2 勇者、罠に掛かる。
国王に呼び出されたその翌日の昼下がり。
シェリーは城内のある一室にいた。
そこは生活に最低限必要な家具だけが置かれた狭い質素な部屋で、しかし日当たりは良く、シェリーはその部屋の主と二人でテーブルを囲んでいた。
テーブルには白磁器のティーセットが並べられて、カップには深く上品な紅茶色が満ちている。
「……全く、王様にも困ったものだわ」
「あはは! 勇者様も大変だね?」
「笑い事じゃないわよ、もう……」
そう言ってシェリーは紅茶のカップに口を付ける。
少し口に含めば優しい温かさと程良い渋み、穏やかな香りが広がって、その美味しさに眉間の皺が自然と緩んだ。
「うん……アリアの煎れる紅茶は相変わらず美味しいわね」
「ふふ、有り難う」
親友からの賛辞に、アリアと呼ばれた女性は嬉しそうに笑った。
城の給仕係の制服である長スカートのエプロンドレスに、後頭部できっちりと団子状に纏められた飴色の髪。
シェリーが愛らしさと気高さを兼ね備えたピンクの薔薇なら、彼女の魅力は白いマーガレットを思わせる親しみやすさと明るさだろう。
久々に会っても変わらないアリアの様子に、シェリーは自分の気持ちが解されているのを感じていた。
再び紅茶を味わうと、桃色の唇から吐息を漏らして、ゆったりと頬杖をつく。
「アリアの紅茶も飲めなくなっちゃうし……幾ら平和的解決の為だなんて言われても、私は絶対に嫁がないわ」
「シェリーは本当に、その人が嫌いだよね……」
苦虫を百匹ほど噛み潰したような表情でそう零したシェリーを見て、今まで散々話を聞いてきたアリアは思わず苦笑を浮かべた。
戦場でそのロワという男と会うと、帰ってくる度に愚痴や文句を聞くのは、毎回恒例の事になっている。
しかし、どうしてロワの事をそこまで嫌っているのかと理由までは聞いたことが無いと気付き、何気なく言葉を続けた。
「どうして彼がそんなに嫌いなの?」
すると、シェリーは綺麗な青の目をぱちくりとさせて、
「だって、私は勇者だもの」
平然とした顔で、そんな抽象的な答えを返した。
「へ、へえ……?」
いまいち納得出来ないアリアは苦笑したまま首を傾げる。
親友が反応に困っているのを余所に、シェリーは持ち上げたカップを軽く揺らし、緩やかに波打つ紅茶の海を眺めながら言った。
「そもそも向こうだって、私が嫁ぐなんて話は断るに決まってるわ」
そう、嫌悪しているのは自分側だけではない。向こう側も同じ。だから今回の結婚云々の話は元より上手く行くはずがないのだ。
琥珀色の水面には、すっかり余裕を取り戻した微笑みが映っている。
するとそこに、トントンと控えめにドアを叩く音が鳴った。
「シェリー様、此方にいらっしゃいますか?」
次いで聞こえてきた声に二人は顔を見合わせる。
そして、アリアが席を立ってドアを開けた。
ドアの向こうにはアリアと同じ服を着た給仕係の女性がいた。
「どうしたの?」
「アリア、シェリー様は此方に来ていない? 私さっき、廊下で掃除していたんだけど、大臣に大至急探してきてくれって頼まれちゃって……」
本当に突然だったのだろう、困惑気味にそう話す女性の手には雑巾が握られたままだった。
アリアがどうすればいいかと迷っていると、後ろから肩を叩かれた。
振り向けば仕方なさそうに笑っているシェリーがいて、アリアの肩越しにひょいと顔を覗かせた。
「私ならここにいるわよ」
「シェリー様! ああ良かった、大臣様が『直ぐに国王様の所に行ってくれ』って」
「ええ、分かったわ、有り難う。直ぐに行くから、貴女はもう掃除に戻って大丈夫よ」
「はい、それでは」
給仕係らしく綺麗に頭を下げた女性は、足早にその場を去っていく。
「シェリー……」
その背中を見送っていると、心配そうに名前を呼ばれた。
シェリーは振り返り、眉を下げて自分を見るアリアに肩を竦めて笑ってみせる。
「大丈夫、また無理を言われたら断ればいいんだもの」
「うーん……まあ、そうかもしれないけど……」
「別の用件かもしれないし、とにかく行ってくるわ。お茶、ご馳走様でした」
そう言ってアリアに軽く手を振って別れを告げ、シェリーは国王の間に向かった。
***
豪華な装飾が施された扉の前にたどり着いても、昨日も訪れている所為で緊張感はさほど無い。
シェリーはさっさと済ませてしまおうと扉を開けた。
「おお! 来てくれたか、シェリー!」
「……ええ、呼ばれたからには一応」
広間に入った途端、玉座に座る国王に両手を広げて迎えられた。
何故かテンションが高まっている様子にシェリーは若干引きながら愛想笑いで返す。
そこでふと、国王の隣に人が立っていることに気付いた。
紫色を基調とした貴族風の服を着た黒髪の男性。年齢は国王と同じくらいに見える。
(……誰かしら?)
見慣れない顔に内心で首を傾げていれば、その男性と目が合った。
「やあ、初めまして、シェリーさん」
「え、は、初めまして……」
穏やかな笑みを浮かべた男性の身分は分からなかったが、優しい声色の中に威厳のようなものを感じて、シェリーは思わず畏まり気味に頭を下げる。
すると、男性は微笑みを湛えたまま言った。
「で、君は魔王の嫁になる気はやっぱり無いのかな?」
「……は?」
あまりにも唐突すぎて、自分の耳を一瞬疑う。
しかし、ふと目が合った国王がさっと目を逸らしたのを見て、今のが聞き間違いでは無かったことを確信した。
シェリーはその横顔をじとりと睨み付けていたが、やがて溜め息をつくと男性の方に向き直った。
「はい、ありません」
「どうしても?」
「どうしても、です」
「好きな人とかいるの?」
「いいえ、でも魔王の事が大嫌いなので嫁ぎたくありません」
シェリーは一切の淀みも無く、きっぱりと強く言い切った。
真っ直ぐな視線から揺るぎない意思を察した男性は苦笑を浮かべる。
「我が息子も随分と嫌われたものだねえ……」
「えっ?」
「だけどごめんね? 僕らは長だから、二人の意思よりも全体の平和を優先させなきゃならないんだ。僕が引退した意味も無くなっちゃうしね」
そう言うと男性は指を鳴らした。その音が広間に響いたと同時に、シェリーの足下に巨大な魔法陣が現れた。
突如現れた怪しい光を放つ魔法陣を見下ろせば、嫌な予感が胸を過ぎる。
「まさか……!?」
直ぐに逃げようと思うも既に遅く、足の裏が縫いつけられたかのように動かない。咄嗟に男性の方を見れば、人の良さそうな笑顔を浮かべて手を振っていた。
「じゃあ魔王に宜しくね、勇者様」
呑気な声でそう言われても心は全く踊らない。
バチバチと音を立てて閃光が激しく瞬く中、抵抗する術がない事を知ったシェリーは愛らしい顔をこれでもかと悔しさに歪めて、
「っ、ふざけるなあああっ!!」
獣の如き叫びを残して、魔法陣の光に飲み込まれていった。
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