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ある日の朝だった。
「佳菜美、ちょっといい?」
終業式の朝の、どこかうわついた解放感のただよう教室で、小百合は、後ろの席に座る佳菜美に声をかけた。気を付けたのに固い声音が出てしまった自分を、心の内でいさめる。
「ん? 何?」
小百合は、そっと体の向きをかえて、足を通路に出し、体側を佳菜美の机に寄せる。
「この前話した、男の人の声と、ピアノが聴こえるってことなんだけど……」
「あー、あれね。あっ、もしかして小百合の好きな人って、まさかのまさか? それってすごいよ! 運命じゃない! 素敵!」
「今回はそっちの話じゃなくて……」
「違うの?」
うん、と答える。話題は、たしかに恋の話とは、違う。佳菜美の〝違うの?〟も話題に対しての問いかけだと、小百合はわざわざ自分の中に言い聞かせた。
「その話じゃ、ないんだ。その人、前にも話した通り、たいていは、天気のこととか、風景のこととか、そういうことぐらいしか話してないんだけどね。本当に、そんなことしか。でも……」
「今日は違った?」
察しの良い佳菜美が口下手な小百合の言葉の後をつぐ。こっくりとうなずいて小百合は肯定してみせた。
「そう。違ったの。はじめはいつも通りだったんだけど、そのうち……」
――そろそろ限界のようです。
「限界、とか言い出して。何が、とは言わないんだけど」
――心も体も、疲れにしびれてきました。
「疲れた、とも言っててね。あれ? とは思ったの。それから……」
――そろそろ限界のようです。心も体も、疲れにしびれてきました。何度も自分の心を慰めてきました。ときに他人のせいにしてでも、前を向こうとしてきました。どれも無駄だったようです。やはり、それは自分を騙していただけだった。
あまりに大きなものを欠いてしまった。あったものを、失くしてしまった。でも、よくよく考えてみると、周りの人の方が、よっぽどものが見えていた。僕より先に、僕を手放してくれた。かじりついて、自分の喉元を半端に傷つけていたのは僕です。でも、もう、何もかもが見える。
積もるべきものが積もって、現れるべきものが、首をもたげたのです。欠いたもの、手に入らないものに固執しても、何も生まれません。手放さなくてはならない。手放す、と言うのは適切な表現ではありませんね。なんせ、すでに失っているのですから。そう、しいて言うなら、僕のこの妄執を手放さなくてはなりません。そうした先に、始まりがあるのでしょう。
始まりが僕を待っているので、もう少ししたら、迎えに行こうと思います。
今日は幻想ポロネーズの、変イ短調、作品六十一を聴いています――
「……何か、どこかひっかかる感じがするね。その言いぶり。とくに、〝始まり〟とか」
「でしょ、それに……」
そこでちらと時計を確認する。終業式までには、まだ十分に時間の余裕がある。小百合はごそごそと鞄の中を探って、ウォークマンを取りだした。
「何? 録音でもできたの?」
「ううん。ショパンが気に入って、アルバムを買って、いれてたの。今朝言ってた幻想ポロネーズもはいってたから、一度聴いてくれる? ちょっと長いんだけど」
「うん。いいよ」
佳菜美が受け取ったイヤフォンをはめ終えたのをうかがい、小百合はウォークマンを操作し、曲を呼び出すと、再生した。
「いいじゃない。モダンな響き」
イヤフォンを手で押さえながら、佳菜美が言った。そのまま、単純に音色を楽しむように瞳を閉じた。しかし程なくして、眉がひそめられる。その唇が何か言うだろうかと、小百合は身構えたけれど、佳菜美は何も言わない。戸惑うような、固く考えこむような様子を、口にも、目にも、頬にも浮かべ聴き入っている。小百合の瞳はせわしなく、ウォークマンの再生画面と、佳菜美の目元とを行き来する。佳菜美の聴いているもの、その心の中を聴こうと、耳の感覚が鋭くなっていく。
(佳菜美に、ちゃんと、聴こえてるよね?……)
さっきまで気にならなかった教室の喧騒が、ざわざわと肌をさすってきた。ウォークマンの画面の、再生経過を示すバーが、終わりに、少しずつ、少しずつ、近づいてくのを、じりじりと焦がれるように待つ。
心が痒くなって来た頃、やっと曲が終わった。「ありがとう」と軽く言って、佳菜美は小百合にイヤフォンを返す。
「ううん。それより、どう?」
小百合の性急な問いかけに、「うん……」とだけ言って、佳菜美は考えこむときの癖である、右手で親指と人差し指をこする仕草をして見せて、慎重に選びとっては、つまりつまり言葉を紡ぎだした。
「何か、普通に聴いたら、きっといい曲なんだろうけど、小百合の話聞いた後だと、ちょっと、不安。のらりくらりって、盛り上がったり、落ち着いたりして、安定感ないし。比較的、穏やかな部分は多かったように感じたけど、その間も安心できなかった。とにかく、あの明るさが、スゴく嫌な感じがする」
佳菜美の答えに、珍しく、食いつくようにして、小百合は返した。
「でしょう? とても嫌な予感がするの。私ね、怖いって思ったの。この曲聴いて」
耳にこびりついた旋律が、脳まで這ってくる。薄暗い穏やかさを持つ調べに、時折見えてしまう闇。墨をこぼしてしまったかのような真っ暗闇の中で、一人真っ白な光を浴びて、穏やかに微笑んでいる誰かの口元という像が、くるくると小百合の頭の中を巡った。
「ねぇ、どう思う佳菜美? この曲を心地いいなんて聞いてる人が言う〝始まり〟って……」
「なんだかすごく、死ぬことを連想させるね」
ノイズのようなクラスメイト達の声が、小百合の頭の中をひっかきまわす。
「どうしよう……」
いつもだったら苦笑して終わる、佳菜美の妄想みたいな発想だけれど、いやにリアリティーを覚えて、それが小百合の中をくちゃくちゃにしていじめるのだった。何か手立てを考えなくては、と頭が焦れば焦るほど、するすると、風にあおられたスカーフのように、考えが手のひらから逃れていく。
(どうしよう……)
「どうしよう……」
体育館へ集まるようにうながす放送がはいる。よどんだ空気が、クラスメイト達の動きで揺れた。机の上の物を片付けながら、佳菜美も立ち上がった。
「とりあえず、体育館、行こ? あと小百合は、これまでの話で何か、住んでるところとか、身元のわかるポイントがなかったか、思い出してみて。力になりたいところだけど、聞いてない以上、私は何も手を出せないし。何かひっかかるところ思い出したら、後で言って。いい?」
そう言って、佳菜美は、小百合の机の横にかけられた体育館シューズを差し出す。「うん」と返事をしたつもりだったけれど、空気が気管を少しかすったかのような、消え入るような音が出ただけだった。
「はぁ」とため息を小さくつきながら、前を行くクラスメイトの背中に続いて、小百合はたらたらと体育館を出た。朝の日が、室内を出た生徒たちを白く染める。
小百合は佳菜美を探したが、五十音順で、ずいぶん席が離れてしまったため、なかなか見つからない。観念してうつむいた。少し、気分が悪かった。
(ぐるぐるする……)
今日の校長の話など、これっぽっちも覚えていない。聞いてさえいないのだから。
小百合は、佳菜美に言われた通り、この終業式の間中、ひたすら過去の、あの声の話を思い出しては、頭の中でくるくると再生していた。と言っても、何の気なしに聴いていたので、きちんと覚えてはいなくて、強く印象に残った言葉が、前へ前へ出てしまう。加えて、小百合は焦っている。わがままな過去のワードたちは、いばった顔して、頭の中に割り込んでくる。焦りが肺に詰まって息苦しくなる。そうすると、むくむくと強くなった言葉たちが、さらに小百合の頭の中を駆け回る。払いのけようと、小百合は頭を振るが、上手くはいかない。そしてまた……。
(いたちごっこ、てこういうときに使うんだよね……)
外界の明るさが白々しい。結局小百合は何も得られていなかった。
(普通に聴いてるときも、自分の情報、出さないようにしてるってわかるぐらい慎重だったし。今更思い出しても……)
録音、試してみればよかったのに、と心の端が訴える。あの古いウォークマンで、どうやって録音なんてするの? ともう一方の端が嫌味を言った。こんなことしてる場合じゃないのに、と小百合がためいきをつく。
(警察に言うとか)
(どこかの誰かが自殺しそうです、て? 相手してくれないに決まってるじゃない)
(駅の人に言うとか)
(あの声の人が、いつも駅にいるとは限らないじゃない。もしかしたら外国にいたっておかしくはないのに)
(じゃあ、どうするの?)
(どうする?)
(どうしようも、ないじゃない)
(見過ごす?)
(……)
心の中の小百合たちが口をつぐむ。
(……死んでほしくない)
(だって、後味悪いし)
(それだけ?)
(……)
(もし、本当にあの人が死んでしまったら)
(悲しい)
小百合の頭の中の、何人もの小百合が、悲しい、悲しいと、さざめくように言う。落ちないように、うつむき、ゆっくりと階段をのぼって、小百合は教室にたどり着いた。
「小百合、遅い! 何やってたの!」
教室に入ったところで、急に、焦った佳菜美の声が耳に飛びこんできた。何事かと、うつむいた顔をあげる。早く、早くと佳菜美の左手が言う。
「何? どうしたの?」
あわてて、おたおたと前を行く人を追い抜かし、体育館シューズを机の脇にかけながら、小百合は佳菜美に問い返した。
「これっ! これこれっ!」
やけに興奮した佳菜美が、小百合に携帯の画面を向け、これ、の言葉に合わせて、携帯を上下にふってみせた。
「これって……ふったら見えないよ」
「でもっ、だって、ほらっ!」
――大学生男性
「さっき遅刻した子が、言ってたの!」
――日午前九時ごろ
「事故で、もっと遅れたって」
――中央線桐里駅の
「それで、携帯で調べて」
――飛び降り自
ここまできて、小百合の目に映る文字は、文字でなくなった。地球が回るのをやめたと思った。
「あ……え……」
小百合は何か言わなくてはと思った。こんなにもあふれているのだからと。でも、言葉は小百合の中から出ていってしまっていた。その様子を見てか、佳菜美が、先ほどとは違って、慮るように慌てて言った。
「でもっ、生きてるって!」
「え?」
「ほら見て!」
ようやく佳菜美は、小百合に、落ち着いて携帯の画面を見せた。
「ほらここ」
『……男性は同市に住む大学二年生で、病院に運ばれ、一命を取り留めた』
「あ……」
今まではどこかに行っていた、クラスメイト達のざわめきが、ふたたび小百合を包んだ。一命の〝命〟の字から目を離せないでいる小百合に、画面を見せながら、佳菜美が言った。
「ね? でしょ。私も最初、すごくびっくりしたんだから。でも、助かったみたいだし、よかったね」
「うん……」
どこか意地の悪い佳菜美の笑みに、小百合は気の抜けた返事をしてみせた。本当にほっとしていたのだ。それでも画面から目を離さない小百合に、画面をかざしながら、滔々と佳菜美は解説を語りだした。
「桐里の駅って、ホラ、なんだかすごくカーブしてるじゃない? それで、運転してる人にも、二番線のホームの先っぽとか、見えにくくて、昔っから結構危ない事故とか起こりそうなこと、よくあったらしいよ。きっとそれを狙ってたんだろうねえ~」
「……確かに、あそこの電車、突然、ぬっと出てくる……」
頭で考えず、こぼしたように返答の言葉を口にしたので、最後の単語は小百合の口の中に留まってしまったようなものだった。
ねぇ、小百合、と佳菜美が声をかけてきた。
「この人に会ってみない?」
「ええ?」
小百合は携帯から顔をあげた。佳菜美の、自信満々の頬が目にはいる。
「どうやって?」
まかせてっ、と佳菜美は高らかに言うと、小気味よく、パンッと携帯を閉じた。




