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-真実-

「っっっ!!!!」

 僕は勢いよく跳ね起きた。

 どうやらリビングのソファで眠っていたみたいだ。

「って、そんなことより! 今のはっ……!!」

 今、僕が見ていたものは夢……なのか?

 いや、違う。

 今見たものは全て紛れもない僕の記憶だ。

 そうだ。

 僕はいじめられていたんだ。

 小さい頃からずっと。

 小林さんの企みによって。

 それで、僕はあんなことを……。

 あんなこと?

 あれ? 何かがおかしい。

 僕が小林さんを殺してしまったのだとすると、初めて愛先輩と会った時、彼女が喰っていたのは誰だ?

 そもそも、数学のプリントを取りに行って愛先輩と出くわした僕は一体誰なんだ?

 小林さんに告白したあの日、僕は小林さんが来るまでずっと教室にいたはずだ。

 この記憶は正しいと断言出来る。

 じゃあ、愛先輩と初めて会ったあの日の記憶は一体何なんだ?

 それに、どうして僕は今の今まで小林さんに告白した日の出来事を綺麗さっぱり忘れてしまっていたんだ?

 わからないことだらけだ。

 だいたい、どうして僕は今こうして生きているのだろう。

 地下で愛先輩に首を絞められて殺されたはずじゃあなかったか。

 そうだ。

 愛先輩はどこへ行ったんだ?

 壁にかけられている時計を見る。

 現在時刻は午後五時半。

 先輩と地下で話していたのが正午あたりだったことを考えると、あれから五時間近く眠っていたことになる。

 つまりその五時間の間に先輩はどこかへ行ってしまったのだろうか。

 思考がそこまで転がった時、廊下の方から男の叫び声ようなものがかすかに聴こえた。

 誰かいるのか?

 そう思ってソファから立ち上がり身構えると、間髪いれずにその声の主らしき人物がリビングの扉を勢いよく開けて入ってきた。

「あ、あ、あれは一体なんなんだっ!?」

 僕のもとに駆け寄るや否や、混乱と焦燥を滲ませている人物。

 それは担任の先生だった。

 意外な人物の登場に内心ひどく驚く。

「落ちついて下さい先生。あれとは一体何のことですか?」

 平静を装い、すでに返答内容が分かってしまっている質問をした。

「あっ、ああ。ひどい臭いがするもんだから、その臭いを辿って行ったら、人の死体みたいなものがあって……うぅっ」

 死体の匂いと光景を思い出したのか、不意にえずいて口を抑える先生。

 やはり、か。

 先生は地下室へ行ってしまったのだ。

 決して触れてはいけないはずの禁忌に触れてしまったのだ。

「大丈夫ですか先生。ところで先生はなぜここに?」

 先生の背中をさすってあげながら疑問を口にした。

「あっ、ああ。すまない。……今日、お前一時間目が終わった後、急に学校から帰っちゃっただろ? 普段授業をサボったりしないお前がそんなことをするなんておかしいと思って、学校が終わった後お前の様子を見に来たんだ。けど、呼び鈴を鳴らしても誰も出ない。だから諦めて帰ろうと思ったんだが、最後に玄関のドアを捻ったら奇跡的にドアが開いた。それでちょっとだけお邪魔しようと思ってさ、案の定中を覗いたらお前はリビングで寝てた。俺は寝てるのを起こすのもどうかと思って、そのまま帰ろうとしたんだが、不意に異臭がすることに気づいた。そしてそのひどい臭いの正体を突き止めてやろうとして、あの地下室の存在に気づいた。そしたら……あれがあってさ」

 あれとは、言うまでも無く死体のことだろう。

 まずいことになったな、と心の中で歯噛みする。

「なあ、あれは一体何なんだ? お前何か知ってるんじゃないのか?」

 まるで何かに縋るように、僕へと追及してくる先生。

 不安なのだろう。

 当たり前だ。

 死体なんてものを目にしたら誰だって不安になる。

 でも僕の胸にだって不安は生じていた。

 それは別離の予感。

 このままここに留まっていたら、大切な何かと永遠に離れ離れになってしまうのでは、という強い焦燥。

 焦燥の原因は分かっている。

 さきほど蘇った僕の記憶だ。

 だがそれだけではない。

 違和感だらけの僕の日常。

 愛先輩との会話。

 そういったものでさえ、別離を知らせる鐘と成り果て、鳴り響く。

 それらは今まで僕の中でばらばらだったピースたちだ。

 ひとつひとつは曖昧模糊とした存在。

 けれど。

 それらが今、鐘の音とともに姿を変えた。

 真実を告げるピースへと、形を変えた。

 だから僕は。

「なあ、黙ってないで教えてくれよ……地下室にあった……あの、死体みたいなものは……」

 なおも繰り返される先生の追及から。

「ごめんなさい先生! あれはきっと……全て僕の仕業です!」

 懺悔めいた告白だけを残し、その場から逃げだした。

 一散に駆け出したのだ。

 彼女へと向かって。

「なんだって……! お、おいっ! どこへ行くんだっ!? まだ話は終わってないぞ!! おーいっ!!」

 背にかかる声。

 けれど今は。

 もう一度彼女に会うために。

 ただ、駆ける。

 狂ったように赤い夕日が僕を朱に染めている。

 僕だけではない。

 道行く人間。

 家屋、木々、自動車。

 それら全てを、つまり街そのものを。

 染めていた。

 黄昏に包まれた空気の中、ただ駆けて。

 そして辿り着いた。

 焔色に染められた校舎。

 その屋上へと。

 屋上は初めて訪れた時と何一つ変わらぬ姿で、僕を待っていた。

 そこに僕以外の人間は見当たらない。

 けれど僕には分かっていた。

 だから僕は呼びかける。

「愛先輩」

 宙へと放たれたその呼びかけ。

 本来ならば虚空へと吸い込まれ消え行くのみであるはずのそれに。

 背後より、応じる者がいた。

「まったく……どうして君はこんなところに来てしまったのかな」

 振り向くと、そこにはばつの悪そうな顔をした愛先輩の姿があった。

「来るに決まってるじゃないですか。だってここは―――」

 そう、この場所は。

「愛先輩が僕に、僕のためを思って、与えてくれた場所だから」

 校舎の屋上。

 かつて僕が死を願った時、求めた場所。

「君の口からそんなセリフが出てくるということは、どうやら私の正体に気づいてしまったみたいだね。はぁ……結局私は失敗してしまったわけか」

 至極残念そうな愛先輩。

 けれどその表情には、こうなることが分かっていたかのような諦念も見えた。

「はい。僕は今まで一度も屋上に行きたいと口にしたことはありませんでした。だと言うのに愛先輩はそれを知っていて、なおかつ叶えてくれた。それだけじゃありません。僕の考えていることをすらすらと言い当てて見せたり、放課後の教室で気配も無く突然現れたり。以上のことから推測すると―――」

 先輩の正体。

 それは。

「僕の生み出した、僕にとって都合の良い幻想です」

 僕の幻想。

 それが僕の導きだした解答だった。

「幻想、か。確かにその通り。私は君の抑圧された精神が生み出した幻想だ。君にしか見えず、君にしか聴こえず、君にしか触れられず、君にしか匂わず、君にしか味わえない。そんな、本当に存在しているのかどうかさえ危うい存在だ」

 返って来たのは、肯定。

「やっぱり、愛先輩は僕の生み出した幻だったのか……」

 予想していたとは言え、その事実に強いショックを受けた。

「愛先輩、聞いてもいいですか?」

「ああ。私は所詮失敗してしまったのだ。与えられた使命一つろくにこなせない愚図さ。なんなりと聞いてくれ」

 先ほどからなんだか引っかかることを言っているが、とにかく聞こう。

「僕が初めて愛先輩と会った日の記憶。愛先輩が血塗れになった教室で小林さんを喰っていたあの日。あの記憶はやっぱり……」

「そう。君が作り出した偽の記憶さ。君はあの時、自己の精神に深い傷を負った。君は自覚していないだろうが、君は嘘に敏感だからね。自分が好意を抱いている相手に騙されていたという事実が相当ショックだったのだろう。私というもう一人の人格を生み出すほどにね。もちろん、それまで積み重なって来たストレスも原因の一つだ。ともあれ、その裏切りが引き金となって私は生まれた。そして同時に己の存在理由を悟った。君の精神的負担を代わりに受け持つため、私は在るのだと。だから私は君に偽の記憶を植えつけた。私という存在を認識させ、海馬を混乱させた。君の心が壊れないように」

「…………」

「君はずっと家族やクラスメイトによって虐げられてきた。他者に排斥され続けた君は、いつしか己だけを愛すようになった。他人は自分を傷つけてくる。怖い。けれど自分だけは自分を決して傷つけない。君にとって君自身が一番大切な存在となるのにそう時間はかからなかった。そうやって醜く歪んだ自己愛が君の理想とする形へと姿を変え、今の私となった。私に人格が与えられたのだ。つまり君にとっての私とは、君の中にいる君ではないもう一人の人格。俗に言う解離性同一性障害というやつだ」

 それは、ほとんど想像通りの答えだった。

 先輩は僕の弱い心が生み出した、理想の人。

 格好良くて、頼りがいがあって。

 人形のような顔立ちで、さらに文句のつけようがない完璧なプロポーションをしていて。

 それでいて僕に好意を寄せ、口に出さずとも刺激と興奮の世界へ手を引いてくれる。

 そう。

 ここまで完璧で、こんなにも僕にとって都合の良い人間、現実にいるはずがないのだ。

 でも僕にはまだ訊ねなければならないことがある。

 僕が僕の罪と向き合うために。

 絶対に避けては通れないもの。

「愛先輩。僕は今までどうやってクラスメイト達を殺害していたんですか?」

 もちろん、僕に彼女たちを手にかけた記憶はない。

 いつだって先輩が殺し、先輩が喰らっていた。

 だが先輩が僕にだけ見える幻覚でしかないのなら。

 必然的に、彼女たちを殺していたのは――。

「ああ、それについては安心してくれ。君はクラスメイトを一人たりとて殺していない」

「なっ――!?」

 そんなこと、あり得るのだろうか。

 しかし、間違った記憶を今まであっさり信じ込んでいた自分に、それを否定するだけの論拠などあるはずもなかった。

「あり得るんだよ、そんなことが。と言っても、君は私というフィルターを通して世界を認識していたわけだから驚くのも無理はない。地下室に監禁されていた少女達がいただろう? あそこには小林美奈を始め、いなくなったはずの井上達や、君が私と共に殺したと思いこんでいた全ての人間が囚われている」

「そうだったんですか……でも、良かった。小林さんは生きているのか」

 過去の記憶が蘇り、正常な判断が下せる今、どれだけ彼女を憎く思っても、彼女が生きていたのは純粋に嬉しかった。

 とにかく、今のでいろいろと得心がいった。

 以前の小林さんが殺されたという先生の発言すら、僕の都合の良いように捻じ曲げられたものだったのだろう。

 確かにあの日、真っ赤に染まっていたはずの教室がまるで何事もなかったように元通りになっていた。

 あれはそもそも教室が血に染まっていないのだから当然だ。

 先輩と出会ってから僕の倫理観が著しく崩壊したのも、きっと記憶改竄のようなものの影響を受けたからだろう。

 それにしても。

 あの地下にいた少女たちは僕が今まで殺したと思っていた、否、思わされていたクラスメイトだったのか。

 でも、殺していないというのなら、僕は彼女たちを一体どうやって地下室まで連れて行ったのだろう。

「その答えは君のポケットに隠されている」

 僕の思考を読んだのか、それに沿って先輩が奇妙なことを言った。

「ポケット?」

 慌ててまさぐる。

 何やら金属製の黒い筒のようなものが出てきた。

「これは……?」

「四段収縮式バトンスタンガン。スタンガンの一種さ。君が眠っている間に買いに行かせてもらったよ。それを使って気絶させてから一人、また一人、という感じに攫っていったのさ。小林美奈に関して言えば気絶させたあと、体育用具倉庫に運んで縄で拘束。その後、車に乗せて地下室まで。人一人を担いであの階段を下りるのはなかなかに骨が折れたよ」

「って愛先輩、車運転出来るんですかっ?」

 僕が出来ないことを、同じ僕であるはずの先輩が出来るっていうのか?

「まあ結論から言えば出来る。でも今はそちらよりも聞きたいことがあるんじゃないかい?」

 確かに、今はそれよりも聞きたいことがある。

「スタンガンで僕が彼女たちを攫ったのはわかりました。だけど、どうしてそんな面倒なことを?」

 これが気になっていた。

 僕自身恨んだからと言って直接手を下すとも思えないし、それにそんな面倒なことをする理由が分からなかった。

「君が望んだんだよ。表面的には望んでいなくとも、深層意識の中ではそれを望んでいたんだ」

 先輩は続ける。

「だから私はその欲求に従って行動した。本来なら彼女達を殺すのがセオリーというか妥当なのだろうが、君は根っこの部分で優しい人なんだろうね。だから君は殺すという手段ではなく、自ら攫うことによって彼女たちを行方不明にさせた。そうすることにより、主人格である君の目の前から彼女達は消え、障害は取り除かれる。つまり君は彼女達を殺せないから、せめて主人格の傍から彼女達の存在を抹消しようとしたのさ。君にとって彼女たちは自分に精神的負荷を加える存在でしかなかったからね。だから君は一人残らず表面的に殺すことにした。ここ一ヶ月ほど君はそうやって心の平穏を手にしていたんだよ」

「…………」

「それと、攫った理由はもう一つあるんだ。君、朝起きた時に口の中や朝食の味を変に感じなかったかい?」

「言われてみれば、そんなことが何回かあったような……でもそれが監禁していた彼女達の何か関係あるんですか?」

「ある。私は定期的に君の欲求を果たすため、夜な夜な小林達が囚われている地下室へと向かうんだ。もちろん君という主人格が眠っている間にね。どうしてだと思う?」

「それはつまり……えっと、その、いやらしいことをするため……ですか?」

「違う。やはり君は己の衝動を自覚していなかったのか。君はね、彼女達の血を吸ってたんだよ」

「な――」

 彼女の口から信じられない言葉が放たれて、驚愕する。

「吸血衝動。君にはそれがあった。吸血衝動に悩まされる症状のことを吸血病、好血症、ヴァンパイアフィリアと呼んだりするらしいが、この症状に正式な病名は存在しない。だが病名は存在しなくとも、君には確かにその衝動があった。そして君が血を吸った翌日。理由はよくわからないが、君の舌の感覚はおかしくなっていた」

 吸血衝動?

 ヴァンパイアフィリア?

 なんだよ、それ。

 どうして僕にそんなものが?

 僕はいつのまにそこまで壊れてしまっていたんだ?

 いや、もう壊れることに抵抗なんかない。

 あるのは、ただ……。

「それで、愛先輩」

 僕の心が読める先輩に、それを告げた。

「ああ、そうだな。君が一番訊ねたくないこと。けれど絶対に訊ねなければならないこと。それがまだ残っていたな」

「地下室にあった死体。君の予想通り、あれの正体は君の父親だ」

 やはり、か。

 暗澹たる思いが胸に広がる。

 僕は、人を殺してしまっていたのか。

「小林の首を絞めて気絶させ用具倉庫で拘束したあと、すぐさまスタンガンを購入しに出かけた。そして自分の家へと向かった。その時都合良く君の父親は在宅していた。背後から忍び寄りスタンガンで一撃。それから気絶したそれを地下室へ運び込み、殺して、殺して、殺した。人間が最も苦しむであろう殺し方で、だ」

 憎々しげにそう吐き捨てる先輩。

 確かに父さんは酷い人間だったし、僕自身忌み嫌っていた。

 酒を煽るたび暴力を振るう、親としては最低クラスの人間だった。

 でもそれだけで殺すかと言われれば、そんなことはない。

 小学生の頃から男手一つで僕を育て上げてくれた人間だ。

 憎みこそすれど、殺意を抱くまでには至らない。

「やはり君はまだ思い出していないようだね。それも当然か。まだ勘違いしているみたいだからね」

「思い出す? 勘違い?」

「ああ。君は今まで私というフィルターを通して世界を認識していたが、そのフィルター、今は解かれているだろう? だが実のところ君はまだフィルター越しに世界を見ているんだよ」

「解かれたのに、まだフィルター越しに世界を見ている?」

 先輩の言っていることが良く分からない。

「ああ。つまり、フィルターは二枚あったんだよ」

「フィルターが、二枚……!? ということは……!!」

 僕はまだ世界を間違って認識しているのか!?

「その通りだ。本当は……君にこの記憶……九年前のあの日の出来事を思い出させたくはない。君の心が壊れてしまった全ての原因である、あの日の記憶。けれど君は望むんだろう? ―――真実を」

 真実。

 僕は見極めなければならない。

 僕の罪を知ること。

 罪の原因を知った上で、罰を受ける覚悟もとっくに出来ている。

 だから。

「教えてください。真実を」

 それを聞いた先輩の顔は一段と悲しみに染まる。

「そうか……やはり君は棘の道を行くのか。では……質問だ」

 先輩は少しだけ息を吸い、吐き出してから言った。

「君の名前を教えてくれ」

 至極簡単な質問だった。

 僕は淀みなくそれに答えようとして、詰まった。

「あれ……? おかしいな。どうして、僕、自分の名前が」

 分からないんだろう。

 僕の名前。

 小学生にだって自分の名を名乗るくらいは出来るだろう。

 けれど。

 分からない。

 思い出せない。

「僕の……名前はっ……!」

 狼狽する僕を黙って見つめていた先輩の口が、ゆっくりと動く。

「君の名前は、時古愛だよ」

 その言葉が耳に吸い込まれて行くのと同時に、僕の意識は深海へと沈んでいった。

 九年前の記憶の海へと。



「はいタッチ! これで優梨ちゃんが鬼だよ」

「ああん、もう。愛ちゃん足早いよ~」

 いつものように公園で鬼ごっこをする私たち。

 新しく鬼になったのは木下優梨ちゃん。

 同じ幼稚園に通うお友達。

 そしてもう一人。

「いいから優梨は早く十秒数えなよ。さあ愛、逃げるよっ!」

 通称みさちんこと、河原美里ちゃん。

 私たちはよくこうして三人で一緒に遊んでいる。

 みんな同じ幼稚園で、同じ組だ。

 私たちは気がついたら仲良くなっていた。

「……はーち、きゅーう、じゅう! あっ、みさちんずるーい! 木の上に登るなんて反則だよー!」

「反則じゃないね! 悔しかったら優梨も登ってくればいいじゃん!」

「むう~! いいもん! みさちんはずっと木の上にいればいいよ! 私は愛ちゃんを追いかけに行く!」

 優梨ちゃんはそういうと踵を返して私の方へ一直線に向かってくる。

 これはまずい。

 さっき優梨ちゃんを本気で追いかけたせいであまり体力が残ってないのに。

 とにかく、捕まらないよう逃げなくちゃ。

 私は鬼になりたくない一心で必死に逃げ回った。

 結局、その日は最後まで優梨ちゃんが鬼のままだった。

 鬼ごっこを終え、家に帰るとお母さんが出迎えてくれた。

「おかえり、愛」

「ただいま、お母さん」

 お母さんに抱きつく。

「おっと、外から帰って来たらまず何をするんだっけ?」

 言われて、思い出す。

 すぐさま台所へ向かい手を洗った。

 そして再び母に抱きつく。

「ふふ、よく出来ました」

 頭を撫でられる。

 撫でられると気持ちが良い。

 私は母に頭を撫でられるのが好きだった。

 ふと、母が髪につけている、赤色のカーネーションに目がいった。

「そう言えば、お母さんはよくその髪飾り頭につけてるよね」

「これはね、私のお母さん、つまり愛のおばあちゃんから貰ったものなのよ」

「お気に入りなの?」

「ええ。愛する人からもらったものはどんなものだって大切よ」

「ふーん」

 愛する、ということの意味が良く分からなかったけど。

 でもきっと、私がお母さんを好きだと思う気持ちと良く似たものなんだろうと思った。

 夜になり、お母さんと一緒にお風呂に入る。

 体を綺麗に洗ってもらった。

 お風呂からあがるとお父さんが帰ってきていた。

「おかえりなさい、お父さん」

「おう、ただいま」

 私はお父さんもお母さんと同じぐらい好きだ。

 お父さんは優しい。

 でも最近のお父さんはなんだか様子が変だ。

 私に優しい笑顔を向けてくれることが少なくなった気がする。

 部屋で一人の時に何かぶつぶつ言ってることも増えたし……。

 でもすぐに夕食の時間になって、そのことは頭から消えていった。

 家族みんなで夕飯を食べたあと、急に眠くなって、うとうとする。

「愛、眠いんでしょ? ほら、ベッドで寝ないと駄目よ」

 お母さんに体を持ち上げられベッドへと運ばれる。

「ねえお母さん、赤ずきん読んでよ」

「また赤ずきん? 愛は本当に赤ずきんが好きね。いいわ。読んであげる。だからちゃんと布団に入りなさい」

「わーい!」

 私は赤ずきんのお話が大好きだった。

 特に狼が赤ずきんに嘘をついて赤ずきんを食べたあと、結局それがばれて猟師によって退治される所が好きだ。

 なんだか胸がスカッとする。

 お母さんがお話を読み終わると、部屋の電気が消され、私は夢の世界へと落ちていった。

 翌日。

「いってきまーす!」

 優梨ちゃんの家に向かう。

 昨日、鬼ごっこをしていた時に遊ぶ約束したのだ。

 優梨ちゃんの家に着いた。

「あ、愛ちゃん! おはよー!」

「おはよう優梨ちゃん。約束通り遊びに来たよ」

「うん、じゃあ私のお部屋へ行こ」

 優梨ちゃんの部屋はいかにも女の子らしく、部屋の至るところにいろいろなお人形があった。

「今日は、お人形を使っておままごとしようよ」

「いいよ」

「実はね、じゃじゃーん! どうこれ、可愛いでしょ?」

 そう言って優梨ちゃんは真新しい人形を取り出してみせると、私の目の前に突き出した。

 その人形の髪は金色で、着ている服はまるでお姫様のようなドレスだった。

「うわあ。すごい可愛いね、このお人形。どうしたの?」

「この前の誕生日にママにプレゼントしてもらったの」

「へえー、いいな。それで今日はおままごとを?」

「うんっ。早速このお人形で遊びたくて。それじゃあ私お母さん役やるから、愛ちゃんはお父さん役やってね」

「わかった」

 そうして日が暮れるまで私たちはそのお姫様のような人形を使っておままごとを楽しんだ。

「じゃあ、遅くなっちゃったし私もう帰るね。今日は楽しかったよ」

「あ、そうだ愛ちゃん。私たち、ずっと友達でいようね」

「うん、それはもちろんだよ。けど、いきなりどうしたの優梨ちゃん?」

「う、ううんっ。なんでもないの。ごめんね、呼びとめるようなことしちゃって」

 優梨ちゃんの様子がおかしい。

 もしかして。

「優梨ちゃん、もしかしてまたみさちんとケンカしたの?」

「うっ」

 どうやら図星みたいだ。

 公園から帰る方向が一緒の二人だ。

 昨日公園で私と別れてから何かあったんだろう。

「まったく。優梨ちゃんもみさちんも懲りないんだから。いい? 今度私と遊ぶ時までに仲直りしてないとダメだよ?」

「うー……わかった」

 しぶしぶ返事をする優梨ちゃん。

「よし。じゃあまたね。おじゃましましたー」

「ばいばーい」

 まっすぐ家へと帰る。

「ただいまー」

 玄関のドアを開けると、今まさにどこかへ出かけようとしているお母さんの姿が目に入った。

「あらおかえり。お母さん今から買い物行くんだけど、愛も来る?」

「え、本当っ? 行く!」

 お母さんと一緒に買いものに行くのは好きだ。

「よし、じゃあ一緒に行こうか」

 車に乗り込んで、デパートへ向かう。

「よし、到着」

 デパートの中へ。

「ねえお母さん、今日は何買うの?」

 デパート内をお母さんと見て回りながら訊ねる。

「今日はね、夕ご飯に使うお魚やお野菜を買いに来たのよ」

「今日の夕ご飯はなーに?」

「ご飯にお味噌汁に卵サラダ。そして愛の好きな鮭の西京漬けよ」

「やったー!」

 鮭はごはんと食べるととてもおいしい。

 デパート内を歩いていると、ふとおもちゃ売り場が目にとまった。

「ねえお母さん」

「はあ……全くしょうがないわね。いいわよ。しばらくおもちゃ見てても。けど何も買わないからね」

「はーい!」

 私は喜んでおもちゃ売り場へと駆け寄る。

 そこには可愛らしい人形がたくさん並んでいた。

 ふと優梨ちゃんの持っていた可愛い人形を思い出す。

 私もこういう可愛い人形が欲しい。

 その思いはだんだんと強くなって、買い物を終えたお母さんが私を迎えに来た時にはもう手遅れだった。

「お母さんこれ買って!」

「今日は何も買わないって言ったでしょ」

「やだやだ~! これ欲しい~! ねえ買ってよお母さ~ん!」

「駄目よ」

「やだやだー! 買って買って買って! 優梨ちゃんは可愛い人形買ってもらってるのにどうして私はダメなの!?」

 私の言葉がお母さんの胸に響いたのか、それともただいい加減うんざりしただけなのかわからないけど。

「分かった分かった分かったわ。今度お母さんがもっと良いもの買ってあげるから、今日は帰りましょう、ね?」

 お母さんはそう言ってくれた。

「ほんとに? 絶対?」

「ええ。本当よ。だから今日はもう帰りましょう」

「……わかった」

 それから数日経って。

「愛。はいこれ、プレゼント」

 お母さんは私に人形をプレゼントしてくれた。

 でもその人形の髪は黒くて、私が欲しかったのとは違った。

 私は優梨ちゃんの持っていたような金色の髪のお姫様みたいな人形が欲しかったのに。

 だと言うのに、これは髪の色も着ているものもちっともお姫様らしくない。

 もっと良いものを買ってくれると言ってたのに。

 自然と怒りが込み上げた。

「私が欲しかったのはこんな人形じゃない! もっと良いの買ってくれるって言ったのに! こんなのいらない!」

 そう叫んで、思い切り人形を蹴飛ばした。

 でも蹴ったあと、すぐに怖くなった。

 お母さんに怒られるかもしれない。

 怯えながら、お母さんの顔を見た。

 でもそこに映っていたのは、私の予想していたものと真逆のものだった。

 すごく悲しそうな顔。

 お母さんはリビングの隅に転がった人形を拾うと私を優しく抱きしめた。

「ごめんね。こんなものしか買ってあげられなくて。その代わり、あなたにはたくさんの愛情をあげるから……」

 アイジョウ?

 アイジョウって何だろう?

 お母さんの言ってることは良くわからなかったけど、私はとてもいけないことをしたような気がして、胸が苦しくなった。

「ごめんなさい」

 気がつくと私は謝っていた。

「いいのよ。約束を守れなかったお母さんが悪いんだから」

 そう言えば前にお母さんが言っていたっけ。

 うちは今、貧乏だって。

 悲しそうな顔をしながら、最近お父さんの仕事が上手くいってないとも言っていた。

 お父さんはお金を手に入れるために仕事をしている。

 けれどそれが上手くいっていない。

 そのせいなのか、ここしばらく、お父さんとお母さんはよくケンカをしている。

 お金がないとご飯が食べられない。

 なにも買うことができなくなる。

 生きることができなくなる。

 人形を買うのには、お金がかかる。

 そんなこと、私だって知っている。

 人形はご飯とは違って、なくても生きていけるものだ。

 でもお母さんはその人形を、あまりお金がないのに買ってきてくれた。

 ……つまり、そういうことだ。

 母は人形と私とを交互に見たあと、

「せっかく買ってきたんだから、やっぱり愛に使って欲しいな」

 そう言って私に人形を渡した。

「大事に使ってね」

 お母さんが微笑みながら私の頭を撫でる。

 私はこの人形を宝物にしようと思った。

 それからまた数日後のある日。

 私は一人、家でお留守番をしていた。

 退屈なのでお母さんにもらった人形で遊ぶ。

 一人でおままごとをしながら、なんとなく人形を見つめる。

 可愛いんだけど、なんだか物足りない。

 この人形には、金色の髪やお姫様のドレスのような華やかさが足りない。

 そう考えていると、ふと閃いた。

「そうだ……! お母さんのあの髪飾り!」

 お母さんは今日あの髪飾りをつけてなかった。

 つまりあれは今、家にあるはず……!

 すぐさま立ちあがりお母さんの部屋へと向かう。

 部屋にある鏡台の上。

 それはあった。

「やっぱりあった……!」

 赤いカーネーションを象った綺麗な髪飾り。

 早速それを人形の髪にくくりつけようとした。

 しかし、なかなか上手くつけられない。

「あれ、おかしいな……どうして、なかなかくっつかないんだろう?」

 そうこうするうちに段々と髪飾りを握る手の力が強くなっていって。

「あっ!!」

 ピキッ、という軽い音とともに、そのカーネーションはひび割れてしまった。

「どうしよう……!」

 これはお母さんが大事にしていた髪飾り。

 きっと私が壊したってばれたらものすごく怒られる……!

 でも、こんなのもう直せっこない。

 おろおろしているうちに、玄関の方からただいまー、という声が聞こえた。

 お母さんの声だ。

 どうしよう、もう帰ってきてしまった。

 とにかくこれを隠さないと。

 鏡台の引き出しの奥の方に壊れた髪飾りを押しこんでから、玄関へと向かう。

「お、おかえりなさいお母さん」

「うん、ちゃんとお留守番出来た?」

「う、うん」

 その場はなんとかそれでしのげた。

 けれどその翌日。

 壊れた髪飾りはあっさりとお母さんに見つかってしまった。

「愛、どうしてこの髪飾りが壊れているか知らない?」

「し、知らない」

 怒られたくなくて、嘘をついた。

「本当に?」

 お母さんが私の目をじっと見つめてくる。

 その視線に耐えられなくて、私はつい目を逸らしてしまった。

 でもそのせいで、私の嘘はお母さんに見抜かれてしまった。

「愛、お母さんはね、別に怒ってるわけじゃないのよ。確かに大切な髪飾りが壊れたのは悲しいわ。けれどね、お母さんは愛が嘘をつくような子になってしまうことの方がずっと悲しいの。だからお願い、正直に話して。お母さん絶対怒ったりしないから」

 お母さんの悲しげな顔を見て、胸が痛んだ。

「……ごめん、なさい」

 それから私はどうして壊してしまったのかの説明をした。

「なるほどね。でもお母さん、愛が正直に話してくれて嬉しかったわ。ありがとう、愛」

 そう言ってお母さんは私を抱きしめた。

 てっきり怒られるかと思っていたのに、抱きしめられた。

 申し訳なさと、抱きしめられている切なさとで私の胸はいっぱいになって。

 不安でいっぱいだった心はそれに耐えきれず、弾けた。

「うわあああああんっ」

「よしよし。いいのよ泣かなくても」

「ごめっん……なさいっ! ごめんなさいお母さあああん!」

「もう、困った子ね」

 それからお母さんは私が泣きやむまで抱きしめていてくれた。

 私が泣きやむと、それを待っていたかのようにお母さんは語り出した。

「愛、お母さんと約束してくれる?」

「……ひっく。うん、いいよ。何?」

「これからはお母さんやお父さん、そして他の人にも嘘をついちゃいけないってこと。約束出来る?」

「うんっ。私、もう嘘つかないっ」

「ふふ。愛はいい子ね」

 それから私は誰かに嘘をつくということをしなくなった。

 ただ、大好きなお母さんとの約束を守りたかった。

 そんなある日。

 私は夜中に一階から聞こえてくる大きな声で目が覚めた。

「なんだろう……?」

 気になって、一階へ向かう。

 音のする方向はリビングだった。

 ドアの隙間からリビングを覗き見るとお父さんとお母さんが激しい言い合いをしていた。

「お願い! もうあんな人たちと連絡を取り合うのはやめて!」

 お母さんの悲痛な叫び。

「うるさいっ! 俺の勝手だろ!」

 お父さんの顔は赤く、酔っ払っているようだった。

「でもあなた、あの人達と連絡を取るようになってから仕事が上手くいかなくなったじゃない! それにお酒を飲む回数だって増えたわ!」

「仕事のことは今関係ないだろ!」

「関係あるわよ! それにあの地下室は一体何なの? 私にも知らせずに勝手にこんな気味の悪い家のローン組んじゃうし……だいたい仕事が上手くいっていないのに顔も知らないような人達と頻繁にやり取りするなんてどうかしてるわ!」

「くっ……! お前……俺が……俺がようやくネットで見つけた仲間たちを侮辱する気か……!」

 お父さんの声のトーンが低く恐ろしいものへと変わっていく。

「何が仲間よ……! 私や愛と、その仲間……一体どっちが大切だと思ってるの!?」

「ゴチャゴチャゴチャゴチャうるせええんだよおおおっっっ!!!!」

 突然お父さんが狂ったようにがなった。

 そしてその後すぐにうつ向いたかと思えば、何事かをぶつぶつと呟きはじめる。

「一体誰が食わせてやってると思ってるんだ……挙句の果てに俺の仲間たちまで馬鹿にしやがって……ようやく俺の痛みをわかってくれる仲間たちに出会えたっていうのに……」

「ど、どうしたの?」

 お父さんの急激な様子の変化に動揺するお母さん。

「そうだ……仲間たちの言うとおりにするべきだったんだ……始めから我慢する必要なんてなかったんだ……俺の真の理解者はあの仲間たちしかいない……それ以外はみんな俺の敵なんだ……敵は……すしかない……だから」

 お父さんの呪いのような呟きが唐突に止まった。

「な、なに? 一体どうしたの?」

「お前を殺すって言ってんだよおおおおお!!」

 突然お母さんに掴みかかるお父さん。

「きゃああああああっ!!」

「うおおおおおおおっっ!!」

 馬乗りになるとお父さんは思いっきりお母さんの顔を殴った。

 信じられない光景。

 あの優しいお父さんが、お母さんを殴った?

 あまりの驚きに、つい物音を立ててしまった。

「誰だ!?」

「あ……」

 こちらに振り向いたお父さんと目が合う。

「愛か……愛! こっちに来なさい!」

「駄目よ愛! 来ちゃ駄目!」

「うるさい!」

 お父さんがお母さんを殴りつけた。

「愛! 来なければお前もお母さんも殺す!」

 言うことを聞かなければとても恐ろしい目に合わされる……!

 そう思い、震えながらお父さんの言うことに従った。

 お父さんの傍まで近づく。

「よーし良い子だ……愛」

 お母さんが傍までやって来た私を見て悲しそうな顔をした。

「お、お父さん……どうしてお母さんをいじめてるの?」

「お母さんはね、悪いことをしたんだ。だから罰を受けなくちゃならないんだよ」

 お父さんの様子は明らかにおかしくて。

 だから私は、お父さんの言ってることはでたらめなのだと思った。

「そんなの嘘だよ……お父さんどうしちゃったの……? もうお母さんをいじめるのはやめてよ……」

「ええい、うるさいうるさい! どいつもこいつも俺を馬鹿にしやがって……! 愛! 台所から包丁を持って来い!」

「駄目よ愛! 今のお父さんはおかしくなってるの! 言うこと聞いちゃ駄目!」

「黙れ!」

 お父さんがまたお母さんをぶった。

 馬乗りされているお母さんはただ殴られ続けるばかり。

「もうやめてよお父さん……お母さん苦しそうだよ……」

「愛。これ以上お父さんを怒らせるな。台所から包丁を持ってこい」

 それにしてもお父さんは包丁なんて何に使うんだろうか。

「持ってきたらお母さんぶつの、やめてくれる?」

「ああ。いいからさっさと持ってこい!」

 駄目、というお母さんの声を振り切って台所へ包丁を取りに行く。

 持ってきた包丁をお父さんに見せた。

「持って来たよ。これでもうお母さんを殴らないでくれる?」

「ああ。だがその代わりに愛、お前はお母さんの喉に包丁を突き刺せ」

 お母さんの喉に包丁を突き刺す?

 そんなこと出来るわけない。

 お母さんが死んじゃう。

「そんなの――」

 無理だよ、と言おうとした瞬間。

「突き刺さないとお母さんも愛も殺す。だが突き刺せば愛、お前だけは殺さずにおいてやる」

 お父さんの氷のように冷たい声。

「う、嘘だよね? お母さんも私も殺すなんて嘘だよね?」

 お父さんの言っていることが信じられなかった。

 お母さんと私を殺す?

 頭がくらくらした。

「嘘じゃない。全部本当だ。さあ早くやれ」

「む、無理だよお父さん……そんなこと出来るわけないよっ」

 お母さんの方を見る。

 お母さんは殴られ続けてたせいなのかぐったりしていた。

 お母さん……。

「やらなきゃ愛、お前も殺すって言ってるだろ? それがわからないのか? ああっ!?」

 突然お父さんに首を絞められた。

「うぅ……!」

 苦しい。

「な、何やってるの!? 愛に手を出すのはやめて!」

 私の呻き声で意識を取り戻したのか、お母さんが叫んだ。

「うるさい! お前は黙っていろ! 愛も殺して欲しいのか!?」

 お母さんへと拳を振りおろすお父さん。

「愛、愛にだけは手を出さないで……」

「さあ愛、はやくこいつの首に包丁を突き刺すんだ!」

 私は震えながらお母さんとお父さんの顔を交互に見た。

 お母さんと目が合う。

 するとお母さんは何かを決意したような顔つきになり、

「……分かったわ。その代わり愛には手を出さないで」

 と言った。

「さあ愛、お母さんもそう言ってるんだ。一気に突き刺してやれ」

 お父さんに促されるまま、お母さんの喉へと包丁を向ける。

 でも、これを突き刺すなんて、そんなこと。

 出来るわけがない。

「やっぱり出来ないよそんなの! お母さんが死んじゃう……!」

「いいのよ、愛。私はあなたが私のもとに生まれてきてくれて幸せだったわ。だから……」

 お母さんが何事かを言いかけた時。

「ええいぐずぐずしやがって! ほら愛こっちへ来い!」

 私はお父さんに包丁を持っている方の手を強引に掴まれ、その手を一気に振るわれた。

 お母さんの喉へと。

 私の手のひらに肉を切り裂く気持ち悪い感触が伝わる。

 直後、勢いよく吹き出す赤い飛沫が私の手、体、顔、パジャマに降りかかった。

 視界が真っ赤に染まる。

 お父さんの狂ったような哄笑が聞こえる。

 口中に広がる鉄の味。

 ああ、これがお母さんの血の味か。

 私、お母さんを殺しちゃったんだ。

 理解すると同時に、ぐらつく足元。

 視線が定まらない。

 よろめき、倒れた。

 そして急速に意識が闇に吸い込まれていき――

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