7 勇者、花嫁修業を始める。
良く手入れされた芝生に、巨大な魔法陣が広がった。激しい音と閃光を放ちながら発動したその魔法陣を、シェリーとソルダが少し心配そうな表情で見守る。
やがて、音も光も止んだ魔法陣の中央に立っていたのは、
「アリア!」
エプロンドレス姿の女性ーーシェリーの親友、アリアだった。
「……? シェリー!」
瞑っていた目を開いて不安げに辺りを見渡していたアリアだが、シェリーを見つけるなり、嬉しそうに両手を広げて飛び付いた。
そんな彼女を、シェリーも年相応の無邪気な笑顔を浮かべて受け止める。
「アリア、ごめんね? 急に呼んだりして……」
「何言ってるのよ! 私、手紙を受け取った時、嬉しかったんだから!」
「それに城で仕事しているよりもずっと退屈しなさそうだったし!」と悪戯な笑みで話すアリアに、シェリーは感謝を込めてもう一度抱き締める。
二人の仲睦まじいやり取りをソルダは微笑ましげに眺めながら、昨日シェリーに言われた事を思い出す。
(急に「この手紙を私の所の国王に送って!」と言われた時は何かと思いましたが……シェリー様、お友達に会いたかったんですね……)
普段の振る舞いと勇者という肩書きの所為で忘れがちだが、シェリーはまだ十八という、故郷の友人が恋しくなっても仕方のない年齢である。
そう納得したソルダは、会話に花を咲かせている二人に声を掛けた。
「お二人とも、ここで立ち話もなんですし、お茶の用意をしましょうか?」
折角の再会、その方が良いだろうと気を利かせて問い掛ける。
しかし、シェリーは直ぐに首を横に振った。
「ありがとう、でもいらないわ」
「そうそう、シェリーは今から修業だもんね? 給仕係の家事スキルをみっちり叩き込んであげる!」
「……え?」
「ちょ、ちょっとアリア!」
すかさずシェリーがアリアの口を塞いだが、ソルダの長い耳にはしっかりと聞こえてしまった。ぱちくりと目を見開いて小首を傾げる。
色々と聞きたげな視線を向けられて、シェリーは苦々しげに歪めた顔を逸らした。
「……何よ」
「いえ、あの、シェリー様はもしかして……」
ーー家事が苦手なんですか?
そう尋ねようとしたソルダだったが、寸でのところで口を閉ざした。
何故なら、ふと視界に入ったシェリーの拳が固く握り締められていて、今にも暴れ出しそうだったからである。
まだ命が惜しかったソルダは何も気付かなかった事にして、言おうとしていた言葉を忘れる事にした。
「……いいえ、何でもありません。では、自分は仕事に戻りますね」
来客を無事迎えた今の自分には、もう此処には仕事は無い。下手に勇者の怒りを買う前に逃げ出すのが最善だろう。
ソルダは頭を下げて、さっさとその場を離れようとした。
「ねーえ、ソルダ?」
そんな彼を愛らしい声が呼び止めた。
しかし、その甘い声色の裏に言い表せない重みを感じ取ったソルダは、思わず足を止めてゆっくりと振り返る。
「私、貴方の事はあの魔王と違って、有能だって思っているのよ」
可憐な笑顔でそう言ったシェリーの背後に、ソルダは此処にいる筈の無い鬼の恐ろしい姿を見た。
「あ、有難うございます……!」
一言でも琴線に触れれば、間違いなくーー喰われる。
身の危険を本能で察したソルダは何度も頷くと、今日一日は極力口を開かないでおこうと心に決めて、逃げるように今度こそ中庭を出て行った。
「……ふう」
その背中が完全に見えなくなるまで見送ったシェリーは安堵からの溜め息をつく。そして、アリアの頬を摘むと上下に引っ張った。
「相変わらずお喋りなんだから! もしも魔王にバレたらどうするのよ!?」
「い、いひゃいいひゃい!」
親友だからこその容赦ない攻撃にアリアは手をばたつかせて声を上げる。
そうして暫く頬を弄ばれ、涙目になった頃に漸くシェリーの手から解放された。
「うう……でもさ、どうしてわざわざ家事を習おうと思ったの?」
「えっ?」
ひりひりと痛む頬を撫でながら問いかけると、シェリーは首を傾げた。
その表情は本当に不思議そうにしていて、それを見たアリアは思わず苦笑を零す。
「ううん、何でもない。さあ、早速修業に入ろう!」
「……? うん、お願いするわ」
釈然としない様子を見せながらもシェリーは家に向かって歩き出す。
その後に続きながらアリアは思った。
(同じ家に住んでるからって、別に大嫌いな相手の分まで家事をしなくてもいいと思うんだけど……)
けれどそう言えば、この親友はきっとこう返してくる。
≪それは私が魔王から逃げたみたいじゃない! 完璧に家事をこなして、あの魔王を驚かせてやるんだから!≫
神秘的な深海を思わせる瞳の奥で、意地とプライドを燃やしながらそう言ってくる姿が容易に想像出来てしまい、アリアはつい噴き出しそうになる。
(……ま、私としては、シェリーが最終的に幸せになってくれればいいし)
ーー今はまだ余計な口出しはしなくても大丈夫かな。
そう結論づけたアリアは、まず家事の何から教えようかと思考を切り替えた。
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