-邂逅-
僕は気絶した。
目の前の光景が送りこんでくる情報に対し脳が拒否反応を示してしまったのだ。
いや、誰が見てもきっと拒否反応を示していただろう。
今思い出しても吐き気がこみ上げてくる。
それほどまでに、酷かった。
事の起こりはこうだ。
いつも通り退屈な授業を終え、いつも通り適当にクラスメイトと喋っただけの、僕にとってはごく普通の一日。
唯一いつもと違う点をあげるとするならば、放課後の教室で一人うたた寝をしてしまったことぐらいか。
しばらくして一人目が覚めた僕は、寝ぼけた頭を叩き起こしながら下校するため校門へと向かった。
だがその途中で明日までに提出しなければならない数学のプリントを教室に忘れてきたことに気づき、慌てて教室へと取りに戻った。
誰もいない放課後の教室から、ただプリントを取って帰るだけの簡単なお仕事。
何事もなくプリントを手にして帰るはずだった。
だが教室の中に一歩踏み入れた途端、異変に気がついた。
いや、異変なんてレベルじゃない。
そこには明らかに異常があった。
赤。
見渡す限りの赤。
黒板も机も椅子も床も天井もロッカーも、教室のありとあらゆるものが真っ赤なペンキをぶちまけたような暴力的な赤色で染められていた。
そして吐き気を催すこの異臭。
まるで口の中いっぱいに鉛を詰め込まれたかのような。
正体不明の不気味な音もかすかに聞こえてくる。
くちゃぴちゃ、がりぽり。
水気の混じった、何かをすり潰すかのような音。
不快な音と臭気に気分が悪くなるのと同時に、僕の両目が視界の端で人間サイズの何かが動くのを捕らえた。
教室の隅に何かいる。
ここからでは机の影になっていてよく見えない。
何か不吉なものを感じながらも、恐る恐る近づいてみた。
そして、隅にいる何かを認識した瞬間、僕は咄嗟に口に手を当てた。
吐きそうになったからだ。
僕の眼前で、少女が、少女を食べていた。
いや、少女が〝かつて少女だったもの〟を食べていた。
少女が、肉塊と化した少女を両手で抱え、口のまわりに血をしたたらせながらその肉塊を貪っている。
周囲に飛散した膨大な血液と臓物。
窓から差し込む狂ったような夕焼けが、赤や緑のそれらを幻想的に照らしていた。
ふと、少女を食んでいる少女と目があった。
僕はその瞬間、動けなくなった。
なんだろうこの気持ちは。
少女と目があった瞬間から胸に生まれた、この名状しがたい感情。
その感情に戸惑いながらも、僕は少女から目が離せない。
少女がじっとこちらを見つめている。
この時ようやく、少女の顔をはっきりと見ることが出来た。
すらりと通った鼻筋、赤く濡れ光る唇。
なかでも目立つのが、夕日を受けて爛々と光る、こちらを見据える大きな瞳。
それらを包む、肩まである艶やかな黒髪。
そして髪とは対称的な、透き通るような白い肌。
そのコントラストが、少女の整った顔立ちをより強調していた。
その少女には、まるで値打ちのある由緒正しい絵画から抜け出たような、どこか神聖ささえ感じさせる美しさがあった。
息を呑む美しさ。
そう、僕は動けなかったのではない。
見惚れていたのだ。
少女の美貌と、醜悪で背徳的な行為のみが持つことを許される、その倒錯的な美しさに。
その事実に気づいた瞬間、絵画の口元から一滴の赤い雫がこぼれた。
その雫が床に落ち、弾けた刹那、僕の頭の中で何かがカチリと合わさるような音がして――
僕の記憶はここで途切れる。
気絶したのだ。
無理もない。
あんな現実離れしたものを見て倒れない方がおかしいのだ。
……以上が、先ほど僕の身に起こった出来事の全て。
そして現在、僕は家にいる。
だが僕はどうやって家まで帰って来たのかを憶えていない。
気がついたら自分の部屋のベッドで寝ていたのだ。
目覚めた時に時計を確認したが、あれから数時間ほどしか経っていなかった。
また、あの時担いでいた鞄も確認したみたが、特に異常は見当たらなかった。
そして中には何故か数学のプリントがしっかりと入っていた。
「うーん、これはいったい……」
もしかするとあれはただの夢だったのだろうか。
こうして何事もなく僕が家にいて、鞄もある。
冷静になった今では、あれを現実だと捉えることの方が無茶なことのように思える。
しかし僕にはあのおぞましい光景が実際に起こった事のような気がしてならないのだ。
そんなことありえないのに。
けれど。
そう自分に言い聞かせようとするたびに、僕の心に喪失感めいた感情が顔を覗かせる。
ささやかな胸の痛み。
その感情の正体がわからないまま、僕は適当に宿題を片付けた。
あとは寝るだけだ。
「それにしても、今日はなんだか疲れたな……」
体に纏わりつく疲労感。
明日には消えてくれてるといいんだけど。
無機質な電子音が鳴っている。
覚醒と同時に、口内に朝特有の粘っこい気持ち悪さを感じた。
目覚まし時計を止めて、歯を磨きに一階の洗面所へと向かう。
歯を磨き終えた。
ついでに顔も洗う。
鏡に映る僕の顔は、いつもと変わらない、どこにでもいるパッとしない男子高校生の顔だ。
その顔に、亀裂が入った。
ような気がした。
鏡に異常はない。
きっと見間違いだろう。
昨日見た夢をまだ引き擦っているのだろうか。
ぶんぶんと頭を振り、強引に忘れ去る。
そのまま居間へ行き、朝食であるトーストを頬張った。
今朝はなぜかいつもと違う味がする。
少しトーストが悪くなっていたんだろうか。
まあ、実は僕がまだ寝ぼけているだけだという可能性の方が高い気がするけど。
顔を洗ってもまだ寝ぼけているなんて重症だ。
まあ学校への道中、外の空気に触れれば嫌でも目が覚めるだろう。
ついこの間までうだるような暑さに辟易させられていたというのに、今では逆に寒さによって苦しめられている。
そろそろ秋も終わり、か。
これから本格的に寒くなるのかと思うと、気が重くなった。
時計を見る。
「っと、もうそろそろ家を出ないと学校に間に合わないな」
ペースを上げてトーストを完食する。
そのあと、鞄を持って玄関へと向かう廊下で、視界の端に映るドアがふと気になった。
居間へと続くドアではない。
もちろん洗面所へ続くドアでも、トイレへ続くドアでもない。
なんだろう。
自分の家のドアなのに、なんだか妙な違和感を感じる。
このドアの先には何の部屋があったんだっけ……?
そのまま吸い寄せられるようにそのドアへと近づいていく。
ドアノブに手を掛けた瞬間、手首に巻いてある腕時計に目が行った。
「あ、時間時間っ」
今すぐ家を出なければ遅刻してしまうのを忘れていた。
ドアノブから手を離し、玄関へ向かおうとして、盛大に転んだ。
何もないはずの廊下で。
いい歳した男子高校生が。
しかもよりによって財布の中身という面倒極まりないものをぶちまけていた。
時間の無い時に限ってこういうことになる。
なんとか財布の中身をかき集め終えて、ふと疑問に思った。
あれ、こんなに財布の中身少なかったかな、と。
記憶を探るが思い出せない。
と、またしても時計に目が行く。
時刻を目にして、慌てて玄関から飛び出す。
「いってきまーす!」
振りかえらずにそう言って、やや小走りで学校へと向かった。
結果、なんとか遅刻は免れた。
朝のホームルームの時間。
登校と同時に、僕はクラスになんの異変も無いことを確認し、安堵した。
そしてその反面、ほんの少し拍子抜けしていた。
頭では、昨日のことはただの夢で、おかしなことなんて何一つ起こってなどいないとわかっているのに、その一方で何も異変がないということにひどく違和感を覚えている。
その違和感が一体何に起因するものなのかを考えてみたが、さっぱり分からない。
まるで割り切ることの出来ない割り算を延々とやらされているような気分だ。
こんなことは初めてかもしれない。
そんな風に自分自身の感情を持て余していると、担任の先生がいつもとは違う、ひどく疲れた様子で教室に入って来た。
「みんなちょっと聞いてくれ。今から大事な話をする」
いつもとは違う先生の様子に、クラスメイト達は何事かと注意を向ける。
無論僕自身も先ほどまでの思考を中断して、普段とは様子が違う先生へと注目していた。
先生はクラスが鎮まるのを見計らってから教壇の前に立つと、やがて意を決したように話し始めた。
「昨日、うちのクラスの生徒である小林美奈が――」
小林さんが、なんだろう。
「――殺された」
え?
先生は今、なんて言った?
殺され、た?
「ちなみに犯人はまだ捕まっていない。詳しいことは後日話す。今日はもうみんな家に帰りなさい」
そう言い終わるや否や、先生はあわただしく教室を出ていった。
同時に凍っていた空気が、爆ぜた。
一気に騒然とするクラス。
クラスのみなが先ほどの話をそこかしこで交わしている。
中には泣いている女生徒もいた。
きっと殺された小林さんと仲が良かったのだろう。
いや待て。
冷静に周囲の状況を観察している場合じゃない。
昨日見た夢。
あれがもし、夢ではなく本当にあった出来事なのだとしたら
昨日教室で喰われていた少女は、小林さん、なのか……?
胸騒ぎがする。
何が真実なのか確かめなければならない。
小林さんを殺した犯人を見つけなくては。
僕は正義のヒーローでも何でもないけれど、僕の中に生まれた使命感めいたものにそって、僕は犯人探しをすることに決めた。
異変はあったのだ。
昨日見た光景。
あの、全てを否定したくなるような光景を、全て現実のものであると受け入れなければならない。
覚悟を、決めなければならない。
きっと犯人はあの時一緒にいた、おぞましい行為をしていた少女の方だ。
であるならば。
今日また、教室へプリントを取りに戻った時間と同じ時間に教室に行けば出会えるかもしれない。
もちろん、出会えない可能性だってある。
いや、寧ろ出会えない可能性の方が高いだろう。
しかし、僕には現状それぐらいしか昨日の彼女の情報を持っていない。
他には、うちの学校の制服を着ていたようだったけれど、見慣れない顔だったし……。
って、あれ?
彼女の顔がよく思い出せない。
僕は昨日確かに彼女の顔を見たはずだ。
それなのに、思い出そうとすると彼女の顔にだけ霞がかかったようにぼやける。
しかもさらに不思議なのは、どうして僕は彼女の顔を思い出せないのに、見慣れない顔だと感じたのだろう。
そのうえ無理に思い出そうとするとほんの少し頭が痛む。
自分の事なのに何もわからない。
それがひどく不気味に感じられた。
それにしても、一体彼女は何者なんだろう。
仮にもし彼女が犯人だとしたら、一体何が理由であんなことをしたのだろう。
わからないことだらけだ。
僕はいくつかの疑問に対するに解答が得られる事を信じて、昨日と同じ時間まで、適当に時間を潰して待つことにした。
放課後になった。
教室には僕と、寂しげに差し込む夕暮れの光だけがあった。
つまり、僕一人だ。
当然だが、クラスメイトはみんな朝のうちに帰ってしまった。
放課後の教室で、出会える保障の無い待ち人を待ち続ける。
なんとなく、現在時刻を確認してみる。
とっくに昨日の時間を過ぎていた。
「やっぱり、そう簡単に犯人が見つかるはずもないか……」
投げやりにそう呟いて、帰り支度をしようとした時。
「やあ」
鈴の音が鳴った。
いや、これは鈴の音ではない。
人の声だ。
それも、少女の澄んだ声。
僕は不意に声を掛けられたのだ。
しかし、どこから?
咄嗟に声のした方へ振り向くと――いた。
昨日出会った少女。
恐らく一連の事件の犯人であろう少女。
その少女が、まるであらかじめそこに居たかのように、教室の隅に立っていた。
彼女と視線が重なる。
と同時に、思い出した。
彼女の顔は、我を忘れて見惚れるほどに美しいということを。
僕が唖然として、彼女から目を離せないでいると、
「また会ったね。君と会うのはこれで二度目かな?」
悪戯っぽく微笑みながら、声をかけてきた。
「あ、あなたは一体……?」
驚きの中、なんとか喉からひねり出すことが出来たのはそんな言葉だった。
彼女が犯人なのか。
それを問い正さなければならない。
しかし、そんな僕の考えとは裏腹に、彼女の返答は予想外のものだった。
「わからない」
「え? わからないって、それってどういう……」
あまりにも予想外の返答に、僕は慌てて聞き返す。
「そのままの意味だよ。私には私がわからない」
しばしの沈黙。
いや、こちらの方が意味がわからない。
失礼な想像かもしれないが、もしかして……少し頭のおかしい人なのだろうか。
だとしたら、もし仮に彼女が犯罪を犯していても、精神薄弱等の理由により責任能力が無いと見なされ、罪には問われないのではないか。
いや、今考えるべきことはそこじゃない。
正攻法が駄目なら、アプローチの仕方を変えてみよう。
つまり、質問の内容をもっと直接的なものへと変えるのだ。
返答がイエス、ノーで済むような。
よし、質問してみよう。
「あなたは昨日、人を殺しましたか?」
我ながらストレート過ぎる上に愚かな質問をしてしまった。
こんな質問、普通の人に聞いても犯人に聞いても、まず間違いなくノーと答えるじゃないか。
うわ、なんだか自分の頭の悪さを露呈したみたいで、途端に恥ずかしくなってきた。
やっぱり質問を変えよう。
「すいません、やっぱり質問を――」
「ああ、殺したよ。正確には食べているうちに殺してしまったわけなんだけどね」
「そうですよね。すいません、こんな馬鹿みたいな質問をしてしま……って、ええ!? 今っ、何て言いました!?」
「また会ったね。君と会うのはこれで2度目かな?」
「ってなんでそこまで戻るんですか! もっと後ですよ!」
「私には私がわからない?」
「もっと後!!」
「あなたは昨日、人を殺しましたか?」
「違う! しかもそれは僕のセリフだ! 最後のですよ!」
「ふ、ふふふ、あはははははははっ」
僕が必死に声を荒げているのを見てか、はたまた別の理由かはわからないが、彼女が可笑しそうに笑った。
心底愉快そうに笑う彼女に、僕はなんとなく声をかけるのが悪いことのような気がして、少し黙ることにした。
夕暮れ時の静謐な空気の中、少女の笑い声だけが響いていた。
少しして、笑い疲れた彼女が、僕の隣の席まで歩いて来て座った。
「いやぁごめんごめん。さっきはなんだか私のツボに入っちゃってね。話を戻すけど、君が知りたいのは、私が、昨日殺された少女、小林美奈を殺した犯人かどうかということだろう?」
なんだこの人、普通に会話出来るじゃないか。
そう頭の端で考えながら、僕は彼女の言葉に頷いた。
さて、先ほどの彼女の答えが僕の空耳でないとすれば、彼女は……。
「君の予想している通り、私が犯人だよ」
予想していた事とはいえ、驚きを隠せない。
その答えに、僕は反射的に聞き返していた。
「……それは、本当ですか?」
僕は一体、何を言っているんだ?
この目で昨日、見たじゃないか。
彼女が犯人であることは明らかだ。
むしろ、彼女が自分自身を犯人であると告げた以上、殺人犯である彼女に対し、僕は身構えたり、少し距離を置くなどの対処をした方がいいのではないか?
僕自身、今ここで彼女に殺されないとも限らないんだぞ?
しかし、そう頭ではわかっているのに、僕の中には危機感どころか緊張感すら無かった。
おかしい。
これではまるで、実は彼女が犯人では無いみたいではないか。
いや、そうじゃあない。
もう自分の心に嘘をつくのはやめよう。
そう、僕はわかっていた。
自分の本当の気持ちに。
これは僕が願っているだけなんだ。
彼女が犯人でないことを、僕の心が望んでいるんだ。
僕自身、なぜ出会ったばかりの彼女にそう望むのか、理由はさっぱりわからないけれど。
しかしそんな僕の願いは、虚しくも次の一言で呆気なく砕け散った。
「本当さ。私が殺して、喰べた。跡形もなくね」
彼女は続ける。
「おや? どうしたんだい? ひどく残念そうな顔をしているね。私が人を殺したことがそんなにもショックだったのかい? それとも人を喰べたことが、かな?」
からかうように笑って、僕に向かってゆっくりと手を伸ばす。
その手は僕の頬をそっと撫でた後、首筋に添えられた。
「こうやって首に手を添えて、少しずつ力を入れるんだ。そうすると人間っていうのは、存外あっさりと意識を失うんだよ」
首を掴んだ手に少しずつ力が込められていくのがわかる。
苦しい。
僕はこのまま死んでしまうのだろうか。
そう考えているうちにも首を掴む力はますます強くなる。
少女の細腕――それも片腕だけだというのに、物凄い力だ。
だんだんと意識が朦朧としてくる。
けれどなぜだろう。
僕の中に抵抗する気力というものが、一切湧いてこないのは。
はたと気づく。
彼女に殺されて死ぬのなら悪くない、そう考えている自分がいることに。
出会って間もない、名前すら知らぬ彼女に、なぜそんなことを思うのか。
この気持ちの正体はわからないけれど、なぜだかとても穏やかな気分だ。
首を絞められているというのに、とても気持ちが良い。
と、不意に首を絞める力が弱まった。
というより、ゼロになった。
僕の首から手が離されたのだ。
締められていた気官が急に解放された反動で、思わず噎せる。
「くすくす。君は本当に面白いね。首を絞められていると言うのにあんな顔をするなんて。君はもしかしてマゾヒストなのかい? まあ、そうではないことぐらい、私自身よく知っているけれど。……いや、その話はやめておこう。今ここで君に全てをバラしても、きっと意味は無いだろうし……」
「僕は、ごほっ、マゾじゃない、です」
噎せながら、彼女の言葉を否定する。
なぜだか、彼女に自分のことで誤解されるのは嫌な気がした。
というか、彼女は今、最後の方になんと言ったのだろう?
よく聴きとることが出来なかった。
と、そこで彼女が口を開いた。
「なあ、私と話をしないか? 君に凄く興味があるんだ。といっても、始めから君と話をするためにここにいたわけなんだけどね」
「僕をここで待ってたんですか? それに、僕と話をするためって……」
「その通りだよ。私には君と話をする必要があるんだ。というより、仕事と言った方が良いかもしれない。ともかく、その調子で私にどんどん質問をするんだ。私に答えられることならなんでも答えよう」
僕と話をすることが仕事?
ますます訳が分からない。
いや、僕が一人で考えたって分かるわけがない。
それに彼女が質問をしてくれと言っているんだ。
ここはひとつ、彼女の言う通りにしてみよう。
「じゃあ聞きますけど、あなたは一体何者なんですか? それに、何が目的であんなことを……」
あんなこと、の部分を口にするのは憚られた。
「私が一体何者なのか。それは先ほども言った通り、私自身わからない。だが、わかることもある。これは仮定の話になるんだけど、きっと私は」
彼女はそこで一旦区切ってから、言った。
「人間ではない」
人間じゃ、ない?
何を言ってるんだろうこの人は。
どこからどう見ても普通の女の子じゃないか。
それも、とびきり綺麗な。
確かに人間離れした美しさだとは思うけれど、それだけで人間じゃないというのは些か言い過ぎだろう。
一瞬冗談かとも思ったが、話している時の顔や口調から察する限り、本気で言っている。
やっぱりこの少女は、ただの頭のおかしな……。
「こら、そこ。私を頭のおかしな人間だと思っているだろう。」
ばれていた。
顔に出てしまっていたのだろうか。
「これは冗談でも何でもない。人間という生き物は、日常生活の中で、ふと”人間の肉が食べたくなる”生き物のことを人間とは呼ばないだろう? つまり、私は人間社会にとって、紛うことなく化物なのさ。だからなぜあんなことをしたのかと問われれば、食べたくなったから、としか答えようがない」
「…………」
「驚いたかい? まあ無理もない。私自身、驚いているのだから」
彼女自身驚いている?
それはつまり……。
「もしかして最近までは、その、人を……食べたことが無かったんですか?」
思い当たった仮説を投げかけてみる。
「ご明察。昨日が初めてさ。人の肉を食べたいという衝動に駆られたのも、それを何のためらいも無く実行し、完遂してしまったのも」
「そう、ですか……。それで……その……美味しかった、ですか?」
僕は何を聞いているんだ?
もっと他に聞くべきことがあるだろう。
だが僕の理性は、好奇心という獣によって蹂躙され、ついぞその役割を果たすことは無かった。
「それは人間の肉が……ということかな?」
「そう、です」
なんだこの胸の高鳴りは。
どうして僕はここまで食人という行為――カニバリズムに心惹かれるんだ?
昨日は気を失うほどに拒絶していた行為だと言うのに。
「それはもう、至高の味だったよ。ほっぺたが落ちるというのはこのことか! と、妙に納得してしまうほどには」
昨日口にした味を思い出しているのか、やけに艶の乗った声で彼女は語る。
「臀部や股肉は瑞々しくて美味だったなあ! そして意外にも、手のひらの部分の肉も癖になる味なんだ!」
だんだんと興奮してきたのか、語る声に熱が帯びてきた。
「でもね、一番。一番舌がとろけるかと思ったのは、何だと思う?」
急に声のトーンを落として、囁くように尋ねてきた。
「……どこ、ですか」
「ふふ、それはね……」
彼女はたっぷりと勿体ぶってから、その答えを教えてくれた。
「脳だよ」
脳。
意外ではあったが、その答えには不思議なほど得心がいった。
「ああ! あのアダムとイヴが食べたと言われる禁断の果実さえも、あそこまで甘美な悦楽を与えてくれはしなかっただろう!」
上気した頬に手を当て、くねくねと悶える彼女。
絵面だけ見れば、美少女が可愛らしく悶えていて、いかにも眼福といったところなのだが、話している内容はひどく薄気味悪いものだった。
しかし、僕がその薄気味悪さに惹かれているのもまた事実だった。
「ああっと、すまない。少し興奮しすぎたようだね。さて、他に質問はないのかい?」
いつの間にか素に戻っていた彼女に促される。
さて、何を聞いたものだろうか。
やはり男なら、いや、紳士であると自負するならば、ここは当然スリーサイズを聞くべきだろう。
むしろこのような美少女を前にして、聞かない方が失礼に値するというものだ。
などと言う冗談はさておき。
本当に何を聞いたものだろう。
目の前にいる少女に聞くべきこと。
名前も知らぬ少女に、聞くべきこと。
そうだ。
僕はまだ彼女の名前を聞いていない。
「そうだ。そう言えば僕はまだあなたの名前を聞いていません。あなた、名前は何と言うんですか?」
それに、と僕は続ける。
「その制服はこの学校のものに良く似ているけれど、もしかしてそれはうちの制服ですか? もしそうだとしたら、あなたはうちの生徒なんですか? それとも、この学校に忍び込むためにどこかから盗んで来たんですか?」
いくらなんでも、矢継ぎ早に聞き過ぎただろうか。
しかし彼女は僕のそんな質問に対して、丁寧にひとつひとつ答えてくれた.
「私の名前かい? 実は私に名前は無いんだ。ただ、記号としての名前なら一応、あるにはある。私は〝ときふるあい〟という。ん、なんだい、漢字を教えて欲しいって? 名字は、時が古いで、時古。名前は、愛しいと書いて、愛。そう、この制服はうちの学校のものだよ。なぜなら私はこの学校の生徒だからね。この制服も自分のものだ。ちなみに所属しているクラスは三年一組だ」
驚いた。
彼女がうちの学校の生徒であることもそうだし、そして高校三年生━━つまり、彼女の年齢がまだ成人の証である二十歳を越えていないという事実にもだ。
目の前にいる彼女――時古愛は、幼い少女とも大人の女性ともつかぬ不思議な雰囲気を纏っている。
それゆえ僕は、もしかしたら彼女は既に成人を迎えた女性なのでは、という疑念を抱いていたのだ。
それに正直な話、今の今まで彼女を少女と呼称することに些か迷いも感じていた。
だがまあ、逆にまだ中学生だ、と言われても驚くことには変わりないのだけど。
ともあれ、先輩だったのか。
「そう。私は君の先輩に当たる」
「なんで僕が考えていたことを……!?」
「君は考えていることが顔に出ているからね。なんなら他にも君が考えていることを言い当ててみせようか?」
「そ、そんなことできるわけ……!」
だが、彼女は妖しい笑みを浮かべながら、あっさりと言い当てて見せた。
「君は私に惹かれているね。それも、もうどうしようも無いほどに」
「っ……!!」
「その反応を見る限り、私の言ったことが真実であるということになるわけだが、それでいいんだね?」
その通りだった。
僕は自分でもびっくりするぐらい、この不思議な魅力を持つ少女に惹かれていた。
初めは犯人を見つけて、それからなりゆき任せで警察なり学校なりに事実を報告しようと考えていたけれど、今はもうそんなこと微塵も考えていない。
彼女のことをもっと知りたい。
そんな気持ちでいっぱいだった。
「ふふ、君の気持ちはよく分かったよ。そこでひとつ提案があるんだけど、聞いてくれるかい?」
「提案?」
「そう。君さえ良ければなんだが、どうか私を手伝って欲しい」
「手伝う?」
「私の食事のお手伝いだよ」
食事。
ここで彼女が言う食事とはもちろん一般的な意味での食事の手伝いなどではない。
「やはり一人だと、誰にも気づかれぬよう人を攫って食すのは難しくてね。現に昨日、君に見られてしまったし」
「それはつまり、共犯関係を結ぶ、というわけですか……?」
「おや? 倫理的な問題については触れもしないんだね君は。まあ、さっきの私の話の聞いた時の君の反応を見ていれば、今の君の反応も容易に想像出来たものではあるんだけどね」
「…………」
「まあ、有り体に言えばそうなるかな。共犯関係。協力者がいてくれるだけで私の食事は間違いなく捗るだろう。さて、一応断っておくが、私と共犯関係を結ぶということは、言うまでもなく人の道を踏み外すということだ。いや、踏み外すどころではないな。私のやった事、そしてこれから先やろうとしていること。それに手を貸すというのはつまり」
燐光を宿す瞳がこちらを射抜く。
「人で無くなる、ということだ」
「…………」
「その覚悟があるのなら、私と共に」
僕は。
「私と共に、堕落し、求めよう」
僕は心のどこかで、ずっと憧れていたのかもしれない。
「常識や倫理を放逐し、痛みと嘆きの向こう側にあるものを」
いつまでも同じことの繰り返しであるこのくだらない日常。
僕は、それが堪らなく嫌だった。
だからきっと、ずっと前から憧れていたんだ。
僕を取り巻く世界をぶち壊す。
そんな機会に。
「さあ」
だから僕は。
そう言って差し伸べてくる彼女の手を。
自分でも驚くほどあっさりと。
握り返していた。
「ふふ。君なら手を取ってくれると思っていたよ」
「えっと……先輩」
「何だい?」
「その、僕が先輩を上手く手伝えるかどうかとか、不安は尽きないですけど……とにかく、よろしくお願いします」
「ああ、よろしく」
僕はその日、人間をやめた。






