17 勇者、甘くなる。
「よく食べたわね……」
殆ど空になったバスケットを見て、シェリーは驚き半分感心半分で呟いた。
その隣でロワは満足そうにしながら、満腹になった自分の腹を撫でている。
「『食う子は育つ』って言うだろ? だからおれ、いっぱい食って早く大きくなるんだ!」
高らかに宣言したロワは胸を張る。
子供らしい背伸びの仕方に微笑ましさを感じたシェリーは、口元に手を当てて小さく笑った。
「それは『寝る子は育つ』の間違いじゃないかしら?」
「え? ……あっ」
やんわりと指摘されて間違いに気付いたロワは、恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「い、いいんだよ! 寝てばっかりじゃダメだろ!?」
「ふふ、そうね。食べるのも大事よね」
赤い顔で必死に弁解する様子がまた微笑ましくて、つい笑うのを止められない。
そうして、シェリーがくすくすと笑い続けていると、ロワは不機嫌そうに頬を膨らませた。
「おまえ、笑いすぎだろ……」
「だって……ふふ、ごめんなさい」
謝るものの、控えめな笑い声は止まらない。
ロワはますます頬を膨らませたが、ふと何か思い付いたような顔をした。
「おまえ、さっきかくれんぼで最初に負けたよな?」
「え? ええ……」
唐突に持ち出された話題に、漸く笑うのを止めたシェリーは目をぱちくりさせながらも頷く。
すると、ロワは企みを含んだ笑みを浮かべた。
「だから罰として、おれの言うこと聞いてもらうぞ」
「でも、最初にそんな事は決めなかったわよ?」
「おれが今決めたからな! いいから聞け!」
片手を腰に当てて、シェリーの目の前に人差し指を突きつける。
こんな横暴な要求をされて、普段だったらここで容赦無く指の指を折るのだが、流石に今の相手にそれは出来ない。
「……もう、分かったわ。私は何をすればいいの?」
あと数時間の辛抱だと、溜め息混じりで了承する。
するとロワは金色の瞳を細め、その場で横になると、シェリーの膝に迷うことなく頭を乗せた。
「……え?」
自分の膝を枕にして寝転がるロワを、きょとんとした表情で見下ろす。
そんなシェリーに、ロワは悪戯な笑みを向けた。
「寝る子は育つんだよな? だからおまえ、暫くおれの枕になってろ。それがおれからの命令だ」
そう言って小さな魔王は返事も聞かず、早速目を瞑って寝る体勢に入ってしまう。
選択の余地も与えられなかったシェリーは、立ち上がって膝から落としてしまおうかと一瞬考える。
しかし、無防備に晒されたあどけない寝顔を見下ろしているうちに、そんな気もすぐ失せていった。
「……本当に狡いんだから」
軽く唇を尖らせて呟いたシェリーは、既に寝息を立て始めているロワの前髪をそうっと指先で払う。
穏やかな日差しが、そんな二人を暖かく包んでいた。
***
「ん……」
長い睫毛を震わせて、ゆっくりと目を開く。
(私、寝てた……?)
どうやらいつの間にか眠ってしまっていたらしく、まだ頭の中が眠気に支配されているのを感じる。
(……あったかい)
シェリーはとろとろと微睡みながら、自分を包んでいる暖かさに頬を寄せる。緩やかな震動は揺りかごのように心地好い。
二度目の睡眠に誘われそうになった時、ふっと気付いた。
(……私、膝枕してなかったかしら)
そう思った途端、遠退きつつあった意識が一気に目覚めた。
閉じかけていた両目を見開けば、視界に飛び込んできたのは花畑ではなく、緑豊かな森の景色だった。
「あ? おい、起きたのか?」
不意に呼び掛けられて肩が跳ねる。
そして、自分を背負って歩いているのが、先程まで自分の膝枕で寝ていた人物だと気付くと咄嗟に口を開いた。
「あ、貴方、いつの間に元に戻ったの? というか何で私を背負ってるのよ!?」
今の自分の状況を理解したシェリーは僅かに頬を赤らめて声を張り上げる。
至近距離で出された大声に、すっかり元通りに戻ったロワは煩わしそうに顔を顰めた。
「うるせえな、お前が爆睡してる間に戻ったんだよ! ……つっても、妖精長が教えてくれたのを聞いただけで、俺は何も覚えてねえけど」
「そ、そう……」
相手が幼くなっていたとはいえ、随分と気を許していた自分を覚えられていたら恥ずかしかったので、記憶が無いと聞いてシェリーは秘かに安堵する。
そして、抱えられている両足をぷらぷらと揺らした。
「とにかく、もう眠くないから降ろしてくれる?」
「嫌だ」
「はあっ!?」
間髪入れずに返ってきた予想外の返事に、思わず大声を上げる。
青い瞳を見開いているシェリーに、肩越しに振り向いたロワはにやりと意地悪い笑みを浮かべてみせた。
「このまま出口まで行ってやるよ。俺に背負われたまま、精々恥ずかしがってろ」
「あ、貴方ねえ……っ!」
堪らなくなったシェリーは片手を上げ、そこに魔力を集中させる。
「おっと、ここで暴れたらまた妖精長に怒られるぜ?」
「……っ!」
ロワの言葉を聞いた途端、掌に集まっていた光の粒子が空中に霧散した。
説教を受けていた情けない自分の姿を思い出して、シェリーは悔しさに歯噛みしながら手を下ろす。魔法を使わずとも戦えはするが、暴れるのには変わらないので結果は同じだろう。
「あとで覚えてなさいよ……っ!?」
「おう、ドラゴンの背中から落下死したいなら好きにしろ」
「ううっ……!」
平然と返されてしまい、ますます悔しさが募る。
せめてもの反撃にと、両足をばたつかせて脇腹を蹴ってみるも、ロワは平然とした顔で出口へと歩き続けた。
***
小妖精の集落に行った日から、数日経ったある夜。
いつも通り帰宅したロワは、玄関のドアを開けた途端に漂ってきた香りに鼻をひくつかせた。
(何だ……?)
甘く芳ばしいその香りに導かれて行けば、リビングにたどり着いた。
「あら、帰ってきてたのね」
そこに丁度キッチンから出てきたシェリーが声を掛けた。
部屋中に漂う甘い香りの正体を尋ねようとしたロワは、口を開きかけてふと気付く。
「それって……」
「ああ、これ? 暇だったから焼いてみたの」
そう言ってシェリーが軽く掲げて見せたのは、小さな籠に入ったマドレーヌだった。焼き色は少しばかり濃いめだが、食欲をそそる良い香りを漂わせている。
ロワが籠の中身を見つめていると、白い指がマドレーヌを一つ摘み上げて、そのまま目の前に差し出された。
「はい、どうぞ」
「……はっ?」
思わず間の抜けた声が漏れる。
すると、シェリーは不機嫌そうに眉を顰めた。
「『はっ?』じゃないわよ。私一人でこんなに食べきれるわけないでしょ? それくらい分かりなさいよ」
冷たく言い放つと、目を瞬かせているロワの胸元に籠を押し付けた。
それをロワが咄嗟に受け取れば、シェリーはその横を通り過ぎてリビングを出ていこうとする。
「おい、これはどうすんだよ?」
小さな背中にそう呼び掛ければ、足が止まった。
素直に動きを止めた相手を珍しく思っていると、シェリーが振り返った。
「全部どうぞ。マドレーヌが好きなんでしょ?」
「え、お前、何で……」
話した覚えの無い好物を知られている事に、ロワは戸惑いを隠せなかった。
そんなロワを見て、シェリーの愛らしい唇がたっぷりとした弧を描く。
「残したら承知しないから。それじゃおやすみ、ロワ」
「っ!?」
金色の瞳がこれでもかと丸く見開かれる。
明らかに動揺しているロワの姿に、シェリーはとても満足そうにしながら、今度こそリビングを出ていった。
そうして、その場に一人残されたロワは少ししてから我に返り、手に持ったままの籠を見下ろした。
そっと顔を近付ければ、美味しそうな香りが鼻孔を通っていく。
「……残したら勿体ないし、な」
呟いたロワは、籠からマドレーヌを摘んで口に運んだ。恐る恐る頬張ってみれば、ほろほろとした柔らかな食感と素朴な甘さが舌の上で広がっていく。
そして、気が付けばあっという間に食べ終えていて、ロワはふんと鼻を鳴らすと二個目を摘み上げた。
「……まあ、頑張りは認めてやらなくもない」
素っ気なくそう言って、吸い込むような勢いで次々とマドレーヌを食べていくロワは知らない。
(な、名前で呼んじゃった……!)
閉まったドアの向こう側では、廊下に座り込んだシェリーが顔を真っ赤にして羞恥に悶えている事を。