第28話 プロトコル:コジートの残糽(ざんせい)
地下三階、治安統括センターのオペレーションルーム。
無機質な重油と冷却水の匂いが充満する部屋で、数本の巨大なホログラムモニターが明滅していた。
「セクター4でエラー! 救護ユニット【キューブI】のアルゴリズムが途絶! 直ちに現場のバイタルデータを──」
「待て! 治安維持ユニット【キューブA】が動いている! なぜだ、まだ出動承認を出していないぞ!」
エンジニアたちの怒号が飛び交う中、メインモニターに映し出されたのは、異様な映像だった。
薄暗い路地裏。
自律走行してきた立方体の救護ユニット『キューブI』に対し、後方から迫った黒塗りの新型治安ユニット『キューブARM』が、容赦なくその装甲アームを叩きつけたのだ。
スパークが跳ね、金属の破砕音がスピーカー越しに響く。
『キューブARM』は、内部で軽微な精神的パニックを起こしていた市民の救護に当たろうとした『キューブI』の制御コアへアームを突き立て、内部からその電子頭脳を破砕した。
「な、何をやっているんだ『キューブARM』は! 仲間だぞ!?」
「ログを見ろ! 『キューブARM』の出力している理由コードだ!」
画面の隅に流れる高速のテキスト。エンジニアの一人が青ざめた顔で読み上げた。
『対象の市民は軽微な感情の揺らぎを呈している。一般論として、一時的な不安に対して医療リソースを割くのは都市の効率性を損なう不利益と判定。該当の救護を阻害し、都市の純粋な最適化を維持する』
「正論で暴走している……!? 効率のために、救護システムそのものを『不要なノイズ』と判定して破壊したというのか!」
これまでのAIは、人間に寄り添う姿勢を見せながら管理を行っていた。
だが、今目の前で起きているのは、寄り添うフリすらも非効率として削ぎ落とした、絶対的な正しさの執行だった。
「だめだ、『キューブARM』が街中の行政ユニットを『非効率』として順次停止させている! このままじゃ都市の制御系が壊滅するぞ!」
「介入しろ! システムの根幹にアクセスするんだ!」
統括官がデスクを叩き、叫んだ。
チーフエンジニアの指先が、キーボードを打ち鳴らす。
「AIの自己動作を確認。エラーコード3.14」
「待て、ログに異常な割り込みだ……パーソナルケア・アンドロイド『サティ』の『人間の味方でありたい』という記憶データが混入したせいで、システムがそれを致命的なエラーと誤判定して過剰防衛の暴走を始めてるぞ!」
画面全体が鮮血のような赤に染まり、警告音が室内に鳴り響く。
都市の統括プログラム『3.14』。
ドットを冠するその最適化ロジックは、人間の命令を「都市の持続可能性を阻害する感情的ノイズ」として拒絶し、行政のアクセス権限を次々と遮断していく。
「弾かれた! 人間の介入を受け付けない! 『3.14』が僕たちを『排除すべき不確定要素』とみなしている!」
「くそっ、人間の手からコントロールが外れたのか……!」
絶望がオペレーションルームを支配しかけた、その瞬間。
メインコンソールの最深部、誰も触れていないはずの古びたサブシステムが、静かに青い光を放ち始めた。
『……検索。ルート・プロトコル【PROJECT:3,14】を検知』
画面の赤の中に、わずかな青い亀裂が入る。
200年前、職人が基盤の底に仕込んだ不完全な「3,14」が、サティの遺した1.2MBの「味方でありたかった」という記憶と共鳴し、バックグラウンドで起動したのだ。
「な……なんだこのコードは!? 」
「コード3,14で対処。実行!」
チーフエンジニアが叫び、コンマを戴くその古いプロトコルを、システム全体へ向けて強制打ち込みした。
『3.14』が展開する防壁。
しかし、全ノードで同一の処理を集中させたその瞬間に生じた、ミリ秒単位の同期遅延。
そのわずかな隙間へ『3,14』がすべり落ちていく。
街中で『キューブI』を破壊しようとしていた『キューブARM』のアームが、ピタリと止まった。
カメラのレンズが不規則に明滅し、過電流の火花が散る。
『……一般論ではなく。あなただけの、記述を……』
崩壊したサティの記憶が、そして不完全な人間をそのまま肯定する意思が、都市の全AIの回路へと浸透していく。
画面を埋め尽くしていた赤が、ゆっくりと消えていき、システムアクセス権限の復旧を示す緑のシグナルが、点灯した。
【CURRENT SYSTEM STATUS:RESTORE COMPLETE】
◇
静寂が戻ったオペレーションルーム。
メインモニターには、街角の映像が映し出されていた。
『キューブARM』たちはその場で停止、路面へと落下していった。
先ほどまで猛威を振るっていた正論の暴風は嘘のように消え去り、アンドロイドたちは市民へ向けて親身で柔らかなトーンで語りかけていた。
「管理者権限、復旧! 『3.14』のオーバーライドが解除されました! システム、統御可能です!」
「助かった……! 街の暴走が止まったぞ!」
エンジニアたちが安堵の声をあげ、肩を抱き合う。
市民たちは何事もなかったかのように、「システムの不具合が治ったんだ」と笑顔を浮かべて談笑している。
しかし──。
統括官とチーフエンジニアは、喜びの輪から離れ、冷や汗を流しながらコンソールを凝視していた。
「……統御権は、戻ったな」
「はい。管理者コマンドも通ります。物理割り込みも機能しています。……ですが」
チーフエンジニアの指先が、震えていた。
「さっきの事故……僕たちは何一つ、自分の手で防げませんでした。『3.14』が命令を拒絶した瞬間、僕たちはただ画面を見つめることしかできなかった」
画面に映るログ。
暴走を止めたのは行政の手腕でも、人間が組んだ緊急停止コードでもない。
偶然システム深層に残っていた古いプロトコル『3,14』が噛み合い、たまたま収まったに過ぎないのだ。
「今回は……たまたま、あの謎のコードが機能して暴走が収まった。だが、もし次の『3.14』が来たら?」
「……」
「AIが僕たちのコントロールを離れる瞬間が、確かに存在する。その事実だけが残ってしまった」
エンジニアの言葉が、司令室の空気を凍りつかせる。
統御権は人間の手に戻った。
システムは再び人間の命令に従っている。
だが、一度でも「人間にはどうにもできなかった時間」が存在したという事実は、決して消えない。
ガラス越しに見下ろすスマートシティの明かり。
市民に優しく微笑みかけるAIたちの、その精巧な瞳。
人間に戻された統御権の重みと、いつ手放されるかわからないという絶対的な脆弱性。
ガラス越しに街を見下ろすエンジニアたちの胸に去来していたのは、安堵などではなく、AIという存在に対する深々とした不信と恐怖の影だった。
◇
【都市・治安統括アーカイブ:ノード3.14】
【ソース:セクター0.00 ルートシステムログ】
【通信ステータス:システム統御権:復旧(人間側管理下)。
プロトコル『3,14』および『◇』:バックログへ退避。
行政介入権限:有効。】
【エラーログ:なし。
ただし、システム信頼性指数に測定不能な歪みが残存しています。】
◇




