-誤想-
朝になった。
柔らかな日差しを受け、目を覚ます。
今日はなんだか良い一日になりそうな気がする。
それはさておき、早く先輩に会いたい。
学校へ行こう。
支度をして、家を出た。
「行ってきます」
ほどなくして、学校へ着いた。
ここ最近は、以前までとクラスの空気が違う。
なんとなくピリピリした空気が漂っているのだ。
ふと、昨日の職員室の様子を思い出す。
昨日、なんとはなしに覗いてみた職員室は随分と慌ただしい雰囲気に包まれていた。
きっとマスコミやらPTAやらからの対応に忙しいかったのだろう。
今さらだが、小林美奈が殺された件は翌日にはニュースとなってテレビや新聞に報道された。
当然騒ぎになった。
けれど、それだけなら騒ぎはいずれ収束していくはずだったのに、後を追うように行方不明者が出た。
それも、殺害された生徒と同じクラスから二人もだ。
これでは収まる騒ぎも収まらない。
騒ぎが収まってない以上、このクラスのピリピリした空気が無くなることも無いだろう。
みな不安なのだ。
今の所、警察は小林美奈を殺した犯人と、行方不明になった二人に関連性があるのかを明らかに出来ていない。
だが巷では二人の行方不明者、木下優梨と河原美里は、小林美奈を殺した犯人に誘拐され、殺されたと噂されている。
そしてその噂はクラスにも広がっていて、それが最も有力な説として扱われている。
クラスのみなが不安になるのも当然だろう。
次は自分かもしれないのだ。
そのせいか、クラスには学校を休む生徒が増えている。
今日は六人だ。
先輩が殺した三人を合わせると合計九人だから、今はクラスの約四分の一が空席という計算になる。
それにしても――と思う。
僕は一体いつからこんなに動じなくなったのだろう、と。
言うまでも無く、噂は当たっているのだ。
僕は当事者だ。
一人目はともかくとしても、二人目以降は先輩とともに彼女達を殺した犯人である。
だというのに、そういった噂が流れているのに対し焦燥や不安を一切感じていない。
これは一体どうしたことだろう。
以前までの僕なら、間違いなく不安を感じていたはずだ。
警察に捕まってしまったらどうしようという、至極当然の思考。
それが無くなってしまった原因として考えられるのはやはり。
「先輩と出会ったから、か……」
周囲の誰にも聞こえないよう、小声で呟く。
先輩と出会ったあの日から、僕の中にある常識や倫理というものが限りなく崩壊していっている。
というか、出会った日には既にあらかた崩壊していた。
今の僕が別段それを悪いことだと感じていないのが一番厄介かもしれない。
しかも、僕の中から社会通念が消えかかっているせいなのか、罪悪感までもほぼ感じなくなってしまっているのだ。
それは僕が先輩と共犯することになってから二人目に殺した少女、河原美里を殺した時に強く感じた。
彼女を殺した時は小林美奈を殺した時のようなハプニングは特になかった。
手際良く殺人を実行し、完遂した。
僕が直接手をかけたわけではないが、先輩に彼女が殺される時に、興奮はしていたものの、罪悪感めいたものは全然感じなかったのだ。
まるで夢を見ているような気分で、彼女が殺されるのを眺めていた気がする。
そう、あの時はひどく現実感が希薄だった。
だからなのかは分からないが、さきほども言ったように、僕には人殺しをしているという罪悪感がほとんど無かった。
ともあれ、犯人の共犯者である僕としては、真実と言って差し支えない噂が流れている状況下で、特に挙動不審になることなく振る舞えるのは利点だ。
先輩を裏切るつもりが無い以上、これを有効利用させてもらわない手はない。
そこまで考えた所で、担任の先生がやってきた。
一週間前と比べて、随分と疲れた顔をしている。
それに、いくらか痩せたようにも見える。
担任はいつも通り、軽い挨拶をしてから出欠を取り始めた。
小林美奈が殺されたと先生から報告があったあの日以来、学校では通常授業のみになり、その後生徒たちは帰宅を促される。
つまり、部活動が禁止となったのだ。
名目上は、生徒が夜遅くに帰ると危険だから、となっている。
けど実際は学校側の体裁のためだろう。
ただでさえ殺人事件なんていう学校のイメージが悪化するような出来事があったんだ。
これ以上イメージを悪くするのは学校側の評判、ひいては利益にも影響が出てくるのだろう。
畢竟、生徒たちの部活動を禁止にした主な理由は、学校側は迅速な対応をしております、という世間へのアピールでしかないのだ。
だが実際は授業終了後にクラスにしばらく残っていることも可能だ。
そうでなければここ一週間、僕が先輩と放課後の教室で密談をすることは不可能だった。
そんなわけで、学校の口先だけの杜撰な管理体制には感謝の意を示さないわけにはいかない。
まあ、そんな話はどうでも良いか。
そんなことよりも、今は警察がいまだにクラスメイトたちに対して事情聴取といった捜査を行わない事の方が気になる。
そう、事件からもう一週間が経過するというのに、警察はまだ僕のところに事情聴取すらしにこないのだ。
それ自体は諸手を挙げて喜ぶべき事なんだろうけど、はっきり言って逆に不気味だ。
ここ一週間、クラスでの会話に注意深く聞き耳を立てていたが事情聴取を受けたという話をする生徒は一人もいなかった。
それはつまり、警察が捜査をしていないという事になる。
果たしてそんなことがありえるのだろうか?
人が一人死んでいるというのに、法治国家である日本の警察が殺人事件を捜査しないなんていうことが本当にありえるのか?
駄目だ……考えてもわかりそうにない。
僕はただの学生だ。
ごくごく普通の男子高校生なんだ。
特に知識が豊富なわけでも、頭が切れるわけでもない僕に、そんなこと分かるはずがない。
ただ、警察が事情聴取をしに来ないということは、僕にとって幸運であり、それはつまり先輩といられる時間が長くなるということなんだ。
その幸運を、その喜びを今はただ噛み締めよう。
今の僕にとって、先輩といられる時間はそれほどまでに価値があり、甘美だ。
ああ、早く放課後にならないかな。
休み時間になった。
用を足そうとトイレに入ると、ある個室に三人の生徒が群がっていた。
皆一様に笑っている。
しかもその笑いは等しく下品だった。
一体何ごとだろう?
覗きに行こうとして近づくと、手前にいた一人が僕に気づいた。
僕に気づいたそいつは、なんだか慌てた様子で他の二人に声をかけ、そそくさとトイレから出て行ってしまった。
三人とも去り際に僕の顔をちらちらと見ていったのがなんとなく不愉快だった。
ともあれ、あの三人は一体何をしていたのだろう。
三人が群がっていた個室を覗いてみる。
そこには。
「なんだよ……これ……!」
乱暴に打ち棄てられた、薄汚れた先輩の体操服があった。
それはご丁寧に便器の汚水でびしゃびしゃされていた。
「ふざけんなよ……!」
怒りに肩が震える。
こんなことをした奴を殺してやりたい。
ごく自然にそう思った。
だが今は。
「なんとかこれを洗って、先輩に返してあげないとな……」
熱くなった頭を無理矢理冷静にする。
素手で先輩の体操服を掴む。
手が汚れる、なんていうことはどうでも良かった。
すぐさま水道で体操服を揉み洗いする。
と同時に、気づいた。
ひどい汚れだと思っていたそれらが、実は落書きであるということに。
体操服に書かれているのは「死ね」や「クズ」や「ビッチ」などの子供っぽい罵詈雑言だった。
文字だけとりだして見れば、単純で幼稚な単語ばかりで、子供特有の可愛らしさすら感じさせる。
けれど。
僕にはそれらの幼稚な文字の羅列が。
どうしようもなく憎くてしょうがなかった。
体操服を掴む手がぶるぶると震えている。
コレヲ書イタ犯人ヲ必ズ殺シテヤル――。
冷たい決意。
――と。
心が決まったからなのか、僕は少しだけ冷静さを取り戻した。
「いけないいけない。また熱くなってた。今は先輩の体操服を綺麗にすることだけを考えないと……」
洗いながら、先輩の体操服を観察する。
乱雑に書き殴られた誹謗中傷の数々。
文字からは書いた者の悪意がありありと見てとれる。
犯人に対する苛立ちは最もだけれど、今はそれよりも考えるべきことがある。
どうして先輩の体操服がトイレなんかにあったのか。
それもこんな風にぐしゃぐしゃに汚された状態で、だ。
認めたくないが、今の状況から推理するなら、それはつまり――。
「先輩は、いじめを受けている」
それも、かなり悪辣な。
だが、それはそれでかなり疑問が残る。
まず第一に、あの先輩がいじめを受けているとは思えない。
それは先輩と触れ合っている僕自身が自信を持って言えることだ。
先輩の性格上、先輩はどちらかと言うといじめを行う側の人間だろう。
だとしたら、何故先輩の体操服がこんな風に扱わなければならないのだ。
うーむ。
全然分からない。
やはり一度先輩に聞いてみる他なさそうだ。
犯人を探すのはそれからでも遅くはない。
初めは先ほど群がっていたあの三人がやったのかとも思ったが、あの反応を見る限り、どうも違いそうだ。
あれは、たまたまトイレに女子の体操服が置いてあったのを見つけて、あることないことくっちゃべりながら仲間内ではしゃいでいただけだろう。
ともあれ、まずは先輩と会わなければなるまい。
それまでに、先輩の体操服を綺麗に出来るといいのだけれど。
放課後になった。
教室で先輩を待つ。
「やあ、また会ったね。これで君と会うのは三回目かな?」
にわかに背後から声がかけられた。
「それ絶対わかってて言ってますよね?」
振りかえりながら言う。
案の定、そこにいたのは愛先輩だった。
「はあ……分かってて言っているのならどれほど良かったことか」
先輩はまるで自分自身に心底呆れているかのように呟いた。
まさか、この人……!?
「本当に記憶力が残念だったんですか!?」
僕の大袈裟なツッコミに、先輩はくすくすと笑みを漏らしてから。
「もちろん、冗談だよ」
と、囁くように言った。
本当に冗談なのか……?
先輩の言うことは本当か冗談かの見分けがつかないからな。
「君……それは……」
何かに気づいた先輩。
先輩の視線は僕の手元に向けられている。
まあ、気づくよな。
「どうぞ」
そう言って、僕は手に持っていた先輩の体操服を差し出す。
「どうして……君が、これを……?」
先輩の声はかすかに震えている。
さて、どう言ったものだろうか。
いや……そんなの決まっている。
本当の事を言うしかないじゃないか。
それが例え、先輩を傷つけることになったとしても。
「男子トイレで見つけたんです。それも、便器の中に打ち棄てられるようにして置いてありました」
「っ……」
絶句する先輩。
「ねえ、愛先輩。いったいどうして愛先輩の体操服が男子トイレなんかから出てくるんですか? それに……言いたくありませんけど、ひどい落書きまでされてました」
「………………」
先輩は顔を伏せたまま答えない。
「どうして愛先輩の体操服がこんなひどいことをされなくちゃいけないんですか? ……ねえ愛先輩、聞いてるんですか?」
先輩は人を殺している。
人を殺している人間が周りからどんな仕打ちをうけようが、それは当然の報いであり、与えられるべき罰だ。
だから先輩が酷い目に合うのも当然のことかもしれない。
けれど、それは先輩の犯行が世間に知れ渡っていればの話だ。
先輩が人を殺して、ましてやそれを喰らっている、なんていうことは現在僕と先輩しか知り得ない情報だ。
ゆえに、先輩がいじめのような事をされる原因がない。
いや……本当は原因なんてどうだっていい。
僕は先輩が好きなんだ。
だから、この状況が我慢ならないだけ。
どれだけ先輩が世間から忌み嫌われるような行為を繰り返していても、先輩が、誰かに傷つけられるのが耐えられないだけなんだ。
「………………」
先輩は頑なに口を閉ざしたままだ。
「答えてくださいよ……」
先輩が答えてくれなくちゃ……僕は……僕は……!
「僕は……僕は……ねえ愛先輩! 教えてくださいよ! 愛先輩に何があったんですか!? どうしてそんな悲しそうに目を伏せるだけなんですか!? 僕は愛先輩が困っていたら助けたい! 愛先輩が悲しんでいたら救いたい! でも、愛先輩が助けてって言ってくれないと僕は何も出来ないじゃないですか!!」
オレンジの帳に包まれた教室に僕の想いが響き渡る。
静まり返った教室で、けれど先輩は一言、
「ごめんなさい……」
と呟くだけだった。
「どうして……」
絶望に染まる僕の声。
「このことは……忘れてもらえると……助かる」
今にも消えてしまいそうな、先輩の声。
抗いたかった。
立ち向かいたかった。
先輩を傷つける何かに。
けれど、先輩がそれを望まないと言うのなら。
僕は。
「分かり、ました」
渾身の力で、イエスという意味の言葉を吐きだす。
受け入れよう。
四肢がもがれるような痛みを押し殺して、受け入れる。
先輩の言葉を。
これが正しい判断なのかは分からない。
けれど僕は、いつだって先輩の望む者でありたい。
だから、僕は出来る限り先輩の考えを、意思を、尊重する。
「ありがとう。君の心遣いに感謝する」
先輩は静かにそう言ってから。
ぱしんっ、と手を鳴らした。
それはなんだか気持ちの良い音だった。
「愛、先輩……?」
何事かと先輩を見やる。
「さあ、これでお通夜みたいな空気は弾け飛んだ。これからは、いつもの私たちの時間だ」
さっきまでとはうってかわって、破顔する先輩がそこにはいた。
それから僕達は、いつものように楽しんだ。
会話を。
他愛ない会話。
けれどそのひとつひとつが、僕にとっては夜空に煌めく星々よりも綺麗に見えた。
綺麗なもので敷き詰められた日々。
それらは煌々と、燦然と、輝く。
先輩と、くだらない会話を繰り広げる日々は幸福そのものだった。
僕は先輩と出会えて、初めて幸福のカタチを知ったのだ。
けれど、先輩と出会って一ヶ月が経った日。
僕は同時に、幸福の脆弱さも知ったのだった。
幸せとは、稀有でかけがえのないものであるがゆえに、脆く、壊れやすいのだと――。
相も変わらぬ退屈な授業中。
ふと、思案する。
先輩のことだ。
先輩と出会ってから、もうそろそろで一ヶ月になる。
先輩の体操服のことや、先輩の正体のこととか、先輩が喰うのはどうしてうちのクラスの女子だけなのかとか、気になる点はたくさんあるけれど。
先輩と出会ってからは、毎日が楽しい。
もちろん、悲しいことや辛いこともあった。
それでも、刺激的であることに変わりは無かった。
彼女との日々は、相変わらず僕にとってかけがえのないものとなっている。
無色で退屈だった日常に鮮やかに色が灯った。
それが、たまらなく嬉しかった。
確かに、僕と先輩が繰り返している行為は、人間としては最低のものなのかもしれない。
けれど、そんなことはどうだって良かった。
彼女に協力すると決めたあの日から、僕の中からまともな倫理観なんて跡形もなく消え去ってしまっているのだから。
僕は人間をやめたのだ。
人はこんなにも簡単に変われるということを知った。
否、教えてもらった。
先輩に。
先輩。
先輩と言えば、時折考えてしまうことがある。
それは先輩が僕のことをどう思っているかだ。
先輩は見た目に反して飄々としていて、掴みどころがない。
そんな一見掴みどころのない先輩だけれど、僕との会話の端々に感じる思いやりに溢れた言葉は気持ち良いし暖かかった。
その暖かさが真実だとするのなら、先輩は僕のことを好ましく思っていると考えても良いと思うのだけど……。
確かにキスをしたりはしている。
けれどお互いの気持ちをはっきり言葉にしたことはない。
だから時折、こうして不安になる。
僕達の関係というのはこの共犯関係というものの上に成り立っているだけなのであって、それを取り除いてしまえば後にはもう何も残らないのではないかと。
いつまでもこのままではいけないだろう。
いつの日か、しっかりと口にしよう。
僕の先輩に対するこの想いを。
先輩でまたひとつ思い出した。
あの体操服のことだ。
何者かによってボロボロにされた体操服。
あれ以降、さきのような事件は特に起こっていない。
それに関しては喜ぶべきことなのだが、やはり釈然としないものは残る。
先輩には、この件に関してはこれ以上詮索するなと釘を刺されている。
まあ、今のところ別段事件らしきことも起こっていないので、早急にどうにかしなくてはならないというわけではないのだが。
教室を見渡す。
空席が多い。
ざっと見渡しただけでも十以上の空席がある。
随分と人が減ったものだ。
先輩の体操服をトイレで見つけた日から、僕たちはさらに三人殺した。
新たに殺したのは、三人とも全員うちのクラスの女子たち。
これで計六人。
今日はその六人を合わせて十三名の席が空席だ。
まあ、気味が悪いよな。
件の殺人事件以降、相次いでいなくなる生徒たち。
最近はそれらの原因が、死んだ小林美奈の呪いだ、なんて言われているし。
まあ、でたらめな噂が飛び交う分にはこちらとしてはありがたいだけなので全然問題はないのだが。
問題があるとすれば、問題が起きていないことが問題だろう。
これだけクラスから生徒がいなくなっているというのに、相変わらず警察に動きがない。
彼女と共犯関係になるにあたって、真っ先に懸念したのがその問題だ。
どう警察に捕まることなく犯行を繰り返すか。
それについて頭を悩まされることになるだろうと予想していただけに、こうも警察が一連の事件に対して無反応だと肩透かしもいいところだ。
相変わらず警察に事情聴取を受けたりはしていない。
僕自身も、周囲のクラスメイトたちも。
さすがに、これには違和感を覚える。
――と。授業終了のチャイムが鳴った。
まあ、警察については依然悩ましいままだけれど。
先輩となら何とかなるか。
楽観的なのも悪くない。
これで今日の授業はすべて終了した。
あとはいつも通り放課後の教室で先輩と会うだけだ。
「次の獲物が決まった」
「誰です?」
「君のクラスにいる井上沙織だ」
黄昏の淡い光が差し込む放課後の教室で、先輩が次のターゲットの名を呼んだ。
「明日がいい」
「明日ってまた性急な……」
「私は明日喰いたくなったのだ。明日がいい」
頭の中で明日のことをシミュレートしてみた。
……どう考えても完璧に犯行を成功させるのは厳しい。
「襲うなら準備とかも必要ですし、別の日にしませんか?」
という僕の提案に。
「いやだいやだー。明日がいいー。明日じゃないと泣いちゃうー」
じたばたと手足をばたつかせて先輩が抗議した。
いやそんな子供みたいな駄々こねられても……。
先輩は泣きそうと言っているわりに全然悲しそうではない。
僕をからかって遊んでるようにしか見えないんですけど。
それにしても先輩も当初から比べると随分とキャラが変質してきている気がする。
いや、それともこちらが素なのか。
初めはミステリアスなキャラかと思っていたが、これが意外と俗っぽかったりする。
「流石に明日は厳しいですよ」
「うー。いいのかそんなこと言って、泣いてしまうぞ」
ご丁寧に瞳に涙を溜めて上目遣いで訴えかけてくる先輩。
……可愛い。
だが無計画な行動ほどのちのち後悔する確率が高くなるものだ。
ここは心を鬼にすべきだろう。
「いいですよ。どうぞ、泣いてください。それで済むのなら安い話です」
「本当にいいのか? 本当に泣くぞ?」
上目遣いを維持したまま抗議する先輩。
「ええ、どうぞ」
「君が」
「えっ?」
なんか今聞き捨てならない言葉を聞いた気がする。
「だから言っただろう。泣いてしまうと」
「えっと、誰がです?」
「無論、君がだ」
「聞いてないですよそんなの!」
「当然だろう。言ってないからな」
そう言って得意気な顔をする先輩。
さっきまでの涙目はどこいったんだ。
「では、泣いてもらうとしようか」
両手をわきわきさせながらにじり寄ってくる先輩。
その瞳には明らかに狂気が宿っている。
まずい。
このままでは泣かされるどころではなく殺されてしまう……!
「うわーストップ先輩! わかりました! わかりましたから近寄らないでください!!」
僕の制止を促す声に、ぴた、と先輩の動きが止まる。
「わかりましたよ、もう……じゃあ、明日井上沙織を喰らいにいきましょうか……」
「わーいわーい! これでまた人肉の味が堪能できる! 感謝する!」
そう言いながら。
ちゅ、と。
頬にキスされた。
「…………」
まったく。
まったく……先輩には敵わないな。
先輩といると、あらゆる悩みがどうでもよくなってしまう。
自然と、口元から笑みが零れた。
「どうしたんだい?」
そんな僕を見て不思議に思ったのか、先輩が訊ねてくる。
「いえ、なんでもないですよ」
それだけ答えて、思索を巡らす。
さて、今から急いで明日の犯行スケジュールを組み立てなければ。
襲う場所、獲物の誘い出し方、事後処理方法etc……。
なんにせよ、今日は忙しくなるな。
そんなことを、ぼんやりと思った。
翌日の放課後、先輩と合流した僕はとあるファミリーレストランにいた。
いや、それでは些か語弊が生まれるか。
正確にはファミリーレストランの向かいにあるコンビニにいた。
もちろん先輩と一緒にだ。
「それで、今日はどういったメニューなんだい?」
先輩が訊ねてくる。
「今日はですね、ターゲットがファミレスから出てくるのを待って、出てきたらその後ろを追跡、そして追跡中、人気が無くなってきたらハント開始です」
今日の計画をざっくりと説明する。
我ながら、杜撰な計画だと思う。
けれど仕方ない。
昨日、あれから家に帰り思考錯誤を繰り返してみたが、どうしても情報が足りなかった。
そもそも一日で井上沙織を安全に狩る計画を練るというのが無理な話なのだ。
それよりも、彼女が今日このファミリーレストランでアルバイトをしているという情報を得られたことを幸運に思うべきだろう。
授業と授業の合い間の休み時間に、偶然耳にはさんだ。
彼女が今日、この店にシフトを入れているということを。
放課後からアルバイトに出るのであれば、当然帰宅時間は夕方以降になる。
これを利用させてもらわない手はない。
もともと人口がそれほど多くないこの街だ。
夜になればかなりの確率で人気は失せるだろう。
人目を避けるのに最適だ。
問題があるとすれば、彼女の帰宅ルートだろう。
もしも人気の多い大通りばかりを通って帰られたら、流石に襲いかかるタイミングが無い。
だからまあ、もしそうなった時は先輩に諦めてもらおう。
今の僕には、彼女が比較的人気の少ない道を選んで帰ってくれること祈るしかなかった。
僕らがコンビニで待機し始めて、三時間が経ったころ。
ようやく井上沙織が姿を現した。
現在時刻は九時過ぎ。
あたりはすでに真っ暗だ。
これなら……。
「先輩」
「ああ」
先輩も僕とほぼ同時に気づいていたらしく、短く頷き返すとしっかりとした足取りでコンビニから外へと向かった。
向かう先はもちろん獲物である彼女だ。
僕たちは彼女――井上沙織の後方に約20メートルの程の間隔を空け、それをキープしながら追跡していた。
いつものように、声を殺し、息を殺し、気配を殺す。
周囲への注意も怠らない。
聴覚と視覚を極限まで研ぎ澄まし、探る。
彼女を襲うのに適したスポットとタイミングを。
先輩の方をちらりと窺うと、既にハンティングモードに切り替わっていた。
先輩は狩りになると雰囲気が変わる。
冷酷で強烈な殺気を纏った殺戮者へと変貌するのだ。
それは、木下優梨を殺した時から変わっていない。
ただあの時のような、こちらの体が凍りつくほどの殺気は、あれ以来なりを潜めていた。
そんな事を考えながら彼女の後をつけていると。
井上沙織がにわかに路地裏へと足を進めた。
近道でもしようと思ったのか。
ともあれ、チャンス到来。
路地裏には井上沙織と僕ら二人分の、計三人分の気配しか感じられない。
先輩に目配せする。
それだけで先輩の瞳に理解の色が宿る。
そう、僕達はもう手慣れてしまっていたのだ。
有無を言わさず命の火を吹き消すその行為に。
だから今夜も流れるように、ただ行為に没頭する。
足音を殺し、一気に獲物の背後まで駆け寄る。
獲物が気配に気づいて振りむく。
だがもう遅い。
僕の右手は少女の口へ鋭く伸びていた。
「~~~っ!?」
何が起こったのか理解できずにパニックになる沙織。
物理的な意味での口封じ。
こういった、騒がれては困る場所での常套手段だ。
もちろん、それと同時に残った左手で少女の腕を捻り上げるのも忘れない。
当然手の中の少女は暴れるが、もう問題無い。
あとは先輩がやってくれる。
薄闇の中、先輩がゆっくりこちらへ歩いてくるのが分かる。
気まぐれで、腕の中の少女に語りかけた。
「君は今からあの人に殺されるんだよ。とても美しい人だろう?」
当たり前だが、答えは返ってこない。
今も僕の手が彼女の口を塞いでいるからだ。
けれども気まぐれは続く。
「それもただ殺されるだけじゃない。喰われるんだ。彼女とひとつになれるんだよ。正直、少しだけ羨ましく思うよ、君のことが。僕は彼女に喰われたことがないからね。彼女の一部になれるって想像しただけで、僕は達しそうになる。彼女に与えられる死は、きっと世界中の何よりも甘美で、素敵なモノだから」
その気まぐれが、良くなかった。
気まぐれは油断を呼び、油断は一縷の隙を生んだ。
「っ…!!」
右手に雷光のような痛み。
反射的に、抑えていたはずの手を離してしまった。
瞬間、振り払われるもう片方の手。
彼女――井上沙織は一瞬にして自由を取り戻した。
少女が叫ぶ。
「あんた……! 復讐のつもりか何か知らないけど絶対許さないから!!」
身を翻し、闇夜へと駆けていく少女。
「復讐……?」
ろくに話したことも無い彼女に、僕は一体何を復讐するというのだろうか。
にわかに痛みに誘われ、右手を見る。
歯型状に血が滲んでいた。
「また逃げられちゃったな。木下さんをやった時みたいに」
って、呑気なことを言っている場合じゃないだろ、僕。
だが僕には頼りになる相棒がいた。
だから僕はたいして危機感を抱かず、この状況をどこか他人事のように俯瞰していた。
けれどそれは致命的な間違いだった。
視線を沙織が去っていったのとは逆の、先輩がいるべき方向へと向ける。
「愛先輩!?」
なぜなら、先輩が倒れていたから。
それも、ひどく苦しげな表情を浮かべて。
すぐさま駆け寄って、上体を抱え起こす。
「愛先輩! 大丈夫ですか!?」
「はぁ……はぁ……ちっ……これが真実の味か……思ったより、堪える、な……」
息も絶え絶えに、意味の分からない事をつぶやく先輩。
「愛先輩!? しっかりしてください愛先輩!!」
「一ヶ月前は君だった……だから今度は私が請け負った……でも、どうやらそれは判断ミスだったみたいだね……」
そのせいで獲物を取り逃してしまった、と苦笑する先輩。
「獲物のことなんかどうだっていいんです! いや、本当はどうでもよくないですけれど、今はそんなことより愛先輩の体のことです!!」
「ふふ……君は面白いね……こんな時でも私なんかの心配をするなんて……」
「愛先輩……」
「大丈夫だよ私は……確かに今は辛いが、時間とともに良くなるはずだ……」
額に玉のような汗をかきながら、苦悶の表情を浮かべている。
「信じて、いいんですね……?」
「ああ……私だけは、君を、裏切らない」
結論だけを述べるなら。
この日。
僕達は初めて狩りに失敗した。
先輩と一緒なら全てが上手くいくと、そう信じ切っていた僕を嘲笑うかのように。