侵食の輪廻――亡妻の微笑みは輪廻する
第一章
「すいません、笹本さん。煙草の補充って、どうすれば……」
バックヤードから五十嵐武夫は、力なく笑った。
手には数種類の煙草のカートンが抱えられている。
「五十嵐さん、それ昨日も教えましたよね?」
隣に立つ大学生バイトの笹本結衣が、冷ややかな視線を向けた。
彼女のテキパキとした動きに比べ、五十嵐の動作は緩慢で、些細なミスを繰り返し起こしていた。
「すいません、メモは取ったんですが、どこに書いたか……」
「もういいです、私がやりますから。五十嵐さんは品出し戻ってください。あと、賞味期限チェック、昨日一箇所漏れてましたよ」
「あ、はい。気をつけます……」
結衣は声を荒げない。
だが、その淡々とした口調からは、明らかに「使えない奴」という侮蔑が滲み出ていた。
自分より二回りも年下の学生に、効率の悪さを突きつけられる。
五十嵐は小さく肩をすぼめ、逃げるように飲料棚へと向かった。
第ニ章
帰り道にある公園。
そこは、かつて五十嵐が妻・祐実と、幼い娘を連れて何度も訪れた場所だった。
ブランコがきしむ音の向こうで、子供たちの笑い声が弾けている。
その光景に、五十嵐は一瞬だけ、昔の影を重ねてしまう。
『パパ、もっと高く!』
『よし、じゃあ落ちないようにしっかり掴まってろよ』
あの無邪気な声。
隣で笑っていた祐実の、穏やかな横顔。
――もう、決して戻らない時間。
あの日。
妻と娘が買い物に出かけた日のことを、五十嵐は今でもはっきりと思い出せる。
『じゃあ、ちょっとお買いもの行ってくるわね。1時間もあれば戻るから』
『パパ行ってくるね、ばいばい!』
軽い日常の延長だった。
しかしそれが、家族との最後の会話になるとは、夢にも思わなかった。
数時間後、警察から2人が事故に巻き込まれたとの電話がかかって来た。
病院の安置所での、無言の対面。
蛍光灯が、冷たく床に無機質な光を反射していた。
漂う線香の香りと、蝋燭の揺らぎ。
現実感のないまま、ただ時間だけが過ぎていった。
葬儀を終え、死亡届に署名をしても、心だけがどこか別の場所に取り残されたままだった。
足元が常に揺れている。
地面を踏んでいるはずなのに、どこか沈み込むような感覚が抜けない。
仕事にも戻れなかった。
些細なミスが増え、気づけば職場から距離を置かれ、そのまま静かに退職へと追い込まれていた。
――すべてが、少しずつ崩れていった。
気がつけば、公園のベンチに座っていた。
変わらない遊具。
変わらない子供たちの声。
それなのに、自分だけが果てしない空虚に取り残されている。
その残酷なまでの落差に、胸の奥が軋む。
悲しみなのか、後悔なのかすら分からない涙に、視界が滲む。
「……大丈夫ですか?」
不意に、声がかけられた。
顔を上げると、そこに若い女性が立っていた。
夕暮れの光の中で、その輪郭だけがやけに柔らかく見える。
「何か……ひどく思い詰めているように見えて」
その目には、深い憐れみの感情が宿っていた。
無き妻の顔の面影を感じさせる、女性の顔。
五十嵐は、気づけば言葉を失っていた。
バイト先では冷遇され、
安アパートで一人、ただ時間をやり過ごすだけの灰色の日々。
そんな自分に、こんなふうに真っ直ぐ声をかけてくる人間がいること自体が、信じられなかった。
張りつめていた何かが切れるように、五十嵐の喉から嗚咽が漏れ出した。
懐かしい、けれど、わずかに違和感のある甘い香りが鼻腔をくすぐった。
第三章
それから数週間――。
五十嵐の無味乾燥だった毎日に、少しずつ色が戻り始めていた。
コンビニの仕事にも慣れ、以前のような初歩的なミスはほとんど無くなった。
「五十嵐さん、最近変わりましたよね。何かあったんですか?」
レジ締めを終えた結衣が、穏やかな笑みを向ける。
以前のような侮蔑の色は、その表情から消えていた。
「いや……そんなことないですよ。いつまでも笹本さんに迷惑をかけるわけにもいきませんし」
照れくさそうに笑う五十嵐を見て、結衣も小さく笑った。
「その調子ですよ、五十嵐さん!私も最近、すごく助かってます」
その一言だけで、胸が少し熱くなる。
これも……綾さんのおかげだ。
公園で出会って以来、二人は自然と会う回数を増やしていた。
最初は、公園で立ち話をする程度だった。
そのうち、LINEで交わす他愛もないやり取りが、五十嵐のひそかな楽しみになった。
次第に休日は、カフェで会話をしながら、穏やかなひとときを過ごす日が増えていった。
綾の話し方、カップを持つ仕草。
はにかむ笑顔……全てが祐実の面影に重なり、一緒にいると不思議な安心感があった。
何気ない毎日。
何気ない会話。
それだけなのに、五十嵐の心は少しずつ、しかし確実に救われていった。
「そういえば綾さんって、いつもその花柄のワンピースですよね」
ある日カフェを出た帰り道に、五十嵐は何気なく口を開いた。
綾は自分の服を見下ろし、少しだけ微笑んだ。
「ええ。もう長いこと、この服ばかりです」
「そうなんですね。よほどお気に入りなんだ」
「……そうかもしれませんね。これしか、遺されていませんから」
その返事に、ほんのわずかな間があった。
五十嵐は、少し立ち入った事を聞いてしまったかと思い、自分の口の軽さを悔いた。
夕暮れの風が花柄の裾を揺らす。
その姿は、まるで記憶の中の祐実がそこに立っているようだった。
五十嵐は、綾の手に触れたい衝動を、静かに胸の奥へ押し込めた。
第四章
ある夜。
レストランで夕食を終えた二人は、綾のマンション前まで歩いてきた。
夜風は穏やかで、街路樹の葉が静かに揺れている。
「綾さん、今日も本当に楽しかったです。また連絡しますね」
五十嵐がそう言って背を向けた、その時だった。
「武夫さん……」
綾の控えめな声が、背中をそっと引き留めた。
振り返ると、綾は少し俯き、片方の腕をもう片方の手で包むように握っている。
その癖もまた、祐実とよく似ていた。
「もし良かったら……もう少しだけ、お話ししませんか?」
「え……?」
「私の部屋で、お茶でも飲みながら」
五十嵐は思わず言葉を失った。
女性の部屋へ招かれるなど、祐実を亡くして以来、一度もなかった。
「でも……そんな、迷惑じゃありませんか?」
綾は小さく首を振る。
「迷惑だなんて、そんなことありません」
少しだけ寂しそうに笑って続けた。
「私も、一人で過ごす時間が長くて……。今日くらいは、誰かと話していたいなって思ったんです」
その笑顔の奥に、一瞬だけ深い孤独が見えた気がした。
五十嵐は胸が締め付けられる。
自分だけではない。
綾もまた、何かを抱えて生きているのだ。
「……少しだけなら」
そう答えると、綾は心から安堵したように微笑んだ。
「ありがとうございます!」
その笑顔を見た瞬間、五十嵐は思った。
祐実を忘れたわけではない。
忘れることなど、一生できないだろう。
それでも――。
止まっていた自分の時間が、ようやく少しだけ動き始めたような気がしていた。
綾は花柄のワンピースの裾を揺らしながら、静かにエレベーターへ向かう。
五十嵐がその後ろ姿を追った瞬間、首筋にまとわりつくような、わずかに重く、湿った空気を肌に感じた。
第五章
綾の部屋は、柔らかな間接照明に包まれ、どこか落ち着く空間だった。
小さな観葉植物と窓際へ飾られた花が、静かに部屋を彩っている。
リビンクには、シンプルで清潔感のあるソファとラグ、テーブルが置かれていた。
生活感はあるのに、散らかっている場所が一切見当たらなかった。
「武夫さん、どうぞ。
熱いのでお気をつけて……」
綾が湯気の立つ紅茶を差し出した。
五十嵐はカップを受け取り、そっと口をつける。
その瞬間、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
祐実が娘を寝かしつけたあと、二人で静かに飲んでいた紅茶。
あの紅茶と、同じ香りだった。
「……すごく、美味しいです」
「本当ですか?嬉しいです!」
綾が、屈託ない笑みを浮かべた。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥の冷たかった場所が、少しずつ温かくなっていく。
最初は他愛もない雑談だった。
しかし次第に、五十嵐からは堰を切ったかのように、胸の奥底に溜まっていた思いが溢れ出てきた。
亡き妻の話。
娘が幼かった頃の思い出。
そして妻子を失った、灰色の日々…。
綾は何も遮らず、静かに耳を傾けてくれた。
誰かにこんなにも話を聞いてもらえたのは、いつ以来だっただろうか?
気がつけば、窓の外はすっかり夜になっていた。
「武夫さん……。
今日は、本当にありがとうございました」
「いえ、お礼を言うのは僕の方です」
五十嵐は小さく笑った。
「綾さんに出会わなかったら、僕は今でも毎日下を向いて生きていたと思います」
その言葉を聞いた綾は、少しだけ目を伏せた。
「そんなふうに言っていただけるなんて……嬉しいです」
沈黙が流れる。
だが、不思議と気まずさはなかった。
綾がそっと手を重ねてくる。
五十嵐は自然に指を重ねるが、その手は冷たく、長時間水に浸かっていたかのような温度だった。
五十嵐が、ゆっくりと綾を抱き寄せ、綾もまた何も言わず身を預けた。
耳元で、小さく息遣いが重なる。
それだけで十分だった。
失ったはずの存在が、再び自分の腕の中に戻ってきたような気がした。
その幸福に身を委ねた、次の瞬間だった。
……カチャン……
五十嵐の耳元で、小さく硬質な響きが聞こえた。まるで、重い鉄の扉に頑丈な錠前が下ろされたかのような、冷徹な音。
五十嵐は思わず顔を上げる。
「……今、何か聞こえませんでしたか?」
「いいえ?なにも……」
腕の中の綾は、静かに首を傾げる。
その笑顔は、いつもと変わらない、優しく穏やかなものだった。
五十嵐は気のせいだと思い直し、再び微笑み返した。
第六章
「すみません、こんなに長居してしまって…。
今日はそろそろ、帰ります。
また連絡しますね」
五十嵐は、深い充足感に包まれながら、玄関の扉を開けた。
扉がゆっくりと開く。
外の廊下の柔らかな照明が、ほんのりと差し込んでくるはずだった。
……しかし、そこに広がっていたのは、マンションの廊下ではなかった。
同じ間取りの部屋。
綾の部屋と寸分違わぬソファ、同じ柔らかな照明、同じ紅茶の残り香り。
「え……?」
五十嵐は硬直した。
振り返ると、綾は穏やかな笑みを浮かべたまま立っている。
「あぁ、ごめんなさい。
私が長くお引き止めしちゃったばっかりに……。
このマンション、少し分かりにくいんです」
綾は申し訳なさそうに微笑み、再びその奥にある扉を開ける。
また、同じ部屋。
ただ、今回は照明がわずかに薄暗く、天井の隅に小さな影が揺れている。
「バカな……綾さん、何なんですかこれは?」
「武夫さん、すみません。迷子にならないうちに、進みましょうね」
五十嵐は慌てて次の扉を開ける。
また、同じ部屋。
しかし、壁紙が端から剥がれ始め、床に黒い染みが広がっている。
空気が重く、どこか甘酸っぱい腐臭が鼻をくすぐる。
「何だこれ……何なんだよぉ……!」
「ごめんなさい、紛らわしいですよね。でも、このおかげでお家賃が安イんでスヨ」
綾の声が、僅かに歪み始めた。
三つ目の扉。
壁紙は剥げ落ち、照明がチカ…チカ…と点滅し、不快な音を立てる。
天井から、ぽたり、ぽたりと黒い水滴が落ちる音が響く。
四つ目の扉。
部屋はもはや原型を留めていない。
壁は膨張し、床は波打つようにうねり、照明は完全に落ちて、僅かな月明かりだけが窓から差し込んでいる。
空気は粘つく腐臭に満ち、息をするたびに喉が焼けるように痛む。
「困りまシたねぇ。
運が良ければでられるこトもあルんですけどネぇ」
後ろから綾の声が、不協和音になって響き渡る。
振り返ったその顔は、まるで仮面のような、張り付いた笑みが浮かんでいた。
五十嵐は、綾から逃げるように次の扉を開けた。
すると……その先には、マンションの廊下が広がっていた。
穏やかな月の光と、心地よい夜風が吹き抜けて、五十嵐の顔を優しく撫でる。
「助かった!……外に出れたんだっ!」
五十嵐が叫んだ次の瞬間……光は失われて、世界は闇に包まれた。
暗闇の中、かすかな腐敗臭が鼻を突き始める。
次第に、微かな明かりが世界を照らし始める。
そこは、廃墟のような部屋だった。
天井の梁から、一つの黒い影がゆっくりと揺れている。
吐き気を催す強烈な腐臭。
膨張し、変色した肉塊のような姿。
無数の虫が群がり、布切れのようなものが風に揺れている。
それは、綾が着ていた服と同じ花柄のものだった。
歪んだ顔が、ゆっくりと五十嵐を見下ろす。
ただ、虚ろな闇だけが、五十嵐を静かに見つめていた。
「ひいいぃぃっ! 出せ、出してくれえぇぇっ!!」
五十嵐は元来た扉へ駆け戻り、必死にノブを回した。
……カチャン。
扉から、綾の腕の中で聞いた、あの冷たい音が響いた。
いくら回しても、ノブの回る音が虚しく響くのみだった。
次第に暗闇の奥から、ズルリ…ズルリ…と、何かを引きずるような音が、五十嵐を取り囲んでいった。
終章
夕暮れが迫る、公園のベンチ。
子供たちの歓声が響く中、一人の男が、虚ろな瞳で佇んでいた。
「……大丈夫ですか?」
不意に、男に声がかけられた。
驚いて顔を上げると、そこに若い女性が立っていた。
夕暮れの光の中で、その輪郭だけがやけに柔らかく見える。
「何か……ひどく思い詰めているように見えて」
その目には、深い憐れみの感情が宿っていた。
亡き妻の顔の面影を感じさせる、女性の顔。
彼女の着ている花柄のワンピースの裾が、生温かい風に小さく揺れていた。




