-ハッピーエンド-
意識が戻る。
視界に広がる真っ赤な空。
背中にはコンクリートの固い感触。
僕の傍、目を伏せて佇む、先輩。
そうだ。
全部、全部思い出した。
僕が男ではなく女であることも。
僕が母を殺したことも。
そのあとショックでしばらく寝込んだことも。
次に目覚めた時、勝手に母親を事故死したものとして扱っていたことも。
それと同時に、自身のことを僕と呼ぶようになったのも。
そのあとの日々が、父親から性的虐待を受け続けるという、地獄だったことも。
「全部、思い出しましたよ……」
「そうか……」
悲痛な面持ちで僕を見る先輩。
「はは……なんか笑っちゃいますね」
乾いた笑いが口から漏れる。
「蓋を開けてみれば、悪いのは全部僕だったなんて」
自嘲気味に呟く。
ふと自分が着用している衣服に目が行った。
黒に近い暗色系のワンピース。
当たり前だった。
僕は女なんだから。
今まで見ていた光景が幻だっただけ。
先輩の体操服だと思っていたものは僕のものだし、部屋に忽然と現れた女子の制服もそう。
そして、目の前にいる先輩だってそうだ。
大好きだった先輩。
でも今は、そんなことどうでもよくなってきている。
だって、自分の作り出した幻に恋慕を抱くなんて滑稽過ぎる。
ましてや相手は同性だ。
どこまでピエロに成り下がれば良いのだろう。
ただ、それとは別に少しだけ気になることがあった。
「先輩、まだ疑問があります。教えてもらってもいいですか?」
「……ああ」
「どうして僕は人を殺すという幻想に、わざわざその人間を喰らうという映像を当て嵌めてしまったんでしょうか」
「それは、君の興味から生まれたものさ」
「興味?」
「ああ」
一拍置いてから、先輩は続ける。
「きっと無意識のうちにそれを求めてたんだろう。だからあの日、君のトラウマである母を殺してしまったあの日以降、君はこっそりと父親の書斎に入っては本を漁るという行動を繰り返した。そしてたまたま見つけてしまった。赤ずきんの童話に関する蔵書を。その蔵書には赤ずきんの由来について詳細に記されてあった。もともと赤ずきんは民話だったんだ。民話としての赤ずきんは、現在広く知られている赤ずきんとはいくつか異なる点がある。その異なる点のうち、赤ずきんが騙されて口にするのはワインと干し肉ではなく、おばあさんの血と肉であった、という部分に君は非常に興味を惹かれた。その興味が衝動となり、私の行動の一部となったんだ」
疑問は氷解した。
だが先輩の口が閉ざされることは無かった。
「君は赤ずきんが大好きだったろう? 私も大好きだ。何せ私は君だからね。嘘によって翻弄された君は嘘によって翻弄される登場人物たちから目が離せない。だから君はこの物語に惹かれたんだ。自ら物語の背景を調べ上げてしまうほどに」
少しの間を置いて、先輩はまた語り出す。
「ともあれ、君は記憶を遡行して知ったと思うが、君の現実はとにかく酷いものだった。日に日に現実の君は疲弊し、摩耗した。軋みゆく心が限界だと悲鳴をあげた。だから君は空想の中で憎い人間を殺すしかなかった。壊れそうになる心を支えるため、絶望色の現実と向き合うため、それは必要不可欠な行為だった。君はただ手を差し伸べて欲しかっただけ。でも愛しい手が差し伸べられることはついに無かった。だから君は母親との約束を少しだけ破り嘘をついた。自分に嘘をついたんだ。それは約束を反故にするものではなかったが、守り切れてるとも言い難い方法だった」
「…………」
「そうして、君は私を生み出した。私という嘘を生んで、世界を自分に優しいものへと塗り替えた。でも……」
先輩が言い淀む。
重い静寂。
重いのは嫌だ。
僕は、軽くなりたい。
「でも、不思議ですよね。こんなふうに、僕の頭の中だけの存在であるはずの先輩が実際に映像として認識出来たり、会話したり触れられたり出来るっていうのは」
「…………」
先輩は俯いたまま。
いつもの先輩はどこへ行ったのか。
まあ、当たり前か。
僕だって本当なら黙りたい。
間が持たないから話しているだけだ。
今さら、間なんていうものに気を使うなんてどうかしてると、自分でも思う。
心が急速に冷えた。
「結局、僕には何も無かったんですね……いや、罪だけは数え切れないほどあるのか」
僕の言葉に何かを感じ取ったのか、黙していた先輩の口が動いた。
「すまない。君が悲しむだろうと思っていたのに、隠しきれなくて……」
その表情は、ただ痛ましい。
「愛先輩は悪くないですよ。それにしても……ははっ、僕自身が愛なのに愛先輩っていうのも変な感じですよね」
先輩は答えない。
ただ伏せられた瞳に、悲しみを滲ませるだけ。
「そもそもあの日、母を殺してしまったあの日から、僕には死ぬしか道はなかったんです」
「違うっ! あれは父親が君に無理矢理っ……!」
「違わないんですよ、先輩。殺した時の状況なんて関係ないんです。僕があの日のあの時間、リビングへと足を運んだせいで母は死んでしまった……それはつまり、僕が殺してしまったということに他なりません。その因果関係だけは、どうあっても覆らない……」
「…………」
「狼は退治されなくちゃならないんです」
赤ずきんの狼。狼少年の主人公。
嘘をついた者の末路がどうなるか。
僕はそれを嫌というほど知っていた。
ゆっくりと屋上の縁へと歩を進める。
この屋上に落下防止のフェンスは無い。
あと一歩踏み出せば、一瞬でただの脂肪の塊になれるという位置まで進む。
あと一歩踏み出せば、僕は軽くなれる。
さあ、踏み出そう。
けれど。
ふと、背後に気配を感じた。
振り返る。
先輩が、僕のすぐ後ろで静かに泣いていた。
初めて見る、先輩の泣き顔。
踏み出そうとしていた足がなぜか止まった。
「すまない。ずっと君に嘘をついていてっ……」
乱暴に抱きしめられる。
「すまないっ、本当にすまないっ……!」
先輩の瞳から溢れる雫が、次々と僕のワンピースに零れてあっと言う間に濡れ広がる。
「ひとつだけ、最後にひとつだけ私の一方的なわがままを聞いてくれないか? 懺悔を、私の醜い懺悔を聞いてくれ……!」
不思議だ。
僕の幻が、これから死のうとしている僕に向かって懺悔をしたいと言っている。
最後ぐらい、自分の見ている幻に付き合うのも悪くない。
そう思い、僕は頷いた。
「今から話すのは……愚かな私の、決して贖いきれぬ罪……その全てだ」
そう言って先輩は訥々と語り始めた。
「私は一ヶ月前のあの日、君の中に生まれた。生まれたばかりの私はまるで機械のようだった。君の痛みを肩代わりしろ、という命令に従うだけの存在だった。だが、君を見ているうちにだんだんと自我のようなものが芽生えた。いや、芽生えてしまった。私は君だ。君の考えていることはいやでも全て分かってしまう。君の心を知っていくうちにいつしか私の中に強い怒りが生まれた。どうして君だけがこんなに辛い目に合わなくてはならないのか、どうして君だけがハズレクジを引かされ続けるのか、と。私は思った。君を救いたいと。この痛みの渦の中から助け出したいと、心の底から思った。だから私は君に嘘をつくことにした。君を取り巻く世界が、君にとって都合の良いものに見えるようにした。でもそれは間違いだった。君の認識をいじっていたのにボロが出た。それはつまり、私が日に日に君の痛みを肩代わり出来なくなってきていること。その認識がいじりきれなくなってきていることに他ならなかった。私は自我を持ったことにより本来の役目すら全うできなくなってしまったのだ。体操服の件で確信した。これ以上君を騙し続けることは不可能だと。そして私は決断した。最早欠陥品となってしまった私が君の中に居続ける意味は無い、だから君の中から消えてしまおう。そう決意した。そして、愚かにも最も君を傷つけるであろう方法で君の中から消えようとした。私がでしゃばることによってこれ以上君を傷つけたくなかったからだ。私は私が生まれる原因となったあの日のやりとりを模倣して君の中から消えようとした。君が私を憎み、忘れてくれれば良いと思った。けど君は私を忘れなかった。あろうことか私を探してしまった。そして結局、この有り様だ。君の忘れていたい過去を掘りだし君を傷つけ、いっそう君を悲しませてしまった。救おうとして傷つけた。失敗も失敗、大失敗だ……」
先輩の涙は僕の胸でシミを広げ続けている。
「私の懺悔は以上だ……本当に、すまなかった……」
そう言って抱きしめていた腕を解き、顔をあげる先輩。
すっかり泣き腫らした顔。
その瞳から今もなお溢れ続ける涙。
その雫が滑らかな曲線を描きながら頬を伝い、滴る。
黒曜石にも劣らぬ艶を纏った髪が、風を受けて柔らかに波打つ。
そんな先輩を眺めていて、気づいた。
肩まである黒い髪。
人形めいた整った顔立ち。
そうだ、先輩は、あの**にそっくりじゃないか。
どうして今まで気がつかなかったんだろう。
そうか。
こんなところにあったんだ。
僕の大切なもの。
ずっと昔に無くしたと思ってずっと諦めていたもの。
それは、こんな身近なところにあったんだ。
僕は、一人じゃなかったんだ――――
その理解は僕の胸に熱いものを去来させ。
自然と、滂沱した。
いきなり泣き始めた僕に先輩が驚く。
「ど、どうしたんだっ?」
泣きながら眉を情けなくハの字に曲げて狼狽える先輩。
その姿はとても愛しく思えた。
「違うんです、先輩。先輩のせいで泣いているというわけではないんです」
先輩の誤解を解いてから、
「それにしても、もう先輩は僕の考えていることがわからないほどになってしまったんですね。僕の見ている幻のはずなのに。でも先輩のルーツを考えると、そうなるのが当たり前だったように思います」
困惑の表情を浮かべる先輩。
「先輩、僕、今から死にます。ここから飛び降りて、死のうと思います」
「っ……!! どうしても、死ぬのか……?」
「はい。自殺です。どう考えても悪いことです。愚かなことです。でも、僕は死にます」
「それは……」
「先輩。手を繋ぎましょう。きっとそうすれば、先輩にも僕の気持ちが伝わるはずです」
そっと手を差し出して、先輩の手を握る。
その瞬間から先輩の表情が、驚き、戸惑い、羞恥、喜び、悲しみへと、目まぐるしく変化した。
僕の気持ちが全て先輩へと行き渡った。
おもむろに口を開く。
「そういうことなんですよ。先輩」
「そうか……ふふっ……それでいいんだな、君は」
「はい。だから、最後に先輩にも名前をプレゼントしてあげたいと思います」
「べ、別にそういうのは省いてしまってもいいんだぞ?」
先輩の頬が朱に染まる。
「駄目です。以前、先輩は自分には名前がないと言っていましたよね。だから」
少し恥ずかしいけれど、口にする。
「僕が愛なら、先輩は優です。先輩は、アイにとってのユーなんです」
「む、う……」
今にも爆発するんじゃないかと言うぐらいに先輩が真っ赤になった。
「あ、ありがとう」
ぶっきらぼうにだが、お礼を言ってもらえた。
嬉しい。
「さっきまで、本当は少し怖かったんです。死にたくなんかないという自分がいました。でも自分のしでかしたことを考えると、そんな恐怖はどこかへ吹っ飛びました。こんな自分は早く死ぬべきだ。罪が重い。軽くなりたい。そんなことを考えていました。けど、今は違います。ただ、始まりたいから死にたい。自分を始めたいから死にたい。そんな気分なんです」
先輩が、いや優が泣きながら優しく微笑んでくれた。
僕も泣きながら微笑み返す。
死は終わりじゃない。
大切なものに気づけずに迎える死は確かに終わりかもしれない。
でも僕は気づくことが出来た。
それが正しいものなのかどうかはわからない。
けれど僕は自信を持って正しいと言える。
そんな存在に気づくことが出来たんだ。
人が生きている意味なんて無い。
でも、と僕は思う。
最期の瞬間に、自分の生きていた意味はあったと、そう思えたなら。
それは、すべての痛みや悲しみを補ってあまりあるほどの、幸福な結末なのではないか。
優と目を合わせる。
その瞬間、僕達は視線で繋がった。
さあ、虚空へと踏み出そう。
一人では歩めぬ寂しい道のりも、二人なら、きっと。