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-捕食-

 教室の窓の隙間から、冷たい風が差し込んできている。

 なんとなく、そちらへ視線をやる。

 放課後だと言うのに、グラウンドには誰一人としていない。

 まあ、理由は分かっているのだが……。

 あれから一週間が経った。

 ちなみに人間をやめた、とは言っても、もちろん生物学上ではいまだ人間のままだし、人間以外の存在へと進化する予定もない。

 ただ僕からはあの日を境に、人間らしさがなくなった。

 皆無、とまではいかないだろうが、確実に減ってはいるだろう。

 それもこれも全てあの先輩のせいだ、などと言うつもりはもちろん無い。

 あの日のあの瞬間、先輩の手を取ったのは間違いなく僕自身の意志であり、他の誰のものでもない。

 この人と一緒に堕ちていきたい。

 確か僕はそんなような事を考えながら先輩の手を取ったはずだ。

 今の僕だからこそ言えるが、あの日、彼女と出会い、共犯関係を結んだことは僕にとって最早運命的ですらあったと感じているし、それに、あの時手を取っていなければ僕は今ごろこんなにも生き生きしていないだろう。

 そう、僕は今生き生きとしているのだ。

 彼女と出会うまでしっかりと実感したことは無かったが、彼女と出会う前の僕は、まるで生きてなかった。

 ただ死んで無いだけ。

 変わらない毎日に不平を言う気力すら湧かず、ただ漫然と時間を消費する日々。

 一昨日と昨日は何一つ変わらなくて、昨日と今日はやっぱり同じで、明日もきっと、今日を真似るだけ。

 無色透明で無味乾燥。

 そんな毎日だった。

 でも今は違う。

 一日一日が色鮮やかだ。

 昨日の出来事は仔細に渡って鮮明に憶えているし、今日の事だってもちろんそう。

 彼女と過ごす時間は本当に濃密で。

 僕の色の無い毎日が、気が付けば綺麗に彩られていた。

 例えそれが鮮やかな血の色だったとしても。

 それらはすでに、僕にとってはかけがえのない大切なものへと変化していた。

 変化。

 変化と言えば、僕のクラスメイトの数だろうか。

 一週間ほど前には40名いたクラスが、今日の時点で37人にまで減っている。

 そう、あれから二人殺したのだ。

 僕と彼女の二人で、二人。

 殺した生徒の名前は確か、木下優梨と河原美里。

 まあ、名前はどうだっていい。

 僕があの日、僕と先輩とで初めて人を――木下優梨を殺めた時に得たもの。

 そちらの方が何倍も重要だ。

 木下優梨を殺したあの日、僕は今までに味わったことのない愉悦や慟哭を手に入れた。

 あの日はそう、今日と同じで、冷たい空気に包まれた日だった――。



「やあ、また会ったね。これで君と会うのはニ回目かな?」

「四回目ですよ」

「ふふ、知っているとも。冗談だよ」

 昨日の打ち合わせ通りに放課後の教室へ来てみると、例の彼女――時古愛に出迎えられた。

 こうして彼女と会うのにも、随分と慣れてきた。

「それにしても、本当に今日……やるんですか?」

「当たり前だろう。それに昨日、君も承諾してくれたじゃないか」

「それは、そうですけど……」

 昨日の打ち合わせ。

 とてもじゃないが人には言えない、そんな内容。

「私は今日、木下優梨を喰べる。その未来を変えるつもりはない。それに、食べるなら、殺すなら今日がいいと言ったのは君の方だろう?」

「……でも」

 そうだ。

 放課後の教室で(またしても彼女が僕と話をしたいと言ったので昨日も今日と同じく話をしていた)彼女は昨日、唐突に木下優梨を名指しで、喰べたいと言ってきたのだ。

「君が考えていることを当ててあげようか?」

 スカートの下から覗いているすらりと伸びた脚を、わざ見せつけるようにしてゆっくりと組みかえる彼女。

「ぐっ……」

 まただ。

 昨日もこのセリフを言われ、当てられてしまった。

 無駄かもしれないが、今日は当てられないことを祈る。

「今さらになって、人を殺すという行為に加担することが怖くなった」

「…………」

 またしても当てられてしまった。

 僕はそんなにも考えていることが顔に出やすいのだろうか。

「ふふ、安心しなよ。君は僕に協力してくれる。それもかなり真剣に……ね」

 そう言って、凄惨な笑みを浮かべる彼女。

 なぜだろう。

 彼女の言葉には魔力でも備わっているのだろうか。

 不思議と彼女の言葉通りになる、そんな気がした。

 三時間後。

 僕達は街はずれにある、とあるさびれた森林公園にいた。

 さびれた公園とは言っても、その広さは四方に最低でも1キロメートルはあろうかという広さだ。

 有り体に言って、かなり広い。

 森林公園と謳うだけあって、周囲には木々が縦横無尽に生い茂っている。

 その中でもとりわけ人目につかないような茂み。

 そこが僕らの現在いる場所だった。

「寒い。寒い寒い。寒い寒い寒い! ……なあ君、やっぱり帰らないか?」

「先輩が木下さんを喰べたいって言うからわざわざここまで来たんじゃないですか!!」

 そう、僕達は木下優梨を一目につかないところで殺害すべく、こんな時間にこんな格好で(お互い制服のまま)待ち伏せをしているのだった。

「だって、こんなに寒いとは思ってなかったし……君、憶えておくがいい。私は寒さには弱い」

 両手で体を抱きしめて震える先輩は、いかにも寒いと言った体だ。

「はぁ……先輩ってそういうこと言うキャラだったんですね」

 意外とわがままというか、行き当たりばったりな発言をしたりもするのか。

 ミステリアスなイメージばかり先行していて、当の本人の本質やら性格までは全然把握できていなかったことに気づかされる。

「そんなキャラとはなんだ。それに私にはミステリアスなイメージがあるだろう?」

「さっきの先輩の発言で、僕の中にあったミステリアスで妖艶な先輩のイメージはあっけなく崩れ去りましたよ」

「なんだと! 私には妖艶なイメージもあったのか!?」

「驚くとこそっちですか!」

「まあいい。それより、い、いつまで君は、その……えっと……私のことを、先輩、と呼ぶ気なんだい……?」

 心なしか少し上擦ったような先輩の声。

「と、申されますと?」

 僕がそう聞き返すと、途端に先輩は挙動不審になった。

 ここで言う挙動不審とは、急に顔を赤らめたり、その次の瞬間には青ざめていたり、また目を泳がせたかと思えばぶつぶつと何ごとかを呟いていたりする行為をのことである。

 だが、そんな挙動不審な行動を取っていた先輩も遂に意をけっしたのか、言った。

「……私のことは愛ちゃんって、呼びたまえ」

「嫌です」

「即答っ!?」

 愛ちゃんって。

 何を言うかと思えば。

「うぅ……今まで積み上げた私のミステリアスなイメージが崩壊することを覚悟して、その上口調まで変えて可愛らしく言ってみたのに……私の覚悟と努力が全て水の泡に……」

 先輩は肩を落とし、いかにも惨めな女と言った風体で泣き崩れていた。

「そんなにショック受けないで下さいよ。僕が嫌って言ったのはただ……」

「ただ?」

 目尻に涙をいっぱいにためて、こちらを見上げてくる。

 いつもとは違う先輩のその姿に、不覚にも萌えてしまった。

 ていうかこの人、さっきからキャラが壊れ過ぎじゃないか?

「愛ちゃんって言うと、あのプロスポーツ選手を連想してしまうから。それで咄嗟に嫌って言っちゃっただけです」

「本当に……それだけ?」

「本当にそれだけですってば……愛、先輩」

 僕が少し照れながらもそう呼びかけた途端、先輩の顔が一瞬にしてパァっと明るくなった。

「ふふ、愛先輩か。愛先輩。そう、私は君のミスミステリアス! 愛先輩なのだよ!」

 しょうもないことを声高に叫んでいた。

「……ミスミステリアスって、語呂が悪いにもほどがあるでしょうに」

 そんなに名前を呼ばれたのが嬉しかったのか。

 名前は記号だ、みたいなことを言っていた癖に。

 腕時計を見る。

 時刻はあと十分で午後九時になろうかというところ。

 そろそろ、だ。

「愛先輩、そろそろだと思います」

「ん、そうか」

 先輩はさもありなん、と言った様子だ。

 先輩の表情から緊張やそれに類する感情は窺えない。

 緊張とかしない人なんだろうか……?

 午後九時。

 その時間を狙って、僕達は今この公園で待ち伏せをしている。

 待ち伏せとは、動かずに獲物が来るのを待つことを指す。

 この場合の獲物とは、ターゲットである女の子━━木下優梨を指している。

 毎週水曜日の夜九時過ぎに、彼女はここを通る。

 なぜなら彼女はここから少し離れた位置にある塾に通っているからだ。

 どうして僕がそんなことを知っているのか。

 それは――あれ、どうしてだっけ……。

 よく思い出せない。

 昨日は愛先輩から木下優梨を喰べたいという話を聞いた時、彼女なら明日塾があるので、襲うなら明日にすべきだと反射的に答えてしまっていた。

 まあ、普通の人が一ヶ月前に食べた夕飯のメニューを憶えていないように、僕もまた、ただなんとなく忘れているだけだろう。

 考えても分からないものはしょうがない。

 今はそんなことよりも、これからのことだ。

 これからのこと。

 木下優梨を襲う。

 もちろん、僕自身は人を襲うのなんて初めてだ。

 それも、殺すつもりで襲いかかるのだからなおさら経験などあろうはずもない。

 一応、木下優梨を襲うにあたっての役割分担みたいなものは決めてあるのだが、如何せんそれがあって無いようなものだから困る。

 昨日、愛先輩に役割分担を訊ねた時のことを思い出すため、意識を昨日の会話へと旅立たせた――。

 放課後の教室、僕達は犯行計画を練っていた。

「先輩。それで襲うにあたっての役割分担なんですけど、僕はどうしたら」

「そうだな。君はとりあえず飛びかかって動きを押さえてくれ。それから――」

「それから?」

「それから、何とかして彼女の息の根も止めてくれると助かる。あと出来れば綺麗に殺してくれ。そしてあわよくば衣類等の証拠品の処理も頼む」

「ってそれ全部じゃないですか! 先輩は何してるんですか!」

「私は現場監督だ。君を監督するのが仕事さ」

「先輩! 真面目に考えてくださいよ!」

「まあそう喚くな。心配しなくても私と君なら全て上手くいく。まあ、それでも何か問題が起きたら……その時は私が何とかしよう」

 ……回想終了。

 現在へと意識を戻す。

 あの時は先輩が有無を言わさぬオーラを発していたから上手く反論することが出来なかったけど、冷静に考えたら無計画にも程があるんじゃないか?

 仮にも人を一人殺そうとしているのに。

 このままでは計画的犯行であるのにも関わらず、あっさりと僕達の犯行がばれて警察に捕まってしまうかもしれない。

 それだけは何としても避けなければ。

 僕はまだ先輩と一緒にいたい。

 だが具体的な犯行計画を考えている時間はもうない。

 なら今日のところはひとまず様子見ということで、このまま何もせず帰るべきか。

 いや、その選択はありえない。

 僕は先輩の役に立ちたいのだ。

 出来るだけ先輩にとって有能な共犯者でありたい。

 それに、先輩の言ったセリフを信じてみたいという気持ちもある。

 先輩の言葉にはなぜか妙な説得力がある。

 根拠なんて何もないのに、先輩の言葉通り、先輩と僕の二人なら何もかもを上手くやれそうな気がするのだ。

 ただの思いこみかもしれないが。

 それに、おぼろげではあるが予感もある。

 きっと今日の狩りは成功するだろうという予感。

 これから人を殺そうかというのに、昨日までとはうってかわって、全く緊張していないのがその良い証拠だろう。

 いや、緊張感はある。

 だがそれは昨日とは性質が異なる緊張だ。

 人を殺める、という緊張から、無事先輩に木下優梨を食べさせてあげることが出来るのか、という緊張に。

 だがそれはけっして煩わしい緊張ではなく、適度に張りつめていて、むしろ心地良ささえ感じさせるものだった。

 カチリ、と腕から時計の短針がずれる音が聞こえる。

 九時、だ。

「先輩」

「ああ、分かっているとも。時間だ」

 その瞬間から、僕達は一段と息を潜めて気配を殺した。

 耳に全神経を集中させ、辺りの気配を探る。

 だが耳に入るのは、秋風が木々の葉を撫でる音と虫達の輪唱ばかり。

 周囲には僕達以外の人の気配は全くと言っていいほど無かった。

 その状態が続くこと十分。

 早くも先輩が根をあげ始めた。

「なあ、私に良い提案があるんだが」

「まだ帰りませんよ」

 ピシャリと言い放つ。

「まだ何も言ってないのに……」

 しょぼくれる先輩。

「じゃあ、帰ろう、以外の何を言うつもりだったんですか?」

「それはその……ほら、ね?」

 なにが、ほら、ね? だ。

 言い当てられたのなら素直にそう言えばいいのに。

 だけどまあ、そんなところも嫌いになれない。

 そんな風に考えてしまう僕自身も大概か。

「とにかく、先輩のために今日はここまで来たんですからもう少しだけ我慢してください。きっともうじきやってきますって。あとほら、これも貸してあげますから――」

 そう言って制服の上に羽織っていたコートを先輩に手渡した。

 もっと早くに貸してあげるべきだっただろうか。

「きょ、今日だけだからな、まったく……後輩のくせにわがままなのだから……」

 前言撤回。

 コート、貸さなければ良かった。

 やっぱり返してもらおうか。

 そう思い、声をかけようと先輩の方を見やると先輩は既に僕のコートをしっかりと羽織っていた。

 ……ちゃっかりしてるなあ。

「ん……これは……このコートに染みついた匂いは……!」

「愛先輩、何か言いました?」

「い、いや、なんでもない。君は気にせず彼女が来るかどうか見張っていてくれ。私は少し向こうの方へ行って彼女がいないか探してくるよ」

 やや慌て気味にそう言って、そそくさと僕から離れていく先輩。

 明らかに怪しい。

 僕は先輩に気づかれないように少し距離を置いてから後を追った。

 もちろん、木下優梨がやって来るかどうかにも気を使いながらだ。

 それにしても先輩はどこまで歩いて行くのだろう。

 そう考えていた矢先、不意に先輩の歩みが止まった。

 先輩はあたりに人がいないことを確かめた後、木の幹に寄りかかり、おもむろに僕のコートを脱いだ。

 あんなに寒いって言うから貸したのにもう脱ぐのか……。

 もしかして僕のコート臭かったりしたのかな。

 などとマイナスな想像を膨らましていると、突然先輩はそれを全身で抱きしめ思いっきり匂いを嗅ぎ始めた。

 「くんかくんか! すーはーすーはー!……はぁぁぁぁ……堪らないな、この匂いは……」

 そう呟いて、恍惚の表情を浮かべる先輩。

 って、そんなモノローグしてる場合か!

 何やってるのあの人!?

 僕のコートの匂いを嗅いでる!?

 まさかの匂いフェチ!?

「ってあなた何やってるんですか!?」

「きゃあっ!!」

 僕の登場が予想外だったのか、先輩は驚くと同時にその場で脚をすべらせ尻もちをついた。

「あいたたた……」

「…………」

 場が静寂に支配され、先輩と見つめ合うこと数秒。

 ようやく先輩が口を開いた。

「何やってるんだ君は」

「それはこっちのセリフです!!」

「……見ていたのか?」

「ええ」

「……最初から?」

「はい。僕のコートに染みついた匂いを全力で嗅いでました」

「~~~~~!!」

 それを聞くや否や、みるみるうちに先輩の顔が紅潮していく。

 先輩も恥ずかしがったりするのか、へぇ。

「なんだか今日は愛先輩のお茶目な一面がたくさん見られる日みたいですね」

「う、うるさいっ」

「そんなに僕のコートの匂いは良かったですか?」

「うぅ……」

「いつから愛先輩はそういう匂いに興味を持つようになったんですか?」

「うぅぅ……」

「それとも――」

「も、もういいっ、参った降参だ。負けを認める。だからもう、許してくれ」

 恥ずかしさが限界まで達したのか、耳まで赤くなっている。

「それにしても、愛先輩が匂いフェチだったなんて意外です」

 いまだ尻もちをついたままの先輩に手を差し伸べながら言う。

「別に私は匂いフェチなどではない……これはただお前の……だったから……なだけで……」

 そう言って、僕の手を取る先輩。

「何か言いました?」

 先輩を引き上げながら、訊ねる。

「さあ、どうだったかな」

「別に教えてくれたっていいじゃないですか」

「だ、駄目に決まっているだろう」

「そんな意地悪しないでくださいよ」

 他愛のない会話を続ける僕達。

 どうやらようやくいつもの先輩に戻ったらしい。

 と。

 不意に背後から声がかけられた。

「そんなところで何してるの?」

 女の声。

 だがこの声には聞き憶えがあった。

 嫌な予感が首をもたげる。

 それを振り払うように声のした方へと振り向く。

 目の前には――僕のクラスメイトである女子、木下優梨がいた。

「あ……」

 認識と同時に、心臓が早鐘を打つ。

 これはまずい。

 非常にまずい。

 不意を打つつもりで待ち構えていたはずなのに、逆にこちらが不意を打たれるなんて。

 木下優梨への注意も怠らないと言っていたのはどの口だ。

「あの……聞いてる?」

 彼女の声ではたと我に帰る。

 どうしよう……とにかく、返事をしなければ……。

「ああ、えっと……木下さん、だよね? こんなところでどうしたの?」

「それを聞いてるのは私の方なんだけど……」

 怪訝そうに眉を顰める優梨。

「え? ああっ、ごめんごめんっ」

 謝りながら、これからどうしたものかと先輩の方を見やる。

 だが。

「ひっ……!」

 先輩の顔を見た途端、自然と喉から恐怖が漏れた。

「…………?」

 木下優梨はそんな僕を見て、またしても怪訝そうな顔をしている。

 なぜ僕が先輩の顔を見て悲鳴を漏らしたのか。

 なぜなら先輩の顔には、この世の全ての殺意を詰め込んだかのような表情が浮かんでいたからだ。

 悪鬼羅刹。

 先輩のその表情は、有無を言わさず人間を根源的恐怖に陥れる、地獄の鬼そのものだった。

 その鬼の口が、動いた。

「……せ」

「え?」

「殺せ」

 地獄の底から響いてくるかのような、重く、低い声。

「で、でも」

「いいから早くそいつを殺せ。今の状況は昨日の立てた計画と何も変わらないだろう」

 確かに、言われてみればその通りだ。

 不意に声をかけられて焦ってしまったが、現在の状況は人気の無い場所で木下優梨を襲う、という条件を完璧にクリアしている。

 先輩の変貌ぶりだけが腑に落ちないけれど、こうなったらあとはもう、こなすだけじゃないか。

 よし。

 僕は先輩の役に立つんだ。

 これから振るうことになるであろう暴力の予感に、僕の体はかすかに震えた。

「ちょ、ちょっと大丈夫?」

 さきほどの怯えがそのまま僕の顔の青さにでもなったのだろうか、心配した優梨が僕に声をかけてきた。

 その言葉に。

「木下さん、あなたに恨みは無いけれど、死んでください」

 つとめて冷たい声音で返しつつ、僕は素早く彼女の腕を掴み、強引に捻り上げた。

「きゃあああ! ちょっと何するの! 離して!」

「聞いてなかったんですか? 僕は今からあなたを殺すんですよ」

 捻り上げた手を、今度は横に薙ぐようにして力任せに引っ張った。

「きゃっ!」

 その勢いで、地面に倒れ込む彼女。

 僕は彼女が逃げられないようすぐさま上にのしかかり、馬乗り状態になる。

 その衝撃に彼女の口からは苦しげな呻き声が漏れた。

 彼女の呻き声を聞いた途端、僕の体に味わったことのない恍惚が駆け巡るのを感じた。

 その瞬間、僕は悟った。

 殺意の衝動は、射精感にも似て甘美なのだと。

「くっ……うぅ……どうしてこんなことするの……?」

 彼女の顔には苦悶に満ちた表情が浮かんでいる。

「どうしてって、それが先輩のためだから」

「先、輩……?」

「そう、先輩。僕は先輩のために君を殺すんだ」

 そう言って先輩の方へ振り返る。

 と同時に、あることに気がついた。

 先輩から、つい今しがたまであったはずの強烈な殺気が跡形もなく消えていることに。

 一瞬、それについて訊ねたくなる衝動に駆られたが、今はそれよりも優先すべきものがある。

「ところで愛先輩。彼女、綺麗に殺すにはどうしたらいいですかね?」

 先輩は少しだけ考えるようなそぶりをして、

「そうだな。出来るだけ外傷を少なくしてくれれば文句は言わないよ。それに今日は君にとっての人狩りのデビュー戦でもある。ある程度自由に、そして気楽に、殺ってくれて構わない」

 と言った。

「わかりました」

 そう言って地面に横たわる木下優梨へと目を向けた途端。

 脳裏に火花が散った。

 僕の意識が痛みによって一時的に支配される。

「痛って――」

 反射的にそう呟いて、刹那、足元から信じられないような力の奔流。

 その奔流に、いともたやすく僕の体は跳ね除けられた。

 いったい何が起こったのか――。

 即座に眼前の状況を目で追い、それらを頭の中で整理する。

 そして、理解した。

「……これが火事場の馬鹿力っていうやつなのかな」

 走り去る木下優梨の背に、そう呟いた。

 どうやら僕が先輩と話している間、ずっと彼女は反撃の機会を窺っていたらしい。

 そして、見事に反撃は成功した。

 殴られた顎がズキリと痛む。

「まさか木下さんにあんな力があるなんて」

 いや待て僕、驚いている場合じゃないだろう。

 早く木下優梨を追いかけなければ。

「愛先輩! どうしましょう! やっぱり追いかけるべきですか?」

「ああ、分かっているとも。私の出番のようだな」

 僕の問いを無視して答える先輩。

 先輩の出番?

 先輩は監督役じゃあなかったのか。

 と考えた所で、突如として場の空気ががらりと変わった。

 先輩の気配の色とでも呼ぶべきものが、一瞬にして赤黒く染まる。

「これは……さっきの……!」

 殺意の塊。

 そうとしか言えないものが、ゆったりとした動作で――獲物を前にした肉食動物のような姿勢をとる。

 その殺意の眼光が捕らえる先――そこには今もなお全力で走り続ける木下優梨がいた。

 直感する。

 先輩は彼女を確実に殺すだろうと。

 ついで、獣の咆哮にも似た風切り音が鳴った。

 先輩が駆けたのだ。

 音速を超えるのではという速度。

 そんな目にもとまらぬスピードで、あっと言う間に木下優梨に追いついたかと思えば、そのまま流れるような動作で彼女の自由を奪い、地面に転がした。

 そして間をおかず、先輩はこちらへと手招きする。

 ……何だ今のは。

 人間離れしている、とか言うレベルじゃない。

 あれは、あの速さは。

 人間の領域を優に越えている。

 いったい、先輩は……。

「おーい、何ぼーっと突っ立ってるんだ。早くこっちへおいでよ」

 驚きのあまり呆然とする僕へ唐突に声がかけられた。

 先輩の声だ。

「すみませーん! 今行きまーす!」

 それにしても、先輩が取りだした優梨を拘束しているあのロープ、いったいどこに隠し持ってたんだろう。

 そして何より、先輩の人間離れしたスピードや、さっきのあの豹変ぶりはいったい……。

 いろいろと疑問を抱きながらも、招かれるまま先輩のもとへと向かう僕。

「やっと来たね」

 さっきまでの殺気はもはやなく、先輩は優しげに微笑んだ。

「愛先輩って凄いんですね。なんていうか、いろいろと」

「当たり前だろう。世間の常識じゃないか」

「そんな常識聞いたことありませんよ……それにしても」

 足元に転がっている優梨に視線を落とす。

 先ほどから優梨は黙ってこちらをじっと見据えるばかりだ。

 ドラマとかでは、ここで罵詈雑言を言ったり、命乞いをしてきたりするのに。

 まあいずれにせよ人殺しに加担するなどということは、僕にとって初めての経験だ。

 現実ではこういうケースもあるということなのだろう。

「それで愛先輩、どうします? ここで食べちゃいますか?」

「そうだな。周囲に人の気配も無いし、ここで食べてしまうのが一番だろう」

 僕達の行動が決まった。

「あなた、やっぱり……そう、そうなのね……」

 と、足元から消え入るような声。

「え?」

 咄嗟に聞き返す。

「いえ、なんでもないわ……私を、殺すつもりなんでしょう? だったら良いよ。きっと、これが私の罪に対する……罰だから……」

「罪? 罰?」

 なんだか良く分からないことを言っている。

 いきなりクラスメイトに襲われて今にも殺されるかもしれないという異常な状況に、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 それに今、殺されても良いと言わなかったか?

「木下優梨。君は今、殺されても良いと言ったのか?」

「……うん。不本意ではあるけど、きっと、仕方の無いことだから」

 今の時代に悟りを開いた賢者がいたとすれば、きっとこういう表情をしているのかもしれない。

「良く分からないけど、君が死んでも構わないというのなら、僕らは容赦なく君を殺すよ。――先輩」

「ああ」

 頷いて、転がっている優梨の首を掴み、その首を僕らの顔と同じ高さまで持ちあげる先輩。

 ……以前、首を掴まれた時にも思ったけど、先輩の腕力は凄い。

 一体どういう鍛え方をすれば片手で軽々と人間一人を持ちあげることが出来るんだ?

 さきほどの人間離れした動きのこともあるし、もしかすると、先輩は本当に……。

 いや、これは今考えるべきことではない。

 今はただ、これから目の前で行われるであろう行為を、目に焼き付けるだけだ。

 生い茂る木々の葉の隙間から差し込む青白い月光。

 その儚げな光を身に受けながら先輩が言う。

「今から私は君を喰らう。だから君は、今この瞬間から生きることを諦めてくれ」

「…………」

 優梨は答えない。

「君は死ぬ。どうしようもなく死ぬ」

 先輩は続ける。

「どれほど胸を打つ命乞いをされても、どれだけの大金を積まれようとも、その事実は揺るがない。君を喰い殺すという私の決意は揺るがない。それは決定された未来であり、まもなく私のものになるであろう過去だ」

 なおも先輩は続ける。

「正直な話、言いたいことはたくさんある。だが、あまり長々と語っていても仕様がない。だからもう――終わりにしようと思う」

「…………」

 優梨は相変わらず黙ったまま、身じろぎひとつしない。

「だがその前にひとつだけ。君は今しがた気になることを言っていたな。そう、君は自らを咎人――罪人であると、そう言っていたな」

 その言葉に、優梨が少しだけ反応した、ように見えた。

「ならば、私に誰かを裁く権利などあろうはずもないが、罪人の最期にせめてもの手向けとして聞いてやろう。――罪人木下優梨よ。君は何か、言い遺すことはあるか?」

 その問いに、今まで閉ざされていた優梨の口がゆっくりと開いた。

「これで私の罪が消えるとは思わないし、今さらこんなことを言う意味なんて何もないかもしれないけど……」

 そう言って、優梨がこちらを見る。

「……ごめんなさい」

 それはきっと、心からの謝罪だった。

 根拠はない。

 理屈もない。

 でも、そんな気がした。

 それにしてもわけがわからない。

 僕が一体彼女に何をされたというのだろう。

 ただのクラスメイトでしかなかった彼女。

 その彼女が、自身が理不尽にも殺されそうになっているというのにもかかわらず、僕に謝ってきた。

 彼女の真意はわからないけれど。

 その言葉を聞いた途端、僕に変化が起きた。

 胸が痛い。

 まるで心臓をナイフでぐりぐりと抉られるような痛み――だ。

 それを感じた瞬間、僕の意識はぐちゃぐちゃになって、胸が、胸が、痛みが、痛みに! 痛みが痛みで痛みをいたみイタミ痛みいたみイタミ――――――!

「うぅ……ぐ、が、ああ、があぁぁああああああ!!!!!」

 アタマガイタイ。

 ムネガイタイ。

 ノウミソ、ガ、アツイ、アツイ、アヅイ!!

「うあああああああああああああ!!!!!」

「おい!! しっかりしろ!! 君は私の共犯者だろう!!!!」

 先輩の叫び声。

 その声で、まるで引き寄せられるかのように、僕の意識はあっさりと言っていいほど簡単に現実へと戻ってきた。

「あれ……僕は……いったい……」

「ふぅ……その様子なら大丈夫そうだね。では私は彼女を頂くとしよう」

 僕を見つめていた不安気な表情が一転、普段の凛としたものへと戻る。

 僕は今、何をしていたのだろう。

 それにこのチクリと胸を刺す痛みは一体……。

「あの、愛先輩……」

「今は何も考えるな。それよりも見ておくといい。私の食事を」

 そして先輩はおもむろに優梨の顔へ手をかざす。

 するとどうしたことか、優梨の様子が明らかに変化する。

 これは……眠ってしまったのだろうか?

「ふむ、どうやら今回は上手くいったようだね。前回は眠らせずに喰らったため、えらく手こずった……」

 前回のことを思い出したのか、先輩の表情が少し曇る。

 だがその曇りもすぐに消え、そのかわりに先輩の瞳には妖しい光が灯った。

 先輩はゆっくりと口を開き、それを眠る優梨の喉笛へとあてがう。

 そして先輩は。

 勢いよく、その部分を噛みちぎった。

 幾条もの赤い煌めきが宙を舞う。

 その煌めきは中心にいる美しい鬼に降り注ぎ、月の光を受けて銀に光る。

 僕はその光景を見て、泣いた。

 何故だか涙が止まらなかった。

 胸の奥から次々と込み上げてくるこの感情が、ただ嬉しくて、悲しくて、泣いた。

 そうやって泣きじゃくる僕の傍に、いつの間にか先輩がいた。

「泣かないでくれ。君が泣くと……私も泣きそうになるんだ」

 困ったような表情でそう言ってから、先輩は僕にそっと顔を寄せ、キスをした。

「っ!?」

 一瞬、何が起こったのか理解できなかった。

 驚愕と混乱。

 上手く働かない頭で、必死に今何が起こったのかを整理しようと努力する。

 そんな僕の狼狽ぶりを見て、先輩は微笑み、悪戯っぽく言った。

「これがキスか。ふふっ、病みつきになりそうだ」

「愛、先輩……」

 初めてのキスは、血の味がした。

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