11 勇者、思い付く。
そっと紅茶を啜る。温かなダージリン。
ティーカップが離れた薔薇色の唇からは、羽毛のように軽い吐息が零れ落ちた。
(……今日も平和な一日だったわ)
シェリーはティーカップの縁を指先でなぞりながら、ぼんやりと今日一日の事を思い返す。
起床して、朝食を取り、掃除をしたり洗濯物を片付けたりして、昼食ついでに料理の練習をして、その後は裁縫の練習をした。
それから夕飯と入浴を済ませて、就寝前のリラックスタイムに紅茶を煎れて、そうして今に至る。
(どんどんこの生活に馴染んでるわよね、私……)
結婚式を挙げた日から今日まで、太陽と月が何回入れ替わったのかを数えてみれば、いつの間にか結構な回数になっていた。
最初のうちは、ストレスと退屈でどうにかなってしまうのではないかと思ったりもした。
しかし、家事を練習したり、ストレス発散に仕事中のロワの下に行って喧嘩したり(これはソルダに泣かれるのであまり出来ないが)と、意外にも充実した日々を送れている。
(人間軍を率いてた頃の私が今の私を見たら、きっと卒倒するでしょうね……)
大嫌いな相手と結婚して、同じ屋根の下で寝食を共にしているなんて、正直今でもたまに信じられなくなる。それでも何だかんだで今日まで続いている。
自分でもおかしいと思うし、それはきっと向こうも同じだろう。
別に仲良くなったわけでもない。顔を合わせれば憎まれ口を叩き合うし、命を狙っているのも変わりない。
だけど、何かが以前と違う気がしていた。
(まあ……それが何なのかは分からないけれど)
その時、静かなリビングに振り子時計の鐘の音が響いた。見れば、時計の針は二十二時を指し示していた。
時刻を意識した途端、シェリーの目蓋は一気に重くなる。
(そろそろ寝ましょうか……)
ティーセットをキッチンに片付けて、小さな欠伸を漏らしながらリビングを出る。
人気の無い廊下はひんやりとしていた。
(……そういえば、帰ってこないわね)
階段を上がろうとして、ふっと玄関の方を見る。ドアが開く気配は全く無い。
(というか、ここ数日、顔を見た記憶があまり無いような……)
シェリーは小首を傾げて記憶を遡る。
今までだって帰ってくる時間は区々だったが、それでも自分が起きている間には帰ってきて、何かしら言い合ってはカードやチェスで戦ったりしていた。
しかし、ここ数日はそんなやり取りを交わした記憶が無い。それどころか姿形を見かけた覚えすら無かった。
更に最近は朝も早いのか、自分が起きる頃には既に仕事先へと出てしまっているので、本当に顔を合わせる機会がなくなっていた。
(……明日はもう少し、早く起きてみようかしら。いや、別に魔王の顔が見たいとかじゃなくて、朝から私の顔を見せて不愉快な思いをさせてやろうと……)
そんな事を考えながらシェリーは自室へと向かう。
ーーしかし、その日はロワは帰ってくる事は無かった。
***
次の日。アリアに送ってもらった裁縫の本を傍らに、簡単な髪留めを練習がてら縫っていると、玄関のドアを叩く音が聞こえてきた。
この家を訪ねてくる相手は限られているので、玄関に向かったシェリーは警戒もせずにドアを開ける。
開けた先には予想通り、すっかり顔馴染みとなったソルダが立っていた。
「シェリー様、頼まれていた物をお持ちしました」
礼儀正しく頭を下げたソルダの手には、大きめのバスケットが提げられている。
それを見たシェリーは、自分が色々と頼んでいた事を思い出して目を瞬かせた。
「ああ……そうね、そういえば頼んでたわね」
バスケットを受け取ると、蓋を開けて中身を確認する。
食材から調味料、石鹸や新しいタオルといった日用品。
シェリーは頭の中にある一覧表と照らし合わせて、全て揃っている事を確認すると再び蓋を閉めた。
「……うん、大丈夫そうだわ、ありがとう」
顔を上げたシェリーは礼を告げて素直な微笑みを浮かべる。
この家に住むようになってから、食料や日用品の配達を頼んでいた。
シェリーが買い物に出るのが嫌だからというわけではなく、ソルダの方から提案したのである。
それは何故かというと、シェリーを買い物に出掛けさせたら、そのまま魔物の一匹や二匹狩ってくるのでは、という不安からーーというわけではなく。
「いえ、本当なら買い物ついでにシェリー様を城下街にご案内を、と思ってはいるのですが……最近はあまり治安が良くなくて、対応が追いつかない程でして……」
眉を下げてそう話すソルダの目の下には、よく見ると薄い隈が出来ている。
それを見たシェリーはふと気付いて小首を傾げた。
「ねえ、魔王の帰りが最近遅かったり、帰ってこないのもそれが原因なの?」
すると、ソルダは寝不足で乾き気味の瞳を細めて頷いた。
「はい、本来なら魔王様ほどの方が足を運ぶ必要は無いのですが……『俺が出ていけば大抵の馬鹿は黙るだろ?』と言っては、部下を置いて問題を片付けようとするんです。確かにそれで大抵の騒ぎは直ぐに解決するんですけど……」
「……その分、魔王の仕事量は増えるってわけね」
そうなんです、とソルダは小さく溜め息をついた。
「お疲れになる前に休んでほしいんですけどね……っと?」
不意に何処からか飛んできた蝙蝠がソルダの耳元にまで近付いた。
ソルダはその蝙蝠に耳を傾ける。
そして少しすると、蝙蝠はまた何処かへ飛んでいった。
「すみません、仕事が入りましたので行ってきます」
「そう、……大変そうだけど頑張ってね」
常に何かと気遣ってくれるソルダを、シェリーはこの城で唯一と言ってもいいくらいには気を許しているので、応援の言葉も自然と口から出る。
それを受け取ったソルダは「有り難うございます」と微笑んで、来た時と同様に頭を深々と下げてから仕事へと向かっていった。
***
ソルダを見送ったシェリーは、バスケットを持ってリビングに戻ってきた。
中身を出して整理しながら、先程までの会話を思い返す。
(……仕事、ね)
不届き者の征伐などは自分でも手を貸せるだろう。
しかし、魔王の嫁となった今では、恐らくソルダ辺りが許してはくれないと予想がついた。
それに魔物の問題に人間が下手に介入すれば、余計に拗れる可能性も生まれてくる。
(となると……私の仕事は大人しくしている事かしらね……)
シェリーはそう思いながら、調味料の瓶たちを戸棚に片付けていく。
(でも、魔王が働いているのに私は呑気にしているっていうのも、何か、こう……落ち着かないっていうか……)
流石に自分でも馬鹿らしいとも思うが、それでもロワが自分の仕事をこなしている傍らで呑気に紅茶を啜っているのは、何となく負けた気がする。
そもそも元は自分も最前線で動いていたクチだ。大人しく待つのは性に合わない。
(もっとこう、何か私に出来る事が無いかしら?)
調味料を片付け終えて、空になったバスケットを邪魔にならない場所へ持っていこうと持ち上げる。
そこでシェリーはふと動きを止めてバスケットを見た。
「今の私が、出来ること……」
視線をバスケットに向けたまま呟く。
そして、シェリーは何かを決めたように一人頷いたのだった。
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