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-欺瞞-

 翌日。

 教室へ入ると、驚いたことに彼女がいた。

 井上沙織だ。

 昨夜、あんなことがあったというのに、一体どういう神経をしているのだろう。

 そう思ったのとほぼ同時に、突き刺すような視線を感じた。

 クラスの女子数人が、明らかにこちらを睨んでいる。

 そしてどうやら、井上沙織もその数人に含まれているようだった。

 彼女達が何を考えているつもりか知らないが、今の僕にとってそんなことはどうでも良かった。

 ただ、強く願うだけだ。

 昨夜の獲物――井上沙織が致命的な馬鹿であることを。

 沙織が逃げてしまったあと、僕は先輩を介抱していた。

 先輩の言葉通り、すぐに体調は良くなったみたいで、先輩は自分の足で立ち上がるとさっさと帰ってしまった。

 まるで僕に追及されることを避けるように。

 その帰路で、当然だが苦悩した。

 もしも取り逃がしてしまった彼女――井上沙織が今日のことを警察に話したらどうなるのだろう、と。

 そしてそうなれば、僕と先輩の楽しい日々は終焉を迎えることになるのは明白だった。

 しかし、僕に出来ることは何も無かった。

 今から沙織に追いつくことなど不可能に近いし、かといって直接沙織の家へ乗りこもうにも住所をそもそも知らなかった。

 だから僕は腹をくくり、賭けることにした。

 井上沙織が、僕たちのことを警察や両親に話さないという可能性に。

 正直、賭けと呼べるのかすら危うい賭け。

 神頼みもいいところだ。

 けれど、無力な僕はすがるしかなかった。

 沙織が事の重大さに気づかず、僕らのことを誰にも話さない馬鹿であるという可能性に。

 鬱陶しい視線を意にも介さず自分の席へ座り、審判の時を待つ。

 ほどなくして、教室に担任が現れた。

 緊張の一瞬。

 先生が僕を呼び出したらアウト、僕に対して何もなければセーフ。

 さて、勝利の女神は微笑んでくれるのか……。



 放課後。

 結論として、女神は微笑んでくれた。

 僕は賭けに勝ったのだ。

 担任の先生が僕に対して言及することは全く無かった。

 警察が僕のもとへやってくることも無かった。

 だが、完璧に勝ったわけではなかった。

 ゆえに、今こうして体育館裏というベタベタな場所へと連れてこられていた。

 井上沙織を含む、今朝僕を睨んでいた数人に。

「あんた、どうしてここに連れてこられたかは分かってるわよね?」

 沙織が怒気を含んだ声で言い放つ。

「えっと、ちょっと良く分からないな」

 とぼけてみた。

「はあ? あんた私にそんな態度取っていいわけ!?」

 眉を吊り上げて睨んでくる沙織。

 射竦めるような視線。

 それがなぜだか、ひどく居心地の悪いもののように感じられて、目を逸らした。

「…………」

 沈黙で返しつつ、思考する。

 体育館裏。

 傍には用具倉庫もある。

 そこで僕を取り囲む4名の女生徒。

 その中の、見た感じ明らかにリーダー格である少女、井上沙織。

 切れ長の瞳と、その口調が彼女の性格を如実に現している。

 高圧的で攻撃的。

 絵に描いたような直情型。

 そんな一筋縄ではいかないであろう少女に、今こうして詰め寄られている。

 面倒なことになった、と思う反面、納得もしていた。

 こうなる可能性を十分に考慮していたからだ。

 僕への報復。

 まあ、誰だってあんなことをされればむかつくだろう。

 親しくもない男子生徒に、いきなり口を塞がれ体を押さえつけられ、挙句耳元でわけのわからない事を囁かれたりなんかした日には激するのも無理はない。

 だが、彼女が僕をただのストーカーまがいの変質者という認識で終わらせてくれたのには助かった。

 そうでなければ、今頃僕と先輩は為す術もなくお縄についていただろう。

 だからまあ、今は彼女の報復を甘んじて受け入れるとして。

 問題はその先だ。

 彼女の報復が終わったあと、いかにして彼女の口を塞ぐか。

 というより、いかにして先輩と合流し、彼女を無惨な肉塊へと変えるか、だ。

「ちょっと! あんたあたしの話聞いてんの!?」

 こちらが無言のままであることに業を煮やしたのか、沙織がヒステリックに叫ぶ。

「ああ、聞いてるよ。一割くらいはね」

「何ですって……! これは喧嘩売ってるとみていいのよね……?」

 沙織が怒りに体を震わせる。

「ねぇ沙織、もう面倒だからさっさとこいつボコそうよ」

 沙織の隣にいた女子――確か名前は小島紗江――が不穏なことを言う。

「ええそうね。あたしも今同じことを考えていたところだわ」

 言いながら、沙織が胸倉を掴んできた。

「ふふふ……いつものように教育してあげるわ」

 凄惨な笑みを浮かべてそう言い放つと、突如腹部に重い衝撃。

 その痛みに自然と蹲ってしまう。

 蹲ったその背中に追い打ちをかけるように、多方向から激痛が送りこまれてきた。

 殴られたのか――と理解すると同時に、何か良くないことを思い出しそうになった。

 脳裏にちらつく良くないイメージ。

 そのイメージを記憶の海から掬いあげようとするたび脳が軋む。

 故にそれは茫洋として、判然としない。

「ほらっ! 思い出したっ? あたしたちの教育をっ!!」

「調子に乗ってるからっ! こういう目にっ! 合うんだよばーか!」

「きゃははっ! 教育するのって! ほんと気持ち良いっ!」

「死ねっ! 死ねっ! ゴミを蹴るのって楽しー!」

 間断なく四方から襲ってくる、衝撃と痛み。

 加え続けられる報復という名の暴力。

 女子相手ということで油断していたのかもしれない。

 僕の体はみるみるうちに痛みと恐怖で支配されていった。

 そして耐えられる痛みの許容量を越えそうになった時。

 一際鋭い蹴りが、僕に突き刺さった。

 それを最後に、あっさりと僕は意識を失った。

 でも、その意識を失うほんの短い時間の中で。

 あの良くないイメージに少しだけ触れることが出来た。

 それは僕の記憶。

 断片的で不明瞭な記憶。

 けれど、僕にはそれでも十分に衝撃的なものだった。

 僕が触れたその記憶には、僕と、先輩に最初に食い殺された小林美奈が二人きりでいて――。



 斜陽刺す放課後の教室。

 僕と小林美奈の二人きり。

 黒板には僕が先輩と初めて出会った日の日付け。

 なぜか真剣な表情の僕。

 その僕が美奈に向かって何かを語りかけている。

 それを受けて美奈が何かを言い返す。

 美奈は笑っているようだった。

 けれどその笑顔を見た僕は怒りで頭の中がぐつぐつと煮えたぎり。

 無我夢中で美奈に詰め寄って。

 その細い首に手を――――。



 目が覚めた。

 ああ、そういえば僕は気を失っていたのだったか。

 体育館裏でひどいリンチに合っていたのを思い出す。

 同時に良くないイメージの断片のことも思い出した。

「そ、そう言えば! 今の記憶は……いったい……!」

 今垣間見えた記憶が確かなら、美奈を殺したのは僕ということになる。

 けれど同時に、僕には先輩が美奈を喰っているのを見た記憶もある。

 果たしてどちらが真実なのだろうか。

 周囲を見渡して、はたと気づく。

 ここは僕の部屋だ。

 つまりこの状況は、先輩が美奈を喰らっている光景を見た、あの日と同じだ。

 気がつくと気絶していて、部屋に戻っている。

 一体僕の身に何が起きているんだろう。

 そもそも、井上沙織たちはどうしたのか。

 気が済むまで僕を殴った後、さっさと帰ってしまったのだろうか。

 他にも、僕はあの体育館裏から、どうやってここまで帰って来たのか。

「とにかく、一度先輩に話を聞いてみないと……!」

 もしかしたらまたはぐらかされるかもしれない。

 けれど今回はきっと、本当のことを教えてくれる。

 そんな気がした。

 現在時刻は午前二時。

 不可解なことがありすぎて、思ったより随分と経過している時間に驚くこともなかった。

 ほどなくして僕はベッドに潜り込み、泥のように眠った。



 けたたましい電子音で目が覚めた。

 胡乱な頭で目覚ましを止める。

 なんだか体が重い。

 ここしばらくずっとそうだ。

 眠っても疲れがとれない。

 まあ、最近は色々あったからな。

 無理もないか。

 ベッドから抜け出す。

 その拍子に全身に鈍い痛みが走る。

「っ……そうだった」

 体育館裏での出来事を思い出す。

 体中のあちこちにある、痣と擦り傷。

 彼女たちの報復はあれで終わってくれたのだろうか。

 思い出し、一方的な暴力の恐怖に身震いした。

「なにが教育だよ……」

 教育と言いながら殴ってきた沙織たち。

 その悪辣な矛盾を指摘することは簡単だ。

 けれど、それよりも気になるのは。

「いつものようにって……どういう意味だったんだろう……?」

 不可解だ。

 でも、もともと僕のまわりには不可解なことだらけだった気もする。

 我ながら、何を今さら、だ。

 不可解なら訊ねればいい。

 その答えはきっと先輩が持っているはずだ。

 井上たちの動向も気になるがとにかく学校へ行こう。

 身だしなみを整えてから、朝食をとる。

 今日も今日とて奇妙な味のする食パンを胃に収めてから、僕は家を出た。

 そういえば最近、父と顔を合わせていない気がするな、なんてことを考えていたらあっという間に学校に着いた。

 教室のドアをくぐる。

 すると危惧していたはずの視線が無いことに気づいた。

 井上たちはまだ学校に来てないのか。

 その事実に少しだけ胸をなでおろしながら、自分の席へ腰を下ろした。



 あれこれと考えていたらいつの間にか放課後になっていた。

 結局、井上たちは誰ひとりとして学校へ来ることはなかった。

 それはそれで大変嬉しい誤算だったのだが、どこか釈然としないものもあった。

 四人がみな同時に休むなんてことがあり得るだろうか。

 それもこのタイミングで、だ。

 まあ、それについては今日一日中ずっと考えていたので結論はもう出ているのだが。

 結論はノー。

 だがその理由までは流石にわからない。

 とにかく今は警戒だけしておこう。

 殴られた時に植えつけれられた恐怖心がそれを全力で肯定していた。

 それから数時間が経過した。

 おかしい。

 いつまで待っても先輩が来ない。

 念のため屋上も見てまわったがそこにもいなかった。

 僕らが初めて屋上を訪れた時以来、僕らは頻繁に屋上を利用していた。

 だから僕達の間では、放課後は僕の教室か屋上で待ち合わせる、という暗黙のルールが出来ていた。

 いや、今はそんなことどうだっていい。

 井上たちだけでなく、先輩まで学校に来ないというのは一体どういうことだ。

 胸がざわつく。

 このままニ度と先輩に会えなかったら、という疑念が僕の心を支配する。

 ……結局、学校が閉まるまで先輩は僕のもとへ現れなかった。

 焦燥と戸惑いと苛立ち。

 それらが頭の中でせめぎ合っている。

 混乱する頭で、なんとか家までたどり着いた。

 そして、就寝時間になる頃には混乱も収まり、代わりにひとつの決意が生まれていた。

 僕はその決意をそっと胸にしまいながら、ベッドに横たわり、目を閉じた。



 翌日。

 僕は一時間目の授業が終わるや否や、職員室へと向かっていた。

 そう、先輩の所在を確かめに行くのだ。

 これが昨夜決意したこと。

 先輩の内側へと踏み込む。

 内側とは、有り体に言って先輩のプライベートな部分だ。

 今まであまりそういう部分に踏み込まなかったのは、普段の先輩の言動から察して、そういう過干渉を先輩が嫌うだろうと思っていたからだ。 

 けれど、もうそうは言っていられない。

 先輩のことがとてつもなく心配になってしまっている。

 井上を襲った時に見せたあの苦悶の表情。

 あの苦しげな顔が僕の脳裏に貼り付いて離れない。

 今もどこかで一人苦しんでいるのではないかと思うと気が気じゃない。

 僕の推測が正しければきっと先輩は今日も学校を休んでいるはずだ。

 僕のことは裏切らないと言ってくれた先輩だ。

 きっと何か理由があって学校に来られないのだろう。

 それが先輩を今も苦しめているような危険な理由でなければいいが……。

 とにかく、井上たちがみな揃って学校を休んでいる事と何か関係あるのかは分からないが、先輩の住所を三年一組の担任である教師に訊ねなければ。

 確か三年一組の担任はうちのクラスで数学担当の男性教諭のはず。

 職員室を見まわしてみる。

 ……いた。

 自分の机で何やら書類整理をしているのがそうだ。

 失礼しますと告げながら、その数学教師のもとまで足を運んだ。

「先生」

「ん、どうした?」

 僕がこの時間にここを訪れていることに驚いているのだろう、数学教師は物珍しそうな顔でこちらを見ていた。

「ひとつ、お訊ねしたいことがあるのですがよろしいでしょうか?」

「ああ、いいぞ。数学についてか?」

「いえ、そうではありません。先生の担任しているクラスメイトのことについてです」

「俺のクラスについて? まあ構わんが……なんだ、言ってみろ」

 はやる気持ちを抑えながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「先生のクラスに所属している時古愛さんのことなんですが、その……今日も欠席していますか?」

 一応、出席の確認をとっておくことにした。

 まあ、欠席しているという言葉が返ってくると予想していながら訊ねた。

 けれど、返って来た言葉は予想外のものだった。

「はあ? うちのクラスに、時古愛? 何言ってるんだお前は」

「え……? ですから、時古愛という生徒の出欠を教えていただきたいのですが……」

「時古愛なんて生徒、うちのクラスにはいないぞ」

 側頭部をハンマーでぶん殴られたような衝撃。

 僕の中の何かがガラガラと音を立て崩れて行く。

「え……時古愛が……いない……?」

「ああ、いないぞ。そもそも――」

 僕は先生の言葉を最後まで聞くことなく走り出した。

「っておいこらっ! 廊下は走るな!」

 職員室を飛び出した僕は、まっすぐに三年一組へと向かった。

 三年一組に入るなり、目の前にいた男子生徒に訊ねた。

「このクラスにっ、時古愛という生徒はいますかっ!?」

「時古、愛? いないけど?」

「っ……!」

 僕は認めたくなくて、教室中に響き渡る声で叫ぶ。

「このクラスにっ! 時古愛という生徒を知っている人はいますかっ!?」

 突然の叫び声にしばし呆然とするクラス。

 だが、やがて返って来た三年生達の反応によって僕は認めることになる。

「なにいってんだあいつ。てか時古愛って誰?」

「あんた知ってる?」

「いや知らね。聞いたことも無いわ」

「あれって一年生? 罰ゲームでもやらされてんのかな?」

「つかうぜぇんだけどまじ。いきなり教室入ってきてなんなの」

 三年一組の生徒の声。

 それらが伝えるものは……。

「……くそっ!」

 僕は三年一組を飛び出した。

 耐えられなかったのだ。

 目の前の光景が伝えてくる真実に。

 学校を飛び出し、どこへとも知れず駆けていた。

 認めてしまえば、それは簡単なことだった。

 先輩は三年一組に所属していない。

 たぶん、学校の生徒ですらない。

 つまり、先輩の言っていたことは嘘。

 初めて会話したあの日から先輩は僕に嘘を吐いていたのだ。

 そもそも先輩とは放課後以外では校舎内で出会ったことがない。

 その時点で気づくべきだったのだ。

 何かがおかしいということに。

 あの制服が自分のものだというのも嘘だろう。

 僕を面白いと言って笑っていたのも嘘かもしれない。

 いったい他にいくつの嘘を僕についているのだろう。

 僕は先輩のことが好きで好きで好きでたまらなくて、いつだって先輩には誠実に、正直でありたいと思っていたのに。

 それなのに、あっちは初めから僕を騙す気でいたなんて。

 まるで僕が馬鹿みたいじゃないか。

 いや、馬鹿なのか。

 共犯を結ぼうという提案に、勝手に喜んで。

 利用されているとも知らずに、刺激的な毎日だと勝手に幸せを感じて。

 とんだピエロじゃないか。

 でも……どうしてだろう。

 彼女に騙されていたと知ったのに、彼女を憎む気持ちが全然湧いてこないのは。

 逆に、何か理由があって彼女が僕を騙していたのだと思いこもうとする、そんな自分の往生際の悪さばかり実感するのは。

 ぐちゃぐちゃになりそうな頭を抱えて走り回っていると、いつ間にか自分の家の前に立っていた。

 自分の帰巣本能はこんな時にでも正確に作用するのかと、少しだけ腹が立った。

 仕方なく家に入る。

 心を落ち着かせようと思い、手始めに熱いシャワーを浴びた。

 驚いたことに、それなりの効果が得られた。

 そのおかげで、さきほどよりは少し冷静に状況を分析できている気がする。

 今先輩はどこにいるのか。

 先輩に騙されていたことはショックだった。

 けれどそれ以上に、今は先輩に会いたかった。

 色々と訊ねたいことがありすぎたし、何より先輩の顔が見たかった。

 裏切りとも呼べる行為をされたのに、先輩を憎み切れない。

 それどころか、いまだに先輩のことを思うと胸が熱くなる。

 痛感した。

 僕は、自分で思っていたよりもずっと、先輩のことが好きだったのだと。

 先輩の居場所が分からない自分がもどかしい。

 それにしても、先輩は一体何者なのだろう。

 もともと人間じゃない可能性は考慮していたが、学校に在籍していないとまでは考えていなかった。

 正体を教えてくれないことについては、別段ひどいとも思わなかったし、誰にでも言いたくないことはあるだろうと、今まで深く詮索はしなかった。

 そうか。

 僕が彼女にあっさりと騙されていた理由は、彼女が言葉を濁すという行動をとることがあったからだ。

 言いたくないことについては分かりやすいくらいにはぐらかしたりお茶を濁したりして言明することを避けていた。

 言いたくないのなら、クラスや制服みたいに嘘をつけばいいだけなのに、どうして彼女はそんな面倒なことをしたのだろう。

 考えながら、部屋着を取りに自分の部屋へと入る。

 部屋着を着た後、ふと見慣れないものがあることに気づいた。

 それが置いてある場所――机の方へと近寄ってみる。

「なんだこれ……どうしてこんなものがここに……?」

 見慣れないもの。

 それは制服だった。

 うちの制服。

 それも女子の。

 男子のならばいざ知らず、どうしてここに女子の制服が……?

 なんだか気味が悪い。

 もっと良く調べようとして、それを手に取った。

 その拍子に、何かが制服の中から落下した。

「これは……うちの生徒手帳、か?」

 床に落ちていたのは、赤を基調とした装丁の上にうちの校章が施された、まぎれも無いうちの学生証である生徒手帳だった。

 やった。

 生徒手帳があればこの制服の持ち主が分かる。

 身に覚えの無い制服が自分の部屋に置いてあるというははっきり言って気持ちの悪い状況だ。

 その状況を構成している原因を取り除けるのならばさっさと取り除きたい。

 そう思い、生徒手帳の氏名と顔写真が掲載されている面を覗き見た。

「な、なんだよ……これっ……!」

 脳みそを直接手で鷲掴みにされたような衝撃。

 処理しきれない情報を受け取った時に生じる眩暈と、吐き気。

 その生徒手帳には、見知らぬ女生徒の顔写真と。

 その傍に記された、時古愛という名前……!

「誰なんだよこいつは……!」

 どうして見たこともない顔のこいつが先輩の名前、時古愛を名乗ってて、しかもそいつの制服が僕の家にあるんだよ……!

 いったい僕のまわりで何が起こってるんだよ……愛先輩……!

 先輩の顔を思い出そうとして、はたと気づく。

「あれ……先輩って、どんな顔してたっけ……?」

 あれほどまでに想っていたはずの先輩の顔が思い出せない。

 先輩の姿を思い出そうとすると、その顔の部分にだけ霞がかったようになって鮮明にイメージすることが出来ない。

 そのうえ先輩について何か思い出そうとするとほんの少しだが頭が痛む。

 そのささやかな頭痛で、思い出した。

「そう言えば先輩と初めてあった翌日、これとよく似た症状が出ていたような……」

 けれど、それが分かったところで現状は何も変わりはしない。

 考えれば考えるだけ、頭は痛み、視界が歪む。

 パニックになりかけていた。

 けれど幸か不幸か、僕はそれの存在に気づくことが出来た。

「これは……付箋、か?」

 生徒手帳の上端からかすかに赤い紙片のようなものが覗いていた。

 急いでそのページを開いて付箋に目をやった。

 付箋には短く、


 あの部屋で待ってる


 とだけ書いてあった。

 先輩の字だ。

 確証はない。

 正直な話、先輩の字を見たことは一度もないからだ。

 けれど、僕の直感がこれは先輩の字だと強く主張している。

 それにしてもこのメッセージ。

『あの部屋で待ってる』とは一体どういうことなのだろう。

 あの部屋が指し示す部屋とは……。

 思索を巡らそうとしたその刹那。

 天啓のようにその部屋の答えが僕の頭に降って湧いた。

 まるで誰かに耳元で答えを囁いてもらったような感じのする、妙な閃きだった。

 ともあれ、僕はその答えである部屋へと向かった。

 正確には、その部屋へと通じるドアの前。

 僕の家の玄関から長く伸びた廊下。

 その廊下を洗面所へ向かって真っ直ぐ進んだところにある階段側の壁。

 そこに、そのドアはあった。

 重々しい雰囲気の鉄扉。

 基本的に洋風で統一されているうちの内装とは明らかに不釣り合いなドア。

 というか、こんなところにドアなんてあったのか。

 どうして、今までおかしいと思わなかったのだろう。

 そのドアの取っ手部分はあからさまに他と比べて汚れている。

 それも不気味なほどに赤黒く、だ。

 本当に、どうしてこのドアの存在に今まで気づかなかったのだろう。

 まるでこのドアだけ、僕の記憶から消去されていたみたいだ。

 それでも、まるで吸い寄せられるようにここに足を運んだあたり、一応憶えてはいたのだろう。

 そういえば、以前にも一度この場所に来たことがあるような気がする。

 とにかく、あの妙な閃きも手伝って、思い出せた。

 忘却の彼方にあったこの場所を。

 自分の家だというのに、このドアの先がどんな部屋に繋がっているのか全然記憶にない。

 ともあれ、ドアを開けよう。

 ドアノブに手をかけようとして、気づく。

 背筋を伝う冷たい汗。

 伸ばした手が震えている。

 きっと、本能的に分かってしまっているのだ。

 この先に、真実があると。

 それも、受け入れるのに激痛を伴う、剣山のような真実が。

 けれど、もう後戻りは出来ないし、したくない。

 僕は先輩に会って全てを知りたいから。

 意を決して、ドアノブを捻り鉄扉を押し出す。

 そこには闇があった。

 否。

 闇と、地下へと続く階段があった。

 目が暗闇になれる頃には、そこがどういう場所なのかある程度把握できていた。

 ドアの開閉が最小限機能すればいいという程度に確保されたスペースの先に、闇に慣れた今でさえ、暗くて奥が見えないほど地下へと続いている階段。

 それらはみな、手触りや見た目から推測するに、打放しコンクリートで出来ているようだった。

「こんな場所があったなんて……」

 独白し、息を呑む。

 きっとこの階段の先に先輩はいる。

 僕はその、まるで地獄にでも続いているかのような階段に一歩踏み出した。

 闇の中、両脇の壁を頼りになんとか階段を下っていくと、ほどなくして前方に小さな明りが見えた。

 その光源があったポイントこそが階段の終着点だった。

 頭上を見上げる。

 どうやら明りの正体は天井部分にある薄汚れた白熱灯の光ようだ。

 一息ついてから、周囲を見回す。

 正六面体の内部のような空間。

 その一面は全て五畳あるかないかというサイズ。

 そのスペースの前方と右方と左方に、それぞれ鉄製の重々しいドアがひとつづつ取り付けられている。

 言うまでも無く、後方にはさきほど下ってきた階段がある。

 これらのドアの先にも部屋があるということだろうか……?

 であれば少なくとも三つの部屋がこの先にはある。

 最悪、ドアの先の部屋にまたドアが……ということも在り得る。

 ただでさえ異常な出来事が連続発生して精神が摩耗している中、自分の家にこれ以上不可解な空間が存在するという想像は避けたいところだった。

 それにしてもさきほどから感じるこの公衆便所のような臭いはなんなのだろうか。

 階段の中腹あたりからそれを感じ、一歩下るごとにその臭いは強くなり、ことここに至ってはその存在感を不快な香りでもってうるさいほど主張していた。

 降りてきた階段の方を見上げる。

 長さは約五十メートルといったところか。

 この程度の長さなら階上からここの光が見えていてもよさそうなものだが。

 まあ今そんなことを心中で論じても仕方がない。

 今すべきこと。

 それはドアを開けることだ。

 次々と未知の扉を開けていくという行為には、何か哲学的なものを感じないでもないが、今はそんなことよりも。

 ドアを開かなくては。

 先輩に会うために。

 そう考え、さて、どのドアから開いたものだろうと思案した瞬間。

 左のドアを開いてごらん。

 という声が聴こえた。

 慌ててあたりを見回すが、誰もいない。

 今の声は間違いない。

 先輩の声だ。

 鈴の音のような、澄んだ響きを持つ声。

 聴き間違えるはずなどない。

 その声に導かれたのか、気がつくと僕は左方にあったドアに手を掛け、それを押し開いていた。

「……っ!?」

 やにわに鼻腔を突き刺す強烈な悪臭。

 其処此処から漏れ聴こえてくる呻き声。

 眼前に広がるその光景は、最早言葉に出来るものではなかった。

 半裸の少女達。

 目隠しや猿轡を施され、部屋の壁と鎖で手足を繋がれているという、およそ自由の九割を奪われている少女達が、そこにはいた。

 少女達の数は目算で約十名ほど。

 少女達はみな薄汚れていて、所々怪我を負っているように見えた。

 部屋の各所には得体のしれない拷問道具らしきものがズラリと並んでいる。

 眼前の光景に驚くあまり、饐えたアンモニア臭が充満した部屋であるにも関わらず僕は鼻を抑えることも忘れ、ただ彫像のように立ちつくすばかりだった。

 だがそんな僕をあざ笑うかのようにあの声が聴こえてきた。

 次は右の部屋を覗いてごらん。

 ほとんど忘我した状態の僕は促されるまま、こことは反対側の、階段から右方に位置するドアのもとまで行き、それを開いた。

「……っ」

 またしても鼻をつんざく強烈な悪臭。

 生ゴミとチーズを一緒くたにして長いこと放置した時に漂ってきそうな、そんな刺激臭。

 薄暗い部屋の中央、パンパンにつめたゴミ袋三つ分くらいの塊が、どうやらその臭いの発生源らしかった。

 おそるおそる近づいてみて、後悔した。

 それはゴミ袋ではなく人の死体だった。

 死後何週間も経っているのだろう、その死体は腐乱しきっていて、最早人間の外見をしていなかった。

 かすかに残る衣類等の残骸から、それが人間の死体であるということが理解出来た。

 これは一体誰の死体なのだろうか。

 死体はまるで化物のようで、ひたすらに不気味だ。

 でも何よりも不気味なのは、そんなものが家の地下にあると知らず今までのうのうと暮らしてきた自分自身だった。

 正直、自分でもなぜ今自分がパニックになっていないのか驚いている。

 もちろん、眩暈や吐き気、それにこの異常過ぎる地下室の存在で今にも頭がパンクしそうではある。

 けれどすんでのところで意識までは失わずに済んでいる。

 まるで誰かに支えられているかのようなバランスで僕の意識は保たれていた。

 朦朧とする意識の中、またしても声を聞いた。

 最後のドアを開いてごらん。

 そろそろ声が聴こえてくるであろうことは十分に予想出来ていた。

 ふらつく頭でなんとか部屋を出て、最後のドアの前に立つ。

 ドアノブに手を掛け、ゆっくりと押し開いた。

 一面の白。

 そこは白に囲まれた世界だった。

 否、白しか存在しない世界だった。

 天井から吊り下げられた白熱電球。

 その光が照らし出すのは、狂気さえ感じさせるほどに白い壁面と、中央にただ一つぽつんと存在するこれまた真っ白な椅子。

 そして、そこに足を組んで悠然と座す、愛先輩の姿。

「やあ、また会ったね。これで君と会うのは四回目かな?」

「ふざけないでくださいっ……!」

「おやおや、どうしたんだい? 声が震えているみたいだけど、何か怖いことでもあったのかな?」

「愛先輩。これは……一体どういうことなんですか?」

「どういうことも何も無いよ。君もたった今見てきたろう? そういうことさ」

「……答えになってないです」

「君の求める答えっていうのは、要約するとどうして自分の家の地下にたくさんの囚われの少女と出所不明の死体があるのか、ということでいいのかな?」

「他にも聞きたいことはたくさんあります。どうして先輩がここにいるのかとか……でも、それだけでも話してくれるのなら是非聞きたいです。先輩の口から、真実を」

少しだけ考え込むような仕草をした後、にわかに先輩は吹き出した。

「ふふふっ、あはははははははっ! やっぱり君は面白いね。君自身薄々感づいているだろうに。それでも私の口から真実を聞きたいのかい? やっぱり君は生粋のマゾヒストだよ」

「……以前にも言いましたけど、僕はマゾなんかじゃありません。それに、聞きたいことは何でも聞いてくれって言ったのは先輩の方じゃないですか?」

 僕のその言葉に先輩は一瞬だけ目を丸くして驚いていた。

「ふふ、確かにそう言ったのは私だ。これは一本取られた、と言うべきなのかな」

「軽口はもう結構です。愛先輩、どうして僕の家の地下がこうなっているのか……いい加減教えてください」

「ちぇー。久しぶりの、と言っても数日ぶりだが。君との会話を楽しみたいという私の気持ちを汲んではくれないんだね、君は。そういうつれないところは全然変わってないみたいで安心したよ」

「愛先輩」

「ああ、わかっているとも、わかっているさ。話せばいいんだろう話せば。と言っても、一言で終わってしまうのだがな」

 僕は無言で続きを促した。

「どうして君の家の地下がこんなことになっているか。それはもちろん――」

 彼女の唇の端が凄惨に吊り上がる。

「私が君を騙していたからだよ」

「……っ!」

 薄々感づいていたことだが、いざ面と向かって言われるとひどく胸が痛んだ。

「ふふ、今の私の一言にけっこう傷ついたみたいだね君は。しかもそれを予想していたような顔だ。やっぱりどう考えてもマゾじゃないか」

「どう、して……?」

「どうして? そんなの決まっているじゃないか。私達の犯行が露見した時のための保険だよ。君の家の地下に監禁された少女たちと死体があれば、私はいくらでも言い逃れ出来る。加えて私は女だ。警察もまさか私が実行犯だとは思わないだろう」

 先輩の一言一言が胸に重く突き刺さる。

「状況証拠に歴然とした差をつけたくてね。君の家には色々と細工させてもらったよ。私は警察に捕まる気なんてさらさらないが、もし捕まってしまっても、これだけ証拠が揃っていれば、君に脅されていたと言うだけで無罪放免の可能性すらある」

 受け入れ難い現実が次々と目の前に突きつけられていく。

「初めて君に目撃された時は正直焦ったよ。けれど同時に容易いとも思った。なぜなら君は私を見るなり気絶してしまうような生徒だったからね。そんな軟弱な男子生徒には過激な誘惑でもすればいけるのでは、と考えていたらまさしくその通り上手くいってね。あの後は笑いが止まらなかったよ」

 嫌だ。

「そう言えば笑いついでにもうひとつ。いつだったか君は私のホッカイロになりたいとか言っていたよね。あの時は私の計画がバレてしまったのかと思ったよ。なぜって、ホッカイロは使い捨てるものだろう? 君は自覚も無しにそれを見事言い当てたんだ。こんなに滑稽なセリフもないと思って、あの日君と別れたあと腹がよじれるほど笑わせてもらった。ふふっ、今思い出しても笑えてくる」

 もう聞きたくない。

「でもそれももう終わりだ。君にバレてしまった以上、君を消すしかなくなった」

 先輩は音も無く椅子から立ち上がると、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 やがて呆然と立ち尽くす僕の喉笛に、先輩の白磁の手のひらが重なった。

「さようなら。君との日々は存外に楽しかったよ」

 万力のような力で締めあげられる僕の喉。

 苦しい。

 けれど不思議と辛くはなかった。

 最期の瞬間にこうして先輩と触れあっているからだろうか。

 何人も殺した大罪人の最期にしてはいささか幸せすぎる終わりかもしれない。

 そう、僕は真相を知っても、こんな瞬間になってもまだ、先輩のことを……。

 ああ……先輩と出会えて、本当に……。

 視界が暗転する。

 薄れゆく意識の中、何か柔らかいものが唇に触れて。

 僕の意識はここで途切れた。

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