18 勇者、囚われる。
燭台に立てられた蝋燭の火が揺れている。
石畳の冷たさが藁の敷物を通して伝わってくるのを、牢屋の中でシェリーは一人座って感じていた。
(さて、どうしたものかしら……)
両手首に着けられた銀の枷を見下ろす。暗い所為でハッキリとは見えないが、表面には何やら術式のようなものが彫られているのが分かった。
それを確認したシェリーは目を瞑り、勇者の剣を召喚しようと意識を集中させてみる。
しかし、集めた力がまるで枷に吸い取られるかのように消えていってしまうのを感じると、ふっと集中を解いて目を開いた。
(剣が使えないとなると、きっと魔術の類は駄目ね。そうなると力業でどうにかするしか……)
幸い、足の方には枷が着けられていないので、牢屋の中を動き回る事は出来る。
立ち上がったシェリーは奥の壁際へと向かった。
そして、硝子の代わりに鉄格子が填められた窓の外を、精一杯背伸びをして覗き見る。
そこには青空と浮かぶ雲だけがあって、建物や山は見当たらない。
その光景を見たシェリーは頭を働かせた。
(空しか見えないってことは……ここは結構高い場所なのかしら。だとしたら、壁を壊して逃げるのは難しいわね……)
幾ら勇者と言えど、鳥のように空を飛ぶ術は無い。
強引な脱出を諦めたシェリーは軽く溜め息をつくと、再び藁の敷物の上に腰を下ろした。
「お妃様、ご機嫌は如何かな?」
するとそこに、でっぷりと肥えた腹を揺らした大男がやって来た。姿形は人間に似ているものの、緑色の肌と突き出た牙が大男を魔物だと証明している。
鉄格子の向こう側から厭らしい笑みで自分を見てくるオークに、シェリーは嫌悪感を隠すどころか垂れ流しにした表情を浮かべた。
「貴方の顔を見た途端に最悪になったわ。牢屋や枷が些細な事に思えるくらいよ。そうね、ここまで人の気分を落とせる顔をしているなんて、ある意味才能じゃないかしら。決して羨ましくない才能だけど」
沸き立つ嫌悪感と呼応するかのように、よく回る舌が淡々と罵声を紡いでいく。序でに殺気も放たれる。
可憐な見た目にそぐわない毒舌を振るわれて、オークは笑みを凍り付かせたが、相手が囚われの身である事を思い出すと直ぐに調子を取り戻した。
「ま、まあ……機嫌がどのようなものでも、お妃様には暫く此処にいて貰わねばなりませんからな」
その言葉にシェリーは顔を顰め、溜め息をついた。
「……ねえ、私に人質の価値は無いと思うわよ? 魔王を脅したいのなら、私より側近を浚った方が成功しやすいと思うけど」
自信満々に間違った選択をしているオークに、哀れんだシェリーはアドバイスのような発言をしてしまう。
「はっはっは! お妃様は嘘があまりお得意ではないようですな!」
しかし、オークはそれを牢屋から解放してもらう為の嘘だと判断して、余裕たっぷりの笑い声で一蹴した。
「お二人は『喧嘩するほど仲が良い』と評判ではありませんか! 今更そう仰っても無駄ですよ!」
それを聞いて、シェリーは眉間の皺を増やした。
命を狙い合うような喧嘩をする自分達を、誰がどう見たらそんな評価が出来るのか、不思議で仕方がない。
「……まあ、貴方がそれを信じるなら何も言わないわよ」
内心で色々とツッコんだ分、訂正するのも億劫だった。
肩を落としたシェリーが投げやりに言うも、オークは気に留める様子もなく鉄格子から離れた。
「また後ほどご機嫌を伺いに参ります」
「貴方が来なければご機嫌だから、来なくていいわ」
「……では、失礼します」
別れ際の一瞬ですら毒を叩き込まれて、オークは少し泣きそうになりながら牢屋前から去っていく。
そうして、再び一人になったシェリーは深く息を吐き、退屈を紛らわせようと、こうなった経緯を一から思い返す事にした。
***
牢屋に閉じ込められる数時間前。
太陽が真上に来る前に洗濯を終えて、次は掃除でもと気合いを入れ直したシェリーの耳に届いたのは、来訪者を告げるノックの音だった。
玄関のドアを開けて迎えれば、この家を唯一訪ねてくるソルダが立っていた。
しかし、その表情はとても曇っていて、どうしたのかと問う前にソルダが口を開いた。
「突然で申し訳ありませんが、今から魔王の間に一緒に来てもらえませんか……?」
「……えっ?」
唐突で予想外の頼み事に、シェリーは目を瞬かせる。
「今、ロワ様とお話している魔物が、魔王の妻であるシェリー様にも是非ご挨拶をしたいと……」
「ふーん……」
そこでシェリーは、自分は魔王の下に嫁いでから、他の魔物の前に姿を見せた事が殆ど無い事に気付いた。話は広まっているものの、姿は結婚式に参列した一部の魔物くらいしか知らないだろう。
(私の事が気になる魔物が出てくるのも当然よね……)
ましてや自分達の王の妻となると、興味がより強くなるのも頷ける。
そう思ったシェリーは、不安そうに此方を窺っているソルダに優しく微笑んでみせた。
「いいわよ、行きましょう」
すると、ソルダの表情が一気に明るくなった。
「本当ですか! 有り難うございます!」
最初から断られるのを覚悟していたのか、ソルダは大袈裟だと言いたくなる程に喜んだ。
(……私って、そんなに頼み事しにくいのかしら)
ふと過ぎった心配にシェリーは眉を顰めた。
そんなシェリーの心境など知る由もないソルダは、既に気持ちを落ち着かせていた。普段通りの穏やかさを湛えている。
「では、ご案内します」
「あ……そうね、行きましょうか」
そうして二人は中庭を出て、廊下を行く。
時折、奇妙な彫刻などが飾ってある以外は同じような風景が続いて、シェリーの方向感覚が少し狂いかけた頃、目の前に大きな扉が現れた。
邪悪な雰囲気を漂わせる装飾が施されたその扉の前で、ソルダは片膝をついて頭を垂れる。
「シェリー様をお連れ致しました」
すると、巨大な扉が独りでに開き始めた。
そして左右に完全に開ききると、ソルダは下げていた頭を上げて立ち上がった。
「シェリー様、どうぞロワ様の下へ」
「……ええ」
シェリーは優しく促されるままに大広間へと足を踏み入れる。
大理石の床を踏む度にヒールの音を響かせながら、奥の高座にある玉座までたどり着いた。
そして、その玉座に堂々と座っているロワに渋い顔を向けた。しかし、客人の要望で魔王の嫁として呼ばれたという事を配慮した結果、眉間にはそれほど皺は出来ていない。
「……来たわよ」
「おう、まあ座れ」
ロワは隣に並ぶもう一つの玉座を顎で指す。
その指示に対し、シェリーは渋い顔をしながらも大人しく玉座に腰を下ろした。
「突然お呼びしてしまって申し訳ありませんな、お妃様」
不意に飛んできた野太い声。
そこでシェリーは初めて、高座の下で跪いている姿に気付いた。慌てて表情から渋さを抜き、首を振ってみせる。
「いいえ、丁度退屈してましたから……」
「何とお優しい……と、ご挨拶が遅れました。自分はオークのダゴールと申します。お会いできて光栄です」
野太い声に似合う太い体を、金糸やら金具で派手に飾られた貴族風の服にみっちりと包んだ大男ーーダゴールは、大して大きくない目を細めて挨拶をしてきた。
口調は礼儀正しく聞こえるが、声色には何処か胡散臭さが漂っている。
そして、人(この場合は魔物だが)を見た目で判断するのが正しいとは言わないが、シェリーにはどうしてもダゴールが『いい人』だとは思えなかった。
「……シェリーです。宜しくお願いします」
それでも目の前にいる以上、あからさまに警戒したり無視したりは出来ず、すかさず猫を被って挨拶を返す。
にっこりと笑う顔に先程までの渋面は陰も形も無い。愛嬌と気品に溢れた笑顔だけがある。
完璧な余所行きの姿勢を見せたシェリーに、普段を知るロワはそっと苦い表情を浮かべて、ソルダは呆気に取られた様子で口を半開きにさせていた。
「いやあ、お噂通りに美しい方だ。魔王様もさぞや鼻が高いでしょう」
「あ? いや別に、中身が鬼だから……っ!?」
そこまで言ったロワは、隣から冷気を感じて咄嗟に口を噤む。
視線をゆっくりと向ければ、愛らしい笑顔を崩さないまま自分の方を見ているシェリーがいた。が、よく見れば膝に置かれた左手の中指がしっかりと立てられている。
笑顔の裏に隠された真っ黒な炎を見たロワは、顔を引きつらせながら言葉を選び直した。
「えー……あー……そうだな、うん……」
「そうでしょう、そうでしょう! ご自慢のお妃様でしょうなあ!」
「あー……まあ、ああ……」
次に間違えたら後がどうなるか分からないので、ロワは適当に言葉を濁しながら返事をする。
それをどう受け取ったのか、ダゴールは満足そうにうんうんと頷いていた。
「……おっと、そろそろ失礼するとしますか。お妃様にもご挨拶出来ましたし」
「では、門までお送りします」
すかさず動こうとしたソルダに、立ち上がったダゴールは首を振る。
「いやいや結構。では魔王様にお妃様、失礼します」
「おう、じゃあな」
「またお会い出来る日を楽しみにしていますわ」
二人に深く礼をしたダゴールは、重たい足音を響かせながら大広間を出て行く。
そうして客人の帰りを見届けると、ロワとシェリーは揃って溜め息をついた。そんな二人にソルダは苦笑を浮かべる。
「お二人とも、お疲れ様でした」
「本当にな……」
「私、もう戻っていいかしら……?」
「ええ、お一人で戻れますか?」
「大丈夫よ、何となく覚えてるから」
玉座から腰を上げたシェリーは高座から降り、一人で大広間から出た。薄暗い廊下には人気が無く、シェリーの足音だけが響き渡る。
すると、曲がり角に差し掛かった所でそれは現れた。
「失礼しますよ、お妃様」
「え?」
先程耳にしたばかりの野太い声に呼ばれたと思ったのも一瞬で、目の前に大きな影が立ちふさがった。
そしてシェリーが反応するよりも早く、その影は動いた。
「きゃっ!?」
何やら煌めく粉を視界いっぱいに撒かれて、咄嗟に両腕で顔を庇う。しかし、粉が放つ強烈な甘い匂いが鼻孔を抜け、頭の奥を痺れさせていった。
(う……な、何か不味い……?)
足元が覚束なくなったシェリーを影が受け止めた。身を委ねるのは危険だと思いつつも、遠ざかる意識と共に体も言う事を聞かなくなっていた。
(あ、だめ……)
閉じていく視界の端で、自分を支える緑色の手を見たシェリーは、必死の抵抗も虚しく意識を手放してしまう。
そして、次に目覚めた時には、枷を着けられて牢屋に閉じ込められていたのだった。