第23話 ◆・・・ 卓を囲む者達だから知る物語 ① ・・・◆
可愛い我が子の寝顔は、それはいつまででも見ていられる。
見飽きる等ということも決してない。
楽しい夢でも見ているのだろうか。
眠ったままの顔は、その頬と口元が笑ったように見えた。
ベッドに腰かけていたシルビアは、眠るアスランの毛布を首元へ寄せるように直すと、今だけは傍に居たい思いを押し込んだ。
そして、我が子を起こさない様そっと静かに立ち上がった。
「ティルフィング殿。アスランをお願いしますね」
月明かりの差し込む寝室は、部屋を出ようとする自分と眠る我が子以外に人影は映らない。
ただ、シルビアは分かっている。
ご先祖様の妹君は、こうして姿を現さないだけで。
当然と我が子の近くに居るのだと。
告げた所で、返事がないことも理解っている。
それでも。
シルビアは居る筈だと分かってるティルフィングへ一言を残して。
自身は音を立てない様にドアを閉めると、歩く足音にも意識を傾けながら下の階へと向かった。
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宿の一階は、そこで普段は利用客が食事などを楽しむフロアだけが、今も明るいオレンジ色の灯に包まれていた。
既に夜も更けたこの時間。
樹齢数百年の樹木を斬り出して作られた丸テーブルが並ぶフロアは、そこで一つのテーブルを囲む様にして、そして、二階から降りて来たシルビアを待っていた者達がいた。
「あんたも随分と母親らしい顔になって来たじゃないか。それでアスランは寝たのかい」
フェリシアの隣に椅子を置いて寛いでいたマーレは、二階から降りて来たシルビアの何処となく寂しさを含ませた優しい面持ちへ。
当然と思ったことを口にすると、今は隣で紅茶を片手に寛いでいるフェリシアもまた穏やかな頷きを繰り返した。
「マーレ。やはり貴女も気付いていましたか」
「当然だよ。けどまぁ・・・今も素性を隠している事は、それはカーラから便りを貰っていたんだ」
「そうでしたか」
「だけどね。あたしゃ思わず・・・・ちょっとでも気を抜いたらさ。それで泣いてしまったかも知れないね」
「あらあら。マーレが感涙に浸るところだなんて。私は寧ろ、そんなマーレなら是非とも見てみたいですわね」
「フェリシア様のそういう所は、それは今のアスランくらいの頃から変わってないようですねぇ。あたしもアスランのことは、ユリナ様とよく似ているくらいは聞いてましたがね。あれだけ同じ雰囲気をしていたらさ。そりゃ噂くらい立っても当然だよ」
皮肉も交えた二人の向け合う笑みも。
ただ、何方もが幼い頃からをよく見知っている。
マーレはかつて、それはフェリシアが王太女として公務に日々を過ごしていた時期には、秘書官として万事に携わっていた。
フェリシアが王位に就いてからもマーレは傍にいたが。
「貴女が此処の女将として。それも、もう・・・九年くらいになったのですね」
「そうだねぇ。けど、それと関係なく。あたしはこういう生活を、引退したらそうしようって決めていたんだ。寧ろ、踏ん切りをつけた意味では丁度良かったんだと思ってるよ」
懐かしささえ映す二人の和んだ雰囲気を、その会話に耳を傾けるシルビアは空いている椅子へそっと腰を下ろした。
フェリシア様もマーレさんもそう。
今は互いに言葉も崩すと、だから理解る。
単に気心の知れた。
それだけでは、ないのだと。
そんな二人が交わす昔話は、その内容がアスランとは別の部屋で休んでいるクローフィリア姫の生い立ちへ。
腰を折らない様に耳を傾けるだけのシルビアは、その視線が、この席に着く他の二人とも重なった。
一人はヘイムダル帝国に占領された街から二万人の民間人を、それも犠牲を出さずに救出したパキアの英雄。
当時は少佐で、今は少将になったブライト提督。
もう一人は、こちらもパキアでブライト提督と共に民間人救出に携わったマッシュ・ゴドウィン大尉。
シルビアは、そして、マッシュがこの一連において責任を取らされた経緯も知っている。
ローランディア王宮は、その事件の最初。
対応を一つに纏められないでいた。
背景には、フェリシア様の長男に嫁いだ現在の奥方が関係していたのだ。
此度の訪問では公務のために不在だったことで顔を合せなかったが。
ローランディア王国の第一王子と、その妻子。
ウィリアム・フォン・ルミエール王子には、現在の奥方が嫁ぐ以前。
娘を生んだ直後に容体が急変すると、治療の甲斐なく亡くなられた最初の奥方がいる。
だから。
生まれて間もなく実母を亡くした娘は、物心ついた時にはもう今の母親を実母だと思い込んでしまった。
否、それで母娘の関係が円満であれば何の問題も無い。
例え血の繋がらない母であっても。
それが些末にもならない程の愛情を注がれて育ったのであれば。
これもきっと幸せには違いない筈だと思う事すら出来る。
現在の奥方は、ヘイムダル帝国皇帝の娘。
第一皇女ユフィーリアとは母の違う娘で、それも幾人も居る娘の一人。
しかし、皇帝を父と呼べる娘には違いない。
言うなれば政略結婚。
ヘイムダル帝国とローランディア王国は、何れにも思惑があった筈。
ただ、これも国同士が事ある毎に起きる緊張した関係を、やはり、何処かで望んでいない。
複雑に絡んだ思惑は、その落し所としてこう至った。
耳を傾けるだけのシルビアは、自身のこともある。
だけに、あのフェリシア様が望んで政略結婚に応じた等とは思っていない。
苦渋の決断が、そうしなければ危うかった真相が在るはずだと。
娘を嫁がせた皇帝は、自らが結婚式へも赴いた。
つまり、ヘイムダル帝国の皇帝が直々にローランディア王国を訪ねた扱いである。
外交において、此処は特に重い意味が含まれた。
結婚式という場を利用した。
そういう部分もあっただろう。
この時、フェリシア様とヘイムダル帝国の皇帝は、披露宴の最中には祝い酒を酌み交わしながら。
故に、両国の緊張状態は、そして、表向きには平穏を取り戻した様に映った。
シルビアの思考は、この政略結婚によってフェリシア様が抱える事になった苦悩へ。
苦悩は、それが公私ともに今も終わらないを思うだけで胸を締め付けられる。
公の部分は、何れ王子から次期国王を意味する『王太子』になる筈だったウィリアム王子の処遇。
フェリシア様は、だから今も王子のままに留めているのだ。
結果、ウィリアム王子と第二王子のレアンドルとの間では、それこそ芳しくない状態が続いている。
シルビアは、この問題に関しては特に自身の立場を弁えねばならない。
本来であれば、既にウィリアム王子は王太子となっていた。
そうする事で、レアンドル王子が然るべき縁談を経て公爵になる流れだった。
それがローランディア王家の慣例とも言うべきものだったのだ。
ところが、ウィリアム王子は皇帝の娘を妃にした。
この流れで王太子になれば、そこから王位に就く意味は言わずと知れる。
フェリシア様は、そのため当時は人格者とも謳われたウィリアム王子を、故に王太子には出来ないのだ。
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シルビアが見知るローランディア王国の二人の王子。
フェリシア様の長男で第一王子のウィリアムは、一言で例えるなら好青年だった。
その弟で第二王子のレアンドルは、今でも生理的に距離を置きたい。
ウィリアム王子は、物腰柔らかい温和な為人で、内にしっかりとした考えを持っていながらも。
相手の話を先ずは聞いて、そこから妥協点なりを見出せる御方だった。
フェリシア様のような強いリーダーシップは感じられないが。
しかし、全体の調和を整えられる。
そういう意味では、良い国王になるだろうと抱きもした。
付け足すと、母譲りの髪色が似合う健康的な美男子でもある。
詳細までは聞き知っていないが、学生時代に知り合った貴族ではない普通の女性と付き合う中で結婚へ至った。
それが、クローフィリア姫が知らない血の繋がった母親である。
シルビアは、この女性と顔も合わせれば言葉を交わしたこともある。
クローフィリア姫の面立ちは、そうして見ると、やはり母親譲りなんだと思える。
本当の母は、フェリスはそう。
シルビアの見知るフェリスは、中でも印象がエストと被さった。
王子が庶民の娘を妃にする。
これはローランディア王国でも少なからず波紋を呼んだらしい。
しかし、フェリスのことは、フェリシア様が自ら二人だけの会談を持った。
その時の会談でフェリシア様は、フェリスにとても好感を持てたそうだ。
名前が似ている事まで嬉しそうに語っていた。
そういう感想くらいを、シルビアは本人の口から聞いている。
『抱えやすいウィリアムには、引っ張ってくれる。フェリスのような女性が一番相応しいのです。今は母である私が引っ張る事も出来ますが。でもね。やはり伴侶に引っ張って貰う。その方がずっと良いのですよ』
シルビア自身は、その時の会談の仔細を聞いていない。
踏み入るべきではないもある。
けど、フェリシア様が語る感想だけで。
シルビア自身もフェリスへは好印象を強く抱いた。
それだけに惜しまれる。
否、それ以前にとても悲しい。
自身も良き友に成れたかもしれないフェリスは、愛娘の命と引き換えにして世を去った。
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フェリスの死は、フェリシア様を崩れる程に悲しませた。
それ以上に、生きる気力を失くしたのがウィリアム王子だった。
ウィリアム王子の人柄が、それで虚無を孕むようになったのは此処からだ。
公務における無気力な振る舞いが目立った。
プライベートでは、喪が明けても眠る赤子のクローフィリア姫の傍で涙を流し続けていたらしい。
傷心は、それがどれ程に深かった等。
後に政略結婚へ至ったあの事件は、丁度この頃に起きた。
もっとも、兆候はそれ以前からずっと。
ローランディア王国は、ヘイムダル帝国との間に外交上の火種を抱えていた。
ただ、これはもう今更のアナハイム事案。
第〇次と呼称するなら。
きっと百くらいには上っているのだろうと思われる。
アナハイムとZCFは、それがローランディア王国の外交カード。
それも絶対的な強さを持つカードには違いない。
反対にヘイムダル帝国は、それで一千万規模の兵力を動員できるだけでなく。
機甲師団と呼ばれる存在は、これで戦車や装甲車等を全体で一万両以上は有している。
この軍事力を背景にした脅しは、それを単に言葉だけの脅しではない。
摩擦が起きる度に、国境を接する相手国の町や村が消滅した等の事案が幾つもある。
軍事力をそうやって使う手法は、当然だが非難を浴びる。
しかし、非難する側が束になった所で。
今のヘイムダル帝国と張り合えるのかと。
結果、非難の声は、否応なしに弱まってしまうに至る。
情けない限りだが、これも現実。
あの時も、それでローランディア王国の国境線には、動員された大規模な戦力が最悪に備えていた。
同時に、国境線のヘイムダル側では、当然だとばかりに複数の機甲師団が集結すると、表向きは軍事演習。
両国間の緊張は、いつ開戦してもおかしくない緊迫した状態へと陥った。
この時のシルビアは、それに絡んでフェリシアから非公式に仲介を頼まれた。
と言っても。
当時のシルビアでも直接の仲介などは、親友のユフィーリア皇女をとも考えたが断念した。
理由は、ローランディア王国との国境線に展開したヘイムダル帝国の機甲師団にある。
展開中の軍を指揮する全権は、これをユフィーリア皇女が勅命によって任されていた。
断念へ至った流れは、この点を時を同じく非公式に、それも隠密裏に今回は力になれない。
ユフィーリア皇女からの密書は、託されたエレナの手で直接シルビアへ届けられた。
書面には、軍事演習で日数を稼ぐのが精一杯だと。
もっとも。
ユフィーリアは、自身が直接身動きの出来ない状況下でも。
そこでシルビアには何とか出来るかも知れない手立てを用意していた。
皇帝へ直接働きかける。
それが出来る唯一の相手を、ユフィーリアは続く文面に記していた。
急ぎノディオンへ。
そして、オルガ長老を訪ねよ。
密書を受け取った当日、シルビアはノディオンへと飛んだ。