32 勇者、殺し合う。
ロワは視線を剣の切っ先からシェリーへと移す。
蒼の双眸に明確な殺意の色が浮かんでいるのを見ると、小さく溜め息を零した。
「……どういうつもりだ?」
「どうもこうもないわ、貴方を殺しに来ただけよ」
シェリーは無色の声で答えながら、挑発するように剣を軽く揺らした。その度に刃が怪しく煌めく。
しかし、ロワはそれに見向きもせず、シェリーを見つめたまま僅かに眉を顰めた。
「攻め込んできた奴らとはどういう関係だ?」
「大した関係では無いわ。私に貴方を殺す機会をくれただけ」
「……本気か?」
金色の瞳に冷たい光が宿る。
常人ならば魂まで刺し抜かれそうな眼差しを向けられても尚、シェリーの表情には花が咲いていた。但し、その花は控えめで愛らしい野花ではなく、恐ろしい程に美しい深紅の薔薇だったが。
宙を斬る音がして、ロワの鼻先を銀色が掠めていく。
しかし、ロワはそれに動じることはなかった。顔色一つ変えずにその場から一歩も退かない。
そして、シェリーもその反応を予想していたかのように特に驚きもせず、振るった剣を再びロワに向けた。
「これが本気じゃなかったら、何なのかしら?」
「……だな」
目と鼻の先に突き付けられた刃に、ロワは溜め息混じりの言葉を返す。その片手には既に漆黒の剣が握られていた。
漸く戦う姿勢に入った相手の姿に、シェリーの可憐な唇が嬉しそうに緩む。それを見たロワの口元も笑う。
張り詰めていた糸が、静かに切れた。
「せやっ!」
先に仕掛けたのはシェリーだった。
振り下ろされた剣を紙一重で避けたロワの後を、殺気に満ちた刃が直ぐに追いかける。
演舞の如く繰り出される攻撃は隙が無い。それでもロワが避け続けられたのは、実力や経験は勿論のこと、何よりもシェリーと日々戦い続けてきたからこそだった。
そして、それを生かせるのは避ける事だけではなかった。
「おらあっ!」
「……っ!」
まるで攻撃を先読みしていたかのように、突き出された刃を刃で跳ね退けたロワは、今まで下がってばかりだった足を前に踏み出す。
そのたった一度の攻防で、二人の立場が逆転した。
シェリーの剣裁きが舞ならば、ロワは正に狩りである。
追い詰めた獲物に反撃の猶予を与えないような、威圧と勢いのある攻撃がシェリーに次々と襲いかかる。
「くっ……!」
そのうちの一太刀を避けきれず、咄嗟に剣で受け止めたシェリーは歯を食い縛る。やはり男であるロワの一撃は、自分のものよりも重かった。
しかし、そこで怯まないのが勇者だった。
「やあああっ!!」
大声で自らを奮い立たせて、競り合っていた刃を全力で弾く。甲高い音が響いて火花が散った。
力の均衡が崩れた瞬間、両者は後方に飛び退いて間合いを測る。牙を剥く獣のような視線が交差する。
剣を交わしてまだ少ししか経っていなかったが、二人の頬を伝う汗や乱れた呼吸が、この戦いが如何に濃密なものかを物語っていた。
「っ、はあ……」
一度大きく息を吐いたシェリーは、目の前で同じように呼吸を整えながら此方の出方を窺っているロワを見据える。
そして、剣の柄を握り直すと静かに目を伏せた。
「……そうくるか」
対峙するロワは目の前で始まった光景に呟く。
シェリーが構えた剣を魔力の気配が包み始める。銀色の刃が帯びるのは、彼女の瞳と同じ青の光と殺気のような凍てつく冷気。
剣の扱いがほぼ互角ならば、剣自体を魔力で強化すればいい。
しかし、複雑な魔力操作や集中力を必要とするそれを、実践で容易に使えるのは、並外れた戦闘センスを持つ勇者と、匹敵する実力を持つもう一人くらいだった。
「それなら、こっちもそうするか」
呟いたロワは直ぐさま剣に意識を集中させる。
底知れない魔力によって生み出された赤い炎が、見る見るうちに漆黒の刃を飲み込んでいく。
睨み合う赤と青。
その距離は徐々に詰まり、互いの波長が重なった瞬間、大理石の床を蹴る二人分の足音が大広間に響いた。
「はあああっ!!」
「うおおっ!!」
魔力を帯びた刃が交差する。金属音が大きく鳴り、重なり合った氷と炎が白い水煙となって二人を包む。
相手の姿が互いに一瞬だけ見えなくなる。
しかし、ロワは自分を遮る水蒸気を剣でなぎ払うと、晴れた視界に現れたシェリーに燃える刃を振り下ろすべく、足を力強く前に踏み出した。
そして、シェリーの唇が弧を描いていることに気付いたのは、憐れにもその直後だった。
「なっ……!?」
ぐるりと視界が反転し、体が浮き上がる。
水蒸気で濡れていた筈の床は凍り付いていて、ロワはその硬い床に背中を強く打ち付けた。
「ぐは……っ!」
「足元には気を付けなきゃね」
強打した衝撃に呻くロワの手から、黒いヒールの爪先が剣を蹴り飛ばした。そして、腰に跨がったシェリーは冷たい微笑で相手を見下ろす。
「て、手前……っ」
「そういえば前に、貴方が私の上に乗って首を絞めてきた事があったわよね。やり返すなら今かしら?」
苦痛に顔を歪めながらも睨み上げてくるロワの首筋に、シェリーは剣を近付けながら鼻で笑ってみせる。
冷たい刃が僅かに皮膚を裂いたのを感じたロワは、忌々しげに舌を打ち鳴らす。剣を弾かれた所為でろくな抵抗も出来ない。為す術はもう見当たらなかった。
「……一つ言わせろ」
「あら、もしかして命乞いする気かしら?」
「誰がそんなことするかよ。ただーー」
そこでロワは小さく息をついた。もうすぐ味わえなくなる空気を愛おしむかのように吸って、自分を見下ろす青い瞳を真っ直ぐに見つめる。
出会ってからずっと、上からでも下からでも無い、真正面から自分を捉えてきた強い眼差し。いつの間にか殺気や憎しみだけではなく、様々な色に染まるようになった。
それに気付いたからこそ、涙を零した時の悲しい色をした瞳が、どうしても忘れられなかった。
「ーーティーカップ、壊して悪かった」
少し掠れた声で紡がれた言葉に、シェリーは僅かに目を見開いて呼吸を潜めた。揺るぎない光を湛えていた瞳が一瞬だけ戸惑うように震える。
しかし、目蓋を一旦閉じて、次に開いた時には鋭さを取り戻していた。
「……それが最後の言葉でいいの?」
淡々と尋ねられたロワは微かに笑う。首筋に刃が添えられているとは思えない表情だった。
「ああ、もういい」
「……そう」
蜂蜜色の髪が肩を滑る。剣を両手で握り直したシェリーは、深海のように薄暗い瞳でロワを見つめたまま、ゆっくりと剣を振りかざした。
「それじゃ、さようなら」
銀色が一際鋭く煌めいて、ロワの心臓を貫いた。