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fortepian  作者: 鳴波のたは
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sol

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 そうして小百合は、その翌日、つまり夏休みの初日をあけておくように佳菜美に指示された。元を正せば、わけのわからない夢みたいな話であるだけ、そんなことに動いている佳菜美を見るのは、負い目の積もるもので、小百合は消極的な態度をあらわした。けれど、別に会えなくてもいい、と言うと、佳菜美は、

「何言ってるの。私が会わせたいのよ」

 と言うし、それなら、自分で調べると言っても。

「何言ってるの。人の二倍の時間かけて行動する小百合が、出来るわけないじゃない。それに、私はコレをやりたいの。足りないところを補って、持ちつ持たれつでいいじゃない」

(ちょっと違うと思う……)

 そう昨日のやりとりを思い出しながら、小百合は帽子の白いつば越しに、褪せた青空を見上げた。場所は、昨日の夜、佳菜美が集合場所として指定した公園である。日差しを避けてまとった木漏れ日が、強い風に遊ばれて、白いワンピースのキャンバスに絵を描く。その下で、白いサンダルに包まれた足先が、待ちぼうけにもぞもぞと動く。

(全身真っ白にしちゃった……)

 新しく買ったワンピースに、お気に入りのサンダル、母親に手渡されたつばの広い帽子、たまたま組み合わさったものだが、何だか小百合は帽子だけでも隠したい気分になった。

「小百合ー」

 小百合が、これまた白い、小さなポシェットに帽子が入らないものかと試しあぐねた頃、やって来た佳菜美がこちらに呼びかけてきた。そのまま木陰に入って小百合の横に並ぶ。

「今日はカラッとしてるけど、日差しが強いね。私も帽子かぶればよかったなあ」

「でも、無くて正解だよ。今日風強いし。日焼け止め、あるよ。塗る?」

「ううん、大丈夫。塗って来たし。ここからそんなに歩くわけでもないから」

 そういうかはやいか、佳菜美はせっかく入った木陰を抜け、先を行ってしまう。小百合も、慌てて帽子をかぶりなおすと、後を追った。

「ねえ、佳菜美。行くって、どこに行くの?」

 それを聞いて、切れ長の目を丸く開いて、驚きをあらわしながら、佳菜美は言った。

「どこって病院に決まってるじゃない。そこの、記念病院」

「ええ!」

 今度は小百合が驚く番だった。

「そんな、全然知らない人の病院とかわかるの? わかっても病室なんてわからないじゃない。いちいち探すの?」

 やっと隣に並んだ小百合を見て、佳菜美はにんまりと唇を笑ませた。

「病院なんて、事故だもの、大抵は現場に近いとこのはずでしょう? それで私、昨日の塾の帰りに、駅から一番近い病院に行ってね、『今日、列車の事故で運ばれた大学生の同級生です。明日、少しでも顔を見たいのですが、ご家族の方も、突然のことに、お忙しいようで、なかなか連絡がつかなくて、困っているんですけど……』みたいなことを言ったの、そしたら、ね」

「……教えてくれたの?」

「優しいナースのおばさんがね、『中根さんの病室はね~、五○四号室ですよ~。もう集中治療室から出られてね~。ホント、若い人は強いわね~』なんて」

「……ソレ、たしかに私、出来ないけど、むしろ、佳菜美にしかできないと思う」

 佳菜美は七月の日差しの中で、人差し指と中指が元気よく離れたピースをして見せた。


 病院の中には、ぬるい静かさが満ちていた。途中で買った花束の包みが、小百合の胸元で、かさかさと耳障りな音をたてる。少しでもヘンに見られないためのアイテムだ、と佳菜美は言ったが、タネのわかっている小百合からすると、かえってどこか白々しくて、自分たちが嘘をついていることを、周りの人たちに知らせてしまうのではないかと思い描いてしまう。素知らぬ顔をして、小百合たちが通り過ぎると、こちらの背中を見ているのではないかと、そわそわする。さいわいエレベーターは、小百合と佳菜美の二人で乗ることが出来た。佳菜美の指が、手際よくボタンを押していき、すぐに、ぐんっと引っ張られる感覚をおぼえる。気づいたら、小百合は祈るような気持ちで、階数を知らせるエレベーターの表示を見つめていた。

(本当に、あの声の人なんだろうか……)

(たぶん、違うんじゃない?)

 傷つきたくなくて、心がストッパーをかける。でもそれは、心の奥が、本当はそう(、、)であることを期待しているからだ。

(期待しちゃって、知らないよ?)

(まずそんなことないって。世の中そんなに上手くできてなんか、ないんだから)

(あんな、お話の中みたいなこと、あの話からして、ありえないんだから、その人となんて、会えると思う?)

 エレベーターは五階に達した。小百合は混ざりきらない白と黒を抱えて降りた。

 学校の廊下を歩くかのように、いつもの調子で、ずんずん佳菜美は前を歩いていく。小百合はと言うと、口の中の渇きと、手足の冷えがさっきから気になって仕方がなかった。

「五○四、五○四と……」

 何気ない佳菜美のつぶやきが、小百合の喉を詰めていく。病院の廊下が、奇妙に歪んでいた。はくはくと心臓が脈打つ。

「小百合」

 佳菜美がふりむいた。

「そこの病室みたい」

 その入り口から漏れる光がまぶしくて、小百合は目を細めた。小百合が追いつくのを待つくとすぐ、佳菜美は率先して部屋へと入っていった。

 一人部屋だった。小百合の母親よりも、少し年上に見える女性が、佳菜美に気づいて立ち上がる。

「こんにちは、息子さんと同じ大学の者です。突然すみません。お見舞いに来たのですが……」

 佳菜美に目配せされ、小百合は何と言ったらいいかわからず、無言で花を差し出した。

「ああ……ありがとうございます……」

 充血した目で、疲れた笑みを浮かべて女性も受け答えた。

「どうでしょうか、差支えがなければ、容体の方は?」

「ええ……先生の話では……」

 両手の空いた小百合には、二人の会話など聞こえていなかった。

 白い手すりを持つベッドの中で、波打つ白い布にくぎ付けになる。それは二本の足の形に隆起していた。そろそろと近づいて、手すりに手をかける。病室の空気は、佳菜美によって、世間話に塗り替えられていた。小百合の目は二つの稜線を追っていく。

 かすり傷にまみれた手が、力なく横たわっている。

 天へと昇っていく、細い点滴のチューブ。

 わずかに上下する胸。

 包帯がのぞく襟元。


 そして


(違う)


「……ちがう。違うよ、佳菜美」

「え?」と言って佳菜美が小百合の言葉に気づいた時には、小百合は病室を走り出ていた。

「何? 小百合、ちょっと!」

 慌てた佳菜美の声を背中に聞く。小百合に止まる気はなかった。


(何が)


 風のように、思いっきり走りながら、小百合は考える。


(何が違うというのだろう)


「……っ! ごめんなさい!」

 看護師にぶつかりそうになり、そちらを見もせず謝る。閉じかけた無人のエレベーターに、どこへ向かうかも確認せず、飛び乗る。夢中で一階のボタンを押した。狭い箱に、小百合の息づかいがこもる。


(何が違うというのだろう?)

(人の顔もわからないのに)

(この壊れた頭なんかでは、認識なんて、できないのに)

(でも……)


 それでもあのとき、小百合は思ったのだ。

 人工呼吸器のマスク越しの、ひびわれ、薄く開いた唇に、ここからあの声は出ない、と。

 顔中の包帯や湿布に埋もれて、死んだように閉じられた瞳に、これがあの景色達をとらえてきたのではない、と。

 そう思ったら、居ても立っても居られなくなって、病室を駆けだしていた。


(だって、違った)

(違ってた)

(違ってたとしたら……)


 すべては駅から始まったのだ。幕引きも、


(あの駅へ……)


 理由ともいえない。勘と言う名の確信だった。

 エレベーターの扉が開くのと同時に、小百合は駆け出た。

 パジャマを着て、点滴をひきずる老人をよけ、入り口の扉へかじりつく。自動扉をこじ開けたい衝動に駆られたのは初めてのことだった。のろのろと開いた扉を抜け、転がるように、表へ飛びだした。頭上から照りつける太陽に、世界が影を失って、白けている。真夏の昼だった。

 小百合は、がむしゃらに走った。地面を蹴るのにあわせて、視界が気持ち悪く揺れる。

 何かに背を押されていた。自分かもしれない。

 まとわりつくワンピースの裾を蹴りあげるようにして走る。先程集合した公園の入り口に立っている、背の低いポールの頭に手をかけ、それを軸に急カーブし、砂場で呆然とこちらを見る子供たちに目もくれず、小百合は公園を駆けぬけた。通りが大きくなっていき、駅が姿を見せる。


(運動靴にすればよかった)


 足の甲をおおう、複雑に組まれた革を頼りに、何とも情けなくサンダルの底が後を追う。おかげで走りに力が入らない。もどかしくて仕方がなかった。くやしまぎれに唾をのむ。白い風が首筋を撫でた。

 真っ昼間の改札に、人の姿はなかった。白い景色の中で、一人、影に埋もれている。小百合はポシェットから定期入れを取りだすと、手元を見ずに、改札に叩きつけ、通り抜けた。赤いランプが目の端にうつったが、気にしない。ホームに出たところで地下通路へ向かいながら、ウォークマンを取りだした。イヤフォンをつけ、何の曲が選曲されているのか確認していないが、とりあえず再生ボタンを押す。


(つながって……!)


『こんにちは。僕です』


(つながった!)


 心臓が跳ねる。安堵と期待が胸をうつ。しかし、遅れて頭が冷静な判断を下した。つまり、最悪の事態が展開されつつあるのだ。

 小百合は足を止めて向かいのホームに目をやるが、人影はない。涙を出そうかと思った。再び走りだす。


『今日で全部が終わって、始まります。もしかしているかもしれない、この場でもって僕と向かい合ってくれた人へ、練習曲第三番ホ長調、別れの曲を』


 それきりぷっつりと声は途絶えてしまった。かわりに物悲しい、重層的な音楽が流れてくる。

 小百合はぐっと奥歯をかんだ。なめらかな旋律が、笑って、さよなら、さよならと囁いているようで、悔しかった。


(そんなの、ワガママだ)

 地下通路への下り階段を駆け下りる。音楽は性格を変えていき、不気味な明るさが、徐々に暗さをたたえていった。耳の奥が和音にしびれる。小百合は下り階段の最後四段を飛び下りた。前につんのめって倒れそうになる、すんでのところでこらえたものの、派手に向かいの壁に体を打ちつけた。その反動さえも利用して、上り階段へと走る。


(はやく)


 通路を抜け、上り階段に向かう。ヒステリックに重なるズレた和音達。その重い波が寄せては返して、小百合を絡め取るようで、上手く前に進められない。痛みも、疲れも感じないが、奇妙に足が重い。手すりにかけた腕の力を借りて、無理に押し上げるようにしてのぼりきった。

 明るくなった視界に、のうのうと最初のテーマが流れる。急に這い登ってきた疲れにしびれて、手すりにもたれて、しばらく荒い呼吸を繰り返す。そうして小百合はホームを見渡した。ひらけている空間には誰もいない。振り向いた先は、柱や、駅員の詰所でうまくその向こうが見えない。するり、と曲は終わってしまった。蝉の鳴き声が、イヤフォンの向こうから主張し始める。

 小百合は、よろよろとおぼつかない足取りで、詰所の脇を通ろうとした。コードが腕に絡まる。小百合はイヤフォンをむしるように取った。建物を抜けた向こう側は、屋根の幅が狭いのか、線路側の両端に大きく日向ができていて、その照りかえしが、ギラギラと小百合を焦がす。まぶしくて目を細めたそのときだった。

「……きゃっ!」

 一陣の強い風に吹かれて、小百合はよろめいた。とっさに詰所の壁に身を寄せる。

「あっ!」

 なすすべもなく、帽子がさらわれた。慌てて後を追う。しかし、一度あおられて高く宙に舞い上がった帽子は、そのままふわりと音もなく線路上に降ろされてしまった。

「ぼうしっ」

(こんなことしてる場合じゃ……)

 線路に物を落としてしまったという、必要以上に不安をあおる構図と、現在直面している事態とで板挟みにされ、小百合の頭の中は一気にパニックとなった。

(どうしよう、どうしよう、どうしよう、どう……)

 心の中の、どうしようのこだまが鳴り止んだ。

 誰かが小百合の肩に触れたからだ。

 はじかれたよう振りむいた。

「……」

 小百合より頭一つ分背の高い青年が、小百合の肩に軽く手を乗せ、脇に立っている。

 小百合の喉は、自分の仕事を忘れて、押し黙っている。

 くせのかかった、長めの前髪の向こうで、その眼元が、ふっと柔らかく微笑んだ。まるで小百合に、〝大丈夫〟と言い含めるかのように。そして青年は、小百合の肩を軽く後ろへ押して、前へ歩み出た。

「……あっ」

 かしゃり、とわずかに小石が鳴る。ごく自然に、青年は線路へと降りてしまった。日常におけるタブーを感じさせない、軽やかな動作だった。道路に落ちた物を拾い上げるように、無造作に帽子を取り上げ、その手で砂さえ払ってみせて、小百合の方へ歩み寄った。小百合もつられるように、ホームのふちでしゃがみこみ、青年を待つ。

「ありがとう、ございます」

 線路に立つ青年から、帽子を受けとり、小百合は青年の取るべき次の行動を待った。当然とるであろう、ホームへ上る動作を。

「……?」

 しかし、青年はなかなかその素振りをみせない。ただ、さっきと同じ微笑みを、その眼元に、口元に湛えたままである。

 静かだった。蝉だけが世界の音を知っているような、奇妙な静けさだった。

「あ、の……」

『まもなく二番線に、普通列車、青坂行きが、到着します。黄色い線の……』

 ホームのアナウンスが、小百合の首筋をなめた。青年は、動かない。

「あのっ……」

 次の瞬間、つかみかけた答えは、しっかりと小百合の手のひらに収まった。


「目を、つむって。見ない方がいい」

 あの人が、そう言って、一層、優しく笑った。


「あ、あ……」


――ごとん、ごとん、ごとん


 手をついた、焼けた点字ブロックから、鈍い振動が伝わる。見やると、昼間だというのに、電車の、らんらんと輝く片目が見えた。無機質な、ごとん、ごとん、という足音は、一定のリズムでこちらに響いてくる。


――ごとん、ごとん


(止まらない)

〝桐里の駅って、ホラ、なんだかすごく……〟

 いつかの佳菜美の言葉を思い出す。小百合はホームの端にいる自分達を呪った。


――ごとん、ごとん


 電車が近づいて、ごうごうと空気がうなりだした。けれど、さっき使い古した小百合の足は、持ち主の言うことを聞いてくれない。それ以上に、勝手に足だけですくんでいた。

「あっ!」

 ふっ、と青年がホームの縁から遠ざかる。


――ごとん、ごとん


「待って」

 白い光に、像が消える。

 電車が突然、詰所の陰から牙をむいた。

「待って」

青空が、大きく揺れた。



 小百合が最初に感じたのは、痛みだった。

 それから、動転して、小百合の中で暴れる心臓の存在。

 横たえた体の、地面に触れる箇所から、はいのぼってくる熱さ。胸から上にかけてが、その熱さを感じないのは、その下にもう一人、人がいるからだ。

 降るような、蝉の鳴き声。

 声。

「離してくれっ」

 その口調と同じだけ、強く押しのけられる。

 きつく握りしめられ、固まって、いうことを聞かないこぶし。

 その中にある、シャツの感触。

 蝉の鳴き声にとける、大丈夫か、の声。

 声。

「どうして止めたっ……!」

 がくがくと肩をゆすられ、体がずれたことによって、太ももの柔らかい皮膚にあたる線路の敷石の熱さが、痛いほどだった。

 目の前の白い頬に、泥がついていた。

 足元を見やると、今にも動き出しそうな、堂々とした大きな車輪が、息を詰めてじっと固まっていた。

 助かったのだ、二人とも。

 小百合の心臓が落ち着かない。

 飛びこむ小百合に迫りくる電車の像が、くるくると頭の中でリピートされる。

 あんな恐ろしいもの、この世に二つとない。


「どうしてっ、て……」


 ゆすられて、小百合の内に留まっていた水が、瞳からぼたぼたとこぼれでた。今更動揺した体が勝手に泣いていた。


「死んじゃったら、声、聞けなくなっちゃうじゃない……!」


 水気の多い発音。何かを吐こうとしているのか、のどが、ひぐと音をたてる。

 瞳に張った膜で、世界が淡くなった。


「一緒にうずくまるひと、やっと見つけたのにっ」


 どこか遠くで、誰かが息を呑む。


「あなたが」



『好きよねぇ~。練習』

 面と向かっていたら、佳菜美のわざとらしいため息が聞こえそうな口調である。残念ながら小百合が今向かい合っているのは、携帯の画面だけれど。

 ピアノの、革張りの椅子に手をついて、楽な姿勢をとった。秋のさわやかな風にのって、素人耳にもぎこちない夜想曲の旋律が、つたなく踊っている。

『少しでも前の腕前に戻りたいんだって』

 返事をうつ。メールではロスができるから、と佳菜美に言われて、やっと最近、ネットでの会話に慣れた頃だった。

『天才って、やっぱ努力家なんだね。感心する』

『天才って言うと、透さんに怒られるよ』

 そう返事をして、小百合はそっと、右隣をうかがった。くせ毛の長い前髪ごしに、黒い瞳が楽譜を食い入るように見つめている。前髪、切ればいいのに、と思いながら、小百合はひどく優しい気持ちになった。手元を見ると、佳菜美からの返事がすでにあった。

『海外でごろごろ賞をとった人のこと、天才って言わなくて、なんて言うのよ』

 佳菜美のさばけた口調を思い出して、苦笑しながら『まあね』と返事をした。ほどなく佳菜美の返事も表示される。

『でも指、病気して、元のようにはいかないんでしょ?』

『ある程度は回復するって。プロにはなれないみたいだけど』

『それで悩んでる神崎さんにブログ勧めるって、天才の友達も、やっぱり変わってるよね』

『でも、おかげで私に届いたよ』

『うーん、何だか、自分たちの世界が夢見がちな人に書かれた小説みたいに思えてきた』

 それは小百合も同感だった。

 小百合がイヤフォンから受け取っていたあの言葉達は、そっくりそのまま、あの青年、神崎透が、小百合が声を受けとる、まさにそのとき自分のブログに綴っていたものだった。それがどういった経路で、透の声となってイヤフォンから流れてきたのか、どうして小百合のもとに届いたのか。今のところ説明はついていない。しいていえば、透は駅のすぐ近くに住んでいた、というくらいである。全く説明になっていない。

(でも、わかんなくてもいいかな……)

 いつも間違えるところで、旋律が止まって、透が隣で「あっ」と声をもらす。

 そちらに気をとられているうちに、続けて佳菜美の言葉が表示された。

『でもさ、それで死ぬほど悩んだ、て言うか、死のうとまでしたのに。何でまたピアノをひくの?』

(うーん……)

 返信がためらわれて、キーの上で親指がうろうろとする。佳菜美に茶化されないよう、情報を必要最低限に厳選して、苦労して文を完成させ、送った。

『自分のショパンを聴かせたいんだって』

 たたみかけるように佳菜美から言葉が返ってきた。

『誰にとは聞かないでおくわ。まだ練習してるんでしょ? そろそろ邪魔者は消えますよ。ただし、今度会ったらいろいろ詳しく聞くからね。それじゃ』

 ほてた頬で、佳菜美が退席したことを告げる表示を見つめる。小百合はまだ、自分がこの手の話の当事者になることに慣れていない。佳菜美の前で慣れることができる気もしなかった。

(なんか、ずっと恥ずかしい……)

 ぼんやりそう思っていると、ふとピアノの音がやんだ。隣を見やる。穏やかに細められた黒目の中に、小百合は自分が映っているような気がした。

「おわった?」

 小百合を甘やかす声が問いかけた。その瞳を見ていられなくて、小百合はこくんと頷いたままうつむく。少し上の方で、くすくすと小さな笑い声がころがる。そうして、焦げ茶色の椅子に置かれた、自分の貧弱な手を、白い大きな手がそっとおおった。重みもなく、ただ指先に触れるように。

 気恥ずかしさと、優しさに満たされながら、小百合は旋律だけとなった夜想曲に、そっと瞳を閉じて、耳を傾けたのだった。



おわり

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