家(二)
ベアトリーチェは魔女と契約した。
願いは、この世の悪しきものを殺し尽くし、誰もが幸福になれる世界を作ること。
代償として、命を捧げること。
かくしてベアトリーチェは、みずからの胸を突き、命を絶った。
魔女に我が子を託して。
*
俺は呆然と空を見上げていた。
いつ見ても鬱蒼とした森だ。
差し込んでくるのはわずかな木漏れ日だけ。
俺が生まれたときに見た景色とよく似ている。
「俺の母さんは、自分で命を絶ったんですね……」
「本当に全部見てしまったのね、マルコ」
できれば知りたくなかった。
じつの母があんな商売をしていて、父親がロクでもない山賊だったなんて。
母さんは表情のない顔で告げた。
「じつはチェーザレも山賊も生きていますよ」
「えっ?」
「彼らの居場所を知りたければ、いつでも教えます」
なにを言っているんだ?
母さんは、ベアトリーチェとの契約を遂行しなかったのか?
「な、なぜ殺さなかったのです?」
「悪魔の契約というのは、通常、契約者が死亡した時点で無効となります。その後どうするかは、こちらの気分次第。もちろん殺してもよかった。ですが……それよりも、子育てを優先したかったので」
俺だ。
俺が原因だ。
「俺は……もしそいつらの居場所を聞いたら、殺しに行くと思います」
「構いませんよ。ですが、殺す前に話くらい聞いてもいいのでは?」
「まあそうかも。でも最後は殺します」
許す気になれない。
なんなら、いますぐそこへ向かってもいい。
いまならまったく躊躇せずやる自信がある。
母さんはかすかに溜め息をついた。
「ところでマルコ。当初の目的を見失っていませんよね?」
「目的?」
「私の墓が残っていますよ」
そうだった。
けど、母さんの墓?
母さんも入っていないのに? あのとき胴体は処理しないで帰ったから、きっと動物のエサになっているはず。
「なにが埋まっているんですか?」
「それは開けてからのお楽しみですよ」
「はい……」
まるで宝箱みたいに言う。
そういえば前も、ピンチになったら開けろと言っていた。
まあ、母さんは生きているのだ。
掘っても変なモノは出てこないだろう。
たぶん。
俺は立ちあがり、スコップをつかんだ。
妙に腕に力が入っていた。不快な映像を見たせいで。
墓は簡単に掘り出せた。
中にあるのは……水晶? それも球体の水晶ではなく、六角形の結晶の状態だ。
「母さん、これはいったい……」
「触れなさい」
「誰の記憶なんです?」
「触れれば分かりますよ」
「意地悪しないで教えてください! 俺、さっきのもまだ引きずってるんですから」
一日に二回もあんな体験をするのはつらい。
内臓がぞわぞわする。
血の巡りも悪くなるせいか、体への負担も大きい。
母さんは眉をあげた。
「マルコ、臆病なことを言うのですね。大丈夫ですよ。こっちは誰かの記憶というわけではありませんから」
「では、なんなんです?」
「あなたを守るものです」
「はぁ……」
まあピンチの時に触れというくらいだから、そうなのだろう。
「じゃあ、触りますね」
「ええ」
体に悪いものではないはず。
*
虚無。
*
一瞬、なにもない映像が、永遠とも思えるほど流れた気がした。
分からない。
俺に認識できないだけか。
母さんはすぐそこにいた。
無表情で。
「母さん……。あれ? 体が……」
「身体を石にする魔法です」
「えっ?」
「あなたはこれから、永い眠りにつくことでしょう。そして数百年後、目を覚ますことになります。もう、なにも悩まなくていいのですよ、マルコ。新しい時代になったら、自分のことだけを考えて生きなさい」
「えっ? えっ?」
足が動かない。
手も。
パキパキと音を立てて硬化して……本当に石になっている。
「待って! 母さん! イヤだ! 俺、石になりたくない!」
「……」
「母さん! ウソでしょ!? なんでこんなこと……」
「……」
ああ、返事もしてくれない。
いろんな問題を置き去りにして、俺だけ未来に行けというのか?
俺の力では、なにも解決できないから?
「母さん……。母さ……」
声も出なくなった。
すべてが静止してしまう。
*
だけど、目がさめた。
俺の体は、いつの間にか自由になっていたのだ。
朝だ。
季節は……やはり夏か。
母さんの姿はない。
いったい、どれほどの時が過ぎたのだろう?
本当に、何百年も経ってしまったのか?
「おはよう、マルコ」
「あなたは……」
現れたのは、黒いローブを身にまとった金髪の少女。
永遠に歳をとらない人形のような存在。
黒の魔女。
彼女は引きつるように笑った。
「可哀相に。母と慕っていた魔女に騙されて、石にされるとはね」
「教えてください、あれから何年経ったんです? 一年ですか? 二年ですか? それとも……」
俺が必死で尋ねているのに、魔女はニヤニヤ笑うばかり。
「どうしようかね。教えてやってもいいけどね。魔女ってのはタダじゃ人助けはしないんだ」
「差し出せるものがありません」
「まあ、そうだろうね。じゃあ、特別に教えてやろう。教えてやるけど、この恩を忘れるんじゃないよ?」
「はい」
聞くのは怖い。
だけど、せめて母さんの生きている時間であってくれ。
「ほれ」
魔女は三本の指を立てた。
「三年?」
「いんや」
楽しそうにかぶりを振る。
「三十年?」
「まだまだ」
「ウソですよね? 三百年も?」
「違うねぇ」
「えっ?」
三千年?
あの一瞬で、そんなに経過してしまったのか?
黒の魔女は幼い顔立ちに似合わず、凶悪な笑みを浮かべた。
「三日だよ!」
「三日? えっ? 三日って……三日ですか?」
一年も経っていない?
魔女はケタケタ笑っている。
「そうさ。太陽が出たり入ったりするのを、たったの三回繰り返しただけ。なぜなら、この黒の魔女が、あんたの魔法を解いてやったからね」
「ああ……」
なんてことだ。
性格はアレだけど、いい人じゃないか。
彼女は愉快そうに笑っていた。
「まったく。緑の魔女とも呼ばれた女が、ずいぶんシケた選択をしたもんだよ。たまたま拾った子供に情でもわいたのかね。あの女はね、あんたが自分のことで悩むのを見てらんなくなって、ぜーんぶ未来にほっぽり出したんだよ」
「やっぱり、俺のために……」
「気に病むこたないよ。半分は、あの女が自分のためにしたことさ。自分の頭がカチ割られるのを、子供に見せたくないからって。けど、私の未来を奪っておいて、自分だけカッコつけようなんてムシがよすぎるよ。私はそんなことさせない。未来は変えさせないよ」
「……」
やっぱり悪い人だ。
俺を助けてくれたのは、善意からではない。
魔女は人形のような目をギョロリと動かして、こちらを見た。
「おや、怒ったかい?」
「怒っていないと言えばウソになります。けど、助けられたとも思ってます。この恩は、いつか必ず」
「ふん。こわっぱが偉そうに。礼を言われる筋合いはないよ。これは復讐なんだからね」
どこかの将軍みたいなことを言う。
本当に悪人なのか自信がなくなってきた。
「俺、母さんのところに戻ります」
「いいけど、私のことは悪く言うんじゃないよ。あの女、怒るとしつこいからね」
「はい」
この人は、俺にとって都合のいい方向へ導いてくれた。それは事実だ。
悪くは言わない。
よく言うつもりもないけど
「もう行きな。この水晶は、手間賃としてもらっていくよ」
「はい。失礼します」
*
通行料をとっていた兵たちの姿はなかった。
廃墟に戻ると、母さんはうんざりした顔で出迎えた。
「説明なさい、マルコ。どうやって魔法を解いたのです?」
「黒の魔女に助けられました」
「あのメスガキ……」
また汚い言葉が出てしまった。
ピチョーネが抱き着いてきた。
「マルコ! よかった! もう会えないかと思った!」
泣き顔でぐしゃぐしゃになっていた。
心配かけてしまったらしい。
「ありがとう、ピチョーネ。でももう大丈夫だから」
「うん……」
母さんが咳払いをした。
「でもまあ、帰ってきてくれて助かったかもしれませんね。このまま行ったら、緑の魔女に殺されるところでしたから」
「先生が悪いよ! もう二度と私からマルコを奪わないで!」
俺はずっと母さんのものだし、一度もピチョーネのものになったつもりはないのだが。
まあ言うと面倒だからやめておこう。
「母さん、あんなやり方、二度としないでください」
「ええ。二度も使える手ではありませんしね」
「未来は俺が変えます! 自分の手で!」
「魔女にも変えられなかったものを、人間にどうこうできるとも思えませんが……」
「やりまぁす!」
「分かりましたから、そんなに大きな声を出さないで。この三日間、ずっとピチョーネの泣き言を聞かされて疲れているのですから」
それは自業自得でしょう。
フェデリコさんが「話はまとまったようだな」と入ってきた。
なにもまとまっていないのだが。
「機械装甲のメンテナンスが終わった。新たな自由都市へ向かってくれ。たまにはポテト以外の食事がしたいだろう?」
「はい!」
言われた通り、自由都市は解放する。
それは生活のためだからやる。
一方的な略奪も許せないし。
だけど、その後、神に挑むかどうかは別問題だ。
プランを根本的に見直す必要がある。
未来は変えないといけない。
(続く)




