35 勇者、嫉妬する。
刷毛で掃いたような雲が漂う青空の下。
住人たちの話し声や露天商の呼び込みで賑わう魔物だらけの城下町をロワは歩いていた。
それは、いつもと同じ城下町の見回り。
しかし、今日は普段とは大きく違う点が一つだけあった。
穏やかな風にマントを靡かせて歩くロワの隣に、普段はいない小さな姿。その人物は道行く魔物の視線を感じながら思わず溜め息をついた。
「どうして私まで……」
ロワの隣を歩くシェリーは吐息混じりに呟く。
家にいても家事以外にすることは無いので、こうして城下町を歩くこと自体に文句はないが、ロワと並んで歩くということに慣れていない所為でつい顔を顰めてしまう。
明らかに足取りがぎこちないシェリーを見下ろしたロワは、小さく息をつくと周囲に聞こえない程度に言った。
「仕方ねえだろ? 見回りの度に『またお妃様はいらっしゃらないのですか?』とか言われるんだからよ」
「……まあ、悪い印象を持たれてないなら良いけど」
シェリーは複雑な気持ちで唇を軽く尖らせる。
以前の手繋ぎ見回りは自分たちが思っていた以上に印象が強かったらしく、それによって好意を持たれたとなれば、立場上どうにも無下に出来ない。
しかし、それと慣れることは別であり、シェリーが何度目かの溜め息をついた時、道行く民に手を振り返していたロワが口を開いた。
「ま、俺としてもこうやって外に出ている時のお前は大人しくてまだ可愛いから、別に面倒でもねえしな」
「ーー……!?」
不意の言葉に驚いたシェリーは、照れ隠しも含めて咄嗟にロワの足を思いっきり踏みつける。
民衆の方に目線と意識を向けていたロワはその攻撃を避けれなかった。突然の激痛に目を見開く。
「いってえ!?」
「きゃあっ!」
急所の一つとも言える足の甲を痛めつけられ、堪らず悲鳴を上げてよろめいたロワの肩が、丁度すれ違おうとしていた相手とぶつかった。
大きな三角帽に菫色のローブという如何にも魔法使いといった格好のその女性は、両手で抱えていた紙袋をぶつかった反動で落とす。
地面に落ちた紙袋からは本や裁縫用の布地が零れ、辺りに散らばった。
「悪い、大丈夫か?」
「だ……大丈夫だ、割れ物とかは無い筈だし……」
魔女はおろおろと荷物を拾い集め、ロワは声を掛けながら荷物を拾うのを手伝う。
その表情は民を気遣う王らしく、穏やかで優しいものだった。掛ける声色も柔らかい。
(……何よ)
普段自分と接する時よりもずっと優しい対応をするロワの姿を見ているうちに、シェリーは自分の胸の奥がざわつくのを感じる。
しかし、第一の原因は自分なのだからと思うと、その不快感を一旦見逃して物を拾うのを手伝おうとした。
「パティ、どうしたんだい?」
その時、同じように大きめの紙袋を抱えた金髪の青年が近付いて声を掛けてきた。
首を傾げて三人を見る青年を、魔女が荷物を拾い集めながら見上げる。
「あ、サーヌ、ええとだな……」
「俺がぶつかって荷物散らかしちまったんだ」
拾い集めた本を纏めながらロワが言えば、青年は納得した様子で頷いた。
「そうですか、割れ物は僕が持ってて良かったね」
「うん、本当だな。……と、これで全部だ。手伝ってくれて有り難う」
「いや、元はと言えば俺がぶつかったのが原因だからな」
紙袋に荷物が全て戻ってきたことを確認した魔女に笑顔で礼を言われ、ロワは屈んでいた腰を伸ばすと緩く首を振る。
その表情はやはり穏やかなもので、それを横目に見ていたシェリーは無意識に眉間を寄せかけたが、ふと鼻先を擽った香りに気を取られた。
「……? 薔薇の匂い……?」
自分が好む甘い香りの正体を思わず呟く。
すると、それを聞きつけた青年は視線をシェリーに向けて微笑んだ。
「あ、多分僕です。家で薔薇を育てているので」
「へえ……良いわよね、私も薔薇が好きなの」
思わぬところで同士を見つけたシェリーは生まれた親近感に頬を緩める。
それは青年の方も同じだったらしく、暖かな笑顔で「奇遇ですね」と頷くと、おもむろに紙袋の中に手を入れて、取り出した物をシェリーに差し出した。
「じゃあ良かったらこれ、差し上げます」
「えっ?」
思わず出した掌に置かれたのは、片手に余裕で収まるほどの小さな丸い缶。
突然の贈り物に目を瞬かせながらも蓋を開けてみれば、中には茶色が掛かった薄紅色が詰まっていた。
「これ……茶葉?」
シェリーが缶の中身を見下ろしたまま、ふわりと舞った香りに自然と呟くと、青年は更に目を細めて頷いた。
「はい、趣味のガーデニングの延長で茶葉も育てていて、それは僕がブレンドしたやつなんです。薔薇も入ってるから気に入ってもらえるかなと。友人に分けた残りで申し訳ないですが……」
青年は少し眉尻を下げて話す。
缶の茶葉と青年を交互に見たシェリーは、相手を窺うようにおずおずと上目遣いになって小首を傾げた。
「嬉しいけど……貰ってもいいの?」
初対面の相手から貰うにしては上等過ぎる品に、シェリーは当惑してしまう。
その質問に青年は頷き、シェリーの手をそっと取ると掌中の缶を優しく握らせた。
「はい、薔薇が好きな人に飲んでもらえると、僕も嬉しいですから」
少しの陰も無い、人の良さそうな笑顔。
青年の優しさを充分に感じたシェリーは、握らされた缶を大切に持ち直すと素直な微笑みを返した。
「……有り難う、大事に味わわせてもらうわね」
「またお会いする機会があったら、感想聞かせて下さい」
「ええ、勿論よ」
「ふふ……では、僕たちはこれで。帰ろうか、パティ」
青年は傍らでロワと話していた魔女に声を掛ける。
振り向いた魔女は笑顔で頷いて、紙袋を抱え直した。
「だな、夕飯作らなきゃいけないし」
「それじゃ、失礼します」
二人は軽く会釈をして去っていく。
その姿を並んで見送っていると、ふとロワが遠ざかっていく二人の方を見ながら口を開いた。
「……随分と嬉しそうだったな」
「え?」
抑揚の無い低い声を掛けられて、シェリーは目をぱちくりさせながら其方を見上げる。
その視線を受けて振り向いたロワの表情は眉間に皺が寄り、目つきも鋭く、先程までの穏やかさはすっかり消え失せていた。
あからさまに不機嫌な表情を突然向けられたシェリーが戸惑っている間にも、ロワはその顔のままで鼻を鳴らして言葉を続ける。
「何かソルダに似てたし、お前ってああいう優しくて頭良さそうな奴が好みなのか」
「……はあ?」
「自分と正反対な奴に惹かれるってわけか、成る程な」
言いたい事がよく分からず、しかし、明らかに此方を挑発するような言い方をされたシェリーの機嫌は降下していく。
そして、それに引きずられるかのように脳裏にふと、魔女と話していた時のロワの姿が過ぎった。
(……何なのよ)
その表情が今、自分に向けられているものと真逆だということに気付いた途端、あの何とも言えない不快感が蘇ってきた。
シェリーはもやもやとした気持ちを胸の奥から感じながら、その不快感をそのまま言葉にするように吐き捨てる。
「貴方こそ、あの魔女に随分優しかったじゃない? デレデレして、王の威厳も何もあったものじゃないわね」
思っていたよりもずっと冷たい声色になった事に、シェリー本人も内心で少し驚いた。
しかし、一度出した声は無かったことには出来ない。そのまま睨み上げていれば、ロワは眉間の皺を更に深くさせた。
「あれは俺がぶつかったんだから当然だろ」
「私だって、親切にされたんだから好感持つわよ」
間髪入れずに言葉を返されて、ロワの表情はどんどん険しさを増していく。放たれるオーラは不機嫌全開で恐ろしいことになっていたが、それはシェリーには今更通用しない。
二人の間に火花が散る。その眼光はどちらも剣の切っ先のようだった。
「気に入ったんなら今から追いかけて、デートでもしてもらったらどうだ? まあ直ぐに本性バレて終わりだろうけどな」
「その台詞はそのまま返してあげる。あんな良い子は貴方には勿体なさ過ぎるわよ」
鼻先で笑ったシェリーはそう言うや否や、さっと踵を返して歩き始めた。
不意に睨み合いを解かれたロワは一瞬気が抜けるも、離れていく小さな背中に慌てて声を投げかける。
「おい、何処に……」
すると、シェリーは足を止めて振り返った。
青い瞳は細められているものの、笑っているわけではないことは雰囲気で直ぐに分かった。
ロワが次の言葉を躊躇っているうちに、シェリーは冷たい笑みを浮かべながら靡く髪を耳に掛ける。
「私、先に帰るわ。貴方はあの子を探しにでも行けば?」
そう言ったシェリーは返事を聞くこともせず、来た道を足早に引き返していく。
その後を追って数歩踏み出したロワだったが、あっという間に開いていく距離を見ると足を止める。
「……チッ」
そして、舌を鳴らすと踵を返して、中断していた見回りを再開させるべく、シェリーが去っていった方とは反対方向に一人歩き始めたのだった。
***
ロワが城下町から家に帰ってきた頃には、青かった空は鮮やかな橙色に染まりきっていた。遠くの方では藍色の夜が静かに顔を覗かせ始めている。
胸の辺りに何となく重たさを抱えながら、ロワは玄関を開けて静かな廊下を行く。
そのまま二階の自室に行こうかと階段の方に目を向けたが、リビングの方から明かりが漏れているのを見ると、足は自然と其方へ向かっていた。
そして、ドアの前で小さく溜め息をつくと、少し躊躇いがちにゆっくりとドアを開けた。
(……ん?)
リビングに足を踏み入れた途端、薔薇の香りがロワの鼻を擽った。本来の濃さとは違う、ふわりと甘い柔らかな香りがする方を見れば、テーブルに着いているシェリーと目が合った。
その手には以前、ロワが贈ったティーカップが両手で包み込むように持たれていた。
シェリーはそのティーカップに口を付け、静かに紅茶を味わってから、仄かに薔薇の甘さが残る唇をカップの縁から離して再びロワの方を見た。
「……デートしてこなかったの?」
その言葉を聞いて、ロワの眉間に皺が生まれる。
「するわけねえだろ」
ロワがきっぱりと返事を返す。
それを受けたシェリーは僅かに目を見開いた後、直ぐに何事も無かったかのような表情に戻り、視線を手元のティーカップに落とした。薄い薔薇色からは湯気と共に甘い香りが立ち上る。
「……ああ、そう」
「おう、……そうだよ」
目も合わせずに曖昧な言葉を交わした二人の間には、むずむずとした何とも言えない微妙な空気が漂う。
居心地が悪い、というわけではないが、どうにも居たたまれない気がしたロワがリビングを出ていこうかと思った時、シェリーが紅茶に視線を落としたまま言った。
「……貴方も飲むなら、淹れてあげるけど」
平淡でも棘が無くなった声を掛けられて、ロワは思わず目を向ける。
そして、何処か取り繕ったような澄まし顔をしているシェリーに一度目を瞬かせると、無意識にそっと口元を緩めた。
ロワが返事の代わりに向かい側に座れば、シェリーはちらと一瞥してから席を立ってキッチンに向かう。
「……一応、言っておくけど」
新しく紅茶を淹れながら、シェリーが口を開いた。
「あ?」
不意にぽつりと零された言葉にロワは反応し、黙ってその続きを待つ。
やがて、淹れたての紅茶が入ったカップを片手に戻ってきたシェリーは、そのカップをロワの前に置くと席に着き、残っていた自分の紅茶を静かに啜った。
一方、途切れた言葉の続きが気になるロワだったが、何となく口を出せないままに紅茶を飲もうとした時、シェリーがそっとカップを置いた。
ロワが顔を上げれば、長い睫毛が揺れて宝石のような蒼眼がちらりと此方を見た。
「私、別にああいうのが好みとかじゃないから」
それだけ言って、シェリーは再びカップに唇を寄せる。
目を瞬かせていたロワだったが、鼻先を擽った薔薇の香りにはたと我に返ると、同じように紅茶を啜ってから、呟くように言葉を零した。
「……俺だって別に、下心とか無かったからな」
「……そう」
「そもそも、今の俺はお前の相手で手一杯だ」
カップの中で薄紅色を揺らしながらロワがそう言えば、シェリーはカップに口を付けたまま僅かに目を細める。
そして、唇を離すと小さな溜め息をついた。
「私だって、貴方がいれば充分よ」
薔薇の甘い香りが混ざった吐息が、緩やかに揺れる薄紅色に溶ける。
残り少ない紅茶を飲みきってしまおうと唇を寄せかけたが、ふと向かい側で頂垂れている相手に気付き、シェリーは怪訝そうに小首を傾げた。
「どうしたのよ?」
「や、いや……」
ロワは頂垂れたまま額に手を当て、力無く首を振る。
「……無自覚だからタチが悪いんだよな、お前」
「……?」
聞き取れなかったシェリーが僅かに顔を顰める。
澄まし顔がすっかり崩れた相手に、顔を上げたロワは思わずくつくつと喉を鳴らして笑った。
「何でもねえよ、バーカ」
「馬鹿って言った方が馬鹿なのよ、馬鹿魔王」
「お前も言ってるじゃねえか、馬鹿勇者」
「私はいいの、貴方にしか言わないから」
「そういう問題じゃねえだろ……」
甘い香りの中で交わされる軽やかな会話。
互いの間にあった気まずさや、胸の支えがいつの間にか消えていたことに二人が気付くのは、夜空に月が輝き始める頃だった。