29 勇者、泣く。
「ーーったく、ソルダの奴、ここぞとばかりに仕事追加しやがって……」
中庭に続く廊下を歩きながらロワは呟いた。書類と向き合いすぎた所為で疲れた目を瞬かせる。
シェリーとの戦闘を中止した後、ロワは執務室から一歩も出させてもらえなかった。
それは同じ部屋で仕事をしていたソルダが、仕事を片付けた矢先にまた新しい仕事を持ってきたからである。それも背後に黒いオーラを纏いながら。
普段は穏和な側近にそんな表情をされれば、嫌だと席を立つ気にはなれなかったし、一度投げ出したという後ろめたさもあったので、結局ロワは運ばれてくる仕事を黙々と片付けるしかなかったのだった。
「暫く文字は見たくねえな……」
自業自得だと分かっていても溜め息が漏れる。
家に到着したロワは玄関のドアを開けると、疲れて重たい足を引きずりながらリビングに向かった。
そして、隙間から明かりが漏れているドアを開ければ、席に着いて紅茶を味わっているシェリーと目が合った。
数秒ほど互いに押し黙った後、少し目線を逸らしたロワが先に口を開いた。
「……ただいま」
すると、シェリーは僅かに眉を顰めて、同じように視線を逸らしてから唇をそっと動かした。
「……おかえり、なさい」
二人の間に微妙な空気が流れる。が、それは険悪なものではないと互いに感じていた。
こうして、帰ってくる側と迎える側の言葉を交わし合うようになったのはいつくらいからだったか。どちらが先に言ったのかも覚えていない。
それでも、何となく気恥ずかしくて目線は逸らしてしまうものの、言うようになっていた。
「ソ、ソルダの様子はどうだったの?」
沈黙に耐えかねたシェリーが、少し上擦った声で尋ねた。
明らかに空気を変えようとしているのが分かったが、ロワもその無言の提案に乗ることにする。
「ああ、帰ってくる頃にはいつも通りだった。……仕事量はいつも以上にされたけどな」
「それはお疲れ様。でも自業自得よね」
「半分はお前の所為だろうが! 大体何だよ、あのサンドイッチに挟まってた物は?」
平然としているシェリーに言いながら、ロワは今日の戦闘の原因となった昼食を思い出す。
見た目は何の変哲も無いサンドイッチ。それを頬張った途端、舌に火がついたかと思うほどの辛味が襲いかかってきたのだった。
「特製激辛ソースよ、暇だったから作ってみたの」
「暇潰しで俺の味覚を壊しにかかるんじゃねえ! 舌に回復魔法と氷魔法使うとか初めてだぞ!?」
「あら良かったわね、新境地じゃない」
シェリーは無邪気な笑みで拍手を送る。
抗議を受け流されたロワは苛立たしげに顔を歪めると、ゆっくりと片手を掲げた。その手の周囲には白い冷気が漂っている。
「お前にも氷魔法を使ってやろうか?」
薄い笑みを浮かべる唇から出された声は低く、そして煮え立っている。
しかし、シェリーは一切怯む様子もなく、青い瞳を鋭く細めると、紅茶を一口飲んで席から立ち上がった。
「いいえ? 私、紅茶は熱い方が好きなの」
軽やかな声でそう言ったシェリーの片手には、既に赤い炎がちらつき始めている。
それを見たロワは小さく笑い、冷気を纏った手から氷の塊を撃ち放った。とはいえ、室内なので無意識に大きさは控えめになる。
シェリーは自分に向かって飛んでくる拳大ほどの氷を見据えると、炎を纏う片手を前に突き出した。
「それっ!」
掛け声と共に掌から噴き出された炎が、氷の塊をあっさりと飲み込んだ。そのまま勢いを衰えさせることなく、真っ直ぐにロワへと向かっていく。
しかし、ロワは不敵な笑みを浮かべると、冷たい指を打ち鳴らした。
そして次の瞬間、ロワの前に現れた巨大な氷の盾が、突き進んできた炎と衝突した。
「きゃっ……!?」
勢いのある炎とぶつかった氷の盾が、大きな音を立てて大量の水蒸気を発生させる。
唐突に視界が白に埋め尽くされて、シェリーは咄嗟に目を瞑った。
「はっ、隙だらけだな?」
「……っ!」
聞こえてきたロワの声に、シェリーは慌てて目を開ける。真っ白な世界で視界を失った今、頼れるのは気配を察する感覚しかない。
そう思ったと同時に、視界の端で何かが煌めいた。
(ーー来る!)
それは戦い慣れた勇者だからこそ出来た行動だった。
反射的に体を捻らせたシェリーの真横を、氷の弾丸が突き抜けていく。
そして、その弾丸はそのまま飛んでいき、
ーーガシャン!
「えっ?」
背後から聞こえてきた音に、シェリーは不吉な予感を覚えながら振り返る。
曇っていた世界が徐々に晴れていく。
晴れた視界に真っ先に入ってきたのは、粉々に割れたティーカップだった。
「っ、ああーっ!?」
「!?」
悲鳴にも似た甲高い叫びに、新たな氷の弾丸を放とうとしていたロワは肩を跳ねさせて攻撃の手を止める。
そして、呆然としているシェリーの肩越しに覗き込み、テーブルの上に広がる無惨な姿を見ると「しまった」と言いたげな表情を浮かべた。
「あ、ああ……」
シェリーは震える指でティーカップの欠片を摘む。
真っ二つに割れたのならともかく、大小様々な欠片に変わってしまったティーカップは、誰がどう見ても修理は不可能だった。
「えーと……その、運が悪かったっつーか……」
ロワが頭を掻きながら気まずげにそう言うと、欠片を見つめていたシェリーがキッと振り返った。
「……!」
強い眼差しにロワは一瞬たじろいだが、その瞳が僅かに潤んでいることに気付くと心臓を跳ねさせる。
そのまま言葉に詰まっていると、目元を赤く染めたシェリーが眉をつり上げたまま言った。
「どうしてくれるのよ! もう使えないじゃない!」
「あ、新しいの買えばいいだろ?」
「そういう問題じゃないの! これは……っ」
その時、シェリーの瞳から涙が一粒零れ落ちた。それを切っ掛けに、色付いた目尻から透明な真珠が次々と止めどなく生まれていく。
赤く染まる滑らかな頬をぽろぽろと転がっていく大粒の涙に、ロワはぎょっと目を剥いた。
「……っ!」
自分が涙を流したことに気付いたシェリーは唇を強く噛み締めると、袖で乱暴に目元を拭い、リビングを飛び出すように出て行った。
「あ、おい……」
リビングに置いていかれたロワは溜め息を零す。
どうしたものかと頭を掻けば、砕け散ったティーカップがふと視界に入ってきて、更に深い溜め息をついた。
***
月明かりが射し込む部屋の中。ベッドの上で膝を抱えて座っているシェリーは、無意識に持ってきてしまったティーカップの欠片を目の前に翳した。
(……ごめん、アリア)
浮かんできた親友の顔に内心で謝る。
実はあのティーカップは、シェリーがこの城にやって来て間もない頃にアリアから贈られてきた物だった。
後で本人は「結婚祝いだよ」と茶化すように笑っていたが、本当は寂しがりな自分を気遣っての贈り物だと、シェリーには分かっていた。
だからこそ、大切に使ってきたのに。
「ああ、もう……」
ロワが意図的に壊したのではないというのも、そもそもの原因が自分にあるというのも理解している。
それでも、大切な物を壊されたという衝撃は抜けず、どうしてもロワに対して身勝手な怒りが沸き上がってしまう。
胸を渦巻く複雑な感情が辛くなって、見つめていたティーカップの欠片がじわりと滲んだ時だった。
「……?」
不意に窓の方から物音が聞こえてきた。夜風が揺らしていったのかと思うも、その音はトントンと鳴り続ける。
どうにも自然の音ではないと怪訝に思ったシェリーは、ベッドから下りて窓際に近付いていく。
そして、カーテンを開けた窓の向こう側に見えたのは、悪魔の角に蝙蝠の翼、藍色の髪に薄紫色の肌。
月明かりを受けて鷹のような目を光らせながら、その魔物ーー妖魔は怪しげに笑っていた。




