31 勇者、立ちはだかる。
まだ太陽が昇りきっていない白んだ空。
朝の気配が漂う部屋の中で、窓際に寄りかかったシェリーは手元で輝く一本の剣を見つめていた。
但しその剣は、勇者の剣ではなかった。鈍色に光る細身の刃には細かな術式が刻まれている。
読み取れない程に薄く彫られたその術式をシェリーは指を切らないようになぞる。その表情には何の色も無い。
「……この剣で、ね」
低く静かに呟いたシェリーは、昨夜この剣を差し出しながらディムが言ってきた言葉を思い返す。
《この剣には貴女に使われていた枷と同じ術式と、更に強力な術式が合わせて彫られています。これならあの魔王とて、刺されたら魔力は使えないでしょう。勇者さんにはこの剣で魔王を刺し、為す術が無くなっているところにとどめを刺して下さい》
あの枷の効き目は身を以て知っている。あれより強力なものを上乗せしたとなれば、確かに流石のロワでも抗うことは難しいだろう。
魔力が使えなくなれば当然ながら戦力は落ちる。刃で傷つき、術式で魔法を封じられているような相手なら、きっと確実に命を奪うことが出来る。
「……魔王」
蜂蜜色の髪が緩やかに光を帯びていく。朝日が射し込み始めた部屋の片隅で、シェリーはただ静かにその時を待っていた。
***
(……やっぱり、下りてきてなかったな)
今朝方、誰もいなかったリビングを思い返しながら、ロワは執務室へと続く廊下を歩く。
時折すれ違う臣下達の挨拶を受けはするものの、どうにも気持ちが落ち着かない所為で返事が適当になっていることは、自分でも気が付いていた。
(あー……どうすりゃいいんだよ……)
そもそもの原因は向こうにある。が、自分が壊してはいけない物を壊してしまった事実は変わりない。
普段だったら「お前こそ自業自得だな」と嫌味の一つでも叩きに行って怒らせて、盛大にやり合って互いの気持ちを発散させるのだが、今回はその気になれないでいた。
(……泣いてた、よな)
目の前で零れ落ちた一滴の雫。
からかった時とは違う、悲しさから溢れた涙。
それを自分が流させたのだと思う度、言い知れぬ感情が胸を締め付ける。顔を合わせたいような、合わせたくないような、訳の分からない気持ちが渦を巻く。
(ああ……くそ、面倒くせえな……)
苛立ち混じりに舌打ちをして、黒髪を掻き乱す。
考えているうちに足は執務室の前にたどり着いていた。
こうなったらソルダに相談してみるか、と溜め息をついたロワがドアノブに手を伸ばす。
突如、爆音が魔王城内に大きく響き渡った。
「っ、な、何だ!?」
驚いたロワは伸ばした手を引いて辺りを見回す。
そこにドアが開いて、部屋の中からソルダが飛び出してきた。その表情はロワと同様に驚愕の色を浮かべている。
「ロ、ロワ様! 今のは一体!?」
「分からねえ、が……嫌な予感がするのは確かだな」
緩く首を振ったロワは険しい顔で、爆発音が聞こえてきた方向を見つめる。
すると、その方向から一匹の臣下が駆け寄ってきた。鳥と人間を合わせたような姿をしているその臣下は、力無く下がった片腕から血を流している。
「魔王様……!」
「どうした、何が起きた?」
息も絶え絶えに話そうとする臣下に、ロワは回復魔法をかけてやりながら問いかける。
傷が治った臣下は、しかし、流した血の分までは回復出来ず、僅かにふらつきながらも必死に答えた。
「クーデターです! 大勢の魔物が乗り込んできて、今、城のあちこちで戦闘が起きています……!」
「何だと!? 首謀者は誰だ!」
激情したソルダが声を荒げる。
魔王の右腕である側近の怒声に、臣下は怯えたように肩を跳ねさせて首を振った。
「わ、分かりません……ただ、妖魔らしき魔物が、中庭の方に向かったと……」
その報告にソルダは目を大きく見開いた。
「ロワ様、もしかしてシェリー様が……!」
「……っ」
寒気に似た感覚がロワの背筋を走る。
同時に、檻の中でダゴールに組み伏せられていたシェリーの姿が脳裏に蘇った。
あの時は相手に対した実力が無かったから事なきを得たが、今回もそうとは限らない。もしも妖魔が相当な手練れだったとして、下手をすればーー、
「ーーああくそっ! ソルダ!」
吹っ切れたように大声を上げたロワの傍らで、呼ばれたソルダは直ぐに頭を下げる。
「はい、どうぞお任せ下さい」
「おう、任せた!」
一瞬のやり取りに込められた絶対的な信頼。
それを受け取ったソルダが顔を上げた時には、既にロワの姿は無くなっていた。
「……ふふっ」
こんな状況にも関わらず微笑みを浮かべてしまう。
しかしそれも一瞬で、ソルダは鋭い顔付きになると、臣下を引き連れて騒がしい方へと向かっていった。
「ロワ様に逆らった罰は、命を以て償ってもらうとしましょうか」
片眼鏡の奥で瞳が怪しく細められる。
にたりと笑んだ唇から零れた声色には、神聖な魂と引き替えに力を得た闇妖精の残忍さが牙を剥いていた。
***
あちこちから争う音が響いてくる廊下を、ロワはマントを靡かせながら駆けていく。
途中で反乱軍の魔物が行く手を遮ったりもしてきたが、当然ながらロワにとって足止めにもならない。
「退け、格下が!」
そんな吠え声と共に魔力を軽く放ってやれば、魔物たちは悲鳴を上げてあっという間に道を開けていく。
そうして、邪魔という邪魔も無く中庭へと向かっていたロワだったが、途中で差し掛かった分かれ道でふと足を止めた。
「ーー……」
無言で左の廊下を見つめる。その先では戦場に素知らぬ顔を向けるように、静寂と薄暗い空間が続いていた。
ロワは暫くその場で立ち止まっていたが、金色の瞳を僅かに細めた後、見つめていた方向へと歩き始めた。
そして、真っ直ぐ歩いたロワを突き当たりが出迎える。
それは壁ではなくて、大きすぎる扉だった。
おぞましい雰囲気を放つその扉をロワは片手だけで難無く開けていく。重たい音が辺りに響き渡る。
開かれた扉の先には、冷え切った大広間が広がっていた。紫水晶のシャンデリアからは怪しい灯りが、まるで月光のようにぼんやりと降り注いでいる。
そんな薄暗い空間の奥、遠くに見える高台にはいつも自分が座っている玉座がある。
しかし、今日はそこに先客がいた。
「……待たせたか?」
大広間に足を踏み入れたロワは、ゆっくりと高台の方へ近付きながら口を開く。
声を掛けられた『先客』は肘置きについていた頬杖を外し、堂々とした態度で玉座から立ち上がると、高台から静かに下りてきた。
二人の距離は徐々に縮まっていく。
そして、大広間の中心まで近付くとどちらからともなく足を止めた。
真っ向から向かい合う二人。
鋭い金色の瞳に映る『先客』が笑みを浮かべる。
「ええ、もう待ちきれないわ」
透き通ったソプラノが楽しそうに言葉を奏でる。
どんな薔薇でも恥じらって蕾になってしまいそうな、可憐で愛らしい微笑みを湛えたシェリーは、握っていた剣の切っ先を躊躇い無くロワに突きつけた。
「さあ、殺し合いを始めましょう?」
無邪気な天使の歌声が、殺意に満ちた悪魔の言葉を紡ぐ。
それが大広間に響き渡った時、血生臭い舞台の幕が静かに切って落とされた。