3 勇者、婚約する。
目蓋の裏で閃光が静まったのを感じ取ったシェリーはそっと目を開けた。
視界に入った光景は国王の間ではなく、国王達の姿も当然見当たらない。
(……やられた)
大方予想はしていたものの、認めたくない事実を目の当たりにして、思わず重い溜め息が零れた。
(あの男がきっと先代魔王だったのね……)
そうでなければ、その難易度の高さから秘術とまで言われている転移魔法を易々と使える筈がない。
とりあえず周囲を見回してみると、自分が立っているのが薄暗い廊下の真ん中だと分かった。壁に掛けられた燭台では炎が揺らめいている。
そして、目の前には扉が一つ。
すると、その扉を見たシェリーの眉間に皺が寄った。
(この感じは……)
扉を隔てた向こう側から感じる気配。それに呼び起こされたように胸の奥底から沸き上がる感情は確かに覚えがあった。
心臓を高鳴らせるこの感情は、まさしく恋のときめき──ではない。
溶かしたばかりの鉄のように熱くて重くてどろどろとして──そう、この感情は純然な憎しみと殺意そのものである。
「だから! 俺はアイツと結婚なんかしないって言ってんだろ!!」
「!!」
自然と険しい表情になって扉を睨んでいれば、扉を突き破りそうな怒声が聞こえてきた。
それと一緒に強い力の波動も響いてきて、シェリーは咄嗟に身構えてその衝撃に耐える。小柄な所為で多少は後方へと押されたが、両足で踏ん張った。
(今の……やっぱり間違いないみたいね……)
常人なら弾き飛ばされてしまう程の波動を凌いだシェリーは体勢を立て直すと、扉の向こうにいるであろう相手を思い、憎らしげに歯を食い縛る。
そして、すらりとした細く美しい片足をゆっくりと上げると、
「ふんっ!」
力強い一声と共に、躊躇い無く扉を蹴り破った。
「うおっ!?」
「だ、誰ですか!」
部屋にいたのは二人の男。
突然破壊された扉に揃って驚愕の表情を浮かべていたが、扉の破片を踏みつけて堂々と佇むシェリーの姿を見るなり、片方の男は「あっ!」と声を上げた。
「勇者! 何でここにいるんだ!?」
「お久しぶりね。魔王になったんですって? 一応お祝いしてあげるわ、おめでとう。でも、まだ息をしているなんて残念だわ」
黒の衣服とマントを身に纏い、頭には雄々しく立派な巻き角。金色の瞳を見開いて叫ぶ魔王──ロワに向かって、凛とした姿勢で佇むシェリーは薄氷のような微笑みを浮かべながら髪を軽くかき上げる。
あからさまに挑発的な態度を向けられたロワは目つきを鋭くさせた。
「それはこっちの台詞だ! それと何でここにいるか答えろ!」
「貴方のお父さんに強制的に飛ばされたのよ。私だってこんな所に来たくなかったわ」
「は……親父に?」
シェリーの返答を聞いて、ロワは目をぱちくりさせる。しかし、思い当たる事があったのか直ぐに顔を顰めると、苛立った様子で自分の黒髪を乱暴に掻いた。
「あっと驚く土産って、これかよ……!」
「あの……ロワ様、此方の方は?」
今にも部屋を飛び出して父親を襲いに行きそうなロワに、傍らにいた男がおずおずと声を掛ける。
白髪に長く尖った耳。額に煌めく赤い石。片眼鏡を掛けた真面目そうな男を一瞥したロワは、平静を取り戻すように息をついた。
「その女は人間軍を引っ張ってる奴だ」
「えっ!? で、では、彼女が勇者……!?」
信じられないといった様子で男はシェリーを見た。
小柄で愛らしい目の前の少女は、勇者よりも姫と言われた方が納得がいく。
しかし、この部屋の扉を容易く蹴り破ってみせた事を思い出して、男はそっと息を飲んだ。
「そうか、ソルダはいつも俺とは別部隊にいるから、実際に会うのは初めてか」
「はい、しかし……勇者がまさか、こんな少女だとは……」
「見た目はこんなだけどな、中身は鬼だから気を付けいってえ!!」
シェリーを指していたロワの人差し指がべきりと嫌な音を立て、不意の激痛にロワは堪らず悲鳴を上げた。
痛む指に息を吹きかけながら涙目で睨みつけてくるロワに、シェリーはにっこりと無邪気な笑顔を向ける。
その笑顔の陰に浮かぶのは、正に鬼だった。
「人のことを指さすなって教えられなかったのかしら、魔王様?」
「っ、て、手前……っ!」
間近で向けられる憎らしげな視線を、シェリーはふんと鼻で笑って躱す。
そして、自分達のやり取りについていけず、傍らで立ち尽くしているソルダに目を向けた。
青く透き通った宝石の瞳の美しさに、ソルダは無意識のうちに姿勢を正す。
「貴方は魔王の側近?」
「は、はい」
「そう、……貴方、先代魔王から色々と話を聞いていない?」
すると、ソルダは肩を大きく跳ねさせた。
それからそのまま黙ってしまった側近に、負傷した指へ回復魔法をかけていたロワはまさかと眉を顰める。
「……おい、ソルダ」
「聞いてません。ええ、聞いてません。先代魔王様から『勇者をそっちに送るからどうにかして二人に結婚を納得させてね』とかも言われていません」
「思いっきり親父と手を組んでるじゃねえか!」
顔を真横に逸らして、わざとかと思うほどにあからさまな反応を返してきたソルダに、思わずロワが盛大なツッコミを入れる。
呆れ顔を浮かべたシェリーは額に手を当てて溜め息をついた。
「とにかく……私も彼も結婚する気は無いの。分かったら帰してもらえる?」
「ハッ、こっちだってさっさと帰ってもらいたいっての。ドラゴン一匹貸してやるからとっとと出て行け」
「こんな暗くて湿っぽい悪趣味な城、言われなくても出て行くわよ」
「……何だと?」
「……何よ?」
睨み合う二人の間に見えない火花が散る。
正に一触即発といった空気の中、ソルダは口には出さないながらも内心で先代魔王の言葉を反芻しながら密かに慌てていた。
(ど、どうしたものか、このままでは不味い……!)
先代魔王の命令に応えられなかったとなれば、首が物理的に飛びかねない。それだけは嫌だと、ソルダは咄嗟に思い付いた考えを言った。
「け、結婚すれば、その分傍にいる時間が増えます! そうすれば相手を殺す機会が増えますよ!!」
すると、二人は睨み合いを止めてソルダを見た。
鏡合わせのように全く同じタイミングで視線を向けられたソルダは驚くも、もう後には引けないと言葉を続ける。
「その、結婚して夫婦となれば衣食住を共にしますから、互いの隙や弱点も見つけやすいですし! 戦場だけで戦うよりも相手の首を狙いやすい、か、と……」
無言で見つめてくる青色と金色。
その眼差しにソルダは心が折れそうになり、言葉が徐々に弱くなっていく。そして遂に口を閉ざし、部屋に静けさが訪れた。
(……ど、どうしましょう)
ソルダは大量の冷や汗が背中を濡らしているのを感じながら、無理がありすぎる自分の発言に後悔し、二人の視線から逃げるように俯いた。
──もしかしたら先代魔王よりも先に、この二人に首を飛ばされるかもしれない。
そう思って、目を固く瞑った。
「……成る程、そういう考え方もあるわね」
「……、……え?」
「確かに戦場だと他の奴らもいて、本気でやりにくかったんだよな」
「えっ?」
降ってきた言葉にソルダは思わず顔を上げる。
そこには納得した表情のシェリーとロワがいた。
予想外の展開に呆気にとられているソルダの肩を、シェリーがぽんと叩いて我に返らせる。その表情は先程までとは違い、向日葵のように晴れやかだった。
「いいわ、私、嫁いであげる」
「ほ……本当ですか!?」
「ええ、本当よ」
しっかりと頷いてみせるシェリーの様子に嘘は見られない。
首の皮一枚が繋がった事に安堵したソルダは深く息を吐き出し、懐から小箱を取り出した。
掌大ほどの大きさをした濃紺の小箱にシェリーとロワは目を向ける。
「では、お二人の気が変わらないうちにこれをお着け下さい」
そう言ってソルダが小箱の蓋を開ければ、赤い土台に嵌まった二つの指輪が現れた。
大小二種類のそれは明らかに男性用と女性用で、仲良く揃って銀色に輝いている。
単なるペアリングと称するには高級感漂うその指輪が美しさだけではなく、もっと重要な意味を持っている事を感じ取った二人は表情を硬くさせた。
「……貴方が先に着けなさいよ」
「こういう物は女のが好きだろ? お前が先に着けろ」
「それでレディファーストを気取っているなら大きな間違いよ。いいから貴方が先に着けなさい」
「お前こそ、夫優先で良い妻演じてるつもりなら大間違いだぜ」
「そこは安心して。貴方を夫として引き立てるなんて、演技でもしないわ」
指輪を見つめたまま言い合いを始めた二人に、ソルダは頭が痛くなった気がした。
しかし、このまま放っておけば、口論の果てにやっぱり結婚はしないとも言いかねない。
それは困ると思ったソルダは、先程の自分の発言を参考にしながら試しに口を挟んでみる。
「あの……やはり止めておきますか? 自分を殺そうとしている相手が同じ屋根の下で傍にいるなんて、流石のお二人でも怖いと思いますし……」
「誰が怖いなんて思うもんですか!」
「誰が怖いなんて思うかよ!」
荒らげた声を揃って上げた二人は、一斉に小箱から指輪を奪い取る。
そして、互いを威嚇するようにキッと睨みつけてから、自分の左薬指に指輪を強く押し込むようにしっかりと填めた。
(こ、この人達は……)
──見ろ、指輪を填めてやったぞ! 天敵と結婚する事なんか怖くも何とも無い!
そんな風に言いたげな表情を浮かべる単純なこの二人が、それぞれ人間軍と魔物軍を率いる最高戦力である勇者と魔王だと思うと、ソルダは命令を遂行出来た喜びも忘れて複雑な気持ちになった。
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