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-虚妄-

「ほらっ、痛いっ? 痛いでしょうっ? 私の足も痛いのよっ!」

 体に次々と加えられる暴力。

「あはっ、沙織それまじ受ける。教育者の鏡って感じ」

 そう言いながら、隣で笑う少女――小島紗江は足元に転がっている物体に蹴りを入れた。

 なんてことはない、いつもの日常。

 僕は、人目につきにくい体育館裏――いじめを行うに当たって絶好のスペース――で井上沙織たち四人組に殴られていた。

 くだらない罵詈雑言を受けながらしばらく殴られ続けたあと。

「ったく、これだから馬鹿は困るのよねー。今日持って来いって言ったお金を家に忘れてきちゃうなんて。いい、明日までに4万円、絶対持ってくるのよ。分かったわねっ!」

 いい加減足を振り下ろすのにも疲れたのか、沙織は吐き捨てるようにそう言い残すと僕のもとから去っていった。

 紗江たちもそれに続いて去っていく。

 沙織たちがいなくなったのを確認してから、僕はよろよろと立ち上がり唾を吐いた。

 口の中には土と血の味。

「馬鹿みたいに蹴りまくりやがってあいつら……4万円なんか持ってこられるわけないだろ、くそっ」

 苛立ちのままに体育館の壁を蹴った。

 ぼすっ、という乾いた音が、土埃ですっかり汚れてしまった僕を嘲笑っているような気がした。

 季節は秋。

 夕暮れに染まる校舎の隅で、僕はただただ惨めだった。

 翌日。

 お金を準備することが出来なかった僕はまたしても放課後、体育館裏で沙織たちに理不尽な暴力を振るわれていた。

『教育』と称して与えられる理不尽な痛み。

 僕がこの学校に入学してから約六カ月間、ずっとこうして沙織たちの『教育』を受け続けている。

 教育ではない。

 そんなことは分かっている。

 これはただのいじめだ。

 沙織たちの虫の居所が悪くなった時に発生する、災害のようなもの。

 力も勇気もない僕に、それを振り払う根性なんかあるはずもなかった。

 だから今日も受け入れるしかない。

 この苦痛でしかない時間を。

 だから今日も願うしかない。

 この苦痛でしかない時間が、はやく過ぎ去ってくれますようにと。

 気が付けば沙織たちは僕の前からいなくなっていた。

 明日金を持ってこいというような言葉を聞いたような気もするが、良く憶えていない。

 それに憶えていなくとも関係無かった。

 どうせ用意など出来ないのだから。

 体中から感じる鈍い痛み。

 すっかりお馴染みになった口中内の土と血の味。

 痛む体を引きずるようにして、家へと向かう。

 殴られた後は、決まって陰鬱になる。

 もちろん先にくるのは苛立ちだ。

 けれどそこから、この状況を甘んじて受け入れてしまっている弱い自分に目が行き、やがて自己嫌悪へと陥る。

 どうして僕は沙織たちにやり返すことができないのだろう。

 あいつらのことを考えると腸が煮えくり返りそうになるし、同時にぶん殴ってやりたいとも思う。

 いや、正直に言うと、もう殺してやりたいぐらいだ。

 だが非力で虚弱体質な僕にはそれが叶わない。

 逆らったはいいが、すぐに返り討ちに合いボコボコにされるのが関の山だろう。

 そうして結局、弱い自分が憎くなる。

 どうして僕には力が無いのか。

 惨めだった。

 女の子にいじめられているという事実が、その惨めさにより拍車をかける。

 負の思考が連鎖的に僕の心を埋め尽くしそうになった頃。

 僕は自分の家の前まで辿り着いていた。

 家に入ろうとして扉に手を掛けるが、あるものが目にとまり、全身がひきつった。

 車庫に、車がある。

 父さんが、帰ってきている。

 その事実に、僕の体はひきつってしまったのだ。

 だがいつまでもこんなところで突っ立ってはいられない。

 おそるおそる扉を開け、出来るだけ物音を立てないよう僕は帰宅した。

 リビングの方からはテレビの音声らしきものが漏れ聞こえてくる。

 やはり父さんは帰って来ていた。

 縮みあがりそうになる体を必死に奮い立たせて、リビングへと向かう。

「た、ただいま帰りました」

「おう」

 父さんはリビングの奥に据えられたソファに座ってテレビを見ていた。

 その父の様子を観察して、少しだけ胸を撫で下ろした。

 お酒は飲んでいないみたいだ。

 それに、スーツ姿のままということは、またぞろすぐ出かけるのだろう。

 踵を返し自分の部屋へと向かおうとした背中に声がかけられた。

「おう、ちょっと待て」

 心臓が跳ね上がる。

「はい、なんでしょう、父さん」

 必死に冷静を装いつつ、答える。

「今日、父さんの分の夕飯は作らなくていいからな」

「……はい」

 なんとかそう答えたあと、僕は逃げるようにして二階にある自分の部屋へと向かった。

 自分の部屋のベッドに寝転んで、一息つく。

「ふぅ……あー怖かった」

 父さんは酒を飲むと人が変わる。

 暴力を振るうようになるのだ。

 この家に僕と父さんの二人しか暮らしてない以上、その暴力の矛先は言うまでもなく僕に向けられる。

 いわゆる家庭内暴力、英語に言い換えるならドメスティックバイオレンスというやつだ。

 それがこの家では随分と昔から行われてきていた。

 僕が物心ついた時には既に父さんの暴力は日常的に振るわれていた、と思う。

 トラウマというやつなのだろうか、そのせいで僕は今年十六歳になろうというのに、父さんの姿を見ると反射的に体がすくむようになっていた。

 だからと言うべきなのか、当然というべきなのか、そのせいで僕は父さんのことが嫌いだった。

 憎悪の対象。

 けれど体に刻みつけられた恐怖が父に立ち向かうという選択肢を掻き消してしまう。

 結局、僕には耐えるという選択肢しか残らなかった。

 学校での理不尽ないじめ。

 家での理不尽な暴力。

 僕の心には日に日に暗い感情が積もっていくだけだった。

 認めたくなかった。

 そんな惨めな自分を。

 虚弱体質ゆえ運動が出来るわけでもない。

 かといって成績がいいのかと言われればそうでもない。

 ただ、周囲の人間から虐げられる恐怖に怯える毎日。

 僕は誰かを傷つけたりなんかしないのに、どうして他者は僕を傷つけてくるのだろう。

 他者なんかいらない。

 僕には僕さえいればいい。

 だって、僕は僕を傷つけないから。

 僕だけが唯一僕を理解してくれる。

 だから僕は特別だ。

 僕は特別でないといけない。

 けれど、理想と現実とのギャップを目の当たりにするたび、僕はひどく落ち込む。

 だから僕はそういう時、決まって妄想の世界に逃げ込むのだ。

 その妄想の世界では、僕はいつもヒーローだった。

 あの恐怖の対象でしかない父親は僕に跪いて、僕がいかに素晴らしい息子かを熱心に語るし、憎悪の対象でしかない沙織たちは僕に毎日のようにいじめられていて、クラスからも孤立しているのだ。

 僕は学校のテストでいつも一番を取り、運動会でも大活躍して、クラスのみんなから喝采を浴びる。

 そこはとても居心地の良い理想の世界。

 だから僕はいつまでも浸っていた。

 僕が決して惨めな存在などではなく、特別で称賛に値する人間でいられるその世界に。



 肌寒い空気の中、退屈な授業を受ける。

 僕は朝から嫌な気分でいっぱいだった。

 朝、クラスに入るなり沙織に足を引っ掛けられ、盛大に転ばされたのだ。

 その時擦りむいた肘がずきずきと痛む。

 当然、転んだ時に僕に手を差し伸べてくれる人なんて一人もいなかった。

 手を差し伸べられる代わりに、クラスからは嘲笑を貰った。

 僕はクラスで孤立している。

 正確にはそうではないが……ともかく。

 僕はクラスで孤立していた。

 まあ、今さらな話ではあるのだが。

 なにせ春からそうなのだ。

 それが秋まで続いているというだけ。

 何の因果か、沙織たちに目をつけられた僕は、入学式も終わって間もないという時期に彼女らのいじめのターゲットに選ばれた。

 初めは軽いパシリのようなもので済んでいたのだが、それが次第にエスカレートし、今ではすっかりこのザマだ。

 教室という空間の本当に恐ろしいところは、小さな社会がそこで形成されてしまうところにある。

 スクールカーストというやつだ。

 ヒエラルキーと言い換えてもいい。

 とにかく、その社会が形成されてしまったあとでは、階級の低い者は階級の高い者に意見することは出来なくなる。

 沙織たちは僕のクラスで最上級に位置するグループだった。

 だから他のグループの人間たちは目の前で行われているいじめに見て見ぬふりをする。

 沙織たちに逆らったら次は自分がターゲットになるかもしれない。

 そんな、本来なら存在しないはずの恐怖が教室中に充満している。

 だから僕はいつもクラスで孤独だった。

 人間という生き物は本当に醜い。

 なぜなら悪意や欲望に際限がないからだ。

 状況さえ揃えばどんな非道なことだってやってのけてしまう。

 今日もきっと、どこかで誰かが身勝手な理由で人を殺している。

 何の罪も無い無垢な子供たちが暴走した悪意に虐殺される。

 彼らはきっと、感覚が麻痺しているのだろう。

 現在の沙織たちのように。

 他者を虐げる快楽を知ってしまい、歯止めが利かなくなっているのだ。

 そんな人間の醜い面ばかりを、僕は昔から見てきた。

 家で。

 学校で。

 テレビで。

 だから僕は必然的に、世界に対して絶望することになった。

 そして次第に、こんな醜い人間ばかりが蔓延る世界に生きている意味はあるのかと、自分自身に問いかけるようになった。

 そうして最近、こんなことを考えるようになった。

 死にたい、と。

 こういった授業中、ふと考えるのは自分の最期。

 死ぬならどんな死に方がいいか。

 首吊り自殺、焼身自殺、入水自殺、飛び降り自殺。

 いろいろある。

 以前一度手首を切ったことがあるが、痛みと恐怖で全然死ねなかった。

 出来れば苦痛もなく恐怖もない死に方が良い。

 有名なのは締め切った部屋に一酸化炭素を充満させ、それを多量に吸い込むことによって中毒症状を引き起こし死に至るという方法。

 俗に言う練炭自殺だ。

 他にも睡眠薬の過剰摂取で循環不全を引き起こして死ぬという方法もある。

 これはオーバードースと言う。

 しかし前者は準備や状況を整えるのが困難であり、また後者は本当に多量摂取しなければ死に至ることはないという欠点がある。

 そういう意味では、飛び降り自殺のような、恐怖心さえ乗り越えればあっさりと死ねる方法が楽で良いんだけれど、困ったことにうちの学校の屋上は生徒立ち入り禁止となっていた。

 本当に、上手くいかない世の中だと思う。

 死にたい人間には死が訪れないくせに、死にたくない人間が次々と事故や病気で死んでいく。

 けれどやっぱり、僕がまだ死んでいないのは、彼女のことがあるからだと思う。

 きっと彼女がいなかったら、僕はとっくに死んでいたはずだ。

 優しい彼女。

 彼女のことを想っている間だけは僕は暗い気持ちから解放されるのだ。

 僕の心の拠り所。

 絶望に包まれた世界に残された、唯一の希望。

 その希望は、教室の窓際後方にある僕の席から横に二つ席を挟んだ位置に座っていた。

 今日も水仙を象った髪飾りがよく似合っている。

 僕は彼女に気づかれないように、その姿をそっと眺め続けた……。



 放課後。

「おいっ、お前いい加減にしろよっ! さっさと4万円持ってこいって言っただろっ!」

 紗江に胸倉を掴まれながら、怒声を浴びる。

 僕は今日も沙織たち四人組に体育館裏へと連れてこられていた。

「だから……前から無理だって言ってるじゃないか……」

「無理でも持ってくるんだよ! 私たちに対する授業料なんだからそれぐらい当然だろ!?」

 紗江が凄む。

 授業料って……ああ、いつも言ってる『教育』に対して言っているのか。

 くだらないことばかり思いつきやがって。

 そんなことを考えてる暇があるんだったら少しでも生産性のあることを考えればいいのに。

 まあ、仕方ない。

 きっと、こういう人間は一生こういう人間のままなんだろう。

 欲望のままに他者を踏みにじってそれで心を痛めることもなく、一生を終える。

 そういう人間が存在することを痛感するたび、絶望する。

 やっぱりこの世界で僕が生きることに意味なんて無いんじゃないかって。

「おい、シカトしてんじゃねーよ。明日授業料持ってくんのかって聞いてんだよ?」

 黙ったまま答えない僕に腹が立ったのか、紗江の声のトーンが低くなる。

 まずい。

 これ以上怒らせると紗江がキレる。

 僕の反抗的な態度に以前何度か紗江はキレたことがあるのだ。

 その時は徹底的に殴られ、文字通り半殺しにされた。

 あの沙織たちでさえ引くぐらいにボコボコにされた。

 かつての恐怖が蘇る。

 だから僕は。

「……分かった」

 そう答えてしまっていた。

「よーしよく言った。みんな今の聞いたか? 明日授業料持ってきてくれるってよ」

 紗江の弾んだ声。

「まったく初めからそう言えばいいのに、やっぱり馬鹿にはこれからも教育が必要よね」

 沙織の嫌味な声。

「明日、忘れんなよ」

 紗江が最後に一言だけ付け加えて、僕は解放された。

「じゃあ今日はさー、明日お金も手に入ることだしカラオケでパーっと騒がない?」

「いいねー! よっしじゃああたしあれ歌おうっと」

「あ、もしかしてあれ? こないだリリースされたMETEOの新曲?」

「そうそれそれ! あの曲がさあ……」

 少女たちは和気藹藹とはしゃぎながら去っていった。

 一人になった僕は後悔していた。

「はぁ……どうして持ってくるなんて言っちゃったかな、僕は」

 四万円なんて大金持ってこれるはずがない。

 だが殴られるのが嫌だった僕はつい持ってくると言ってしまった。

 けれど、持ってこれなければ明日また殴られるだけだろう。

 これでは問題の先送りでしかない。

 僕はいつだって選択に迫られると一時的に楽が得られる方を選んでしまう。

 自分の意志の弱さが、いつだって楽な方へ楽の方へと流されてしまうその弱さが原因なのは分かっている。

 けれど分かっていてもどうしようもない。

 殴られるのは嫌だし、痛いのは嫌いだった。

 だから、そんな僕に彼女たちと戦うという選択肢を選ぶことは到底無理な話なのだ。

 ゆえにこうして、自分の行動を思い返してはその情けなさに涙が出そうになる。

「はぁ……」

 ほぼ無意識のレベルでため息をついた僕。

 その頬に、不意に冷たいものが触れた。

「ひゃあっ!?」

 情けない声を上げて、その冷たさの正体を目で追う。

「ため息をつくと幸せが逃げるぞー?」

 そこには、アイスココアの缶を手に持った小林美奈の姿があった。

「やっほ。はい、これ差し入れ」

「……ありがとう」

 彼女から差し出された缶を受け取る。

 プルリングに指を引っ掛け、飲み口を開けたあと、一口飲む。

 舌に広がるひんやりとした、ココア特有の優しい甘味。

 その甘さが、今はとても大切なもののように思えた。

「また今日も井上さんたちに何か嫌がらせされてたみたいだね」

「ああ……うん、まあね」

 曖昧な返事を返しつつも、僕は心の中で突然現れた小林さんに感謝していた。

「ねえ、あそこの中で話さない?」

 そう言って彼女は傍にある体育用具倉庫を指さした。

「ああ、うん。僕と話してるところを誰かに見られたらまずいもんね」

「そういうこと。えへへ、ごめんねいつも」

「いや、いいよ。全然」

 体育用具倉庫は本来鍵がかかっていて一般の生徒は入れないのだが、一般生徒の中でも体育委員だけはその限りではない。

 体育委員とは委員会の一種であり、各クラスから二人ずつ選出されることが決まっている。

 僕は井上たちに強制的にそれを押しつけられたのだ。

 委員会活動というのは基本的に面倒な作業を学校側から強いられるものであり、ゆえに生徒はみな委員になるのを嫌がる。

 だから春先にクラスで行われた委員の選出時に、僕以外は誰も立候補せず、結局残りの委員はじゃんけんで決めることになった。

 いや、正確には少し違う。

 もう一人立候補した人がいた。

 それは小林さんだ。

 彼女は僕が体育委員に立候補したのを見ると、

「あたしも体育委員に立候補します」

 と言ったのだ。

 話が少し逸れてしまったが、つまり体育委員になると、面倒な後片付けを義務付けられるかわりに、ここ、体育用具倉庫の鍵の管理も任されるのだ。

 そんなわけで僕たち体育委員二人組はわりと自由にここに出入りすることが出来た。

「ほらっ、何ぼーっとしてるの。早く来ないと鍵しめちゃうぞー!」

 いつの間に移動していたのか、既に倉庫の中にいた小林さんがこちらに向かって叫んでいた。

「ごめんごめんっ。今行くよ」

 僕が倉庫に入ると、小林さんは慣れた手つきで鍵をかけた。

「これで良しっと。毎度のことながらごめんねー。助けてあげられなくて」

「いいよいいよ。僕に関わってるのがばれたら小林さんの立場が危うくなるし」

 そうなのだ。

 彼女、小林美奈はクラスで孤立している僕に唯一声をかけてくれる友人なのだった。

 けれど彼女もクラス内でいじめられたり、現在の仲良しグループから外されるのは嫌らしく、こうしてみなの目につかない所でしか僕に話しかけてこない。

 無論、僕にそんな彼女を責める気は毛頭ない。

 むしろ感謝したいぐらいだ。

 彼女の気持ちは痛いほどわかる。

 誰だってクラスで孤立するのは嫌だ。

 ましてやこの場合、いじめの対象にまでされかねない。

 そんな危険を冒してまで、僕にこうして話しかけてくれる、その気持ちだけで十分だった。

「うーんそれはそうなんだけどねー。ていうか美奈でいいのに」

「いや、それはちょっと、まだ遠慮しておくよ」

 小林さんとは長い付き合いだが……正直名前で呼ぶのは気恥ずかしいし、なんとなく憚られた。

「もう、いつもそれなんだから」

 そう言って少しむくれる彼女も、いつも通りだった。

 用具倉庫の中は薄暗い。

 小窓からかすかに差し込む淡い陽光が、古びたマットに跳び箱、表面がささくれだった平均台、大縄跳びの縄などをほのかに照らす。

 小林さんの髪飾りもその光を受け、戯れるようにきらりと光った。

「それ……」

「ん? ああ、このヘアピン? どう、似合ってる?」

「うん、とても良く似合ってる。いつもつけてるよね、それ。でもたまには別のに変えてみたら?」

「いやよ。だってこれ、あなたに貰った大切なものなんだよ? それにあたし、これ気に入っちゃってるんだ」

 そう。

 彼女が髪につけている髪飾り、もといヘアピンは僕が昔彼女にプレゼントしたものだった。

「そう言ってくれるのは嬉しいけど、なんだか無理に使わせちゃってるみたいで心苦しくって」

「そんなことないよ。あたしは好きで毎日着けてきてるんだから。だからあなたが気に病む必要は全然ナシ! むしろ誇ってもいいぐらいなんだから」

「誇るって……」

「だってあたし、自分で言うのもなんだけど美人じゃない? そんな美人に気に入られるような贈り物をしたのは自分だって。それは十分に誇れることじゃないかしら?」

「さすがにそれは色々な意味で遠慮しておくよ……」

 小林さんはけっこうサバサバしたタイプだと思う。

 というか間違いなくそうだ。

 僕と小林さんは小学校低学年の頃からの付き合いで、彼女の性格はその頃からあまり変わっていない。

 つまり彼女は幼馴染だ。

 幼馴染と言えば木下さんもそうだ。

 しかし彼女とは中学、高校と時を経るに連れ、段々と会話をしなくなっていった。

 河原さんも幼馴染といえばそうなのだが、彼女とは小さい頃に一緒に遊んでいただけでそれ以来ほとんど会話したこともなかった。

 つまり僕の幼馴染でいまだ交流があるのは小林さんただ一人だけだった。

 本当に、彼女は小さな頃から変わっていない。

 明るくて、社交的。

 思ったことを躊躇なく口にする。

 けれども思いやりにかけるということはない。

 それでいて自分の容姿を鼻にかけることもないから、彼女のまわりには自然と人が集まった。

 一言でいえば人気者だ。

 彼女はいつだって男女問わずさまざまな人に愛されていた。

 正直、そんな彼女に嫉妬したことは少なくない。

 僕はこんなにもひどい扱いを受けているのに、どうして彼女ばかり、と。

 けれど彼女は、当時路傍の石であった僕にも声をかけてくれた。

 そしてそれは現在に至るまでずっと続いている。

 その中で嫉妬することは多かったけれど、同時に救われてもいた。

 彼女が隣にいたことによって、本当の孤独を味合わずに済んだから。

 彼女がいてくれなかったら僕の心はとっくに壊れていただろう。

 世界を恨むあまり憎悪の言葉を遺しながら自殺していたはずだ。

 今でも死にたいとは思う。

 けれど、それを思い留まらせてくれているのは間違いなく彼女の存在だった。

 本当は僕だって死にたくなんかないんだ。

 ただ、辛くてどうしようもないから、死にたくなる。

「……あなたのそういう顔を見ると、あなたと初めて会った日のことを思い出すわ」

 僕の表情が翳ったのを敏感に察知したのか、小林さんが珍しいことを言い出した。

「ああ、ごめん。ちょっとネガティブなこと考えてた。僕と初めて会った日って、小学校一年生の時だっけ」

「そう。入学式が終わって、みんな楽しそうに両親や友人と話してるのに、あなた一人だけがとても寂しそうだったのをよく憶えているわ」

「ああ、あの時はちょうど僕の母が亡くなったばかりの時だからね。仕方なかったんだ」

 僕の母親が交通事故で亡くなったすぐ後に、その入学式は行われた。

 当時悲しみのどん底にいた僕に、周りに合わせて楽しそうに振る舞うなんていうことは到底出来なかった。

「それであなたのことが凄く気になってね。だからあたしは声をかけたの」

 あの日のことは僕も良く憶えている。

 小学校の入学式の翌日、新入生それぞれのクラスが決まり、授業が始まる。

 僕と小林さんは同じクラスだった。

 授業と言っても始めに行うのはもちろん授業ではなく、生徒それぞれの自己紹介だ。

 僕はその自己紹介で何を言ったのか憶えていない。

 ただ悲しみに暮れていた僕は、きっとぼそぼそと何事かを呟いていたのだろう。

 そんな感じで、僕がクラスメイトに与えた印象は最悪だったらしく、僕は誰と会話することもなく放課後まで過ごした。

 けれど帰りの会が終わる頃に問題は生じた。

 一年生は集団下校をしなければならなかったからだ。

 つまり、僕と一緒に帰らなくてはならない生徒たちが、僕と一緒に下校することを嫌がったのだ。

 結局、その場でしばし言い争いがあったあと、僕と同じ下校グループに割り当てられた生徒たちは僕を置いて先に帰ってしまった。

 一人取り残された僕。

 けれど当時の僕は目の前で起きた出来事に対して苛立ったりなどはしなかった。

 なぜなら僕はずっと悲しみの海に沈んでいたから。

 海中から陸上の出来事がわかるはずもないように、僕は目の前の現実に対し反応することが出来なかった。

 そんな空気の抜けた風船のような状態で、僕は帰り道を一人歩いていた。

 その途中、後ろから不意に声がかけられた。

「ちょっとあなた!」

 小林さんだった。

 僕は振り返るが、ただそれだけ。

 すぐに前へと向き直り、元通り歩き始めた。

「って、待ちなさいよあなたっ!」

 腕を掴まれた。

 流石にこれでは前に進めない。

 そう思った僕は抗議の念を含んだ視線を少女へと向けた。

「な、何よ」

 一瞬たじろぐ小林さん。

 彼女はこの頃からすでに愛らしい容姿を備えていた。

「って、そうじゃなくて! あたしが聞きたいのはっ」

 少女はごほん、とわざとらしくせき込んでから。

「あなた、なんでそんな悲しそうな顔してるの?」

 唐突に、僕の心を現実に引き戻す言葉を放った。

「っ……!」

 僕は見たくない現実を突き付けられた気分になって、反射的に彼女を睨んだ。

「何よ。あなた、ちゃんとそんな顔もできるんじゃない。だからどうしてずっとめそめそした顔してるのかって聞いてるの」

「…………」

 僕は答えなかった。

 いや、答えることが出来なかった。

 確かこの時の僕は、それを口にしてしまったら母と永遠に離れ離れになってしまう気がして、その質問に答えることが出来なかったのだと思う。

 僕が黙り続けていると、突然僕の頬に衝撃が走った。

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 けれどそれも目の前の少女を見てすぐに理解した。

 少女の今にも泣きそうな顔。

 その表情には困惑と苛立ちと悲しみと、よくわからない何かがあった。

 僕は少女にぶたれたのだった。

「なんで何も言わないのよっ! ああ、イライラするっ!」

 少女は癇癪を起しているようだった。

 どうしてこんなことになっているのだろうと、まるで他人事のように考えていると。

「ああ~~もうっ、とりあえずごめん! 今ぶったのは謝る! だからあなたもあたしをぶって! さあはやくっ!」

 少女がさらにわけのわからないことを喚いていた。

 結局、このあと少女の言うがままに頬をぶった(もちろん全然力など入らなかった)。

 小林さん曰くそれは、同じクラスになった生徒で一人だけ暗い子がいたから元気づけてやろうと思ってやった、ことらしい。

 それからことあるごとにその少女につっかかられていた僕は、気が付けばその少女、小林さんと友達になっていた。

 ここで記憶の海を航海する旅は終わりを迎える。

 僕の意識は現実へと帰って来た。

「あの時いきなりぶたれたのには正直驚いたよ」

「もう、その話は蒸し返さないでよっ。今思い出しても恥ずかしいんだから」

 そう言って乳白色の頬を少しだけ朱に染める。

 その仕草は仲の良い友達であるということを差し引いても、可愛かった。

「僕はあまり憶えてないけど、当時の僕はけっこう痛かったと思うんだよな、あのビンタ。けっこういい音してたし」

「だからもうそのことでからかうのはやめてってばー」

 小林さんに軽くチョップされた。

 少々言いすぎてしまったらしい。

「そう言えば今ので思い出したけど」

 小林さんは続ける。

「今は慣れちゃってるから平気だけど、あなたが自分のことを指す時に使う『僕』は、当時のあたしにはすごく変に感じられて、なんだかとてもおかしかったのを思い出したわ」

 と、それこそ変なことを言った。

「え、そんなに変かな? 僕の『僕』って言うの」

「うん。やっぱり変だよ。凄く」

「そうかなあ」

「絶対変。でも、それもあなたの個性だよね。別に否定したりはしないわ」

「うーん。よくわからないけど、ありがとう」

「どういたしまして」

 秋も終わりかけ。

 彼女とこうして触れ合ってる間は、心から安らぐことが出来た。

 暖かい時間。

 僕は、小林美奈のことが好きだった。

 翌日。

 結局、4万円を準備することは出来なかった。

 このままではきっと沙織たちにまたこっぴどく殴られるだろう。

 沙織達から逃げるため学校をさぼりたかったが、そうすると今度は父親に殴られることになる。

 完全に詰みの状態。

 憂鬱な気分で、学校へ足を運んだ。

 全授業が終わり放課後を迎えた瞬間、案の定沙織たちのグループに絡まれた。

「さあ、遊びに行こうか」

 不吉な言葉を紗江に囁かれながら、僕は体育館裏へと連れられて行った。

「で、お前ちゃんとお金持って来たんだろうな?」

「…………」

「あ? もしかして持ってきてねぇのかよお前」

 僕は無言のまま。

「おい、何とか言えよ」

 胸倉を掴まれ、体育館の外壁へと体を押し付けられた。

 これでもう逃げ場は完全にない。

「なるほどね。そういう態度取っちゃうんだ。じゃあ、どうなるか分かるよな」

 紗江の声のトーンが低くなった。

 拳が強く握られているのが見える。

 怖い。

 けれど僕には抗おうという気力が微塵も湧かなかった。

 どうせ何を言ってもこのまま殴られるに決まっている。

 だったら、無駄な努力はしないに限るじゃないか。

 僕が腹をくくったその時。

「おい、何やってるんだそこっ!」

 突然野太い声が響き渡った。

「やべ、ゴリ先じゃんっ!」

 四人のうちの一人が、グラウンドの方からやってくる体育教師に気づいて叫ぶ。

「げ、まじかよ。ちっ、お前、明日までに絶対持ってこいよ!」

 紗江は僕を掴んでいた手を離すと、他の三人と共に体育教師とは反対方向へと逃げて行った。

「おい君、何かされてたんじゃないのか?」

 体育教師が僕のもとへやってくるなりそう訊ねてきた。

「いえ、別に……」

 正直に話したかったが、チクったとバレた時の報復が怖かった。

「そ、そうか。ではいつまでも校舎に残ってないで、早く帰りなさい」

 体育教師はそう言い残すと、グラウンドで活動中の陸上部の方へと戻っていった。

 何はともあれ、助かった。

 あの教師のことはあまり好きではないが、今回ばかりは感謝した。

 そんなことを考えていると、視界の端で何かが動いたような気がした。

 何だろう、と思い視線をそちらへ向けると。

 校庭側にある茂みの後ろに隠れるようにして、小林さんが立っていた。

「小林さん……何やってるの?」

「あはは、ばれちゃったかー」

 そう言って小林さんが茂みから出てくる。

 舌を可愛らしく出して、まるで悪戯が見つかった子供のような表情。

「もしかして、さっきの、小林さんが?」

「うーん? 一体何のことかな?」

 わざとらしく首をかしげてみせる小林さん。

 僕が沙織たちにここへ連れてこられた時、そこの茂みには誰もいなかった筈だ。

 なのに今あの茂みにいたということは、体育教師がこちらへやって来た時とほぼ同じタイミングであのポイントに隠れたことになる。

 つまり、小林さんがあの教師をここに連れて来てくれたのだ。

 今まで何度も沙織たちにここでいじめられてきたが、教師がタイミング良く現れたことなんて一度も無い。

 やはりどう考えても小林さんが連れて来てくれたのだろう。

「……ありがとう、小林さん」

「もう、なんでせっかく人が格好つけようとしてるのにそうやって台無しにするようなこと言うかなー。あと、あたしのことは美奈で良いって」

「ごめん、小林さん」

「どうしてそこで謝るのよ。しかも小林さんのままだし。まったくあなたは……まあ、そういうところもあなたらしいと言えばらしいか。って、いけないいけない」

 何かを思い出した様子の小林さんが、はいこれ、と言って紙切れを渡してきた。

「じゃね。待ってるから」

 ウインクしながらそう言い残すと、校門の方へと軽快に走り去ってしまった。

 その場には紙切れを手に呆然と突っ立っている一人の男子生徒が残された。

 まあ、言うまでも無く僕なのだけれど。

 ともあれ、手にした紙片が一体何であるのかを確認するため、中を改めて見た。

『今日の午後七時にあたしの家に来なさい。絶対だよ?』

「これって……」

 いわゆる招待状というやつだろうか。

 いや、そんな大層なものじゃないか。

 単純に家に遊びにおいでというお誘いの手紙だろう。

 まあ、手紙と呼称するにはいささか不格好な紙だけど。

 というか、どう見てもノートの切れ端だけど。

 携帯のメールで言えば済むようなことをわざわざこうして紙に書いて持ってくるあたりがいかにも小林さんらしかった。

「ふふっ」

 自然と笑みがこぼれた。

 小林さんらしさをその紙から感じたから、というのが理由ではない。

 僕は嬉しかったのだ。

 彼女の家にお呼ばれしたという事実に、喜んでいた。

 もちろん、今まで何度か彼女の家に遊びに行ったことはある。

 小学校からの付き合いだ、あって当然ではある。

 けれど、高校生になってからというもの、彼女の家に呼ばれたことは一度として無かった。

 僕は彼女のことを好いている。

 だから今までに彼女の家に遊びに行きたいと言いたい衝動には何度もかられたし、実際何度も言いかけた。

 けれどそのたびに、嫌われるのではないか、という不安が頭をよぎり実行に移せたことはなかった。

 僕達は高校生だ。

 彼女にも彼氏の一人や二人出来ていてもおかしくない。

 そんな中、家にあがらせてくれ、というのは相手に少なからず嫌悪感を抱かせる可能性があった。

 僕は彼女との距離が詰められないことよりも、彼女との関係が壊れてしまう方が怖かった。

 だから今まで、自分から彼女に接近するようなことは避けてきた。

 それにもともと彼女には学校内で近づけないのだ。

 彼女もいじめの対象にされる可能性がある。

 だから、校内での会話は彼女が気まぐれに僕に話しかけてくれるその時だけ、という今の関係を維持してきた。

 そして、それはきっとこれからも続くのだろう。

 僕が彼女を好きでい続ける限り。

 あっと言う間に時間は経ち、午後七時になった。

 僕は約束通り、彼女の家へと足を運んでいた。

「いらっしゃいませー、ご主人様」

 呼び鈴を押すと、メイド服を着た小林さんが出迎えてくれた。

「……その服、どうしたの?」

 驚きを悟られないよう冷静を装ってそう訊ねた。

「あはは、やっぱり驚いてくれた」

 いかにもしてやったりという風な表情で笑う。

「これはね、さっきママの洋服箪笥を漁ってたら出てきたの」

「それで、僕を驚かすためにわざわざ着て待ってたの?」

「その通り。どう、似合ってる?」

 そう言って小林さんはくるっとまわって見せた。

 丈の短いスカートが遠心力でまくれあがりそうになる。

 正直、めちゃくちゃ可愛かった。

「うっ、うん、その……とてもよく似合ってる」

「えへ、ありがと」

 そう言って破顔する彼女はやはり天使のように可愛かった。

「それじゃあたし、着替えてくるから先に部屋で待ってて」

「うん。おじゃまします」

 玄関で靴を脱ぎ、階段を昇る。

 そのまま廊下を少し進んだところにある右側二つ目のドアが彼女の部屋だ。

 ドアを開けて中へと入る。

「あんまり変わってないな……」

 部屋を見渡すと、以前来た時とさほど変化は見られなかった。

 ベッドにはいくつものぬいぐるみが所狭しと並んでいて、学習机には教科書やノートが雑然と置いてある。

 鼻を通る空気が、僕の胸に懐かしさを運ぶ。

 小林さんの部屋の匂い。

 僕はあらためて彼女の部屋にやって来たのだということを実感していた。

 部屋のドアが開く。

「お待たせー。あ、適当に座ってていいよ」

 部屋着に着替えた小林さんの手には麦茶とお菓子が添えられていた。

「それじゃあ、優雅にお茶会と洒落込みましょうか」

「お茶会って普通、いかにも高そうなティーカップと香り高い紅茶で行うものなんじゃ……?」

 彼女が持ってきたのはどこにでもあるような麦茶と、明らかに百円ショップで購入したであろう安っぽいプラスチック製のコップだった。

「分かってるわよそんなの。気分よ気分。そんなこと言うんだったらお茶もお菓子もあげないわよ?」

「ああごめんっ、喜んでお茶会に参加させていただきます」

「よろしい」

 彼女は満足そうに頷いて、コップに麦茶を注ぐ。

「それじゃ、乾杯」

「乾杯」

 カチッ、とお互いのコップをぶつけ合う。

 それから僕達はお菓子を頬張りながら取りとめの無い事を語り合っていた。

 学校のこと。

 そして、昔のこと。

 こうしてゆっくり語り合うことのできる時間は僕達にとって久しぶりだったから、自然と会話は弾んだ。

 ……そろそろ、訊ねてみるか。

「ところで、どうして僕を呼んだの?」

 僕はあの手紙を受け取った時から感じていた疑問を口にした。

「どうしてそんなこと聞くの?」

「高校に入学してから小林さん、こうして家に誘ってくれたこと一度も無かったから。少し気になって」

「うーん、教えてあげてもいいけど、後悔しない?」

 何やら不穏なことを言う小林さん。

「後悔はしないと思うけど……?」

 彼女はおもむろに立ちあがったと思うと、僕と体がくっつくかどうかという距離まで近づいてきて、言った。

「それはね」

 彼女との距離が限りなくゼロになる。

「あなたの顔を、もっと見ていたかったから」

 こちらを真っ直ぐに見つめる、潤んだ瞳。

 普段の悪戯っぽさはなりを潜め、その代わりに浮かぶ、艶やかな視線。

 少女の吐息すら肌で感じられる状況で僕は、後悔していた。

 そんな言葉を貰ったら、嬉しくなってしまうから。

 僕を必要としてくれている彼女の存在を、僕から求めるようになってしまうから。

「それ、はっ……」

 鼓動が早鐘を打つのが分かる。

 それに伴って自分の体温が異常なほど上昇する。

「それは?」

 彼女が至近距離で僕の顔を覗き込んでくる。

「そのっ、えっと……」

 予想外の展開に、ひどく狼狽する。

 だがその狼狽は、次の瞬間霧散した。

「あははっ! あなたの困った表情ってほんと面白い!」

「え?」

 お腹を抱えて笑い転げる小林さん。

 眼前の状況が理解できずに、呆然とする。

「ごめんごめんっ! ちょっとからかうつもりが、段々と面白くなってきて歯止めが利かなくなっちゃった」

 ごめんなさい、と両手を合わせて頭を下げる彼女。

 ……なるほど、そういうことか。

 僕はからかわれていたのか、彼女に。

「なんだ、そういうことか。あまりにも小林さんが真剣な顔だったから驚いちゃったよ」

「ほんとにごめんね。でも、さっき言ったことは別に冗談でもなんでもないんだよ」

「え?」

 今、最後にさらっと、とてつもないことを言わなかったか。

「さ、それじゃテレビゲームでもしようか。何がいい?」

「えっ、ああっ、じゃあ、テトリス……とか?」

「テトリスね。あたし、テトリス上手くなったんだから」

 テレビのある方へ四つん這いのまま這っていき、ゲーム機を動かす準備をする彼女。

 さきほど彼女が最後に言った言葉。

 その真意を確かめる勇気は、僕にはなかった。

 結局、僕はテトリスが上手くなったと言っていた彼女をさんざん負かした後、半泣き状態の彼女にもう帰れと言われ彼女の家を後にした。

「もう少し手加減してあげた方が良かったかな……?」

 すっかり暗くなった空を見上げながらひとりごちる。

 彼女とテレビゲームをするとだいたいいつもこうなってしまう。

 負けると怒る癖に、手加減すると「本気でやってよ!」と怒られてしまう。

 一体どうしろと言うんだ。

 でも、怒ってむくれる彼女の顔はとても愛らしいので、僕は彼女のそんな理不尽な怒りに対して特に文句を言うこともなく受け入れていた。

 というより、単純に好きだった。

 怒った彼女の顔が。

 だから、もしかすると僕はわざと彼女を怒らせているのかもしれない。

 自分の意外な一面に気づかされた瞬間だった。

 時間が気になって、腕時計を見やる。

 随分と帰るのが遅くなってしまった。

 あまり遅くなると父がうるさい。

 まあ、父が家にいない可能性もあるがそれは今は置いておこう。

 近道をするため、普段はあまり通らない森林公園を突っ切ることにする。

 やや歩いて。

 辿り着いた森林公園の外観は、いつもとは違ってなんだかやけにおどろおどろしいものに感じられた。

 公園に踏み入ると、不意に肌に触れる空気の感触が汚泥めいて感じられ、一層薄気味悪くなった。

 皮膚から伝う不快感から早く逃れたくて、自然と足早になる。

 あと数十メートルも歩けばこの気味の悪い空気を放つ森林から抜けられる、という地点までやって来た時。

 傍にあった太い木の幹、その陰から、僕の良く知る人物が現れた。

 それも一人ではなく――四人。

「あはっ、本当に来たわ。一体どんなからくりなのかしらね?」

 愉快そうに唇を歪める井上沙織。

「何驚いた顔してんだよ。いつも教育してやってるあたしらに挨拶のひとつも出来ないのか?」

 そしてその沙織の隣で気怠そうに立つ、小島紗江。

 その両脇に、いやらしい笑みを浮かべて立つ、残りの二人。

「なん、で……」

 かろうじて、そんなセリフを吐き出した。

「なんで? さあ、なんでだろうねぇ? ただとりあえず言えることは、お前は今からあたしらに『教育』されるってことだ」

 紗江の瞳には強烈な悪意が宿っていた。

「さあ、教育の時間よ」

 沙織のその声と共に、にじり寄ってくる四人の悪魔たち。

 このままでは間違いなく半殺しにされてしまう。

 危険を感じ取った僕は、一目散に彼女たちが迫りくる方とは逆に向かって駆け出した。

「あっ、こら待ちなさいっ!!」

「ふざけやがって……! 絶対捕まえてボコボコにしてやる!!」

 背後から聴こえる憤怒の声。

 捕まったら殺される。

 僕は迫りくる恐怖に押し潰されまいと、闇夜の中、無我夢中で足を動かした。

 けれど。

 運命は冷酷で、神様は無慈悲なのだ。

 僕はとある拍子に小さな石に躓いて、吹っ飛ぶようにして転んでしまった。

「はぁっ、はぁっ、手間かけさせやがってこの野郎……!」

 ドゴッ、という音に連なる痛みと衝撃。

 追いついた紗江に背中を踏みつけられたのだろう。

「はっ、はっ、……どうやら今夜はじっくり教育してやらないといけないみたいね」

 ようやく追いついた沙織が恐ろしいことを言った。

 そして。

 嵐のような暴力によって僕の体は蹂躙された。

 その後のことは……よく憶えていない。

 気が付けば闇の中、一人地面に倒れ伏していた。

 ただ散々殴られて、蹴られた、ということだけは把握している。

 体のあらゆる箇所が叫ぶように痛みを訴えてくるからだ。

 渾身の力で立ち上がり、泥だらけになってしまった制服を手ではたく。

 不意に、涙が出そうになった。

 なぜ僕がこんな目に合わなければならないのだろう。

 僕が一体何をしたのというのだろう。

 目から零れそうになる感情を必死に抑えながら、家へと向かって歩き出した。

 よろめく体で家へと向かう途中、あいつらの狡猾さに嫌悪した。

 彼女らの狡猾さ。

 それは彼女らの殴打した箇所に現れていた。

 肉体の痛む箇所に意識を集中させる。

 するとある部分に痛みを感じないのが分かる。

 顔などの、皮膚が外界へと晒されている部分に痛みを感じないのだ。

 つまり、彼女らはわざと目立つ部分を避けて僕を殴っていたのだ。

 目立つ箇所に怪我をされると困るからだろう。

 明日も学校だ。

 僕が傷だらけの顔で登校したら、確実にその怪我はどうしたのかと担任に詮索される。

 そうなるとかなりの確率で自分達の行為が担任に露見してしまう。

 それを恐れてのことだろう。

 意外にも彼女たちは知恵が回るのだ。

 だが僕はその事実に以前から納得出来ないでいた。

 どうして彼女らのような、いかにも馬鹿者といった連中に、そのような悪知恵が働くのか。

 彼女たちの成績はみな一様に褒められたものではない。

 赤点を取った者のみが呼び出されるという補修に何度も駆り出されているのを目撃している。

 まあ確かに、成績と頭の良さの間に比例関係など存在しない。

 けれど彼女たちのそういった賢しい一面を見る度、僕は違和感のようなものを憶えてしまうのだ。

 その違和感の正体は何だろうと思案しているうちに、気が付けば僕は自分の家へと辿り着いていた。

 満身創痍な体で家まで辿り着けたことに驚く。

 ほんの僅かな動作でも悲鳴をあげる体に、ここが最後だと言い聞かせて玄関のドアを押し開く。

 そうして出来た僅かな隙間に、滑り込ませるようにして身を通した。

 ふう。

 自力で帰宅出来たことによって、ささやかな達成感が得られた。

 なんとなく今だけは自分を褒めてやりたくなった。

 先ほどのような、残酷で苛烈な暴力。

 それを受けてなお、こうして一人踏ん張っている。

 今にも心は折れそうだけど。

 今にも涙は頬を伝ってしまいそうだけど。

 それでも、今そうなっていない自分がほんの少しだけ誇らしかった。

 ――と。

 不意に、自分の体に付着している泥が目に入った。

 そうだ。

 僕は泥まみれだった。

 早く風呂に入ろう。

 そう思い、痛む足を風呂場へと向けた瞬間。

 リビングと廊下とを繋ぐドアから。

「帰ってんならまずは父さんにただいまだろうがぁっ!!」

 明らかに酩酊しているのであろう、顔を赤くした父が現れた。

「聞いてんのかぁっ!?」

 乱暴な足取りでこちらへと近寄ってくる父。

 けれど僕にはそれに対し何の反応も返すことが出来なかった。

 まさか父さんが帰ってきているだなんて――。

 予期せぬ父との遭遇により、一瞬にして驚愕と畏怖によって支配されてしまった僕の体。

 その体が、不意に重力から解放された。

 頭部には無数の針を突き刺したような激痛。

 父が僕の頭髪を掴んで僕の体を宙へと浮かせていた。

「あ……ぐ……」

「ああん!? まずはただいまだろうがぁっ!!」

 激昂した父が僕の体をまるで人形のように放り投げる。

 当然、僕の体はそのまま床へと叩きつけられた。

「がっ……はぁ……」

 そのあまりの衝撃に、一時的な絶息状態に陥る。

「おらっ! 何寝てんだてめーはぁっ!!」

 倒れている僕の腹部に、追い打ちをかけるようにして鋭い蹴りが入れられる。

「うぐっ……!」

 喉から呻き声が漏れる。

 それからしばらく、腹部に対し執拗に何度も蹴りを加えられ、僕はそれに呼応して何度も吐いた。

「ちっ……床を汚すぐれーしか能がねーのかよてめーはっ!! さっさと床を拭きやがれクソガキっ!!」

 なおも執拗に蹴りを加える父。

「なあ、あんまり舐めた態度とってると、また地下室でお仕置きされる羽目になるぞ?」

 地下室でお仕置き、という単語を耳にした途端、体中に冷水を流しこまれたかのような寒気を覚えた。

 それはとてつもない恐怖。

 条件反射に近いレベルで体が震え、奥歯がガチガチと鳴る。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 取り憑かれたように僕は謝罪の言葉を繰り返す。

 震える喉が紡ぐその言葉を鬱陶しく感じたのか。

 父は僕の顔面に唾を吐いたあと、自らの寝室へと去っていった。

 冷たい廊下に一人取り残された僕。

 今度はもう、駄目だった。

 目から溢れ、頬を伝う熱い液体。

 悔しさと虚しさで心がはち切れそうだった。

 死にたい。

 生きていたくない。

 生きるのは痛い。

 生きるのは怖い。

 こんなに痛い思いをするのなら、さっさと消えてしまいたい。

 こんなに怖い思いをするのなら、さっさと死んでしまいたい。

 僕は世界を傷つけないのに、世界は僕を傷つける。

 こんな、優しくない世界に生きている意味ってなんだろう。

 ねえ、誰か教えてよ。

 僕の生きる意味を教えてよ。

 ねえ、誰か。

 誰か……。

 僕の心は次第にほつれ、悲嘆の海へと沈んでいった。

 それから一時間後。

 絶望の崖に立ったままの僕は、思考することをやめ、機械めいた動きで廊下を掃除し風呂に入った。

 そして土埃と自身の吐瀉物とで汚れた制服を洗濯機へと放り込み、自室へと向かった。

 部屋に入ると、僕の携帯電話に一通のメールが届いていることに気がついた。

 そういえば今日は家に携帯を忘れたまま学校へ行ったのか。

 メール画面を開く。

 そこには、小林さんからの未読メールが一通。

 メールを開いてみた。

『こんばんは。今日は追い出すようなことしちゃってごめんね。あたしって負けず嫌いだからすぐああやって怒っちゃうんだ。って、あなたならもうそんなこととっくに知ってるか。とにかく、今日のこと謝りたかったの。ごめんね。それと、また二人で楽しくお茶会しよっ』

 その文面を見て。

 僕はまたしても涙をこらえることが出来なかった。

 だがこれはさっきの流したくない涙とは違う。

 嬉しくて、とても嬉しくて、勝手に溢れてくる涙だ。

 この時僕は強く想った。

 僕には彼女が必要だ、と。

 本来ならば抱いてはいけないはずの想い。

 けれどこの時はそんな自分に課した誓約なんて吹っ飛んでしまうほどに彼女を強く求めていた。

 彼女と結ばれたい。

 自然とそう思った。

 関係が変わるのが不安で、今まで言い出せなかった想いを伝えよう。

 決心した。

 明日、彼女に告白する。

 僕は彼女からのメールに、『明日の放課後、教室で話がしたい。待っていてくれないだろうか』というメールを返信した。

 送信完了のメッセージを確認した後、ベッドに横になる。

 彼女の家での会話を思い出す。

 僕の顔をもっと見ていたいと言ってくれた彼女。

 あの言葉が冗談でないならば。

 僕達は明日を過ぎても、変わらずにいられるはず、だ。

 僕のこの行動が、僕らにより良い未来をもたらしてくれると信じて。

 僕は眠った。

 その日は、僕の大好きな漫画の夢を見た。

 その漫画の内容は、長い冒険の末、主人公とその愛する女性の間に強い絆が芽生えるというものだ。

 二人は冒険の間何度も喧嘩をするが、そのたびに何度も仲直りをし、ともに成長した。

 僕はそんな、絆の夢を見た。

 気がつくと朝になっていた。

 今日は彼女に告白すると決めた日だ。

 緊張はしているが、怯えてはいない。

 告白を前にした者の精神状態としては比較的良好だと言えるだろう。

 ベッドから飛び起き、いつもより気合いを入れて身だしなみを整える。

 部屋にある鏡台と睨めっこすることしばし。

 全ての準備を完璧に終えた僕は学校へと向かった。

 昨日の夜まではあんなにも生きることに絶望していたというのに、小林さんからのメールを見たあとではこんなにも気分が違う。

 学校へと向かう足取りも軽やかだ。

 きっと、今日で僕は変わる。

 惨めな自分と決別出来るだろう。

 そして代わりに、小林さんと強い絆で結ばれるのだ。

 小林さんの恋人である自分を想像すると、なんだか誇らしくなった。

 あの優しくて美人で人気者である彼女と恋仲になれたなら、きっと胸躍る毎日が僕を待っているだろう。

 でも、それは本来当たり前のことであるべきなのだ。

 なぜなら僕は特別なのだから。

 いじめられていたって、彼女は僕と共に居てくれている。

 それが何よりの証拠だ。

 あの人気者である彼女が、僕に一目置いているということなのだから。

 今日僕が彼女に告白することによって、彼女との間により強固な繋がりが生まれるだろう。

 そしてそれが生まれた時、僕は自他共に認める特別な存在になれる。

 惨めで弱い自分から特別で強い自分に生まれ変われるんだ。

 自然と口元から笑みが零れた。

 彼女の顔を早く見たい。

 僕は学校へと向かう足を少し早めた。

 普段通りの退屈な授業を終えて。

 放課後になった。

 今日は井上たちに絡まれることも無く、無事放課後を迎えられていた。

 ここ最近はずっと絡まれっぱなしだった分、今日絡まれなかったのは素直にありがたかった。

 それについては懸念していたからだ。

 でもそんな懸念も杞憂と化し、後は彼女がやってくるのを教室でひたすら待つだけだった。

 教室にはすでに僕以外の生徒はおらず、がらんとしていた。

 窓の外に目を向けると、真っ赤に燃える夕暮れが目に染みた。

 今日はやけに赤い気がする。

 気になって、しばらく夕日を眺め続けた。

 ややすると、勢いよく教室の戸が開く音がし、彼女が入って来た。

「ごめーん遅れちゃった! 部活のミーティングが思ったより長引いちゃって」

「気にしなくていいよ。そもそも僕が呼びだしたんだし」

「それで、話って何?」

 窓際の座る僕の隣に腰かけ、覗きこむようにして僕の顔を見る彼女。

 その瞳は無垢で、今から僕が言おうとしていることを微塵も予想していないようだった。

「うん、実はね……」

 緊張して声が上擦りそうになる。

 僕はおもむろに立ちあがって、彼女の前へと歩み出る。

 覚悟を決めろ、僕。

 僕には彼女が必要なんだ。

 彼女の優しさが。

 彼女との繋がりが。

 絆が。

「あなたのことが好きです、小林さん」

 意を決して、言った。

「えっ……?」

 虚を突かれたという顔。

「良かったら、その……僕と、お付き合いしてくれませんか?」

 言い切った。

「…………」

 後は、彼女の返事を待つだけ。

 心臓が今にも喉から飛び出そうだ。

 体中から変な汗が噴き出すのを感じる。

 緊張が最高潮に達しているのだろう。

 まだか、まだかと逸る僕の気持ちとは裏腹に、彼女はいまだ何が起ったのか理解出来ていないという表情。

 彼女は一体何と答えるだろうか。

 やはり断られてしまうだろうか。

 それとも笑って良いよって言ってくれるだろうか。

 どちらも考えられたけど、僕には後者になるような気がした。

 だって、僕の聞き間違いでないのなら。

 昨日、僕の顔をもっと見ていたいと言ったあの言葉は本心だったはずだから。

 それならば、僕の告白にだって、きっと――。

「あはははははははははははははははっっっ!!!!」

 突然、大声をあげて小林さんが笑いだした。

「ど、どうしたのっ?」

「どうしたのって、そんなの決まってるじゃない。あなたの滑稽さに大爆笑してたのよ」

 え?

 今度は僕が虚を突かれたような顔をする番なのか。

「あ、あの……小林……さん?」

「あーウザ。ここまでキモイ奴だとは思ってなかったわ。まさかあたしに告白してくるなんて。そりゃあ確かに、今まであなたにはわざと優しく接してあげてたけれど、それで告白までされるなんて予想だにしなかったわ」

 笑顔から一転、蔑むような表情と、嘲笑うかのような口調。

 僕が、キモイ?

 どういうことだ、これは。

 目の前の小林さんは本当に小林さんなのか?

 まるで別人のような、セリフと声。

 困惑する僕に。

「まあ混乱するよねー、普通は。あなたからしてみれば今まさに信じられないような出来事が起きてるわけだもんね。まあ、そうなるように振る舞って来たんだけど。いいわ、教えてあげる。簡単に言うとあなたは騙されていたのよ。あたしに」

 彼女は冷たくそう言い放った。

 騙されていた?

 僕が?

 誰に?

 小林さん、に……?

「騙してたって……そんな、嘘だよね……?」

「嘘じゃないんだなーこれが。逆に言うなら、今までのあたしが嘘だったってわけ。あなたに優しく声をかけて、あなたに優しく接して、あなたにさも好意を寄せているかのようなあたしは、全部嘘だったの」

「そん、な……あれが、全部、嘘……? 僕に見せてくれた笑顔も、僕を誘ってくれた手紙も、僕に送ってくれたメールも、今までの、全部嘘だって言うのか……!?」

「そうよ。ぜーんぶ嘘。何もかもあたしのためにやった。あたしのあたしによるあたしのためだけの独善。あなたのためにやった行動なんて何一つないわ」

「なん、で……なんで、そんなことしたんだ……」

「あたしはね、あたしより不幸な人間が欲しかったの」

「不幸な人間……?」

「そ。その様子だと知らないみたいね。まあ無理もないか。あたしのまわりだと、あなたがぶっちぎりで不幸だもの」

 そう言って、彼女は続ける。

「自分より不幸な人間の存在っていうのはね、とても貴重で心安らぐものなのよ」

 僕を見て恍惚の表情を浮かべる彼女。

「全然今の状況がわからないって顔してるわね……いいわ、教えてあげる。事の発端は小学校よ」

 それから彼女は、ゆっくりと語り出した。

「小学校の入学式の前日、あたしの家で飼っていた犬が病気で死んだの。これが事の始まり。それはそれは悲しかったわ。まるであたしの世界の全てが壊れたようにすら感じた。結局その悲しみは一日経っても冷めることなく、むしろ一層悲しみを色濃くしながら、あたしはその日行われた入学式に参加した。もちろん全然楽しくなんてなかった。両親はなんとかあたしを笑わせようと努力していたけど、大好きなペットが死んだのに無理に笑わせるのも可哀想だと思ったのか、入学式の日に撮った写真は結局仏頂面のあたしが映ってるものになったわ。笑えない入学式の間中、あたしはずっと死んでしまった犬のことばかり考えていた。もちろん入学式が終わった後も。けれどそんな時、あなたを見つけた。あなたは見るからに悲しそうだった。このあたしの悲しみなんてまるで悲しみではないと言わんばかりの深い深い悲しみをたたえていた。それを見てあなたに興味を持ったあたしは、その翌日、あなたに声をかけた。正直、この時点で犬の事はかなりどうでも良くなっていたわ。それからしばらくして、あなたの母が交通事故で死んだことを聞いて思ったの」

「何、を……?」

「ああ、この子はこんなにも悲しみに暮れている。あたしよりも桁違いな不幸にまみれている。この子の傍にいると、あたしの悲しみなんてまるで生まれたての赤ん坊。ひたすら無垢で可愛いらしいものでしかない、と」

 彼女は続ける。

「そして同時に悟ったわ。不幸な人間が傍にいると、相対的にあたしは幸せになれるんだって。現にあたしはその時、家族同然だった犬がいなくなった悲しみをほとんど感じなくなっていたから。あなたの不幸があたしに幸福をもたらしてくれるという事実に気づいて、それどころじゃなかった」

 何を言ってるんだ小林さんは。

 理解出来ないし、したくない。

「それからあたしはあなたを利用することにしたの。あなたの傍にいて、あなたの悲しそうな顔を見る。それがあたしの幸せ」

「そ、んな……」

 彼女の言っていることが信じられない。

 信じたく、ない。

「でも本当に、あなたが告白してくるなんて予想外だったわ。あ、もちろん付き合うのは無理だから。あなたと付き合うなんてさすがに気持ち悪くて。あーあ、もう少しあなたの傍で不幸な人間の落ち込む顔を眺めていたかったんだけど、こうなったらもう無理か。少し予定が狂っちゃったけど仕方ない。あなたとあたしの関係は今日限りで終了。異存はないよね? あ、あとずっと言いたかったんだけどこれ何? 水仙? 何を思ってこの花を選んだのか知らないけど、どう考えてもこのデザインはあたしに似合ってないのよね。なんか辛気臭くて。今まであなたの前では我慢してつけてたけど、正直趣味じゃないのよね。というわけで、これもういらないから返すわ」

 ぞんざいに髪留めをこちらへと放る彼女。

 そんな……。

 子供の頃プレゼントした時あんなに喜んでいたのも、全部嘘だったのか……?

「う、あ……」

「あ、そうだ。これであなたと会話するのも最後だから言っておこうかな。あなた、小学校高学年ぐらいからずっといじめられてるよね? 不思議に思ったことは無い? どうして何もしてないはずの自分がいじめられるんだろうって。あれはね、全部あたしが仕向けたことなの。高学年になってあなたとあたし、同じクラスになったじゃない? それからあたしたちはよく遊んだりして一気に仲良くなったわよね。当時あたしは、あたしとあなたが仲良くなることに何も問題ないと思っていたけれど、そうじゃなかった。あたしとあなたが仲良くなるにつれて、あなたの顔からどんどん不幸が無くなっていくのが分かったの。あたしはあなたの顔に映る不幸をずっと見ていたから、その変化にすぐ気がついたわ。あたしは焦った。このままではあたしの傍から不幸な人間が消えてしまう、と。けれど一晩考えて、あたしはある妙案を思いついた。それはあなたに不幸な目に合ってもらうというものよ。それも断続的に。そうすればあなたは永遠に不幸な人間であり続けられるでしょ? まさに一石二鳥だと思ったあたしは、早速その計画を実行に移した。あなたと違って、人当たりも良く快活だったあたしには仲の良い友達がたくさんいたから、その友人達にあなたをいじめてもらうよう頼んだの。そしたらあなたをいじめることに特に抵抗もなかったのか、友人達は快く承諾してくれたわ」

 紡がれる真実が胸に突き刺さる。

「そしてそれは昨日の、井上さんたちの件についても言えるの。あなたがあたしの家を出て行ってからすぐに彼女たちにメールしたの。森林公園をあなたが通るかもしれないって。ちょうど森林公園のそばにあるカラオケボックスを出たところだった彼女たちは、暇つぶしに程度でいいなら引き受ける、と言ってくれたわ。もちろん、高校に入って彼女たちにあなたをいじめて欲しいと頼んだのもあたし」

 意味が、分からない。

 今まで沙織たちをけしかけていたのは、小林さんだったのか?

 そんなこと……そんなことって……!

「う、ぐ、がぁああああああああああああああああああああっっっっ!!!!」

 精神に過剰な負荷がかかり、処理できなくなった僕は誤作動を起こす。

「あはっ、そうそうその顔よ。その不幸にまみれた顔だけがあたしを癒してくれる。でももうお家に帰らなくっちゃ。じゃあね。あなたとの日々は存外に楽しかったよ」

 そう言って立ち去ろうとする彼女の首を。

 僕は反射的に掴んでいた。

「ちょっ、何するのよっ! 苦しいってば離してっ!!」

 目の前の人間が何か音を発している。

 でもその内容が理解できない。

 僕の意識は先ほど臨界点に達し、焼き切れてしまったから。

 じゃあ今、僕の代わりに僕の体を使って彼女の首を絞めているのは何者なのか。

 僕でなければ一体誰だと言うのだろう。

「苦、しい……ってば……いい、加減離、し……」

 それきり、目の前の人間が音を発しなくなった。

 それを知覚した瞬間、僕の頭の中で何かがカチリと合わさるような音がして――。

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