第三話 私のステータス かしこさ1
ゲームの世界の住人になった夢を見ていたと思っていたが、私はそれが夢でもなんでもなかったことにようやく気付いた。
まどろんでいたら、いきなり水でもかけられたような気分だ。
夢の中だと思っていたぼんやりとした意識が、急くように現実に追いつきはじめる。
手がある。足がある。腕がある。顔がある。口がある。鼻がある。目がある。テレビ越しの画像を眺めているような遠い感覚が消えた。
肉体を持ち、思考できる脳をもち、生きるための呼吸器官をもち、話すことのできる口をもち……ありとあらゆる器官が、『私』という意識に付随したことによって、形のなかった不明瞭な意識と記憶の一部でしかなかった私が、肉体という器にきっちりとおさまることによって一個の人格をはっきりと形作ってしまった。
なにこれ、夢の続きですかー?
ええと、これは一体どういうことでございましょうか。
今まで身体なんてなかったのに、重くなったと感じる自分の感覚に戸惑う。
私は自分の手を見る。
自分?
わきわきと握ったり開いたりを繰り返す。
記憶の中にある堀戸愛瀬の手とは全く違う。なのに自分の思う通りに動く手。
いや、なんとなくでしたが分かってましたよ。
ずっと内側から見ていましたし、ぼんやりとした思考しかできない四角い部屋の中で十六年も漂ってりゃあ無自覚のうちに理解もしてます。
だからこそ、私は堀戸愛瀬ではなく、アイゼリーだと先ほどの彼女に答えたわけだし。
私は未だに他人めいた感覚のあるアイゼリー・ディ・フォルトという女性に生まれ変わっている。
これがゲームの世界っぽいようなことはひとまず置いとくとして、私という意識の大元である『堀戸愛瀬、二十四歳。独身会社員』はものの見事にトラックに突っ込んでおっ死んでるわ。
ゲームでリンシャンさん×リィシェ嬢を成立させるために思索しながらのコンビニの帰り道。自分自身では意識がしっかりしているつもりで歩いていた。
けれども、今思い返すと例えるならば頭の中に白い霧がたちこめて視界が明瞭としない茫洋とした意識だったのだ。
ゲーム的に言うならば、双方向から混乱魔法を乱れ打ちされ『混乱が更に深くなった』と表示されて最早正気には戻れない絶望の淵に追いやられている状態。
現実と空想をぼんやりしすぎた意識で混同していた私は何故か自信満々に『私はレベル99! 最強』と思い込み、安全運転で運転する大型トラックの前に突っ込んだ……
あとは……お察しください。
ひどい、ひどすぎる。あんまりだ。
現実と空想を混同した変な女をはねちまったなんの罪もないトラックの運転手さんがあまりにもかわいそすぎる!
こんな女のために人生を棒に振ったとか、あんまりだ!
「おうぼわぁーーー」
私は頭を抱えながら奇声をあげた。
自分のしでかしてしまった罪に震えた。
ひとり静かに死ぬのならともかく、周りに迷惑をかけて死ぬなんて!
「あ、アイゼリー?」
奇声をあげた私に、壊れ物にでも触るような恐る恐るとした様子でインスタントさんっぽいひとが話かける。ふった女のこころの傷を気にかけているのか、私の行動が珍妙不可解すぎてどん引きしているのか、私のどん底の異性と接した経験の低さからではわからない。
そうか、今の私はひとりじゃない。周りにひとがいるんだ。たったひとりだけしかいなかったら、膝をついて指を組み、天にむかって私を跳ねた運転手さんに懺悔したところだが、後悔に沈むのはひとまず後にしよう。
「インスタントさん……」
「は?」
インスタントさん呼ばわりされた彼は、一体なにを言っているのかと言いたげな顔しているが、それはひとまず置いとくとしよう。これからも彼に呼びかけることがあったら、私は六日でヒロインに落とされたことの敬意を表し、インスタントさんと呼び続けるであろうから。慣れてもらわなければな。
こうやって身体を持ってから人間を眺めみると、どうしてこいつらをゲーム世界の住人だと思ったのだろうと首を傾げたくなるくらいにゲームの立ち絵と現実世界の住人の見た目に共通点が少ない。名前のせいなのかなあ? 構築された人間関係が、ぴたりとゲームにあて嵌っていたからそんな恍けたことを思いついたのだろう。金髪とサファイアブルーの目の青年の名前はシトーレですって? 私の名前はアイゼリー。しかも、ゲームにいた女の子と男の子に同名のひとたちが何人かいるわ。きゃ、ゲームと同じね。ここはゲームの世界なのね! と曖昧な意識の中にいた私のそんな思考の変遷を思い返す。
こうやって目でしっかりと見て、記憶の中にあるイラストと目の前に居るインスタントさんを比べると、共通点なんて目の色と髪の色と性別くらいだ。
乙女ゲーであるからして、見た目のインパクトから女性の人気を獲得しなければならないのを大前提として、各キャラの容姿は極めて良好に設定されていた。ゲームではインスタントさんは細めの女性っぽい顔立ちの美男子であったが、今目の前にいるのは服に隠れていても分かる鍛えっぷりが見事な、精悍な顔立ちが目を引くいわゆる美丈夫。
同い年の十六歳のはずなのに、この大人っぽさ。なにも知らずに会ったら年齢をごまかしていると疑ったであろう。幼なじみであるが故に、私はインスタントさんが正真正銘の十六歳ということを理解しているが。
インスタントさんのそばに寄り添って、共に心配そうな顔で私を見つめる美少女に目をやる。
ヒイロ・ヒロイというあまりにもやっつけすぎるデフォルト名をもつゲームのヒロインは、地球世界であれば天使と呼ばれそうなくらいの可憐で清涼感のある容姿をしている。
ゲームではどぎついどピンクであったが、白っぽい髪にすこしだけピンクの色が加わったような自然なピンクブロンドだ。ピンク色の瞳はコンタクトレンズでもつけてんのかと尋ねたくなる不自然さだけどな。
「広井さん……」
ファミリーネームがヒロイなのでファンの間でついた愛称は広井さんである。
「は、はい……」
怯えながら広井さんは返事をする。か弱そうで臆病そうなこの見た目通りの子なら、ひとをはめて奈落に突き落とすような性格をしていなさそうだが……女って見た目では判断できないからね。演技の可能性がなきにしもあらず。ひとまず要警戒。
「こんなことになって、ごめんなさい。でも私、彼のことが……!」
釈明を始めた彼女を無視して、心変わりをしたインスタントさんに向き直る。
「こんなことになって残念だよ。インスタントさん」
「すまないアイゼリー。ところで、インスタントさんって……俺のことを言ってるのか?」
「あたりまえだよー。そんな即席麺みたいにあっさりその子の彼氏になっちゃって。ひととして酷いわーないわー。私の純潔返して欲しいわー」
私のやる気のない責め苦に対し、ばつが悪そうにインスタントさんは目をそらし、万感の想いのこもった震えた声ですまないと謝罪した。私は耳糞をほじる演技をしてそれを聞き流し、広井さんに目をやる。
「このシトーレ・エド・ドゥ・インスタントという男の人は、ひとの処女を奪っておきながら、あっさりと出会ったばかりの人と付き合うような下半身ゆるゆるさんだから、貴方も気をつけてね」
にへらと私が笑うと、広井さんは威嚇でもされたようにびくりと震え半歩ほど退いた。