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-追憶-

 回想終了。

 今思い出してもぞくぞくする。

 あの日は僕にとって本当に強烈で鮮烈で。

 その刺激の強さに脳髄が焼き切れんばかりだった。

 先輩と出会ってから一週間。

 僕はもう、彼女無しでは生きられなくなってしまっていた。

 その良い証拠として、僕が家にひとりきりの時はずっと先輩のことを考えている、というのがある。

 先輩に会いたい。

 先輩に触れたい。

 先輩と言葉を交わしたい。

 先輩を知りたい。

 最近はそんなことばかり考えている。

 僕はすっかり、彼女が放つ不思議な魅力と、彼女が与えてくれる刺激的な日々の虜にされてしまっていた。

 だから今日もこうやって、放課後の人のいない教室で先輩を待ち続けている。

 すると、不意に背後から肩を叩かれた。

 きっと先輩だ。

 そう思いながら振り向くと。

「ちゅ」

 唐突に唇を奪われた。

「なっ……! い、いきなり何するんですか!」

「ふふっ、君のそういう反応が見たくてね、つい」

「つい、じゃないですよ……! まったく……」

「でも嬉しかっただろう?」

「し、知りませんよっ、そんなこと……!」

 言いながら、きっと顔を真っ赤にしているだろう自分の説得力の無さを想像し、情けなくなる。

 木下優梨を殺したあの日から、先輩はこうやって隙を見ては僕にキスをしてくるようになった。

 それ自体は、その……嬉しいことではあるのだが、やはりまだ慣れない。

 気恥ずかしさというものがどうしても出てしまう。

「やはり面白いね、君は」

 微笑む先輩。

 先輩の頬笑んだ顔はもはや天使のそれだ。

 先輩の性格も加味するならば、天使というよりは堕天使なのだろうが。

 まあでも、本当にいまさらではあるが、先輩は美人だ、と思う。

 見ていて飽きる、ということがない。

 人形よりも人形然とした、完璧な顔立ち。

 まるで神の作った芸術品のようだ。

 彼女の髪や肌やプロポーションの完成度の高さもさることながら、中でも注目すべきは彼女の瞳だ。

 彼女の瞳には不思議な魅力がある。

 底無し沼のような、先輩の深い漆黒の瞳。

 見つめ続けていると、まるで視線だけではなく体ごと吸い込まれてしまいそう。

「なあ」

 でも先輩になら、体ごと吸い込まれてみるのも悪くないかもしれない。

「おーい」

 あ、なんだか、だんだんと吸い込まれていってる気がしてきた。

「おい! 無視をするな!」

 もうだめだ、吸い込まれてしまった。

「…………」

 先輩の瞳に吸い込まれた僕は、先輩とどこまでも溶け合い、やがてひとつになって――。

「愛のでこぴん」

「いたっ」

 殴られた。

「でこぴんって言いながらグーで殴らないで下さいよ……」

 まだ痛みの残る頬をさする。

「君が人の話を無視して私を視姦し続けるのが悪い」

「視姦だなんてそんな……ただちょっと先輩に」

 見惚れていただけですよ。

 と言おうとして、やめた。

 なんだか気障ったらしいし、何より恥ずかしい。

「先輩に?」

「あ、いや、何でもないです。ぼーっとしてた僕が悪かったですごめんなさい」

「ふふっ、見惚れてた、ぐらいで私は気障だとか思わないよ」

 う。

 またしても心を読まれている。

 読心なんてスキル、卑怯だ。

 僕も欲しい。

「それで、先輩は僕に何を言おうとしていたんですか?」

 気を取り直して訊ねてみる。

「ああ、屋上に行かないか、と言いたかったんだ」

「屋上?」

 確かにうちの校舎には屋上がある。

 けれど、確か屋上へは立ち入り禁止だったような。

 それに屋上へと続く扉には常に鍵がかけられていて、立ち入り禁止云々の前に、そもそも扉をあけることが出来なかったはず。

「そう、屋上だ。一度行ってみたかったのだよ」

「でも……確か屋上へは……」

 と言いかけたところで僕の言葉は先輩に遮られた。

「案ずるな。私に任せておけ」

 そう言って、ふふ、と唇の端を吊り上げる先輩。

「さあ、ついてこい」

 訝しみながらも、先輩に言われるまま屋上へと繋がる鉄扉の前までやってきた。

 試しにドアノブを捻ってみると、案の定しっかりと施錠されていた。

「先輩、もしかして鍵とか持ってたりするんですか?」

「いや、そんなものは持ち合わせていない」

「だったらどうやってこの扉を開けるんです? 見ての通り鍵がかかってますけど」

 僕の当然の問いかけに、不敵な笑みを返しながら先輩は言う。

「もちろん、こうするのさ」

 先輩はドアノブに手をかけると、そのまま勢いよく押し開いた。

「!?」

 金属のひしゃげる不快な音が鳴り響く。

 あっという間に鍵の役割を果たしていた部分は歪曲し、屋上へと通じる扉が開いた。

 目の前の出来事に驚くあまり、呆然と立ち尽くす僕。

「さあ、早速屋上に出てみようではないか」

 言いながら、いまだ彫像と化している僕の手をひき、扉を抜けて、屋上へ。

 屋上へ出た途端、冷たい風が僕らの脇をからかうように擦りぬけていく。

 ここが、うちの学校の屋上か。

 屋上はしばらく手入れを施されていないのが一目でわかるほどにくたびれていて、廃校の屋上だと言われれば、あっさりと信じてしまいそうな外観だった。

 寂しげな斜陽が、その印象にいっそう拍車をかけている。

「どうだ? 初めて屋上に出て見た感想は」

「なんだか、とても儚げな場所ですね……手で触れたら崩れ去ってしまいそうな……」

「奇遇だね。私も同じ印象を受けたよ」

「それにしても、フェンスが無いなんて……立ち入り禁止なのも頷けますね」

 屋上の縁には、本来安全面を考慮する上で絶対に必要であるはずのフェンスが存在していなかった。

 おもむろに縁に近づき地上を見下ろすと、高低差から来る死の予感に身震いした。

 振り返って、校舎と屋上とを繋ぐ鉄扉が目に入り、はたと気づいた。

「って、そう言えば愛先輩! 扉の鍵壊しちゃってどうするんですか!」

「ん? ああ、そうだね。うーむ、どうしようか」

「もしかして考え無しにやったんですか……?」

「まあ、なんとかなるさ。私と君の二人揃えば向かうところ敵なし、だろ?」

「だろ? じゃないですよ! 何とかするのはどうせ僕の役目でしょう!?」

「良く分かってるじゃないか。言葉にしなくても互いに心が通じ合う。まさに向かうところ敵なしのコンビ、略して無敵コンビ」

「どう見ても無敵じゃなくて不敵なだけだ! それもコンビのうちの一人だけが!」

「ふふっ、これが夫婦漫才、というやつなのかな」

「め、めお……!! 知りませんよっ、そんなこと……」

 夫婦漫才という単語が指し示す意味を想像し、つい気恥ずかしさに包まれて僕の反論は力ないものになってしまった。

「ふふ、そういう顔をする君は良いね。脳内ハードディスクに高画質モードで録画したくなる表情だ。その顔を見ていると私の中の嗜虐心がくすぐられて堪らなくなる」

 瞳を潤ませ、いかにも恍惚といった表情を浮かべる先輩。

 よく見ると口の端から涎まで垂れている。

 この人……本物のサディストだ……!!

 なんだかこのままでは僕の身が危ういかも知れない。

 僕の中で危険信号がスクランブルで警鐘を鳴らしている。

 自分で言ってて意味が分からない。

 とにかく、話題を変えないと……。

「そ、そう言えば愛先輩っ、どうしていきなり屋上になんか行きたいって言い出したんですか?」

 咄嗟に出した話題転換のセリフとしては充分合格のレベルじゃないだろうか。

 などと自己採点をしていたら、先輩のだらしなかった表情が一転、憂いを含んだものに変わる。

「それはね、君が以前、屋上に行きたいと言っていたからさ」

「僕、が……?」

 言われて、記憶を探る。

 あれでもないこれでもないと、記憶の糸を手繰り寄せていくうちに、見つけた。

 僕の記憶。

 確かに僕は以前、屋上に行きたいと願っていた。

 けれどそれは誰にも言ったことのない願いで、ゆえに先輩が知りうる情報ではないはずなのだが……。

「ふふっ、私は君のことならなんでも知っているんだよ。それも、おそらく君以上にね」

 そんな僕の疑問に答えるように、先輩は言った。

 先輩は笑っているけれど、その表情にはかすかに憂いを含んだままだ。

 そんな先輩を見ていたら、僕は何だかいたたまれなくなってしまって。

 なぜだか先輩に抱きついてしまった。

「きゃあっ!」

「愛先輩」

「きゅ、急にどうしたんだい?」

 先輩にしては珍しく顔を赤くしている。

 恥ずかしいのだろうか。

「いえ、なんとなく」

「そ、そうか」

「…………」

「…………」

「愛先輩」

「な、なんだ?」

「ありがとう、ございます」

 僕のその言葉で全てを悟ったのか先輩は、

「……気にするな」

 と言ってくれた。

 ふと、先輩を抱きしめる腕に意識がいく。

 腕から伝わってくる先輩の体温。

 少し、人より低めだろうか。

 これなら寒さに弱いのもうなずける。

 そう思った時、ある感情が僕の心から突如として間欠泉のごとく噴き出した。

 そして、思い至る。

 きっと僕はこの人の存在によって、救われているんだ、と。

 だから。

「愛先輩の体、少しだけ冷たいですね」

「いきなりだな……まあ、そうかもしれない」

「僕は今日から愛先輩のホッカイロになります」

「……は?」

 先輩の間の抜けた声。

 まあ、いきなりこんなこと言われたら誰だって今みたいな声を出してしまうだろう。

「だからホッカイロですよホッカイロ」

「ホッカイロって、あの……使い捨てカイロのことかい?」

「そうです。やっぱり知ってるじゃないですか」

「それは当然だろう。私に知らぬものなどない」

「なんでこんなところで無駄に嘘つくんですか……」

「そ、それで、使い捨てカイロになるっていうのは、一体どういう意味だい?」

 ん?

 今の先輩、様子が少し変だった気が……ああ、ひょっとするとこれは……。

「愛先輩、僕の考えていることが分かってて分からないふりしてますね?」

「ギクッ! い、いったい何のことを申しているのかね?」

 先輩の口調があからさまにおかしい。

「とぼけても無駄ですよ先輩。その赤くなっている顔が良い証拠です」

「し、仕方ないじゃないかっ、そんな恥ずかしい事を考えているなんて思わなかったし……そしてそれを口に出せないのも……!」

 やっぱり気づいていたのか。

 でも、僕は口に出すのが躊躇わられるほどに恥ずかしい内容だからこそ、あえて口に出して先輩にこの気持ちを伝えたかった。

「そう、僕は愛先輩が震えていたなら、それを優しく温めてあげるような存在になりたいんです。そしてそれはホッカイロ的な意味だけにとどまりません。愛先輩に欠けた部分があるのなら、僕がそれを補いたい」

「き、君は言ってて恥ずかしくないのかそれ……」

 あまりにも気障ったらしいセリフを間近で聞かされることに耐えきれなかったのか、顔を手で覆った先輩が言う。

「確かに少し恥ずかしかったですけど、でも、先輩の方が実は恥ずかしいんじゃないですか?」

 先輩の顔を覆う小さな白い手の隙間からは、可愛らしく赤らんだ頬が見えていた。

「う、うるさいっ」

 余計に顔を紅潮させ照れ隠しのセリフを言う。

 照れている先輩も愛おしい。

 ふと、甘い匂いが鼻先をかすめた。

 その正体を探ろうと鼻をきかす。

 すると、まるで心が洗われるかのような芳しい芳香が、目の前から、した。

 これは……先輩の匂いだ。

 あの伝説の、言葉に出来ない安心感をもたらすという女の子の匂いだ。

「先輩、凄く良い匂いがします」

 そう言って鼻から何度も先輩の匂いを吸い込む。

「な、バカっ、やめないか! こら、離せっ、匂いを嗅ぐんじゃない!」

 僕の腕の中で必死にもがく先輩。

 だが今ここで振りほどかれるわけにはいかない。

「無理です。この匂いは人の脳を原始時代にまで退行させます。よって本能の赴くままに嗅ぎます。くんかくんか。すーはーすーはー。はぁー、いーにおいだー」

「離せー!!」

「無理ですー!!」

 しばらくして。

 屋上には愛のでこぴん(拳による殴打)を全身に浴びた僕と、息を切らしてへたり込んでいる先輩がいた。

 屋上の冷たいコンクリの上に倒れ伏しながら、なんとなく今の気持ちを、僕の右方へと向かって声に出してみた。

「マ、マグマで出来た杭を全身に打ち込まれたような痛みが体中を支配している……これはもうでこぴんとか言うレベルじゃない……どう考えてもリンチ……愛のリンチだ」

「は、離せと言ったのに離さない君が悪いんだっ」

「愛先輩だって、僕のコートの匂い嗅いでたじゃないですか……」

「あれは……! い、いや、私はそんなもの嗅いでなどいない! だいいち、私は君のコートなんて見たことも聞いたこともない!」

 うわあ。

 この人、途中まで言いかけたのにも関わらず、全てを無かったことにしようとしてる。

 無茶苦茶だ。

「まったくもう……愛先輩は」

「まったく……君という人は」

 二人してやれやれ、と大仰に肩をすくめて、笑った。

 それから僕達は屋上の中央付近に座り込み、話をした。

 好きな食べ物や好みの音楽、他にも、学校の嫌いな先生の話や、テレビに出ている芸能人が整形しているかなどなど。

 彼女と出会ってからここ一週間、毎日彼女と他愛なくも心地良い会話をしている。

 なんとなく、先輩との会話を断片的に思い出した。

「私はね、レオナルドダヴィンチは未来人だったのではないかと推測しているんだ」

「憂鬱という漢字は、字面そのものがすでに憂鬱さを加速させる効力を持っている気がしないか?」

「マンホールという単語からは、どことなく淫媚なものを感じる」

「うどん派かそば派かと聞かれたら、私は迷わずラーメン派だと答えるね」

「携帯電話か……あいにく私は携帯電話というものを、この人生で一秒たりとも所持していたことが無い」

「童話に出てくる赤ずきんちゃんの格好は、冷静に考えると怖くないか? 真っ赤なずきんを被った女の子が突然夜道なんかに現れたら、私は恐怖のあまり漏らしてしまう自信がある」

 ……最後の言葉だけは出来れば忘れたい。

 ミスミステリアスの称号が泣いてるよ、先輩。

 そして僕は今日も懲りずに、いつも問いかけてははぐらかされてしまう質問を投げかけてみた。

「愛先輩って、実は人間じゃないんですか?」

「はぁ……またその質問か」

 さすがにこう何度も聞かれては辟易するのだろう、先輩がため息を吐いた。

「はじめに言っただろう、私は人間ではないと」

 お決まりの答え。

 ならば、こちらもいつものように続けよう。

「じゃあ、愛先輩は人間じゃなければいったい何なんですか?」

「それは……あの……その……」

 答えに窮する先輩。

 いつものように追い打ちをかける。

「先輩の一縷の隙もない完璧すぎる外見だけならまだ理解できなくも無いですけど、その身体能力まで含めるとなると、僕なりに考えてみてもとても人間だとは思えないんですが」

 ここまではいつも通り。

 けれど、今日はいつもとは違う答えが返って来た。

「君は……私が人間でないと、嫌かい?」

 不安そうな顔で訊ねてくる先輩。

 その先輩の目を見て、それが冗談や戯言の類ではないとすぐに察した。

 ならば。

 僕も真面目に、思っていることを正直に話そう。

「いえ、そんなことは断じてないです。僕は愛先輩が何者であろうと、愛先輩のホッカイロであり続けますよ」

 その言葉に、文字通りホッカイロのような温かさを感じてくれたのか、先輩の顔がほころぶ。

「またそれか……ふふっ、でもホッカイロというのなら、使い捨てられても良いのかい?」

「ええ、もちろん」

 本心だった。

「ふふっ、そうか」

 妖しげな笑み。

「でも、まさか本当に使い捨てたりはしないですよね?」

 少しだけ不安になって訊ねる。

「え、駄目なのかい?」

「捨てる気まんまん!?」

「ふふっ、冗談だよ」

「もう……あまり怖いこと言わないでくださいよ……」

 正直、たった一週間で先輩に心酔しきってしまっている僕にとって、先輩を信頼するのは当然のことであり、裏切られても構わないとは思っているのだが。

 それでもやはり先輩に裏切られるようなことがあれば、それはとても悲しいこととして、僕の背中にのしかかってくるだろう。

「なあ」

 と、先輩の呼びかける声。

 その声の響きに、少しだけ違和感を感じつつも、応える。

「なんですか?」

「君は、嘘についてどう思う?」

 えらく漠然とした質問。

「嘘、ですか……」

 どう思うか、ということは、それが善か悪か、ということだろうか。

 嘘。

 嘘には種類がある。

 相手を騙そうとしてつく嘘、相手のためにつく嘘、仕方なくついてしまった嘘……。

 それらは状況次第でその性質ががらりと変わるものばかりだ。

 今ここで、はっきりと善か悪かを決めるというのは難しいかもしれない。

「ちょっと、よく分かりません」

「そうか。まあ、そうだろうな」

 そう言って、少し考え込む先輩。

 何かまずいことでも言ってしまっただろうか……。

 幸いそれは杞憂で、先輩はすぐに口を開いた。

「気にするな。今の質問にすぐに答えられる奴なんて詐欺師くらいだろう。即答できるほうがどうかしている」

 でもね、と先輩は続ける。

「私はずっと前からそれについて考えていたんだ。だから、私はその質問に対し、淀みなく答えることが出来る……嘘に対して、とるべき姿勢が決まっているから」

 先輩の言葉に、敵意が滲み出してきているのを感じる。

 こちらに対しての敵意ではない。

 嘘に対してだ。

 そのことから、先輩が嘘に対して抱いている感情をなんとなく悟った。

 悟っていながら、それでも僕は先輩の答えが聞きたくて、訊ねた。

「……じゃあ愛先輩は今の質問に、どう答えるんですか?」

 問いかけてから、きっかり三秒後。

「嘘は、憎むべきものだ」

 先輩のはっきりとした、強い口調。

「憎むべきもの、ですか」

 憎む。

 それは、かつて嘘によってひどい目にあったことがある人間だけが吐き出せるセリフだ。

 先輩の言うとおり、先輩は人間ではないのかもしれない。

 けれど、人間だとかそうじゃないとか関係無しに、きっと先輩は過去に、嘘によって傷つけられたことがあるのだろう。

 そうでなければ、憎む、なんていう強い言葉は出てこない。

 けれどもなぜだろう、先輩の顔に映る強い敵意の中に、時折悲愴さのようなものが混じって見えるのは。

「世界は欺瞞に満ちている」

 ポツリと、けれど確固とした意思の感じられる声で、先輩が呟いた。

 そして続く言葉に、その意思を延々と吐きだした。

「私にとって世界とは、欺瞞に満ち溢れた醜いものでしかないんだ」

「今日もどこかで誰かが誰かを騙している。明確な悪意を持って」

「真実の価値が希薄になっていっている。刻一刻と嘘の価値が高まるのを感じる。私はそんな世界を愛せない」

「私は世界を愛したかった。けれどある日を境に、それが不可能だって気がついた」

「世界が私に嘘をついている。欺こうとしている。それはこの先も変わらないし、変えられない」

「そうやって、世界が醜く歪み続けるだけなのだとしたら」

「世界に騙され続けるだけなのだとしたら」

「逆に」

「私が世界を騙してやろう」

「やられたらやり返すしかない。そんな子供じみた理由だ」

「けれどそうする他に崩れゆく自我を保つ術が無かった」

「私にとって、欺瞞に満ちた世界で呼吸をするのは難しかったから」

「だから私は、世界と私のどちらかが窒息死するまで、戦うことにした」

「騙し合いの螺旋の中で、生きていくことを決めたんだ」

 そう言って明確な意思が宿る瞳をこちらに向ける。

「もしかして……だから愛先輩は……」

 世界中で唯一僕だけが知っている、先輩の不気味極まりない行為。

 それは言うまでも無く、人を喰らうことだ。

 僕は彼女と出会った時から疑問に思っていた。

 どうして人を喰べたいなどと思ったのだろう、と。

 人が、意味も無く人を喰べたくなるなど、あるわけがない。

 正直、今の先輩の言葉を聞いて、得心がいった。

 先輩の言う、世界に溢れる欺瞞。

 それが何を指し示しているのかは分からないが、きっとそれは、先輩にとっての〝敵〟のようなものなのだろう。

 そして先輩はその〝敵〟に、追いつめられる所まで追いつめられてしまった。

 だから、先輩は。

〝敵〟と戦うことを決意した。

 そして、その〝敵〟と戦うために、人を喰べることを選んだのだ。

「だから愛先輩は……人を……喰べるんですか……」

 ああ、と短く頷いて、先輩は続ける。

「先日、気がついたんだよ。私の胸からこんこんと溢れだす、この喰人衝動。その源泉とも呼べるべきものの姿にね」

 淡々とした口調。

「初めて人を喰べた時は無意識だった。だから、私もなぜあんなことをしてしまったのか、という風に考えていた。けれど少しして、気がついたんだ。私が人を喰らうのは、生きるためだと」

 生きるため。

 それはつまり、戦うため、か。

「私の中で今もなお蠢いている衝動が何よりの証拠だ。この衝動は、醜く蠢きながら、生きるためにはもっと人を、嘘を喰らえ、と私に囁いてくる」

 やっぱり先輩は。

「この衝動には抗し難いものがあってね。初めて人を喰らった時の私は、まるで何かに取り憑かれたみたいだったよ。でも今ではその衝動もいくらかコントロールすることが出来るようにはなったけれどね」

 生きるため、戦うために、人を喰らうのか。

 この広い世界で、たった一人きりで戦うことを決意するのは、いったいどれほどの勇気がいるのだろう。

 そして同時に、どれほど孤独な決断だったのだろう。

 それも、人を喰らうという、尋常とは言えない手段を取らざるを得なかった。

 そうすることでしか生き続けることが出来ない状況。

 いったいどれほどの歪みを抱えれば、そんな状況へと追い込まれるのだろう。

 先輩はもしかすると、今までずっと震えていたのかもしれない。

 刻一刻と醜く歪み続けていく自分に気づきながらも、どうすることもできない。

 そんな無力感に、苛まれて、ずっと。

 でも、何よりも許せないのは。

 それに今まで気づくことが出来なかった、自分自身の無能さだ。

 どうしてそのことに気づけなかった。

 先輩が抱える孤独に。

 歪みに。

 出会った時からおかしいと感じていたはずなのに。

 どうして思い至れなかった。

 先輩が歪みの中で慟哭していることに。

 きっと、僕は浮かれていたんだ。

 先輩と共にいられるという事実に浮かれてしまって、満足してしまって、その先が無かった。

 先輩の心を、歪みを、感じ取ろうとしてこなかった。

 何がホッカイロになりたい、だ。

 これじゃあ捨てられても文句ひとつ言えないじゃないか。

 悔しさに、自然と歯を噛み締めてしまう。

 けれどそんな僕に、先輩は優しい声音で語りかけてきた。

「ふふ……確かに私は孤独を感じていたのかもしれないな。けれど、だからと言って君がそんな顔をする必要はないさ。君に非はない。それに、君には十分手伝ってもらっている」

 先輩はそう言って、僕の頭に手を置いた。

「君にとって私の存在が大きいように、私にとっても君の存在は大きいんだよ。その……あまり、こういうことを口したことが無いから、上手く言えるかわからないが……」

 少しだけ言い淀んでから。

「その……君には、感謝している。あ、ありがとう」

 そう言って、頬を朱に染める先輩は。

 これ以上ないってくらい、愛おしかった。

 だから。

「愛先輩だけなんてずるいです。僕だって」

 心のままを伝える。

「愛先輩、ありがとう」

 そう言って僕は。

 彼女の唇に、自分の唇を重ねた。

 初めて僕の方からしたキス、だった。

「んむっ……!?」

 先輩の瞳は驚きのあまり見開いている。

 まさか僕の方からキスされるとは思わなかったのだろう。

 それにしても、と。

 唇を合わせたまま、先輩の驚く顔を見て思う。

 先輩に不意打ち気味にキスされる度、僕はこんな顔をしていたのだろうか。

 そう思い至ると、ふと、ある考えが頭をよぎった。

 いつもの仕返しに、もう少しだけこの顔を眺めていよう。

 そう思った僕は、限界まで先輩の驚きの表情を眺め続けることにした。

 キスを始めてから10秒経過。

 先輩の顔はさきほどとあまり変わらない。

 驚きに見開かれる瞳は、いつもの先輩のそれだ。

 瞳の中の真っ黒な深淵は、覗き込む者を魅了して離さない。

 20秒経過。

 少し、先輩の表情に変化が訪れた。

 先輩の瞳に映るもの。

 これは……戸惑い、か。

 まあこれだけの時間キスしていればそうなるか。

 でも、その戸惑いには答えない。

 これはいつもの仕返しなのだから。

 キスを続ける。

 30秒経過。

 またもや先輩の表情には変化が訪れていた。

 これは……切なさ、なのだろうか。

 けれど、その奥にはうっすらとだけど、疑問があった。

 戸惑いが疑問へと発展したのだろう。

 疑問。

 その内容は考えるまでもなく分かっている。

 まだキスを続ける気なのか、と。

 それにしても、キスを始めてから先輩の考えが手に取るように分かるのはなぜだろう。

 普段とは違い、こちらからキスをしたからだろうか。

 そのせいか、いつもよりは気恥ずかしさが少ない。

 というより、いつもはこちらが恥ずかしさのあまり何も考えられなくなってしまっているだけなんだけど。

 気恥ずかしさが少ないからか、こんな風に、割と冷静に先輩を観察することが出来る。

 40秒経過。

 先輩の表情に疑問が色濃く映るようになった。

 まあ、当然か。

 でも、これは仕返しなのだからと、僕はキスを続ける。

 そうだ。

 はたと閃く。

 ちょっとしたアクセントを加えてみよう。

 僕は自分の舌を使い、先輩の唇を半ば強引に割り裂く。

 そしてそのまま先輩の口腔内へと、舌を侵入させた。

「~~~~~ッ!?」

 先輩の瞳がさきほどよりもずっと大きく見開かれていた。

 と同時に、舌先に鋭い痛みが走った。

「いっっ」

 反射的に呟いて、唇を離す。

 口の中に広がる、鉄の味。

 ……舌を噛まれた、のか。

「愛先輩、痛いです」

「い、いきなり驚くようなことをする方が悪いっ」

 顔全体を紅潮させ、自分に非はないと主張する先輩。

 まあ確かに、仕返しだとか言って、少し調子に乗りすぎたかもしれない。

「すみません、愛先輩」

 素直に頭を下げた。

「ま、まあ、分かればいいっ。それに、こちらも……」

 申し訳なさそうな先輩の表情。

 その先輩と、視線が重なる。

「その……悪かった。すまない」

 先輩が頭を下げる。

 先輩にしては珍しい、真摯な態度。

 それにしても、先輩に頭を下げられるなんて。

 なんだかますます申し訳ない気分になってきた。

「い、いいですよ愛先輩っ、今のはどう見ても僕が悪いんですから」

「いや、君に怪我をさせてしまったのは事実だ。私が悪いに決まっている」

 はっきりと言い切る。

 さっき、驚くようなことをする方が悪いとか言っていたのは誰だったか。

 先輩が、しおらしくなっている。

 それも異常なまでに、だ。

 これはいったいどういうことだろう。

「愛先輩、いったいどうしたんですか? いつもの愛先輩らしくないですよ」

 その疑問に、先輩はため息をひとつついてから、

「いや、どうにも私は感情のコントロールが下手だな。君には、その……感謝もしているし……濃厚なキスぐらいいくらでもさせてあげて良いとは思っていたんだが……実際は、このありさまだ」

 と自嘲気味に答えた。

「でも、僕はそんな風に困った顔をする愛先輩も好きですよ」

 その言葉を聞いた先輩は、少しだけ驚いたような顔をして。

「ふふ、君には敵わないな。まったく……参ってしまうよ」

 と、微笑んだ。

 その天使のような微笑みを見つめていると、僕のほうが参ってしまいそうになる。

 不意に、口元に違和感を感じた。

 手で触れてみると、濡れた感触。

「あ」

 血だった。

 唇の端から、少し血が垂れてしまったらしい。

 ハンカチか何かで拭わなくては。

 しかし僕はハンカチやポケットティッシュを持っていない。

「愛先輩、あの、ハンカチか何か――」

 持っていますか? と、訊ねようとした瞬間。

 口元に灼熱が触れた。

 いや、違う。

 先輩の、まるで炎のような熱い舌によって、口元の血が舐め取られていた。

 口元に這う舌は丁寧に血の筋を辿って、そのまま僕の口内にまで侵入してきた。

 これが……先輩の、舌……!

「んっ……ふっ……」

 それは誰の吐息だったか。

 口内で艶めかしく蠕動する肉の感触に、しばし忘我する。

「ぷはっ……すまない、自分で言っていたのにも関わらず、急にこんなことをしてしまって。だが……これでハンカチはいらなくなっただろう?」

 いつの間に離れたのか、したり顔の先輩がこちらを見つめてそう言った。

 いまだ頭が上手く働かない僕は、それに対し何も答えることが出来なかった。

「ふふ、君の血の味を憶えたよ」

 嬉しそうに、少し危ない発言をする先輩。

 ……猟奇的だ。

 まあ、人を喰らうような相手に、今さら猟奇的も何もあったものではないけれど。

 うん、ようやく頭も働くようになってきた。

 いきなりで驚いたけど、きっとあれは先輩なりのお詫びを兼ねた愛情表現なのだろう。

 僕の方からした時に、つい拒絶してしまったのを気に病んでたみたいだったし。

 そんなに気にすることないのに。

 下世話な話をすると、正直めちゃくちゃ気持ち良かったし。

 ともあれ、今のは先輩に認められたと考えていいんだろうか。

 そもそも、認める、認めない、という話なんてどこにも無い。

 けれども僕は、先輩と共犯関係を結んだあの日から、先輩にとって優秀な相棒のような、そんな存在でありたいと、そう思い続けていた。

 その願いが叶っていたとしたら、それはどんなに嬉しいことだろう。

 今では、優秀な相棒から、ホッカイロのような存在という風に、少しだけ形を変えてはいるけれど。

 根幹にあるものは変わっていない。

 もしそれが変わっていたならば、先輩の隣にいられる今この瞬間を、こんなにも暖かい気持ちで過ごせるはずがない。

 ホッカイロでありたいと言う僕が暖かくなるなんて、なんて皮肉だろう。

 けれど、人がいるからホッカイロは熱を持つし、熱を持ったホッカイロに触れるから、人は暖まる。

 人とホッカイロは共に暖めあう関係だ。

 だとしたら、僕が先輩と共にいることによって暖まるのは皮肉でもなんでもなくて、至極、当然な――。

 唐突に、横合いから視線を感じた。

 見ると、こちらをさも不満ありげにねめつける先輩。

「君、何嬉しそうな顔をしてるんだ。私も混ぜろ」

 そう言って、僕の右隣に、ぴったりと寄り添うような形で座り込む先輩。

 さきほど抱きしめた先輩の温もりが、触れ合った肩や腕から伝わってくる。

 それに、あの思考を狂わす先輩の匂いも、だ。

 心臓が高鳴るのを感じる。

 けれど僕はそれを悟られまいと、冷静を装って言った。

「混ぜろって……鬼ごっこじゃないんですよ?」

「そんなことは分かっている。それよりも寒い。早く仕事をしてくれないか、ホッカイ……北海道くん」

 ……先輩のギャグは北海道より寒いかもしれない。

 わざわざ言いなおす辺りにその残念さが極まっている。

 ……まあいい。

 そんなところも先輩の魅力だ。

 と、思っておこう。

「北海道が仕事をしたら、たぶん余計寒くなっちゃいますけどいいんですか?」

 僕のその言葉に、少しだけ考えるそぶりをしてから、

「今のは無しだ。ホッカイロくん、仕事をしてくれ」

 と言った。

「わかりましたよ、愛先輩」

 そうして、どちらからともなく僕らは手を握った。

 穏やかな時間が流れる。

 先輩といつまでもこうしていられたら良いな、と思った。

 それから僕たちはまた、いろいろな話をして、暗くなるのに合わせて別れた。

 家に帰る途中、僕はなんとなく先輩との会話を思い出していた。

 その中でひとつ、気になることがあったのを思い出す。

「そう言えば、僕はどうして屋上になんか行きたかったんだろう……?」

 僕のこの願いを先輩が知っていたことも気になるが、今はそれよりも、以前の僕がどうして屋上に行きたいと考えていたのかが気になる。

 けれど、その理由が思い出せない。

 思い出せないから、余計に気になる。

 でもまあ。

 気にはなるけど、さして問題もないか。

 思い出せないからと言って、何か重大な問題が発生するわけでもない。

 とにかく今日の所は家に向かって真っすぐ帰ろう。

 ふと、家という単語である疑問が浮かぶ。

 そういえば、先輩ってどこに住んでるんだろう?

 明日にでも訊いてみようかな。

 そんなことをつらつらと考えていたら、いつの間にか家に着いていた。

「ただいま」

 返事はない。

 きっとまだ父さんが帰ってきていないのだろう。

 うちの父はごく一般的な会社員なのだが、勤務時間が不安定で、早く帰ってくる時もあればその逆もある。

 今日は後者のようだった。

 父と聞いてまず真っ先に思い出すのは家のニ階に今も存在している書斎だ。

 父は本が好きで家を購入するにあたり書斎の確保を第一に考えていたらしい。

 その父の影響かどうかは分からないが、気がつけば僕は本を読むのが好きになっていた。

 そんなわけで僕が父と聞いて最初にイメージするのは書斎だった。

 ちなみに書斎にはパソコンも置いてある。

 父はパソコンでインターネットを利用するのも好きなようで、たまにインターネットで知り合った人達と電話で連絡を取ったりもしている。

 それはさておき、我が家のルールでは基本的に子供は書斎に立ち入り禁止だった。

 だというのに、子供の頃の僕はよく父の目を盗んでは書斎に忍び込み色々な本を読み漁っていた。

 もちろん当時の僕に理解できる本なんてほぼ皆無に近かったが、それでも父と同じ本を読んでいるという気持ちだけで十分楽しかった。

 大人になるにつれて図書館の利用方法などを知り、その結果、自然と父の書斎に足を運ぶ回数は減っていった。

 もともと書斎は立ち入り禁止だと言われているのもあり、いまではもう最後に書斎に足を踏み入れたのがいつだったかも思い出せないくらいだ。

 そんな父と僕は、もうずっと長いこと二人きりで暮らしている。

 母親は僕が子供の頃、交通事故に遭って死んでしまったからだ。

 父親からそのことを聞かされた僕は、子供ながらにもう母親とはニ度と会えないというのが本能的に理解できて、わんわん泣いたのを憶えている。

 あまり母親の記憶は無いが、優しい人だったように思う。

 眠りにつく前によく本を読み聞かせてくれたのを憶えている。

 僕は眠る前に母親がしてくれる絵本の話が好きだった。

 その中でも特に好きだったのが『赤ずきん』だ。

 なぜ子供のころの僕が『赤ずきん』を特に好んでいたのかは定かでないが、あの物語を読み聞かせてくれる母の声を想起するたびに、強い郷愁にかられる。

 この郷愁に、哀惜や寂寞といったそういう類の感情は含まれていない。

 むしろ、いつまでも浸っていたいような、陽だまりにも似た温かさが含まれている。

 他に記憶していることと言えば、おぼろげではあるが買い物に行っては玩具売り場の前で駄々をこねてよく母親を困らせていた気がする。

 そのたびに母は困ったように笑って、

「今度お母さんがもっと良いもの買ってあげるから、今日は帰りましょう、ね?」

 と、泣きわめく寸前の僕をなんとかなだめすかすのだった。

 そんなことが何度も続いたある日。

 さすがに嘘をつき続けることに母も気がひけたのか、ついに母がおもちゃを買ってきてくれた。

 だがそれは僕の期待外れの品だった。

 女の子が遊ぶような、黒い髪の可愛らしい少女の人形だったのだ。

 当然僕はむくれた。

 こんなのいらない! ってみっともなく叫んで、母からもらったその人形を蹴っ飛ばした。

 その時の母の悲しそうな顔を良く憶えている。

 母は人形を拾ってくると僕を優しく抱きしめた。

「ごめんね。こんなものしか買ってあげられなくて。その代わり、あなたにはたくさんの××をあげるから……」

 当時、僕は母がなにを言っているのかいまいち分からなかった。

 けれど、その時の母の声に混じるものが僕をいたたまれない気持ちにさせたことだけははっきりと憶えている。

「ごめんなさい」

 気がつくと僕は母に謝っていた。

「いいのよ。約束を守れなかったお母さんが悪いんだから」

 母は人形を一瞥した後、

「せっかく買ってきたんだから、やっぱりあなたに使って欲しいな」

 そう言って僕へと人形を渡した。

「大事に使ってね」

 微笑む母に頭を撫でられながら、当時の僕はこの人形を大切に扱おうと決めた。

 ……ここまで思い出して、自分自身に驚く。

 存外憶えているものだな、と。

 母親の記憶はもうほとんど僕の中に残っていないものだと思っていた。

 僕にとって母親というのは思ったよりも大きな存在だったのかもしれない。

 それについての真偽のほどは分からないが、ともかく。

 僕の記憶力も捨てたものではない。

 そんな風に自分を見直していると、ふと汗ばんだ体に気がつく。

 風呂に入ろう。

 そう思い、浴室へと向かう。

 浴室へと続くその廊下。

 その一点に、小さな黒いシミのようなものを見つけた。

「こんな所にこんな汚れあったっけ……?」

 少しだけ気になったので、その場でかがんで、汚れに顔を近づけた。

 直径一センチにも満たないであろう小さなシミ。

 我ながらよく気づいたものだな、と思う。

 なんとはなしに、親指の爪先でひっかいてみた。

 カリッ、と小気味よい音を立てて、汚れの一部が削りとれた。

 そのまま全部削り取る。

「よし、綺麗になった」

 それきり僕は汚れのことを考えることはなかった。

 風呂へ入り、あがる。

 流れるように夕食を食べ、寝間着に着換え、自分のベッドに潜り込んだ。

 リモコンを使い、部屋の電気を消す。

 淡い闇が体を包む。

 目を閉じた。

 ふと、瞼の裏の、小さな闇の中に。

 満月のようにぽっかりと、先輩の顔が浮かんだ。

 儚げな表情。

 ほんの少し目を離した隙に、掻き消えてしまいそうな。

 そんな印象を抱いた。

 だから僕は。

 溶けゆく意識の中、闇の向こうにいる先輩へと、手を伸ばした。

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