄われた。
ハイネの複雑な心境は、いっそ、どこか遠い他所の学校へ行きたい・・・・・
クラスの連中に馬鹿にされたりするのは、それで余計、今の学校には行きたくないを、強く抱く様になっていた。
朝食は、ベーコンエッグと、トマトやレタスのサラダ。
そこへ、母特製のポタージュが付くと、後は近所のパン屋から買って来た、今朝一番の焼き立てバタール。
ハイネは自分のバタールに、先ずナイフで切れ目を入れると割った隙間へ、ベーコンエッグを挟んだ後は、口を大きく開いて噛り付いた。
皮はパリパリで、中身はもっちり。
そこへ口の中で拡がる半熟の黄身と、カリカリに焼いた香ばしいベーコンの塩味。
ハイネの中で、朝食の組み合わせは、これしかない。
そう言い切れるくらい、母の作るベーコンエッグが大好きだった。
ハイネがバタールサンドを頬張る向かい側、父は椅子の背もたれに体重を預ける様な姿勢で、朝食よりも新聞へ気が向いていた。
けれど、その隣に椅子を並べる母も、今朝は視線が父の広げた新聞へ、突き刺さる様に向けられている。
「ねぇ、父さんも母さんもだけどさ。今日の新聞は、何かあるの」
「ええ、今日の新聞、というよりもね。ほら、ハイネも知っているでしょ。今はシレジアに、シャルフィのシルビア様がいらしているのよ」
母からそう言われて、思わず「あっ」と、納得したハイネも。
「そっか。そう言えば、昨日も学校で噂になっていたっけ」
「そうよ。シルビア様が来る話題はね。今日の調印式のためらしいのだけど。だから、今日だけは学校も。それから父さんの職場も、臨時のお休みになったんじゃない」
「だったね・・・・はは、でもさ。別に子供の僕には、あんまり関係ない気もするんだけどね」
思い出したことに、それで空笑いもしたハイネには、新聞を母に渡した父が、そんな事は無いと首を横に振った。
「そうだなぁ。子供のハイネには、分からんかもしれんが。だがな、今度のシャルフィ王国への帰属の事は、シレジアの未来を。それを良い方へ向かわせるためには、どうしても必要な事だったんだ」
「父さん。帰属って、どういうことなの」
「帰属というのはだな。シレジアが、今度はシャルフィ王国の中に入る。それを帰属と言うんだよ」
「じゃあ、シレジアは、自治州じゃなくなるって事なの」
「いいや、今日の調印式で。それでシレジアが、シャルフィ王国の中に入るのはそうだが。あと何年かは、まだ自治州の様な感じで残るらしい」
「どうしてなの」
「シャルフィ王国の政治の形と、シレジアの政治の形とでは違いもあるんだ。それで一緒になるのだから。今度は新しい政治の形を作ろう。そういう話し合いが、調印の後でも数年間は必要だから。それで、そうなったらしいんだ」
「う~ん、よく分からないけど。でも、未来が良い方にってのは、そこは僕も賛成かな」
夫が出来る限り噛み砕いて教えようとした努力へ。
けれど、それでも、上手くは伝わらなかったらしい。
「そうね。ハイネが大人になる頃には、その頃には色々と分かると思うわよ」
父が畳んで渡した新聞を受け取った母は、それをテーブルの隅へと置いた。
さっきまでは、視線がずっと父の広げた記事へ、突き刺さっていたのだが。
どうやら、読みたかった記事は、もう目を通したようだ。
ふと、ハイネは思った。
シレジアが、シャルフィ王国の中に入るのなら。
望めば、シャルフィの学校へ転校できるのではないか。
もし、それが叶うのなら。
・・・・・今の学校は行きたくないけど。でも、シャルフィの学校なら行って見たいかな・・・・・
そんな願望を抱きつつ、ハイネの大きく開いた口は、未だ半分上あるバタールサンドへ噛り付いた。
今日は取り敢えず、学校が休みだから、それで良い。
毎日飽きもせずバタールサンドを頬張る、可愛い息子の向かい側で、今は朝食へ手が進む両親は、普段を装う会話が、正午の調印会見は見に行こう・・・・・・・
両親は揃って、弟のハイネには、自分達の抱える不安を、今も悟られない様にしている。
不安は、もう二ヶ月くらいも帰って来れないでいる長男の件。
馬鹿が付くくらいの明るさと、それで、やたらと正義感に熱いブレンドンは、四月の事件で、未だにヘイムダル帝国の何処かに、収容されているらしい。
ブレンドンは通う中等科の、他の学生達と共に今でも、無実の罪を理由に、帝国に捕らえられていた。
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シレジアの空港から発ったシャルフィの航空艦は、夕焼けが眩しい空へ、徐々に高度と速度を上げながら、航路は次の目的地へと向かっていた。
「一日くらいだと、全部は見て回れなかったなぁ」
「マイロード。その事は、次の楽しみに取って置けば良いと思います」
「うん、そうだね」
甲板の手摺へ、前のめりに身を預けた様な、そんな楽な姿勢のアスランは、今はもう遠く小さく映る州都シレジアを眺めながら。
その胸内は、ゼロムとも似ている感を抱いたシレジアの街並みを、出来ればもっと、時間を掛けて見て回りたかった。
「シレジアの道路とか、ビルの様な建物はさ。ゼロムともよく似ているって思ったよ。けど、煉瓦を敷いた様な道や広場もあったし。時計台のある噴水広場とかもね。それに、ネオンを使った夜景なんか、聞いた話だと、シレジアの名物らしいし。今度は休暇を使って、それで何日か旅行も良いかなって」
「ええ、シレジアの街並みですが。旅行雑誌にもそう載る様に。最先端の街並みという表現も、それは決して誇張ではないを。私も抱きました」
「だよね。だからさ。シャナに持って行くお土産だけど。裏が夜景とかの写真になっているポストカードも買い足したんだ」
「そうでしたね。ですが、マイロードは、シャナさんだけでなく。カール殿やエルトシャン殿にも、それから子供達の家で暮らす皆さんの分まで買っていましたね」
「うん。皆、僕の大切な友達だからね」
子供らしい笑みを見せてくれる主は、それを、ティアリスも愛おしいを抱ける。
コールブランドは、確かに王として相応しい教育を、今も続けているが。
故に、主も公務においては、作った言葉や態度を、ごく普通に出来るようにもなった。
それだけに、今は子供らしいを抱ける所へ、ティアリスは、主のこういう部分さえも、自身は守りたい決意を改めて強く抱くのだった。
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―――――― シレジア自治州 シャルフィ王国への帰属を 正式に表明 ――――――
歴史へ大きな跡を刻んだこの件は、シレジア自治州内で、最も親しまれる新聞においても、一面を全て占めるほど、大きく取り上げられた。
だけでなく。
シレジアタイムズは、調印式典の様子を、臨時の号外で、一際に目立たせた。
更には、この日の為に準備を整えて立ち上げた『動画報道部』が、表面を磁性体という特殊な加工を施したテープによって、カメラが映した調印式典の映像を記録した後。
今度は、その記録映像を、テレビ画面に映す形での放送も行った。
動画技術は、これもZCFの生み出した、新技術である。
その新技術を、シレジア自治州は世界で最も早く、ZCFとの間で利用許諾の契約を交わすと、全体普及は未だ先でも。
しかし、公共の場所では、そこへ設けられたテレビモニターから、今回の調印式典の映像も配信している等。
そうした点も含めて、州都シレジアの景観は、これも世界で最先端都市の、モデルにさえなっていた。
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シレジアがシャルフィ王国への帰属を、正式に調印した情報は、全世界へ瞬く間に広がった。
そうして、東西の大国へは芳しくない感情を、反対に、アルデリア法皇国やローランディア王国にサザーランド大公国等では、好ましい歓迎の声さえ上がっている。
ヘイムダル帝国正統政府は、『シレジア自治州は、一時的な感情で、正しい選択を誤った』との、公式声明を発表。
東部自治合衆国の大統領府は、『シレジア自治州は、結果的には我が国を、ヘイムダルの様な国家と同じ印象を持ってしまったが故の、その意味に置いては、残念な結果だったと受け止めている』と、此方も大統領府の公式声明が出ている。
ただし、ヘイムダル帝国が、そこからシャルフィ王国へ対しても、国交を制限するような動きを見せたことに対して。
反対に、東部自治合衆国の方は、シャルフィ王国と友好的な関係を強化しようとの動きを、公にも見せ始めた。
調印式典の翌日から。
ヘイムダル帝国はシャルフィ王国に対して、人と物との出入りに厳しい制限を、暗に行使した。
一方で、東部自治合衆国からは、早速の様に国境で発生するだろう怏々な諸問題について。
しかし、悪戯に出入りや流通を阻害したくはない。
よって、合衆国としては、一部を除いて、あとは自由な行き来と交易が出来る状態を作りたい・・・・・・・
シャルフィでは、女王不在の王宮に届いた合衆国の申し出へ。
応対した宰相は、ただし、腹の奥では、これも概ね予想通り。
それでも。
ヘイムダル帝国の反応については、あからさまに性急過ぎる所へ、嫌な懸念ばかりが膨らむのであった。