41 勇者、魔王の嫁になる。
許可を得た者しか立ち入れない国王の間。
煌びやかな玉座に座る国王の前で、シェリーは深々と頭を下げていた。
「お騒がせして、本当に申し訳ありませんでした……」
床に付きそうな程に頭を下げる勇者に、国王は大柄な体を揺らして笑う。
「いやいや、寧ろ君たちの夫婦喧嘩が廊下だけで済んで良かった」
「……はあ、えっと、どうも」
嫌味では無いと分かる笑顔でそう言われて、どう返していいのか分からないシェリーは曖昧な返事をする。
すると、国王の隣に立っていたディアロが、相変わらずの穏やかな表情で口を開いた。
「修理とかは僕がやっておくから、安心して帰ってね」
「本当にいいんですか? やっぱり手伝って……」
「親父にとっちゃ、それくらい面倒ですら無いから気にすんな」
シェリーの隣に立つロワがそう言えば、ディアロもその通りだと言うように何度か頷いた。
それを見たシェリーは、それならばと親切を素直に受け取る事にする。
「じゃあ……お願いします」
「うん、此方こそ息子をお願いするよ」
シェリーは何も言わなかった。しかし、淡く染まった頬が代わりに答えている。
それに気付いたディアロは満足そうに目を細めると、片手を上げて軽快な音を立てて指を鳴らした。
その音に呼ばれた魔法陣がシェリー達の足下に大きく広がっていく。
「では、これからも仲良くな」
「また何かあったら、いつでもおいで」
王様二人に見送られながら、シェリーとロワは魔法陣が放つ光に飲み込まれていく。絶え間なく瞬く閃光の眩しさに目を閉じれば、一瞬体が浮くような感覚がした。
そして数秒後、火花が散るような激しい音が止んだので、二人はゆっくりと目を開いた。
「……帰ってきた、のね」
たった三日離れていただけなのに、随分と久々に感じる中庭の景色を眺めながらシェリーは呟く。
その隣でロワは小さく息をついた。
「だな、あー……疲れた……」
「うっ……」
今回ばかりは自分に非があると認めているシェリーは、こみ上げた心苦しさに眉を顰める。
(ちゃんと謝るべきよね……)
しかし、言葉がなかなか出てこない。
そのまま言い出せずにいると、突然目の前にロワの手が差し出された。
その手の上には、拳大ほどの大きさをした薄青色の石が乗っている。よく見れば石は淡い光を帯びていた。
神秘的な雰囲気を放つその石を、シェリーがきょとんと見つめていると、ロワは片手を取って石を持たせた。
「ほら、やるよ」
「え?」
「それ使えば、お前の剣も多分どうにかなるだろ」
「……!」
その言葉を切っ掛けにして、シェリーは気付いた。
零れ落ちそうなほどに見開いた目で、ロワと手元の石を交互に見遣る。
「もしかして貴方、私の為に……?」
そう言いながらも確証が持てず、困惑に満ちた視線で見上げる。
すると、ロワは鼻先で笑って肩を竦めた。
「そんなわけねえだろ。杖の強化で欲しい魔石を手に入れる為に掘ってたら、たまたまそれが出てきただけだ」
それは嘘だ、とシェリーは直ぐに思った。
狙いを絞って探しにでも行かない限り、この『伝説の鉱石』が手に入る筈が無い事くらい、鉱石の知識が浅いシェリーにだって分かる。
そして、ロワ本人も少し無理がある嘘だと思ったのだろう。気まずそうな顔をして黙りこくってしまった。
二人の間に沈黙が訪れる。
すると、手元の石を見つめていたシェリーが、おずおずと口を開いた。
「貴方の嫁は、本当に、その……私でいいの?」
その質問にロワは思わずシェリーを見る。
しかし、シェリーは石から視線を逸らさない。表情を見せない代わりに、赤く色づいた耳を髪から覗かせている。
「……よくなかったら、迎えに行かねえよ」
素っ気なく答えたロワは、自分の頬が少しだけ火照るのを感じた。見られないように空を仰ぐ。
けれど相手の反応が気になって、視線だけをそっと隣に送りーーそして、呼吸を忘れた。
「そう……、……良かった」
果たして偶然なのか、そよいだ風が蜂蜜色の髪を撫でて、隠れていたシェリーの表情を露わにさせた。
無邪気に柔らかく下げられた眉。頬はほんのりとした薔薇色に染まり、安堵の溜め息を零した唇は甘く緩んでいる。
心から嬉しそうで、すっかり無防備な惚けた笑顔。
それを目の当たりにしたロワの思考は一瞬だけ、ーー弾け飛んだ。
「……え?」
不意に目の前が暗くなったと思えば、何かが唇を塞いで、直ぐに離れていった。
明るくなった視界で真っ先に見たのは、覗き込むように自分を見つめている金色の瞳だった。
(え、今のは?)
指で唇をなぞって、今しがた触れた感触を思い出す。少し乾いていて、でも温かくて柔らかかった。
(そう、まるで今、こうして触れている唇みたいな……)
そこまで考えたシェリーは、ふと唇をなぞる手を止める。
そして、一つの仮説を立てた途端、真珠の肌を一気に桃色に染め上げた。
「な、あ、貴方、今、私にっ」
「おう、キスした」
「……っ!!」
躊躇いもなくあっさりと白状されて、シェリーはますます顔を赤らめた。酸欠の魚のように口を開閉させる。
一方のロワは、真っ赤になって慌てふためくシェリーをじっと見つめていた。
そうして、何か考えるような表情で視線を向け続けて、やがてゆっくりと口を開いた。
「俺、お前のこと結構……つーか、かなり好きみたいだ」
まるで他人事のように言うロワだったが、その頬はすっかり赤い。
それを見たシェリーは、今の口付けも言葉も、冗談や嫌がらせの類ではないと気付いてしまった。途端、一気に心臓が跳ね回る。
「で、でも! 私は勇者で、勇者は魔王を倒さないと、むぐっ!?」
大きい手に口を塞がれて言葉を止める。思考が追い付かず動揺するシェリーを宥めるように、ロワは青い瞳を覗き込んで言った。
「勇者がどうとかじゃなくて、お前は? ……シェリー、お前自身は俺のこと、どうなんだよ?」
初めて聞く少し不安げで甘い声に、胸の奥が擽られる。
触れる掌に、匂いに頭がくらくらする。
見つめてくる金色の輝きにだってどうにも惹かれてしまうと認めれば、もう答えは決まっていた。こんなに近い距離。逃げ場は無い。
口元を覆う手をそっと退かして、少しだけ握り締める。深呼吸をすれば緊張に喉が震えた。それでもーー、
「好き、……好きよ、ロワ」
ずっと目を逸らしてきた。いや、見ようとしなかった。
戦うべきだと散々言われ続けて、思い込んで。そんな「魔王」を素直に好きだと認めるには「勇者」の枷はあまりにも重過ぎた。
だけど、その枷は今、外された。
不安だった互いの想いが通じてしまえば、なんてことは無かった。
答えを聞いたロワの表情が柔らかく緩む、と思っていれば、ひょいと顎を持ち上げられた。
間近で絡み合う視線の熱に、シェリーの体は一瞬にして強ばる。
「なあ、そういえば言ってなかったよな」
細められた瞳の奥に、獣の影を見た気がした。
危険な色気を漂わせる眼差しに狼狽えながらも、シェリーは必死に平静を保とうと眉間に力を込める。
「な、何をよ?」
不器用なしかめっ面。それが恥じらいからのものだと分かっているロワは可笑しそうに喉で笑いながら、シェリーの左手をひょいと持ち上げた。
「ん? 何って、プロポーズの言葉だよ」
「プロ……っ!?」
「シェリー」
開きかけた赤い唇にそっと当てられた人差し指が、零れそうになった言葉を優しく封じ込める。
シェリーが大人しくなったのを見たロワは、指を離す代わりに一度だけ啄むような口付けをする。
そして、小さな手の薬指に輝く指輪に唇を寄せてから、真っ赤に染まっている顔を見上げて無邪気に笑った。
「これからも俺の嫁でいてくれ。きっと、俺の嫁はお前にしか出来ねえからさ」
甘い想いを直球でぶつけられたシェリーは潤んだ目を見開いて、あうあうと言葉にならない声を漏らす。
それから暫くの間、視線をあちこちにさ迷わせていたが、遂に逃げ場が無いと悟ると、恥ずかしそうにロワの目を見つめ返した。
「い、……いてあげる」
ちょんと尖らせられた唇から小さくも確かに紡がれた言葉に、気持ちが浮ついたロワは堪らず笑みを浮かべる。
それに気付いたシェリーは慌てた様子で手から逃れ、無理やり作った険しい顔でロワを勢い良く指さした。
「か、勘違いしないでよね! 魔王の嫁なんて、勇者にしか務まらないから仕方なくであって……!」
「あー、分かった分かった」
「私はただ、その、貴方の傍にいれば、殺す機会を伺いやすいと思ってるだけで!」
「はいはい」
「あ……貴方の事は確かに、その……だけど! でも! 私が勇者で貴方が魔王である事は変わりないんだから! だからこれからも私はーー」
「あーもう! 分かったから少し黙れ!」
「え、んむっ……!?」
指さしていた方の腕を引かれて、抵抗する間も与えられないままに再び唇が塞がれた。
先程よりも深く重ねられた唇から、濡れた熱い何かが口内にゆっくりと侵入してくる。
(え、ちょっと、何これっ)
未知の感覚に混乱していれば、その何かに舌を絡め取られた。
くちゅりと濡れた音が聞こえてきて、シェリーはあまりの恥ずかしさに頭の中が真っ白になる。
「……ん、とりあえず満足」
目尻に浮かんだ涙が零れそうになった時、漸く唇が離された。
ロワは満足げな表情で、濡れた口元を拭う。
その仕草がとても官能的に見えて、シェリーの柔頬は一気に熱を帯びた。その熱を誤魔化したくて、文句を言おうと口を開きかける。
「あっ……」
しかし、足に力が入らずによろめいて、そのままロワに体を預けてしまった。
「何だよお前、これくらいでこんなになってたら、俺を殺す事なんて一生掛かるぞ?」
寄りかかってきた華奢な体を難無く抱き止めたロワは、動けなくなっているシェリーを見下ろして、からかうように言う。
すると、シェリーは小さく身じろいで、意外と厚い胸板に埋めていた顔を僅かに上げた。
「……っ!?」
口付けの余韻に潤む青い瞳。無意識だろうが、甘みを帯びた視線を上目遣いで送られて、思わずロワは小さく息を飲み込む。
濡れている紅い唇が、妖しい程の艶めかしさを放ちながら動いた。
「……じゃあ、一生傍にいてあげるから、覚悟しなさい」
口調は強気でも、その声は何処となく桃色をしていた。
如何に魅惑的な事をしているか自覚が無いシェリーは、相手から反応がくる前に、すかさず再び目の前の胸板に赤い顔を埋めて隠す。
そして、素直になりきれない分も込めて、おずおずと回した両腕でロワを抱き締めたのだった。
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