未完【軟禁?・食人】
※中途半端注意※
そこら中に散らばった意識が集まってくる。
それらはぎゅうぎゅうと寄せ合い押し合い一つに混ざって、そして僕になる。
拡散した意識の中で感じる水中をたゆたうような安寧から引き上げられて、僕は目を覚ました。
暗い部屋、どんよりとした重い空気が圧し掛かっているように、息がし辛い。
目蓋を数度、開いて閉じて、また開く。
見慣れた天井に、僕は浅く息を吐いた。
硬い床にそのまま寝転がっていた所為で、背中から腰から、あらゆるところが痛む。
伸びたまま寝がえりもろくにうてなかったのだろう、肘も膝も突っ張ってなかなか曲がらない。
痛みに眉を顰めながら、関節をほぐす。
ぼきぼきと、あまりしてほしくない音が静かな部屋に響いた。
この部屋には窓がない。
あるのは硬くて重い鉄の扉と、天井ぎりぎりの位置につけられた通気口とそれを塞ぐ鉄格子だけ。
扉には鍵がかかっていて、内側からは開かない。
通気口には背が届かないし、そもそも鉄格子は錆ついた様子もない。
それから、映画やゲームで見る独房にあるみたいな便器と手洗が隅にある。
他には何もなくて、僕は何も持っていない。
ただ、薄いシャツと着古したジャージのズボン、くるぶし丈のソックスを身につけている。
ただ、それだけ。
光のない部屋で、時間の感覚も狂って、僕はただぼうっとしているか、寝ているか。
硬い床はとても寝心地が悪いし、布団も毛布もなくてとても冷える時もある。
水が出るのが救いなのかもしれない。
僕はこの部屋に、軟禁されている。
監禁ではなく軟禁だと考えている理由は、僕は一切拘束されていないし、この部屋から出られるからだ。
一日に三度、僕はこの部屋から出られる。
僕をこの部屋に軟禁した男が、一日に三度だけやってきて、僕はこの部屋を出て食堂へ案内される。
食堂とは、僕がそう呼んでいるだけで、そこはこの部屋とあまり変わらない。
ただ部屋の隅に便器と手洗がなくて、火の点った燭台が置かれている大きなテーブルと椅子が二つ置かれているだけ。
蝋燭のゆらゆらとした橙色の明かりに照らされるテーブルには、白い食器と銀色のスプーンとフォークとナイフ。
一日に三度、僕はこの食堂と呼んでいる部屋で食事をする。
自分を軟禁している男と、食卓を囲む。
僕は男との食事で、果物しか食べない。
野菜は出ない。
食卓に並ぶのはスープと肉と果物だけ。
赤黒く濁ったスープには目玉が浮いていた。
骨付きの肉には指が五本と爪が付いていた。
男はそれを静かに食べた。
僕は初めて男と食卓を囲んだ時、並んだ皿を見て、吐いた。
椅子に座ることも出来ず、その場に四つん這いになって、胃の中が空になるまで、吐いた。
そんな僕を少しも気にせず、男は優雅にそれらを食べていた。
音を立てず、完璧に見えるテーブルマナーで、男はそれらを食べていた。
食事の度に吐いて、僕はすぐに衰弱した。
何も食べられないのに、男は僕を食卓へ誘った。
それに逆らうこともできずにしたがっていれば、やがて僕の感覚はおかしくなった。
一言でいえば、慣れた。
僕は苦しんで死ぬより、おかしくなって生きることを選んだ。
初めは、違和感をなくそうと懸命に、あれは違うものだとか良く似た形なだけだと自分に言い聞かせていた。
それも続けば本当に違和感は薄れゆくもので、僕はもう男が食べるものを食事と認識できるようになった。
男が食べているのは、男の為の食事だ。
僕は椅子に座って、男の食事が終わるのをただ待つことができるようになった。
僕は椅子に座って、男の食事が終わる間に皿に添えられた果物を食べられるようになった。
添えられた果物は、半分に切られた林檎だったり、梨だったり、丸々一個の蜜柑や桃だったりした。
男が食事をしている間、僕はただ殊更に時間をかけて果物を食べた。
時折、男の方を盗み見て、自分もいつかああなるのかと考えた。
食べるようになるのか、食べられてしまうのか。
僕はここで、男以外を見たことがない。
ここは多分、地下なんだろうけれど。
窓もない場所で、僕が知っているのは、僕が軟禁されている部屋と、食堂と、部屋から食堂までの暗い廊下だけ。
男が普段何処にいて、何をしているのかを僕は何も知らない。
変わり映えしない日々、寝て、起きて、また寝て、時々食事に連れ出される。
同じことをぐるぐると繰り返す生活のように、考えることもぐるぐると堂々巡りしている。
他にすることがない。
暇を持て余すだけで、それはつぶせない。
睡眠も、長く続かない。
堂々巡りの思考を続けて、やがて来る眠気を待つ。
他に出来ることがない。
うつらうつらと思考が揺れ始めれば、それは瞬く間に僕に近づいてくる。
そして僕の意識を千切って千切ってばらばらにして、それをこの部屋にばら撒くのだ。
紙吹雪のように、そこら中に散らばって、僕は水中にたゆたうような安寧に身を委ねる。
目を閉じれば、何もかもが消えうせて、あとは泥のように眠るだけだ。
硬い床から伝わる冷たさが、体温と混ざっていく。
体が溶けて床の上に広がる感覚。
生ぬるい浅い夢の中で、僕は骨になる。
肉が溶けて、髪も抜けて、眼球も内臓も何もかもなくなって、僕だった場所に骨だけが残る。
――骨だけになれば、きっと、あの人は食べられないから。
夢の中で何度も食べられた。
目玉を抉って、飴玉のように舌の上で転がされた。
腕を千切って、骨付き肉みたいに齧り付かれた。
腹を裂いて、臓物を啜られた。
何もかも食べられて、なくなってしまう。
そして骨だけが残るのだ。
僕だった残りが。
骨になった僕は、またこの暗い部屋で目覚める。
そこら中に散らばった意識を集めて。
目が覚めて、自分の手で確かめる。
目玉があること、肉があること、腹が裂かれていなくて、そこに臓物がきちんと納まっていること。
指で触れて、確かめる。
そして数度瞬きをして、浅く息を吐く。
今はまだ、夢の話。
いつか来る、未来の話。
既に過ぎ去った、過去の話。