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fortepian  作者: 鳴波のたは
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 いつかのあの声が言ったように、世の中は小百合に見向きもしないで、すまし顔に進んでいく。気づけば制服も、紺色の、肩パットの重苦しい冬のセーラー服から、クリーニングからおろしたての、真っ白な夏服へと衣替えをする季節となっていた。

ずっと守られていたひじがむきだしになって、どこか頼りなさを覚え、そわそわとした感覚におされるように、小百合は無意識に右手で左の腕を上下にさすった。学校のトイレを出たところだったので、水回りの肌寒さも手伝って、本当の寒さも感じていた。

初夏の光を吐きだす窓に目をやると、日の光を浴びた中庭で、何人かの男子生徒たちがサッカーを楽しんでいた。サッカーというよりも、輪になってサッカーボールを蹴りあうものなので、どちらかというと蹴鞠に近いと小百合はいつも思っている。今も、地面に落ちそうになったボールをとめようと、むやみやたらに蹴り上げたので、あわや近くの木の枝にひっかかりそうになり、男子生徒たちが歓声を上げた。いつものお昼休みの風景だ。小百合も、いつも通りなら、お手洗いをすまして教室の佳菜美の元へ戻り、お弁当を食べるところである。けれど、今日は気が進まない案件があるせいか、肩が重くて、丸まっていく。

(佳菜美、休みだしなぁ……)

 季節外れのインフルエンザだと、小百合はメールで聞いていた。佳菜美は朝から学校を休んでいた。そのせいで小百合は、自分が学校に白々しく横目で見られているように感じてしかたがなかった。声をかけなければ、小百合にとって、すべての人間が他人と同じだった。小百合以外の生徒も先生も、みんな一つのグループで、お前なんか知らないと校舎に言われている気分になる。

(とくに、制服は怖い)

 おんなじ服のおんなじ人間が、ぞろぞろと歩いていく廊下。小学校から中学校へあがったときは、慣れるまで、ずいぶん怖い思いをした。いっときは、制服を着た首のない人が追いかけてくる夢まで見たものだった。ぶるり、と肩がふるえる。寒さだけとは言い切れなかった。

(戻ろう)

 無機質に広がる廊下より、まだ教室の方が、小百合のテリトリーだった。佳菜美以外に、一緒に弁当を食べるような友人は思い当たらなかったけれど、どうせ二十四時間ある一日のうちの、四十分間なのだから、一人で過ごしたとしても、たいしたことではないはずだ、と小百合は自分に言い聞かせた。

(二十四分の四十? ちがう、四十は分だから……二十四時間を分に戻す? これは面倒だなあ。じゃあ六十分の四十か。えっと……三分の二で、二十四分の三分の二? 三分の二かける二十四分の一でいっか。二十四を二で割って、十二。十二かける三で……三二が六……三十六、じゃあ四十分は一日の三十六分の一ね)

 数学も暗算も得意ではないので、何だか不安で三分の二に三十六をかけて二十四になるか、小百合が確認しているときだった。


「清水さんだよね?」


 自分の名字を呼ばれて、のんきに鼓動をうっていた心臓が、驚いて一気に跳ね上がった。何か悪いことをして、それが知られてしまったときのように、逃げろ逃げろと叫ぶ。ハンデがある分、小百合は他人に声をかけられることが好きではなかった。

(落ち着いて、落ち着いて……私は何にもしていないじゃない)

 表情で平静をよそおうと努力しながら、小百合は必死に心臓に言い聞かせた。声をかけてきたのは二人組の女子生徒の片一方だった。短いスカートに、人形やら造花やらのたくさんのストラップが、ポケットからつるされている。いかにも気の強そうな雰囲気に、小百合は気圧された気持ちになってしまった。

はじめに尋ねられてから微妙な長さの間ができてしまい、小百合が答えられずにいると、女子生徒はもう一度尋ねた。

「清水さん、だよね?」

「はい、そうですけど……」

 誰でしたっけ、という言葉はとてもじゃないが言えなくて、飲みこんでしまう。しかし、雰囲気も、まして声さえ聞き覚えのない相手だった。それが小百合の、いまだに大げさに鼓動をうつ心臓をさらにふるえあがらせる。

(委員会か何かの連絡かも知れないじゃない)

 そういったことで、名前ぐらいしか知らない人から声をかけられることも、声をかけなければならないことも、よくあるものだ。

しかし、女子生徒は小百合の考える最悪の事態を予感させる一言を発した。

「あれ、覚えてない? あたしのこと?」

 びしり、と自分の体が凍りつくのを小百合は感じた。


『小百合ちゃんさぁ、顔覚えれないじゃん? だからあたし達も一緒に遊びにくいんだよね。わかる?』

『そうそう、小百合ちゃん、ドロケイも何にもできないもん。来ないでよ、こっち』

 いつかの、ませたクラスメイトの女の子の声が、わんわん頭に響いた。

 ハンデがあるからこそ、小百合に人を間違えることは許されない。


「えっと……」

 口ごもりながら、少し笑って見せて、いかにももうすぐ名前が出そうですと演じてみるけれど、小百合は自分の頬がひきつっていることを感じていた。しかし、かまわず女子生徒はたたみかける。

「え~! 本当? 覚えてない? クラスおんなじだったし、委員会も同じだったじゃん」

 末端から先に血の気が引いていく。

(誰? 誰? 誰?)

(覚えてない。覚えてない。覚えてない)

(思い出せ。思い出せ。思い出せ)

 そんな言葉が頭の中をぐるぐる回って、脳をしびれさせる。

「中学もおんなじだったよね?」

 もう小百合の中は大洪水だった。内側の荒れ模様に耐えきれず、ひざがふるえる。視界にもやがかかって、昼の光がにじむ。馬鹿、と思った。

(私の脳みその馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿)

 聞いた声たちの中に女子生徒の声はない。あのストラップは自分の記憶の中にはない。浮かべるべき顔のサンプルなんて元からない。小百合はパニックの中で、自分を呪った。自分の馬鹿になっている部分を呪った。呪って、呪って、逃げ出したいのに、ひざがふるえて崩れ落ちそうで、動けない。


「……ぶっ、エミ、ダメ、私もうダメ。ハハッ」

 突然、小百合に声をかけた女子生徒の後ろに立っていた、もう一人の女子生徒がおなかを抱えて、上体まで折って笑い出した。

「ちょっとぉ、ウケるの早いって」

「だって、エミ、その演技はないでしょ~、ハハッハハハッ」

「ええ~、その辺のアイドルよりはうまくない?」

マジ無いわぁ、と女子生徒は笑いの合間に、息も絶え絶えに言った。小百合はわけもわからず二人を見つめることしかできない。それでも心臓は悪い予感にしびれ続けていた。ひとしきり女子生徒たちはともに笑うと、その顔いっぱいの笑顔をそのままに、小百合に向きなおった。


「や~、でも本当に清水さん、マジで顔わかんないんだね~」

「あたし達、会ったことないよ。中学もクラスも別」

「委員会同じだったこともないし、他人、他人」

「顔わかってたら、コイツ何言ってんだ? お前なんか知らねえ、だもん。スゴイねぇ~」

「ゴメンね。ちょっとね、イタズラ好きなんです」

 ぺろ、と言う効果音が出そうな雰囲気で、エミと呼ばれた女子生徒がおどけて舌を出した。再びもう一人が笑いだす。

「キモ~、エミ、キモッ。てか、ソレ、謝ってんの? シツレイすぎじゃね?」

「いや、大丈夫。清水さん心広いから。ねぇー?」

「いつの間に友だちになったの。もう。シミズさん本当にごめんね。こんなバカな子で。ほら、エミ、行こ」

「すいませんバカな子で。じゃあねー」

 嵐がすぎていくように、あっという間に女子生徒達は笑い声を残して、制服と制服のあいだにまぎれてしまった。


 小百合は、笑いたくなった。自分を。

 それから、泣きたくなった。自分だけで。



 そういう日に限って、何かささいなことが身にふりかかって、帰るのが遅くなったりする。

厄日なんだ、今日は、と小百合は思った。夏と言っても、まだ始まったばかりなので、夜はもう小百合の方へ身をすり寄せていた。東からやってきた暗闇は足元を薄暗くし、明るい世界はわずか西にしか残されていない。肩にかかった鞄が少し重みを増した。小百合は一人だった。一人で駅へ向かっている。スポンジのように、涙を吸って胸が重い。気づけば小百合は自分で自分を慰めていた。そんなことを繰り返している。

それをふりかえる余裕もないほど、重々しい何かで小百合の体の中はいっぱいだった。

(仕方ないじゃない。仕方ない。私が人の顔を覚えれないのは事実だし。これは、あの人たちが失礼なだけ。仕方ない)

(仕方ないよ、だって、どれだけ私が頑張ったとしても、こんなに人がいっぱいいる世の中、いくらか心無い人たちがいるのは当たり前じゃない。仕方ないよ)

(いつまでも引きずってても駄目でしょう。こういうこと、人生のうちには何回かあるものなんだって。仕方ないって)

(こっちに落ち度はないんだし、ああ、嫌な人たちだなぁって、失礼な人たちだなぁって思えばいいのよ。仕方がない人たちなのよ。仕方がなかったのよ)

 電車の窓をずるずると景色が流れる。ときおり、黒くなった背の高い建物をキャンバスに、小百合の顔が映る。映るのだろうけど、小百合にはそれが目元であったり、力なく閉じられた唇だったりする。顔ではない。また少し、スポンジが涙を吸った。イヤフォンから、わざわざ選んだ明るめの曲が、けたたましく、ギターかベースか、よくわからないけどそのあたりの楽器の音をひっかきまわしている。聞こえるのだけれど、耳を抜けて、頭に着くあたりで霧散してしまうようで、小百合には何を言っているのかさっぱりわからなかった。

(仕方がない……仕方がない……)


 橋にさしかかった電車が、ガタン、ガタンと音を立てる。胸にたまったものが、危うく出そうになる。鼻から息を吸って、肺をいっぱいにしてこらえた。橋を抜ければ、もうすぐ降りる駅だ。西の空には、だいだい色の細い線が横たわっていた。小百合は、バンドの音を見下ろしたような、落ち着きはらった車輪の音に耳を澄ませた。


 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。

『まもなく、桐里、桐里……』

 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。

 ガタン、ガタン。


 そっと、サラリーマンのおじさんの後ろを通って、小百合は扉の近くで待った。


 電車を降りると、まだ涼しい夜風が小百合を包んだ。普段乗りなれない時間の電車に乗ったせいか当てが外れて、小百合が乗っていた車両はずいぶん改札から遠かった。とぼとぼと歩く。何人かが小百合をぬかして、気づくと周りから人がいなくなっていた。

 夜の中で、小百合は一人だった。静かだった。すうっと、それまでイヤフォンでかんしゃくを起こしていたロックの音がやんだ。


『こんにちは、僕です』


 いつもは早朝に聞く、かすれた声が小百合にささやいた。驚いて、足が止まる。けれどすぐに、(そんなことも、あるのかもしれない)と納得して、ベンチを見つけると、そこに腰かけた。かすかに、すがるような気分が胸の奥にあった。小百合自身はそのことに気づいてはいなかったけれど。

『いつもは朝なのですが、今日は辛いことがあったので……。辛いことがありました。でも、おおげさなものではありません。少し傷ついたのです。少し傷ついたことにしなくてはなりません。それは、これからもありうることなので……。自分の、永久に欠けてしまった部分が原因なのですから、これからも僕にとって何かしら不都合なことを招くことはうけあいです。そう、涙も出ない、ささいな辛いことを、です。僕はこれを受け流さなければなりません』


 胸が詰まった。それはさっきまで小百合が自分自身に言い聞かせていたことと同じだった。まるで小百合の心の代弁でもしているかのように。しかし聞いていると、最後の〝です〟は、目一杯かすれを含んでいて、うわずってさえいたし、声音も全体的にゆらいでいて、言葉達が今にもぽろぽろと崩れてしまいそうで、今日の辛いこと、というのが、この声本人の物であると感じさせられた。小百合は自分の息遣いさえ邪魔に感じるほど、声の語る言葉に聞き入った。

『でも、今、自分がこんな状況である以上、これは自分にとって、決して大したことではないんでしょう。白状すれば、とても、傷つきました。自分には失ってしまったものがあります。だから、苦境に立たされるときがあるのも、それは必然です。でも、好きで失ったわけではない。それに、どうして、欠けているからと言って、あのように扱われることに甘んじる必要があるのか、どうしてこちらが、よくあること、と納得しなければならないのか。失ってしまったものがあるのです。当然、出来ることと出来ないことが生じます。そこをなぜわかってくれないのでしょう。なぜ僕の目線におりてきてくれないのでしょう。皆が早足で歩いているとして、僕が、人ごみの中で立ち止まって、うずくまってしまうことを、どうして許してくれないんでしょう……』

 言葉尻を飲むようにして、徐々に熱くなっていった声音が止んだ。小百合は目を閉じて、ぎゅっと、閉じた唇をひきしめた。

(きっと、この人も、自分の問いの答えは、もう、見つかってる。わかっているんだ)

 一度も言葉にのらなかった〝仕方がない〟を思う。きっと唱え飽きた、その言葉を。

(でも)

「やりきれないんだなぁ……」

(きっとこの人も、私も)

 すっかり真っ暗になった夜空に、小百合は小さくつぶやいた。遠くを飛ぶ飛行機が、光って答えて見せた。

『……そちら側にはどなたかいるのでしょうか? 誰もいなくても、せめて外に吐きだしたくて、今夜僕はここにいます。それに、きっと僕だけではなくて、人の壁の向こうで、僕と同じようにうずくまっている人がいると思っています。消極的な意味合いですが、世の中の広さを信じて。名前も顔も知らない、いるのかさえわからない。けど、今夜だけは、そんな人たちと一緒にこの世界でうずくまっていたいと思います。そうしても、許されることを願います。夜想曲、作品九の二。この曲を聴いて、眠って、明日はまた、がんばるので』

 瞼をそっと降ろすように声は消え、いつも通り、すべやかにピアノの音色が流れてきた。

いつもに増して、甘い、甘いメロディー。ゆらゆらと世界から角が消えていき、まろやかになっていく。軽やかな音の粒たちが夜空に踊って、星に届く前に夜空になじんでしまう。余韻の消える、その瞬間までも、ひたすらにやわらかな調べ。

 ゆっくりと揺れるゆりかごの中で、小百合が、流れるピアノの旋律を透かして見た世界は、涙がでそうなほど優しかった。

 

 淡く揺れる街灯の光も、

 息をひそめて見守る木々も、

 肩を並べて眠る家々も、

 藍色の海ににじむ月も、

 はるか遠くを転がる車の息吹さえ、


 今この瞬間、そういった世界のすべてが、小百合の味方に見えた。言葉も無いのに、小百合はゆるやかな確信にひたって、背中を押され、涙をこぼした。

「ふっ……うぅ……」

 レースのカーテンをゆらすような風が吹いて、空気の中の粒子一つ一つまでもが、小百合の耳元で、ころころと可愛らしく笑ってみせる。


 世界の端っこで、小百合はたしかに世界に愛されていた。


 やがて、終わりを予感させながら、調べはより華やかさを増していく。その中で小百合は、おえつをあげる胸の奥が、同じゆりかごの中であやされる、もう一人と結びついて、か弱げにふるえるのを感じた。

(ふたりぼっちだ……)

 それでも、まあるい星が降って、曲は終わった。


 次の電車が来る頃には、ベンチに人影はもう無く、かわりに改札を抜ける小百合の後姿があった。



「小百合さ、何か変わったよね」

 ふと予習の手をとめて、佳菜美が言った。梅雨が来て、雨ばかり降る運動場を眺めていた小百合は、後ろの席の佳菜美に向きなおった。

「変わった? どこが?」

「う~ん……。何か。ぼうっとしてるのはいつも通りなんだけど、こう、ぼうっと言うより、最近、ほうっとしていると言うか」

 そう言って小百合を色々な角度から見るように、佳菜美の首は怪しげな動きをして見せた。笑いながら小百合は答えた。

「やめてよ。いつもと同じだって」

「髪切った?」

「ううん。伸ばしっぱなし。そろそろ前髪切らないとなぁ……」

「ふーん……」

 佳菜美はすこし考えるそぶりを見せたが、すぐに「わかった!」と声を上げた。

「恋ね!」

(……はじまった)

 授業までにそんなに時間は残ってないのだけれど、スイッチの入った佳菜美には予習など見えていないようだった。

「で? 誰? 誰?」

――こんにちは、僕です

「……誰もそんな人なんていないよ。私が聞きたいくらい」

 ぽん、とはねた心臓を飲んで答えた。

「ふふん。じゃあ、無自覚ね。もう想っている人はいるのよ」

「ええ~」

「そのうち気づいて、悩みだすわ。今だって十分、雰囲気甘ぁーくして、惚けているんだから。でもね、小百合、油断しちゃだめよ。事実は小説より何とかって言うし、いつどんな障害が待ち受けているかわからないんだから。まさか私がって思っている人こそ、そういうのに巻き込まれるものって決まってるのよ。小百合なんて今に運動場が割れてロボットが出てきても、そういうこともあるか、なんて流しちゃう性格なんだから、もっと注意が必要ね。鈍感のせいで、話がこじれていくストーリは、見ていて楽しいけど、実際苦しむのは小百合なんだから。好きって気持ちを強く持って! そうすれば大抵の問題はあっさり解決しちゃうもんだから。でも……」

 熱い佳菜美の話を、小百合は適当にあいづちをうって受け流していく。外の雨も、佳菜美の話も終わりを知らない。そっと世界を拾う感覚の働きを閉じて、今朝を反芻する。


――こんにちは、僕です――


 発声を早めに切り上げてしまうのが癖なのか、いつも最後の〝す〟が、低くかすれている。


――マズルカを、梅雨より先の時期に紹介してしまったことを、後悔しています――


 弱ったなあ、そんな声が聴こえそうな苦笑が挟まれていた。その拍子に伝わる吐息の振動が、小百合の心を今もくすぐる。


――今日は、

    ――その風が、

  ――猫は、

   ――その、向こうに、

           ――ああ、

  ――ハナミズキが、


 自分の体が、ずいぶんとあの声を染みこませやすい素材になってしまったと、感心する。

あの夜想曲の夜から、小百合は胸の奥が、癒着したみたいに、あの人とつながっているような覚えを感じていた。けれど、小百合も気づいてはいたが、その感覚は、一方通行の可能性も含んでいた。

それでも、毎朝あの声を聴くことが出来るのが、ただただ嬉しい。

(別に、前から嫌いだったわけではないけど、今は以前よりも……。ううん。以前とは違う理由で心地よく感じてる)

 そうでしょ? と自分に問う。大きな水たまりとなった運動場を見ながら、最近はすっかり短くなった間隔に押されて、(聴きたい)と思っている自分がいることが、動かぬ証拠だった。


 バラードの朝や、夜想曲の夜のように、時折見せる激しさもなく、平穏に時が流れていく。小百合は毎朝の、あの声を楽しんで日々を送る。梅雨は上がり、太陽が輝きだした。小百合がぼうっとしているうちに期末テストも横切った。

 気づいたことと言えば、じゃれあって、互いの耳元でささやきあう、よれた制服のカップルのように、小百合は彼の耳元で「もっと」と言うことは出来ないんだ、ということぐらいだった。

 けれど、小百合がそれを、この世の終わりが来たかのように辛いとも思わなかった。

 小百合にも小百合の日常がある。そしてあの声の持ち主にも。佳菜美の思い描くような、キラキラした世界で、愛に生きる登場人物たちの物語は、たしかに美しくって、ドラマチックではあるけれど、それにもまして今の、米粒のように小さな心の一部分を、ふとすれ違った人に向きなおるように共有する、この状況、距離感が、小百合にはこの上なくこころよかった。

 無性に会いたくなる、焼けつく想いに耐える自分を、誇らしく思うことさえあった。

 それこそ、佳菜美の嬉しがる、恋の幼い機微とは知らずに。

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