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「あれ、今日は随分早起きねぇ」
洗面所で朝日の漏れる窓を背にした女性が、小百合に声をかけた。ああ、お母さんだ、と思うと小百合も、「おはよう。なんだか起きちゃった」と答えたのだった。
「何だ、早くに起きたもんだな、小百合。今日は桐里の駅を使うって知ってたのか?」
洗面所で顔を洗い終え、ふらふらとダイニングへ来た小百合に、新聞を見ながら朝ごはんを食べる男性が声をかけた。お父さん、と小百合は心の中でつぶやくと、「お父さんも今日は同じ駅?」と尋ねた。
「今日は末山の本社の方に顔だすからな。どうせなら一緒に行くか?送ってやるよ」
「うん。そうして。その方が楽」
「いつもより早く着くけどいいか?」
「んー、学校で予習でもするよ」
じゃ、さっさと食え。半には出るぞ、という声に、小百合は、はいはいと返事をするのだった。
相貌失認――それが小百合の、生まれてから、高校二年になる現在まで抱え続けているハンデである。平たく言えば、人の顔を認識できない病気だ。
父親の眼鏡も、母親の泣きぼくろも、小百合には見えているが、それが小百合の頭の中で人の顔に像を結ぶことはない。できない。そして、そのせいだ、と小百合は考える。そのせいで、こんなに〝人の声〟に敏感なのだろう、と。
人を顔で判別できない以上、他の特徴を頼りにする以外に方法はない。そうして小百合が選んだ手段が〝人の声〟だった。
(お父さんの声は、男のくせに、そんなに低くない、ざらざらした声。お母さんの声は、他のお母さん達に良く似た声に、一本筋を通したみたいな声……)
ぼんやりと車窓から、朝の世界に寝ぼけた街並みを見ながら、小百合はそんなことを反芻した。
「行ってきます」と手を振って、父親とは反対のホームへと、小百合はとぼとぼ向かっていった。小百合がいつも利用するホームは、改札から遠い側にあるので、近い側のホームと遠い側のホームの間に横たわる線路三本分の距離を、地下を通って越えなければならない。
(人、少ない)
朝が早いからだろうなぁ、などと考えながら、さっそく小百合は鞄からウォークマンを取り出し、イヤフォンのコードの絡まりを解くと、慣れた仕草で階段をのぼりながら耳へはめた。
まだまだ寝起きで気だるい体に合わせて、バラード曲を集めたプレイリストを選択すると、程なくして音楽が流れこんできた。そうして近くのベンチへ深く座りこむ。ほっと息をつき背中を丸めて、小百合は自分の体が軽くなった感覚を楽しんだ。階段はホームの端にあるので、出てすぐにあるベンチも、座りこむと、まるで世の中の一番端っこにいるような気分で心地よい。
ハンデのせいで、気がつくと自分が絶えず緊張しているのを、小百合はよく感じていた。まるで草木の陰でじっとうずくまって、耳をピンと立てたウサギのように、いつもいつも人の声を拾っては頭の中の検索エンジンにかけているのだ。出遅れまい、出遅れまい、と。
だから、重役を担うこの耳をふさいでしまうこのひと時に、小百合はかえって安らぎを得ていた。時間さえ選べば、駅で顔見知りに合うことは少ないし、イヤフォンというのはつけているだけで、外とのコミュニケーションを拒んでいる格好になる。もし知り合いを無視してしまったとしても、きっと「音楽を聴いているから……」と思ってくれるだろうという寸法だ。
加えて今日は朝が早いのも手伝って、いつもよりぐんとホームにいる人は少なかった。
小百合は場違いに甘い女性歌手の声を通して、辺りを見渡した。右目の端に、遠出をする風のサラリーマンが、スーツケースを持って一人。もしかしたら、パーテーションで区切られた背後の、反対向きのベンチに人がいるかもしれないけれど、見えないものは割愛、とわりきる。左目の端、ここより少し奥の、先頭車両が止まるあたりに茶髪の女の人が一人。そちらを見やるついでに電光掲示板を見て、電車が来るまでに、まだまだ十分近くあるのを計算する。
一通りの行動に満足すると、春の朝特有の少し寒い紫色の世界で、小百合は音楽に身をまかせ、まどろみはじめた。
そしてそれはそのとき現れた。
『こんにちは、こちらしがない大学生です』
実に違和感なく、先ほどまで流れていた女性歌手の演奏の途中、バトンタッチをしたかのようにスムーズに、若い男性の、言葉とは裏腹に気だるげな声が、小百合のイヤフォンから流れ出てきた。
(なに?)
心臓を冷たい手で握られたように、小百合はひどくびっくりしてまどろみからはね起きた。混乱した頭が初めにはじき出した推論は(ラジオ?)だったが、すぐに、そんな機能、自分の、この古いウォークマンにはなかったことを小百合は思い出す。わかりきってはいるけれど、瞳を左右にやり、すぐそばで自分にささやいている人などいないことを確認する。その間にもその声はささやき続けていた。
『そちら側にはどなたがいるのでしょう? きっと誰もいませんね』
自嘲気味な響きを持つ言葉が耳をくすぐる。小百合は観念して、この声に聞きいることにした。聞いたことのある声ではなかった。
『これから、特にとりとめもないことを話します。きっとこれからもそうだと思われます。自分の中の一番大きなところが抜け落ちてしまった今、なかなか話題というものはわいてこないのが現状です』
(なら、話さなければいいのに)
小百合は心の中であいづちをうちながら、知らずに不思議な声を噛みしめだした。
(低い)
比較的低い、深い声だった。その割に、声の張りに若さがあるあたりは、本人の言うように大学生なのだろう。やや、かすれがちな発声で、よく言えばそのかすれた吐息が甘やかであるし、悪く言えば、聞きづらい。鼻へ呼気が通っていないような話し方もそれを手伝っていた。
(かすかすもやもやして、煙か、霧みたい)
勝手にそんな感想を持った小百合だったが、一応、嫌な気まではしなかった。
『話題。そうですね。雲が見えます。清少納言の言うような、紫色の。春ですね。春の朝です。あの、紫色とだいだい色が仲良く同居する様子が、僕は好きです』
(そうだ、雲。あのビルの向こうの雲みたいかも)
小百合はそう思って雲を見つめた。無意識のうちに瞳が、その紫色とだいだい色の、不思議につなぎ目のないグラデーションの境目を探り出そうとする。
『好き、と言えば、僕はショパンが好きです。話題もないので、毎回ショパンの曲を紹介しようと思います。今日のような朝には、夜を想う、とありますが、その旋律によせて。
夜想曲の、作品二十七の一でも』
何気なしに聞いていた声がふいに消え、かわって暗い底から立ち上るようにピアノの旋律が現れた。
(今度は、ピアノ)
小百合がさして驚くことはなかった。友人をして鈍感と言わしめる由来が、こういった小百合の気質によることを小百合自身はいまだによくわかっていない。
なじみのないピアノの旋律は、それを抜きにしても、幻想さと不可思議さを十分にあわせ持っていた。けぶるような序盤が頭の中へひたひたと這入ってくる。
(ちょっと暗いかな? あ、ちょっとどころじゃないや)
とつぜん、霧の中からうっすらと姿を現すように、重低音が勢力を増した。
(あ、でも明るい。……ん、やっぱ暗い。……今度は明るい)
次いで、華々しい盛り上がりを曲がみせ、小百合をほっとさせたと思いきや、その安堵を今度は地底へたたきつける。紫なのか、だいだいなのか、雲間か、晴れ間か。
(春の、朝)
気づくと曲は、始めにはなかった穏やかさを持って、自ら幕を下ろしていた。
電車の到着を告げるアナウンスが響いて、太陽がささやかな陽光を雲間からもらした。
「て、いうことが、あったの。今朝」
小百合は、そう今朝の出来事を、友人の佳菜美へ話した。
「ふうん。男の人の声とショパンねぇ……」
佳菜美は細身のシャープペンシルを器用に回しながら、視線をふせる。小百合はくるくるとまわるシャープペンの軌跡を目で追っていた。
佳菜美は小百合の数少ない友人の中でも、とくに親しい友人である。さばけていて、加えて世話焼きなところを持つ佳菜美は、ハンデに負い目を感じる小百合にとって、気のおけない空気をつくってくれる大切な存在である。反対に、とくに取り柄もない、のっぺらぼうのような自分をどうして佳菜美は好いてくれるのかと小百合が尋ねたときには、「小百合の持っている雰囲気が、一緒にいて味覚的においしい」と、よくわからないけれど、ハンデ抜きで〝小百合〟と一緒にいてくれているという答えをもらったものだった。
ただよっていた小百合の視線の中で、シャープペンシルの黄色のクリップが円を描くことをやめた。佳菜美の、透けた青緑色のふちの眼鏡を、上目づかいで小百合はうかがう。佳菜美はふせた目をあげ、小百合を見すえると、自信満々に言った。
「それはやっぱり、そのホームで自殺か何かした人の、強ーい残留思念が、小百合のイヤフォンに入りこんだのよ」
(……はじまった)
佳菜美の唇の端が楽しげな形に引き上げられることで、ほほの筋肉が山をつくるのを見ながら、小百合は心の中でつぶやいた。佳菜美は、それこそまさに竹を割ったような性格だけれど、以外にも少女漫画や、ファンタジーが好きという一面も持っていた。好きというより大好きだし、心酔している、と言った方が近いのでは、と小百合は思っている。隔週の少女漫画の雑誌を買う場面には、小百合もたびたび遭遇した。
「きっと成仏しきれない思いが、そのホームに残っていて、何かすてきな偶然で、小百合のイヤフォンにのったのよ」
佳菜美の手は、自分の説明に合わせながら、つくえの端で何かを取る動作をし、それを反対のはしへと持っていって降ろした。つまり佳菜美は、その少女漫画好きのせいか、たまにこういう空想めいた話をする、少しノンフィクションとフィクションの境界があいまいな世界観の持ち主であるということである。現に今も、小百合の話を少しも疑わず、自分の論理に夢中になっている。
(わかってて、私も話したんだろうけどね)
佳菜美の推論を聞きながら、小百合はそんなふうに自分をふりかえった。
「きっと運命よ。小百合。今に何かドラマみたいなことが起こるよ。きっと」
「そうかなぁー」
瞳を輝かせる佳菜美に返事をしながら、(もう一度、聞けないかな)と考える小百合だった。




