34 勇者、想像される。
目の前に広がる、空になった食器の数々。
綺麗に片付いた夕飯の跡を眺めながら、ロワは真面目な顔で静かに低く呟いた。
「……本当に何も入ってなかった」
「全部食べてから何言ってるのよ」
深刻な雰囲気を漂わせるロワに、呆れ顔を浮かべたシェリーは食器を片付けながら鋭い言葉を浴びせる。
冷静なツッコミを受けたロワはあっさりと表情を緩め、充分に満たされた腹を満足そうに軽く叩いた。
「仕方ねえだろ? 自分の好物ばっかり出されたら、何か仕込まれてるのかって思っても。お前なら毒入れるのも躊躇わねえだろうしな」
「じゃあ次はご要望通り、よく効く毒を入れておくわ。殺人蜂辺りがいいかしらね?」
シェリーは慣れた様子で返事をしながら、使った食器をキッチンの流し台に運んでいく。
その姿をぼんやりと眺めていたロワだったが、シェリーの手がコップを洗い始めたのを見ると一瞬眉を寄せ、少し考えてから口を開いた。
「……なあ」
「何? ご希望の毒でもあるの?」
シェリーは慣れた手付きで食器を洗いながら答える。
いつもならここで嫌味を返すのだが、ロワは自分よりも小さい背中を見つめたまま言った。
「あー……その、ティーカップ、……本当に悪かった」
「ーー……」
不意に掛けられた謝罪の言葉に、思わず洗っていた食器を落としそうになった。
しかし、シェリーはどうにか持ち直すと小さく息をつき、ロワに背中を向けたまま返事をした。
「いいわよ、もう。物はいつか壊れるものだし、そもそもの原因は私だし……」
「……そうか」
安心したように緩んだ声が聞こえた。
シェリーはその声色に自分の気持ちも緩むのを感じつつ、手早く且つ丁寧に食器を次々と洗っていく。
そして、全部洗い終えるとタオルで手を拭いて、用の無くなったキッチンからリビングのソファに移動した。
ソファに埋もれるように座ったシェリーは、ちらりとロワを一瞥してから軽く肩を竦めてみせる。
「まあ、壊れたら困る物もあるけど」
「ああ……剣か?」
「そう、流石に勇者の剣の代用は無いし……。……あ、じゃあ、もしティーカップの事を許してほしいなら、オリハルコンを採ってきてみなさいよ」
あの時、二人の会話を傍らでさり気なく聞いていたシェリーは、悪戯な笑みを浮かべながら『伝説の鉱石』の名を出す。
それに対してロワは溜め息をつき、肩を大きく落としてから、眉間を寄せた呆れ顔でシェリーを見た。
「お前なあ……」
「冗談よ、冗談。でも本当、剣はどうにかしたいわね……」
いざという時に剣を存分に振るえないというのは心許ない。が、勇者の剣という、最高の剣を扱ってきた身としては、一時凌ぎで普通の剣を持ったとしても、きっと頼りないと感じるであろうことも予想出来た。
「……まあ、剣を使わなきゃいけないような相手が出てきた時は、貴方に守ってもらおうかしら?」
シェリーはくすくすと笑いながら冗談を言う。
すると、頬杖をついていたロワは、笑っているシェリーの事を見ながら平然と返した。
「ん、分かった」
「え?」
「その時は俺が守ってやるよ」
「……っ!」
ぽっと頬が赤らむのが分かった。嫌味混じりの冗談で返されると思っていたシェリーは、思いがけず返ってきた真摯な言葉に胸を高鳴らせる。
それを誤魔化すように軽く首を振ると、動揺を悟られない為に適当な話題を口に出した。
「そ、そういえば、一つ気になってたんだけど」
「あ? 何だよ?」
「今日の事よ。私が本当にディムと手を組んでるかも、とか思わなかったの?」
そう問えば、ロワは金色の瞳をぱちくりとさせた。
それから直ぐに片手をひらひらと左右に振る。
「おう、微塵も思わなかったな」
「どうして?」
あまりにもすんなりと返されて、その答えの根拠が分からないシェリーは首を傾げる。
すると、ロワは目を瞬かせてから両腕を組み、上を向いたり下を向いたりして悩む素振りを見せた後、きょとんとしているシェリーを指さした。
「お前だから」
「え?」
「お前だから、そんな事しねえって思ってた……かもしれねえ。まああれだ、直感とかそんな感じだろ」
何ともあやふやな理由だったが、ロワ自身は納得がいったらしく、何処か満足そうな表情で頷いている。
一方のシェリーは、その回答を咀嚼するように目を瞬かせて、それから緩やかに頬を赤らめた。
(……何よ、それ)
それではまるで、自分の事を心から信頼しているようなものではないか。
胸にこみ上げる気持ちには戸惑いと照れと、認めたくなかったが、純粋な嬉しさが確かにあった。
「……本当に馬鹿ね、貴方って」
「おいこら、何で今の流れで貶されなきゃならねえんだよ」
「うるさい、大馬鹿魔王」
「だから……って、あ? ……お前、もしかして照れてんのか?」
「っ!!」
シェリーの声色が僅かに強ばっていることに目敏く気付いたロワは、椅子から立ち上がって傍まで歩み寄る。
図星を突かれたシェリーはぎくりと肩を跳ねさせると、慌てて膝を抱えてそこに顔を埋めた。
その反応で自分の予想が正解だと知ったロワはにんまりと悪い笑みを浮かべて、小さくなったシェリーの隣に腰掛ける。
「なあ、照れたんだろ?」
「違うわよ、勘違いしないでもらえる?」
「じゃあ、顔上げてみろよ」
「何で貴方の指図を受けなきゃならないの?」
言葉は淡々と返してくるものの、膝頭に埋めた顔は一切上げようとはしない。
全て察されているにも関わらず、必死に抵抗してくるいじらしい様子がロワの加虐心を余計にかき立てた。
「ほら、いいから見せてみろって」
「や、だめ……っ」
ロワはにやついた笑みを浮かべながらシェリーの片腕を掴んで、その奥に隠された顔を見ようとする。
しかし、シェリーも絶対に見せまいという強い意志を込めて、掴まれた腕を思いっきり自分の方へと引いた。
「うおっ、と」
「えっ?」
途端、目の前に迫る影。
何が起きたのかと目を瞬かせた一瞬のうちに、視界は大きく回って、背中にはソファの柔らかさを感じた。
驚いて硬直するシェリーの上では、目を丸くさせたロワが覆い被さった姿勢のままで同じように固まっていた。
あと少し近付けば、鼻先が触れ合う程の距離。
押さえつけられた腕が動かせないことに気付いたシェリーは、衝撃が抜けきらないままにそっと口を開いた。
「あ……あの、ロワ……?」
それは大きすぎる動揺の所為で、無意識に零れた言葉だった。
「ーーっ!」
しかし、不意に名前を呼ばれたロワは、まるでそれによって目覚めたかのように金色の瞳を瞬かせた。
そして、我に返ったロワの視線が真っ先に捉えたのは、愛らしく頬を染めたシェリーの唇だった。
甘い蜜を含んだ果実のようなその唇は、戸惑いからか薄く開いている。蝶を誘う花を思わせる其処に、ロワの視線は捕らえられて逸らせない。
頭の奥が痺れたような感覚を、何処か他人事のように感じながら、ロワはふらりと体を前に傾けた。
縮まる距離と共に吐息が混ざり合う。
「と、止まりなさい!」
「むう、っ!?」
視界が一気に真っ暗になって、顔全体をふわふわとした何かが覆い尽くした。
一瞬呼吸が止まったお陰か、頭の痺れが取れたロワは体を起き上がらせる。
シェリーは空いていた方の手で咄嗟に引き寄せたクッションの陰から顔を覗かせ、互いの距離が離れたのを確認すると、安心したようにクッションを退かした。
「もう……いきなり倒れてくるから、驚いたじゃない。眠いなら早く寝なさいよ?」
「……ああ、おう、そうする」
どうやらシェリーの中では、今のは眠気により寝落ちかけたという事になっているらしかった。
適当な返事を返したロワはソファから下り、怪訝そうにしているシェリーを置いてリビングを出ていく。
そして、後ろ手にドアを閉めると、その場に頭を抱えて屈み込んだ。
(……え、俺、何しようとしてた?)
今さっきまでの自分の行動を思い返してみれば、心臓の鼓動がどんどん激しさを増していく。手の甲を頬に当ててみると、熱があるのかと思うくらいに火照っていた。
(いや……いやいや、待て、うん、そんな……)
そうやって混乱するロワの脳裏に蘇ってきたのは、以前一緒に風呂に入った時に見た、気絶したシェリーの無防備すぎる姿だった。
それと今見た光景が重なって、ロワの心臓は更に大きく跳ね回る。
自分を見上げる大きな瞳。震える細い喉。そして何より、何処か艶めかしげに潤った紅い唇。
それら全てを今さっきまで自分は、この体の下に組み敷いていた。
(ーーう、わ……)
そう思った途端、胸の奥がぞくりと震えた。
駄目だと意識を逸らそうにも、生まれたこの感覚は抑えきれそうにない。全身に響くような鼓動を感じる。
(やばい、何だよ、これ……)
ロワは自然と思い浮かぶことを振り払うように、抱えた頭を左右に強く振る。が、そんなロワの行動をあざ笑うかのように思考は勝手に働く。
自分の手があの細い肩を掴んで押し倒す。戸惑いと少しの怯えを浮かべて此方を見上げる瞳。それは耳元で名前を囁いた途端に恥じらいで潤み始める。そして、毒の代わりに熱を帯びた吐息を漏らす小さな唇を、そのままーー、
「きゃっ!?」
「うお、ぶっ!?」
突然後ろから固い何かがぶつかってきて、完全に油断していたロワは前のめりに倒れて床に顔面をぶつけた。
ドアを開けたシェリーは廊下に出ようとしていた足を止め、足元で転がっているロワを怪訝そうに見下ろす。
「な……何してるのよ? 寝たんじゃなかったの?」
訳が分からずに何度も瞬きしながら問えば、うつ伏せで大人しくなっていたロワがゆっくりと立ち上がった。
そして、シェリーの問いかけには答えず、背中を向けたまま無言で階段を上っていく。
異様な威圧感を放つロワを唖然としながら見送ったシェリーは、静かになった廊下で不思議そうに小首を傾げた。
「……何だったのかしら?」
そして次の日、帰宅したロワが何処か申し訳なさそうに、更に言うなら気まずそうにしながら、新しいティーカップを渡してくることを、この時のシェリーはまだ知らなかった。