今日は七夕
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七月七日、夜の九時。
大学の天文サークルの屋上観測会も終わりに近づき、皆が飲み会へと繰り出していく中、圭は一人、天文台に残っていた。
空には雲ひとつない。天の川が薄く広がり、街の明かりさえも今日はやけに控えめに思える。
毎年、七夕の夜になると、彼女はここに現れる。
白いワンピースに、風にそよぐような黒髪。まるで空気のように、何の音もなく姿を見せるのだ。
「……今年も来てくれたんだね」
「うん。だって、あなたが待っててくれるから」
声がした方を向くと、やっぱりいた。ミユ。
彼女はにっこりと笑って、まるで星の光を映したような瞳でこちらを見ていた。
出会ったのは三年前。
圭が夜中の観測会で寝落ちし、気づいたら彼女が隣にいた。最初は不審者かと思った。でも話してみると、彼女は星に詳しく、天文学的な知識さえ持っていた。
不思議だったのは、次の日になると彼女の痕跡が一切残っていなかったこと。SNSにも記録にも、サークルの誰も彼女を見ていないという。写真を撮っても、翌朝にはスマホから消えている。
「ミユ、今日も星の話をしようか」
「ううん、今日はあなたの話が聞きたい。最近、何をしてた?」
「就活。全然うまくいかなくて、ちょっと逃げたくなってた。こうして君に会える七夕だけが、毎年の希望だったよ」
「……嬉しい。でも、それは困ったなあ」
ミユは小さく笑って、望遠鏡の方を見やった。
「だって、私……本当は、もう来られないかもしれないの」
「え……?」
「七夕の夜、織姫と彦星が会えるように、私もこの世界に来られる。でも、来年はもう、その橋が架からないかもしれないって……」
圭は冗談だと笑えなかった。
「どういうこと? ミユ、本当はどこから来てるんだ?」
「信じないと思う。でも……私、空の向こうから来てるの。天の川の、もっともっと遠く。こっちの世界に興味があって、願ったの。『一度だけでもいいから、この星に降り立ちたい』って」
「そんなの……」
「夢みたいでしょ。でも本当。……だから、本当にもう来られないかもしれない。最後の七夕かもって、言われたの」
ミユの声が、少し震えた。
「そんなの、やだよ。だって……俺、本当に君のことが……」
言葉が詰まった。だけど、伝えなきゃいけない気がした。
「好きなんだ、ミユ。何度しか会えなくても、全部本物だった。ずっと君を待ってた。毎年、君を想ってた」
夜風が止まる。
ミユは一歩、圭に近づいた。そして、小さな声で言った。
「……ありがとう。私も、あなたのこと、好きだった」
そのとき、星が流れた。
いくつも、いくつも、夜空に光の線が走る。まるで世界が、この瞬間だけは二人を祝福しているかのように。
ミユが、圭の手に触れた。その温度は確かにあった。
「一緒にいられる時間は、あと少し。でも、絶対に忘れないで。私はあなたと出会えたことで、この世界を好きになった。だから、来年は来られなくても――星になって、あなたを見守ってる」
「……そんなの、悲しすぎるよ」
「そうでもないよ。だって、星って、ずっと空にあるでしょう? 離れていても、見えるんだよ」
その瞬間、ミユの体がうっすらと光り始めた。輪郭が、ぼやけていく。
「ミユ!」
「大丈夫、圭。私、あなたを見つけられてよかった」
声が、風に溶けていった。
――そして、彼女は消えた。
次の日、圭は目を覚ますと、屋上で星を見上げたまま寝ていた。誰もいない天文台。スマホには何も残っていない。彼女の姿も、声も、記録にはない。
けれど、手には一枚の紙が握られていた。短冊だった。
《また、来年。天の川の向こうで、君を待ってる。――ミユ》
その年、圭は就活を辞めて、宇宙物理学の道を選んだ。
誰も信じてくれなくてもいい。
自分は、確かに、七夕の夜に恋をしたのだ。
天の川の向こうにいる、たった一人の誰かと。
来年の七月七日も、圭は星を見上げる。
あの光の中に、彼女がいると信じて。
――愛してる。たとえもう一度会えなくても。
それが、ぼくの一生に一度の、ほんとうの恋だった。